ブルジョンドゥレーヴ今年も、無事に咲いてくれた。
ブルジョンドゥレーヴが咲くたびに、私は彼女たちのことを思い返さずにはいられないのです――。
子どもの頃、私は学校で園芸クラブに所属していました。クラブとはいっても、人数は少なく、毎日顔を出すのは私くらいでした。
そんな規模のクラブにはもったいないくらい、綺麗で立派な温室がその学校にはありました。温室には、主に薔薇が植えられていました。私は毎日放課後にそこへ寄り、薔薇の世話をしていました。
学校のクラブの中で、特に人気を集めていたのは料理クラブです。そこに週に一度教えにやって来るルナ・バーネットという女性に料理を習うと、魔法のように料理が上手になると評判でした。彼女は、普段はカフェのマスターをしていて、学校ではルナ先生と呼ばれていました。ルナ先生を目当てに、料理クラブに入る生徒たちはたくさんいました。
ルナ先生は、まるでモデルのような美しさと、優しい人柄で慕われていました。私もまた、ルナ先生に憧れる生徒の一人でした。しかし、直接話をする勇気は出ませんでした。
いいのだ、と私は自分に言い聞かせました。こうして黙々と薔薇の世話をする方が、私の性に合っている、と。
私が薔薇を好きなのは、とある女性の影響でした。鮮烈なデビューを飾った正義の女怪盗、ネージュです。彼女は薔薇の眼帯で顔を隠し、夜の街を縦横無尽に駆け巡ったと言います。
ネージュが身につけた薔薇の眼帯は、こんな薔薇かしら、あんな薔薇かしら。本当に薔薇の眼帯をしているかも分からないのに、またそうだとしても作り物だろうと思ってはいたのに、私は薔薇の世話をしながらネージュの姿を夢想することをやめられませんでした。
あるとき、青い薔薇のような奇跡が訪れました。ルナ先生が、私の温室を訪れたのです。
温室のドアをノックする音が聞こえて、私は顔を上げました。ドアの方を見ると、透明なガラス越しに、花のような笑顔が見えました。私は慌てて、ドアを開けました。
「こんにちは。料理クラブの子から、温室があるって聞いたの。入っていいかしら」
ルナ先生のきらきらとした瞳に、私は吸い込まれそうな気持ちでした。彼女を招き入れて、私はドアを閉めました。
薔薇に囲まれた温室を見回して、ルナ先生は感嘆のため息をつきました。
「まあ、この温室の薔薇を一人で世話しているの? すごいじゃない、薔薇が好きじゃないとできないわね」
私は、じょうろを手に持ちました。
「……薔薇も好きですけど、本当は、もっと好きなものがあるんです」
「あら、それは何?」
内気な私でしたが、ルナ先生には、不思議と何でも話せるような気がしていました。
「……怪盗、ネージュ。彼女、薔薇の眼帯をしているって話でしょう? だから、彼女がつけているのはどんな薔薇だろうって、いつも世話しながら想像するんです」
ルナ先生は、にこりと微笑みました。
「素敵ね」
その一言で、私はルナ先生をますます好きになりました。
私は、料理クラブの友達から、ルナ先生の誕生日を聞き出しました。誕生日には薔薇の花束を贈ろう、と私は決意しました。
ルナ先生は、週に一度の料理クラブでの指導の帰りに、温室へ寄ってくれるようになりました。そこでは、料理クラブでの出来事や、カフェに来る客たちとの会話を、楽しく話してくれるのでした。カフェには様々な国にルーツをもつ人々がやって来るらしく、またルナ先生自身もよく海外を訪ねるので、彼女から聞く異国の話は、私にはとても興味深いものでした。
「いろんな国から来るお客さんに合わせてたら、いつの間にかいろんな料理を覚えちゃって。料理クラブでも、メニューは多国籍なの。ナナイモバーでしょう、チャーハンにチンジャオロースー、タイヤキにタマゴヤキ、クスクスにパパナッシュ……」
「名前だけだと、どんな料理なのか想像がつかないですね」
「そうね。あ、薔薇もそうじゃない? 薔薇も、いろいろな国で生まれて、その国の言葉で名前が付けられているでしょう?」
似てるわね、と言われて、私は少し嬉しくなりました。
週に一度、そうして温室でお喋りする日々が続き、ルナ先生の誕生日がやって来ました。
私は、シェエラザードという、紫がかった濃いピンク色の薔薇を贈ることにしました。花びらにひらひらとした切れ込みがあり、可憐ながらも力強く見えるのがルナ先生のようで気に入っていました。シェエラザードを摘み取り、紙で包んでリボンで結ぶと、豪華な花束が出来上がりました。
それを渡したときのルナ先生の輝いた顔は、今でも鮮明に思い出すことができます。
「いいの? あなたが大切に育ててきた薔薇を……」
私は、少し恥ずかしくなりながら答えました。
