船上のビスクドールこの人形と同じ姿をしたあの人は、今頃どうしているのでしょう。せめて健やかでいてくれるように、と、私は毎日彼女を撫でるのです――。
「お誕生日に、お前だけのお人形さんを作ってあげよう。どんなのがいいかな」
私の両親は人形職人、私の家は人形の工房兼小売店でした。
小さい女の子の姿を模した、可愛らしい伝統の人形――ビスクドールやフランス人形と言えば通りがよいでしょうか。それは十九世紀に隆盛を極めたとされていますが、私が子どもの頃には職人の数は少なくなっていました。その分、手作りの人形は価値が高いとされ、資産家たちは人形を手に入れようと躍起になったと言います。
そんなことは露知らず、幼い私は人形に囲まれた毎日を送っていました。今から考えれば、贅沢な時間だったと思います。その上、父が誕生日に、私だけの人形を作ってくれると言ったのです。
「じゃあ、こういうのがいい」
私は、紙にクレヨンで絵を描き、両親に見せました。
それは女の人の絵でした。ピンク色の髪を二つにくくり、シルクハットを頭に乗せ、黒いドレスを身につけ、薔薇の眼帯をしていました。
母はすぐに分かって、微笑みました。
「あら、ネージュちゃんね」
「そう、ネージュちゃん。怪盗の、ネージュちゃんのお人形さんが欲しいな」
父は、少し難しい顔をしていました。今なら、その理由が分かります。人形職人の主な取引相手は裕福な資産家たち、つまり怪盗を敵視する人々です。怪盗を模した人形を作れば、取引に差し支えかねない、と思ったのでしょう。しかし、しばらく考えた後、父は、「よし」と頷いてくれました。
「ネージュは、たいそうな美人さんなんだってね。今までで一番、綺麗な人形を作ってあげようじゃないか」
わあい、と幼かった私は、無邪気に喜びました。
怪盗ネージュは、男性ばかりだった怪盗界に彗星の如く現れた、美貌の女怪盗でした。ネージュのおかげで大切なものを取り戻せた、という人はたくさんいました。私はネージュが大好きで、「ネージュちゃん」と呼んで憧れていました。
ネージュに憧れた少女は、私だけではなかったのでしょう。あるときから、ネージュの姿を模した、布でできたぬいぐるみが出回るようになったのです。またたく間にそれは売り切れてしまい、オークションではとんでもない高値で取引されたと言います。
けれど、私は、ネージュのぬいぐるみを欲しがることはありませんでした。やはり、人形が好きだったのです。顔が陶器でできた、人間のような髪の毛や手足のある人形が。
それに、ネージュのぬいぐるみはたくさん売られていても、人形なら世界に一つしかありません。私は、ネージュ人形が出来上がる日を心待ちにしていました。
ついにやって来た私の誕生日、両親はハッピーバースデーの歌を歌いながら、大きな包みを渡してくれました。
リボンがほどけて出て来たものを見て、私は思わず立ち上がりました。
「ネージュちゃん!」
つやつやとしたピンク色の髪、きらきらとした瞳、ひらひらとしたドレス。黒い手袋や踵の高い靴と言った、細かいところまで再現されていました。薔薇の眼帯などは、これが人の手で作れるのかと信じ難いほど、精巧にできていました。
「ありがとう、大事にするね!」
両親のにこにことした笑顔に見守られ、私はネージュ人形を抱きしめました。
お祝いの料理を食べた後、両親は私を買い物に連れ出してくれました。買い物をしてから、夕方に休憩として、とあるカフェに立ち寄りました。
「あら、ネージュね」
注文を取ってくれた綺麗な女の人は、私のネージュ人形を見て言いました。
「パパとママが作ったの。今日、私のお誕生日だから」
ネージュ人形を掲げて見せると、女の人はにっこりと笑いました。
「それはおめでとう。すごいわ、そっくりじゃない。よかったわね」
私は、嬉しくなりました。
それから数ヶ月が経ったある日のことでした。私は、その頃になってもネージュ人形を大事に持っていました。
「今度の日曜日、お船に乗るよ」
父が言ったのです。
「お船?」
「中国に、有名な大富豪さんがいてね。その人の持っている宝物をおひろめするパーティーがあるんだ。パパとママが、それに呼ばれたのさ。お前も一緒に行こうね」
私は、目を輝かせました。
「私、お船に乗るのなんて初めて!」
待ち遠しい、待ち遠しいと思っていた日曜日はすぐにやって来ました。私は買ってもらったドレスに身を包んで、帽子をかぶりました。
