あの日どこかで「怪盗なんて大嫌い。怪盗は泥棒、悪い奴なのよ」
それが私の口癖でした。彼女に出会うまでは――。
私の父は警護官でした。国際警護機構に所属し、資産家から依頼を受けて財宝を守り、時には怪盗逮捕のために尽力する。私は、昼夜問わず働く父を誇りに思っていました。将来の夢はもちろん、警護官でした。
怪盗は泥棒、悪者、悪党と信じて育ちました。テレビや新聞で怪盗が盗みをはたらいたというニュースが報じられる度「早く捕まればいいのに」といらだち、怪盗逮捕の報が出ると「それ見たことか」と溜飲を下げるのでした。
「警護官には、どうしたらなれるの」
私はあるとき、父に尋ねました。カフェで食事をしているときのことでした。
そうだなあ、と父はコーヒーカップを傾けました。
「警護官というのは、警察官の中でも特に優秀な者でないとなれないんだ。だからまずは、警察官にならないといけない。なったらなったで、いろんな試験をくぐり抜けて警護官に選抜されなけりゃならない。決して、楽な道じゃないぞ」
「じゃあお父さんは、その試験に通ったんだ」
「何度も受験して、何とかな。たまたまかもしれん、と思うよ。父さんより若くて優秀な奴が、ごまんといるのを見るとな」
父は忙しく、休日はあまり多くありませんでした。疲れていたでしょうに、休日はいつも私をどこかへ連れ出してくれました。その帰りに必ず寄ったのが、ミネットという名の洒落たカフェです。
「お待たせしました」
料理を持って現れるのは大抵、このカフェのマスターだという美しい女性でした。ルナ・バーネットという名前だとは知っていましたが、私は彼女の名前を呼んだことはありませんでした。
「ここは、デリバリーサービスもやってるんだって?」
父が彼女に尋ねると、ええ、と彼女は頷きました。
「事前のご予約を頂いてますけど。この近くでしたら、どこでも」
「それはいい。それじゃあ早速、今度の土曜日に予約してもいいかい。うちはこの近くのアパルトマンで、住所は――」
私は戸惑って、父の顔を見ました。
「お父さん、今度の土曜日はお休みじゃなかった? 一緒にこのお店に来るんじゃないの?」
それがなあ、と父は頭をかきました。
「急な仕事が入ったんだ。再来週まで、帰れそうにない」
私は、しょげてうつむきました。
「代わりにと言っちゃ何だが、デリバリーを頼みたいんだ。この店のメニューで好きなもの、何でも頼んでいいぞ」
父がメニューを差し出しましたが、すぐに気持ちを切り換えることはできませんでした。
私は、学校に行ったことがありません。在籍してはいますが、登校したことがないのです。生まれたときから身体が弱く、人生の大半をベッドの上で過ごして来ました。
そんな私にとって、忙しい父がたまに帰って来て外へ連れ出してくれるのは、本当に嬉しい機会だったのです。それが今週はないだなんて。気分は暗くなりました。
「メニューにないものでも、お作りしますよ。好きな食べ物は何?」
優しい声がしました。気がつくと、マスターの女性が、私の前にしゃがみ込んでいました。
「……ガレット・デ・ロワ」
私は、わざと嫌いなお菓子の名前を答えました。その上、これは新年のお祝いに食べるお菓子ですから、全くの季節外れです。
「分かったわ。来週の土曜日、楽しみね」
女性は笑顔を見せましたが、私はにこりともしませんでした。季節外れのお菓子を作らされて、困ればいい、と思っていました。今にして思えば、ただの八つ当たりです。
父の車で家へ戻ると、私は早々に床につきました。一日外出した後は、次の一日を寝込んで過ごすのが常でした。父は、「おやすみ」と言ってから、仕事へ戻って行きました。
父のいない間は、ハウスキーパーが私の身の周りの世話や家事をしていました。
「来週の土曜日のお昼は、作らなくていいって。ミネットからデリバリーが来るから」
私は、ベッドの上からハウスキーパーに言いました。
「ミネットの? いいわね。あそこの料理、気に入っていたものね」
ハウスキーパーは、私の机を整理してくれていました。あら、と彼女は何かに目を留めました。
「また百点を取ったのね」
それは、私が学校に提出した計算問題のプリントでした。教科書を見ながら、友人が届けてくれる授業のプリントを解き、それを先生に採点してもらう。それが、私の学習方法でした。
「あまり難しくなかったもの」
「でも、前回も、その前も、百点だったでしょう? そうそういませんよ、こんなに百点が取れる子は」
「警護官になるためだから」
ハウスキーパーは一瞬だけ何かを呑み込んだような顔をしてから、笑うのでした。