「ルナ先生にもらって欲しいんです。お誕生日、おめでとうございます」
「ありがとう!」
ルナ先生は、花束に顔をうずめて笑いました。この人はなんと絢爛に笑うのだろう、と私は思いました。
それからも、ルナ先生と私との交流は続きました。平穏に、何事もなく続くと思っていました――ある事件が起こるまでは。
温室の扉を開けて驚きました。白薔薇が切り取られていたのです。残された茎と葉が、無残な姿で地面に散らばっていました。
それは、ブルジョンドゥレーヴという希少な品種の薔薇でした。園芸クラブに入って数年、ようやく今年花を咲かせようとしていたのに。私は、これまでの努力が水泡に帰したように思え、温室に膝をついて泣きました。
担任を通して学校へ相談しましたが、生徒のいたずらとして扱われ、まともに取り合ってはもらえませんでした。薔薇ならまた育てればいい、とも言われました。そういう問題ではないのだ、と反駁したい気持ちでしたが、私は口に出すことができませんでした。
「何だか、元気がないわね」
雨の降る日でした。ルナ先生が、料理クラブの帰りに立ち寄りました。
「雨は嫌い?」
いいえ、とだけ答え、私はじょうろを傾けました。
「あら……ここに、この前まで白い薔薇がなかったかしら?」
ルナ先生は、温室の最奥部に立って、首をかしげていました。
私は、彼女に背を向けたまま答えました。
「ああ、それ、誰かが持って行ってしまったみたいなんです」
「――何ですって?」
信じがたい、という声音で、ルナ先生は聞き返しました。
「誰かが、ハサミで切り取ってしまって……」
「本当なの? 一体誰が……」
ルナ先生は、私の前へ回り込んで来て、顔を覗き込みました。
「どうして、そんな顔してるのよ」
私は、困惑しました。ルナ先生が、今までになく瞳を尖らせていたのです。
「そんな顔って……」
「そんな、平気そうな顔。怒ったり、泣いたりしなくていいの?」
私は、首を横に振りました。
「学校に訴えても、無駄でしたから。生徒の誰かがいたずらしたんだろうって。薔薇だったら、また育てればいいって。そう言われただけでした」
私は、自分でも驚くほどに淡々と言いました。そして、ルナ先生に背を向けて、新しい薔薇に水をやり始めました。
水をやりながら、思いました。こんなとき、ネージュが来てくれたら。
ネージュは、不当に奪われた財宝を取り返すことで市民の支持を得た、正義の怪盗でした。ネージュだったら、薔薇を取り返してくれるかもしれないのに。
そう思ってから、私はまた、首を横に振りました。戻って来たところで、薔薇はしおれているに違いありません。もう、全てが遅いのです。
「――もう、やめようかな」
この温室の世話をするのは、やめてしまおうか。
私は、ぽつりと呟きました。ルナ先生が、後ろに立っている気配を感じていました。
次の日は、爽やかに晴れていました。私は、いつも通り学校に行き、午後まで授業を受けました。
放課後、渡り廊下に出て、足を止めました。遠くに温室が見えました。ガラスの内側、誰もいない温室の中で、薔薇たちが手入れされるのを待っているような気がしました。けれど、私はもう、温室には行かないと決めていました。
渡り廊下を進んで、温室の前まで来ました。ちら、とそちらの方を見て、私は目をみはりました。温室の扉の前に、何かが置かれているのが見えたのです。
急いで温室の前まで来てみると、それは白薔薇の花束でした。呆然と、私はそれを見つめました。しばらく眺めて、それがブルジョンドゥレーヴであるのが分かると、私は慌てて温室の中へ入りました。
ブルジョンドゥレーヴが戻って来た。どうして?
私は、弾む胸を抑えながら、花束をもう一度見ました。
よく見れば、それがこの温室にあったブルジョンドゥレーヴではないことは明白でした。切り取られたのは何日も前のことです。その日から数えれば、それが温室にあったものと同じはずがありませんでした。
誰かが、別のブルジョンドゥレーヴを用意した。わざわざ私に?
花束を再度、掲げ持ったときでした。ぱらり、と何かが足元に落ちました。文字の書かれた小さなカードです。一旦花束を長椅子に置き、それを拾い上げてよく見ました。
『薔薇を愛する気高いあなたへ ネージュ』
――私はもう一度、じょうろを手に取りました。
その花束のことをルナ先生に聞いても、「不思議ね」と笑うばかりでした。
それから私は紆余曲折を経て、花を育てる仕事につきました。
紅薔薇を見ればルナ先生を思い出し、白薔薇を見ればネージュが思い浮かびます。
どちらも同じ薔薇なのに――と思いかけて、まさかね、と私は首を振るのでした。