「お姫様みたいね」
母が言うので、私は嬉しくなりました。
「そうだ。ネージュちゃんも連れて行っていい?」
父は、わずかに難しい顔をしましたが、「いいよ」と言ってくれました。
パリから鉄道を乗り継ぐこと、数時間。私たちは、港街にやって来ました。初めてやって来た海の見える街は全てが珍しく、船に乗る前から私ははしゃいでいました。
いよいよ、船に乗るときがやって来ました。白い制服を着た人たちが、船の入り口に立ってチケットをあらためていました。私たちは乗船客の長い列に並びました。
「あの人たちは誰?」
私は母に尋ねました。
「警護官さんよ。お宝が盗まれないように守るの。いつもは紺色のお洋服だけど、お船に乗るときは白なのね」
「怪盗が、客に紛れて入り込むかもしれないからな。警備も厳重なんだろう」
両親が、三人分のチケットを女性の警護官に渡しました。
「確認しました。よい時間を」
白いパンツスタイルの制服がよく似合う、きりりとした女性警護官でした。私はうっとりと彼女を見つめましたが、行くわよ、と母に手を引かれて歩いて行きました。
船内のパーティーホールは、シャンデリアが吊り下げられ、どこもかしこもきらきらと輝いて見えました。大勢の乗船客がひしめいていて、誰もかれも着飾っていました。
「ああ、あの人は……。ちょっと、ごあいさつして来るよ」
父が、母に私を預けて、その場を離れました。知り合いを見つけたのでしょう。私はネージュ人形を抱えたまま、母と手を繋いで立っていました。
「おや、これはこれは。よくできたビスクドールですな」
私は、どきりとして母の手を握りしめました。知らない男性が、話しかけて来たのです。
「お嬢ちゃん。そのお人形さん、おじさんによく見せてくれないかい」
いかにも裕福そうで、物腰の丁寧な男性でしたが、その目はずっとネージュ人形に注がれていました。私は怖くなり、母の後ろに隠れました。
「すみません、この子は人見知りで」
母は苦笑しましたが、やはり少し警戒しているようでした。
「いやはや、無理もありません。このような人いきれではね。ですが、今どき珍しいビスクドールですから、是非拝見したいと思いまして」
男性が食い下がるような気配を見せたので、母は私に促しました。
「ちょっとだけ、見せてあげなさい」
仕方なく、私はネージュ人形を持ったまま、腕を高く上に挙げました。男性は少し屈み込み、ネージュ人形を受け取りました。
「ああ、ありがとう。これは、これは……。はて、これはもしや、パリ十三区に工房を構えるという、あの職人の手になる人形では?」
パリの十三区は、私の家があるところです。母が答えました。
「私たち夫婦は、人形職人をしておりますの」
「おお、やはり! あなた方の作品は素晴らしい、上流階級のお嬢さん方の憧れですよ。どこかでとくと拝見したいと思っていたのですが、こんなところでお目にかかれるとは」
男性は、ネージュ人形を持ち上げて、しげしげと眺めながら言いました。
「……ねえ、そろそろ返して」
「ああ、ごめんよ。はい、どうもありがとう」
ネージュ人形を受け取ると、私はそれをぎゅっと抱きしめ、男性をにらみつけました。男性はそれを気に留めた風もなく、母に話を続けました。
「どうですかな、この機会に人形作りをお願いしたいのですが」
「生憎と、予約が半年先まで埋まっておりますの。人形の修理やメンテナンスも請け負っておりますし、今は新規のご予約は承っておりませんわ。本当に残念ですけれど、またの機会に……」
母は丁重に断りましたが、「そこを何とか」と男性は粘ろうとしました。そのやり取りが幾度か繰り返された末、男性はようやく諦めて、私たちの前から去って行きました。
「さっきの人は、知り合いかい?」
あいさつ回りから戻って来た父が、母に尋ねました。私は、怒って言いました。
「あの人、きっとネージュちゃんをとろうとしたんだよ」
「ネージュの人形を?」
母が父に正しく状況を説明し、父は「なるほど」と納得したようでした。
「今は、これ以上の予約はとても受けられないからなあ。だが、人形作りを頼もうとしてくれる新しいお客さんがいるのは、ありがたいことだ」
何がありがたいのか私には分からず、すっかり機嫌を損ねてしまいました。
「あら、こんにちは」