「そうね。警護官を目指す人なら、これくらいはお茶の子さいさいよね」
ハウスキーパーに促され、私は眠りました。
翌朝、私はテレビをつけながら朝食をとっていました。つけてはいたものの、そう真剣に見ていたわけでもなく、私はぼんやりとバゲットをかじっていました。けれど、テレビから「ネージュ」という単語が聞こえて来ると、顔を上げました。
また怪盗のニュースか、と私は内心で呆れながら、チャンネルをすぐに変えてしまいました。他のチャンネルでもネージュのニュースを取り上げていたので、私は子ども向けの番組しか見るものがなくなりました。
「怪盗なんて、みんな同じ悪者よ。早く捕まればいいのに」
私は、ネージュという女の怪盗がいることはかろうじて知っていましたが、他に怪盗について知っていることはあまり多くありませんでした。怪盗はすなわち悪者、と思い込んでいたのです。
「うちにも、財宝くらい価値のあるものが置いてあるからね。盗まれないといいんだけど」
ハウスキーパーが壁を見ながら言いました。そこにあったのは、一枚の写真でした。
父と、それから母が写っていました。母は、歌手をしていました。怪盗でも盗めない、と言われたほどの美しい声の持ち主でした。けれど、私を産んだときに亡くなったといいます。
生前の母のファンにとっては、それは紛れもなくお宝写真でしょう。けれど、私にとっては大切な家族の写真です。盗まれでもしたら、父と母の思い出まで傷つくような気がして、私はそれを大切に思っていました。
一日寝込んだ後は少し元気になり、私は勉強をしたり、訪ねて来る友人と遊んだりして日々を過ごしました。
そして、迎えた土曜日の朝のことでした。
「大変よ! 起きて!」
ハウスキーパーの切迫した声で、私は目を覚ましました。促されるまま居間に来て驚きました。玄関から居間までがめちゃくちゃに荒らされていたのです。
「泥棒が入ったんだわ」
ハウスキーパーは、警察に電話をかけ始めました。私は、呆然となりながらも、部屋のとある変化に気が付きました。
「――ない! お母さんの写真!」
ハウスキーパーが目をむいてこちらを振り返りました。写真があったはずの場所には、空の額縁だけが残っていました。その景色を最後に、私は意識を失いました。
目が覚めると、私はベッドの上にいました。枕元に座っているのはハウスキーパーか、と思い、私は「お水ちょうだい」と声をかけました。
「はい、お水ね」
歌うような声が聞こえて、私は思わず身を起こしかけました。
「――大丈夫? あなた、倒れたのよ」
そこにいたのはハウスキーパーではなく、ミネットのマスターであるルナ・バーネットでした。時計を見ると昼の十二時を回っており、彼女がデリバリーの配達にやって来たのだと分かりました。
「……大丈夫。まだ少し、くらくらするけど……」
「はい、お水」
ルナ・バーネットは、コップに入った水を差し出しました。私はそれを少しずつ飲みました。
「お昼ごはんはどうしましょうか」
「お昼ごはん……」
私は、ぱっと意識を失う前までのことを思い出しました。
「それどころじゃないわ。写真が、盗まれて……」
「待って、落ち着いて」
ルナ・バーネットは、ベッドから降りようとする私を押し止めました。
「午前中のうちにおまわりさんが来て、捜査は終わってるわ。犯人に繋がる証拠はなかったけど、引き続き捜査するって。怪盗の可能性も視野に入れて検討するそうよ」
怪盗! 私は怒りが沸々とわいて来ました。
「やっぱり怪盗は、みんな悪者なのよ。怪盗なんて大嫌い」
わずかにルナ・バーネットが表情を陰らせたように思いましたが、私にはどうでもよくなっていました。
「お母さんの写真……ですってね」
「ええ、そうよ。お父さんが大切にしていたものだったのに。どうして、こんな……」
涙が溢れて来ました。怒ったり泣いたり、忙しく見えたことでしょう。
「……ココア、作りましょうか。朝から何も食べてなくて、お腹空いたんじゃない?」
いらない、と言おうとしましたが、泣きじゃくって言葉になりませんでした。ルナ・バーネットは、キッチンに立ってココアを作り始めました。
数分後には、テーブルの上にすっかり、ランチの支度ができていました。私は、泣きながらテーブルにつきました。
「店のメニューで、あなたがよく頼んでくれてるものを作って来たわ」
私が好んで頼むパスタやサラダ、フルーツなど、様々な料理が並んでいました。私は、やけ食いのようにそれらを口に詰め込み始めました。けれど、途中で思わず手が止まりました。私は、ため息をつきました。