けれど、そのうち、顔なじみの家族連れ何組かと行き合いました。両親たちはお喋りを始め、私は年かさの子どもたちに、船の中でかくれんぼをしようと誘われてついて行きました。
「いち、に、さん、よん……」
自分が鬼になる番が回って来ると、私はネージュ人形に顔を隠して数を数えました。
ぱっ、と顔を上げると、もう誰もいません。私は、子どもたちを見つけようと張り切って駆け出しました。一つ目の廊下の角を曲がった、そのときでした。
「おっと!」
先ほど、声をかけて来た男性でした。私は、出会い頭にぶつかりそうになったのです。
「おや、さっきのお嬢ちゃんじゃないか。廊下を走ったら危ないよ。どこへ行くのかな?」
私は急に怖くなり、足がすくんでしまいました。
「……かくれんぼ」
「かくれんぼをしていたのかい。みんなを探しに行く前に、おじさんとちょっとお話しないかい?」
私は、首を横に振りました。
「ちょっとの間でいいんだよ。そのよくできた可愛いお人形さんだけどね。何でも欲しいものをあげるから、おじさんと取り換えっこしないかい?」
私は、先ほどにも増して激しく、首を横に振りました。
「何でもいいよ、上等なお洋服や、食べ物でもいい。おもちゃでも何でもあげよう。だから、そのお人形さんを譲ってくれないかい」
私が動けずにいる間に、男性はだんだんとこちらへ近付いて来ていました。今すぐ逃げたい、と思いましたが、どうしても足が動きませんでした。
「さあ、何が欲しいか、言ってごらん」
男性がネージュ人形に手をかけようとした、その時でした。
私と男性の間で、白い何かがはためいたのです。
「――失礼致します。お客様、こちらのお嬢様とはお知り合いでいらっしゃいますでしょうか?」
はためいたのは、白い制服の裾でした。船の入り口でチケットをあらためていた凛々しい女性警護官が、私の目の前に立っていたのです。
「国際警護機構の者です。僭越ながら、財宝の譲渡は正式な契約に基づいて行われるべきものと存じます。意思能力があるとは見なせない小さなお子様を相手に、譲渡を迫るのは――」
「ああ、分かった。分かったとも。いいさ、警護官にまで見とがめられては、もう面倒だ。じゃあね、お嬢ちゃん」
男性は燕尾服の裾をひらひらさせながら、その場を立ち去りました。
「お姉さん、私……」
私は、今頃になって涙が出て来ました。女性警護官は、ハンカチを貸して、涙を拭ってくれました。
「怖かったわね。よく泣かなかったわ。えらいのね。あなたは、そのお人形さんを守ったのよ。強い子ね」
女性警護官に頭を撫でられ、私はようやく泣き止みました。
「それ、ネージュのお人形でしょう? よくできてるわね、そっくりだわ」
私は、目をぱちくりとまたたきました。
「お姉さん、ネージュちゃんと会ったことあるの?」
「ええ、よく知ってるわ。毎晩、ネージュと会ってるわよ」
女性警護官は、くすりと笑いました。
「お姉さんは、警護官さんでしょう。やっぱり……怪盗は悪い人だと思う?」
私は、恐る恐る尋ねました。
「さあ、どうかしら。悪い人もいれば、いい人もいるわよ、きっと。あなたはどう思う?」
私は、首をひねりました。
「……分からない。でも、ネージュちゃんはいい人で、かっこよくて、綺麗だと思う」
女性警護官は、ふふ、と微笑みました。
「私もそう思うわ。――あら」
そのとき、女性警護官の付けていた無線機から何か声が聞こえました。「了解」と彼女は答えました。
「どうしたの?」
私には、その女性警護官がなぜか、いたずらっぽく笑ったように見えました。
「――怪盗ネージュが出た、って。私も行かなくちゃ」
えっ、と私が驚いているうちに、母が私を呼ぶ声が聞こえました。
「ママ?」
「ああ、こんなところにいたの。船内は大騒ぎよ。何でも怪盗ネージュが宝石を盗んだ、とか。何をしてたの?」
かくれんぼ、と答えようとして、気が付きました。女性警護官の姿がありません。
『お客様にお知らせ致します。怪盗と見られる男女数名が当船内にて目撃されております。警護官が確保に向かっておりますので、お客様は今しばらくその場でお待ちください。繰り返します。……』
船内放送を聞きながら、私は彼女がいたはずの場所を、じっと眺めるばかりでした。
やはり、あの美しい人は怪盗ネージュだったのでしょうか。
――あなたはどう思う?
ネージュ人形に尋ねても答えが返って来はしないと分かっていながら、私はあの日の不思議な出来事を思い返さずにはいられないのです。