「……こんなときでも、美味しいものは美味しいのね」
ルナ・バーネットは、にこりと笑いました。
「そう。それはきっと、あなたの持つ強さね」
「強さ……?」
病弱で、強さなどという言葉とは無縁の生活を送って来たというのに。私は可笑しくなって、吹き出しました。
「あら、何か可笑しかった?」
私がくすくすと笑うのを、ルナ・バーネットは不思議そうに眺めるのでした。
「そうそう。ガレット・デ・ロワも作ったわよ」
バスケットから、大きな包みが出て来ました。私は、嫌いなお菓子が本当に来てしまった、と内心焦りました。取っておいて、ハウスキーパーに食べさせようと思いました。
「切り分けておくわね」
けれど、ルナ・バーネットが切り分けたガレット・デ・ロワはいかにも美味しそうに見え、私は思わず手を伸ばしていました。
「……美味しい!」
ルナ・バーネットは手を組み合わせて笑いました。
「よかった。苦労して作った甲斐があったわ」
「本当に手作りなの? 買って来たんじゃなくて?」
「手作りよ。生地から作ったの。こねて叩いて寝かせて、時間かかったんだから。私も、ひと切れ食べようかしら」
ルナ・バーネットはフォークを手に取ると、見るからに幸せそうに菓子を頬張りました。
「うん、美味しい」
怒りや悲しみはどこかへ消え、静かな諦念のような気持ちが胸を満たしていました。
「……私、警護官になりたかったの」
ぽつりと呟きました。
「警護官になって、大切な財宝をもつ人たちを守りたかった。だけど……」
自嘲するように私は笑いました。「自分の財宝さえ守れないんじゃ、だめよね。それに、こんなに身体が弱くちゃ、実技試験に受からないわよ」
ルナ・バーネットは、じっと私の話を聞いていました。
「……大丈夫よ、あなたなら。警護官にはなれなくても、誰かの大切なものを守ることはできるもの」
私は、顔を上げました。ルナ・バーネットが、穏やかにこちらを見ていました。
「料理を口にしたお客様の笑う顔、喜んでくれる顔。それが私の、大切なものなの。あなたは、それを見せてくれたわ。だから、大丈夫」
あなたは、あなたでいていいのよ。
目頭が熱くなりました。涙が次から次へと溢れ出て、止まらなくなりました。生まれて来てよかった、と思いました。
ルナ・バーネットは、一時過ぎに私の家を発ちました。またね、と言う笑顔を目に焼き付け、私は再び眠りました。
それから数日が経った、ある夜のことです。
私は眠れずに起きていました。昼間に寝込んだせいで、昼夜が逆転していたのです。そのために、私は屋根から聞こえる物音にすぐ気が付きました。トン、と何かを踏むような音でした。
背筋がひやり、としました。また、泥棒が来たのではないか。
けれど、立ち上がることはできず、私はベッドに半身を起こしたまま、窓の方を見ました。
ベランダに人影が見え、私は、あっと叫びました。
「誰!」
ベランダに現れたのは、しなやかなシルエットをした女性でした。私の声に一瞬驚きはしたものの、彼女はすぐに、窓をコンコンと叩きました。
「私、ネージュ。あなたに、渡したいものがあるの」
くぐもった声が聞こえました。ネージュと名乗った女は、懐から一枚の封筒を取り出しました。封筒の中から出て来たものを見て、私はまた、あっと声を上げました。思わずベッドから降り、窓に飛びつきました。
「その写真……!」
父と母が写った写真に間違いありませんでした。ネージュは、仮面の下で微笑んだようでした。
「よかった。窓を開けてくれる?」
私は急いで、窓を開けました。ネージュの花のような香りが漂って来ました。
「どうして? まさか、写真を盗んだのはあなたなの?」
「違う……と言っても、証明する術がないわね。私は、あなたの大切な写真が盗まれたと聞いて、それを取り返しただけよ。信じるかどうかは、あなたに任せるわ」
私は、受け取った写真とネージュとを、見比べました。
「……ねえ、私たち、どこかで……?」
そう言いかけたところで、大聖堂の鐘が鳴り響きました。
「おっと、もう時間ね。それじゃあ、おやすみなさい」
ネージュは、屋根にワイヤーを伸ばし、そのまま姿を消しました。
「待って」
私はベランダに出ましたが、ネージュはもうどこにも見えませんでした。
――ああいう怪盗もいるんだわ。
私はその日から、怪盗に対する考え方を少し変えるようになりました。悪い怪盗を逮捕する警護官になる、という物語で自分を縛るのもやめました。
自分にできること、自分の本当にやりたいことは何なのか。それを探しながら、父母の写真を眺めています。