きみとワルツをかろやかな三拍子。
ステップを踏みながら、くるくると舞い踊る色とりどりの紳士淑女。
高く開けた天井には宝石と見紛うような煌びやかなシャンデリア。
何もかもが眩くて、コンスタンティノス僅かに双眸を細めた。
喧騒から少しばかり離れた壁際に背中を預けながら、まるで現実味のない光景を眺める。賑々しい場所は嫌いではない。だが、皇帝とはいえ元々が軍人気質である所為か、華やかな宮廷舞踏に身の置き場のなさが纏わりつく。これが舞踏会などではなく、騎馬射撃の類であったのなら、コンスタンティノスの独断場であっただろうことは想像に難くない。
ふと視線を感じて、いつの間にか俯き加減になっていた顔を上げれば、一際目立つ可憐な少女がドレスの裾を翻して華麗にターンするところだった。
眼前を過る瞬間に視線が絡む。淡いペリトッドの瞳に滲む不満そうな色に小さく苦笑を返す。
薔薇の皇帝の名に相応しい深紅のボールガウン。胸元を飾る輝石も、その類なき美しさの前では霞んで見えてしまう。贅を凝らした大広間も煌びやかに着飾った紳士淑女も、まるで彼女の引き立て役でしかなかった。
「コンスタンティノス……其方、まさか壁の華に徹するつもりではあるまいな?」
興奮冷め遣らぬ群衆の輪から抜け出した少女——、皇帝ネロがコンスタンティノスに詰め寄る。華やかで美しい、まさに大輪の花のような少女がキリキリと眉を吊り上げる様に、思わず後退りそうになる。
「このように華やかな場所は苦手と言いますか……」
「ローマ皇帝たる者、この程度で臆してどうする」
「無骨な軍人上がりですから、場違いというか、こそばゆいというか」
眉尻を下げるコンスタンティノスに毒気を抜かれたように、珍しいことにネロが小さく溜息を吐く。
「其方は己の価値というものを分かっておらぬな」
「え?」
「何でもない。それよりも、これが潜入捜査であることを分かっておろうな」
そう。これはローマ皇帝として遊興に耽っている訳ではなく、歴とした潜入捜査——すなわち微小特異点修復の一環なのである。
場所は欧州。コンスタンティノスが生きた時代よりも少しだけ先の時代。
ならば宮廷文化の盛りであろうと、持ち前のフットワークの軽さと隠し果せることの出来ない底知れない威厳、そして眩いばかりの美貌を武器に、あっという間に異国の貴族令嬢として宮廷に潜り込んだその手腕は流石としか言いようがない。そして、息吐く暇もない怒涛の展開に目を回しそうになっているうちに、コンスタンティノスはネロのパートナーに仕立て上げられていた。当然のことながら、固辞することは許されなかった。何故なら相手は皇帝ネロその人である。日頃からコンスタンティノスをローマの裔として、まるで弟のように接している彼女に勝てるわけがない。
「それは、勿論」
コンスタンティノスが口元に刷いていた淡い笑みを引っ込めて頷く。
舞踏会は上流階級の交流の場。非日常の浮ついた空気にアルコールが加われば、否応がなく口が軽くなるというもの。貴族たちと取り留めのない会話を交わし、時には噂話に耳を傾ける。それだけでも、無暗矢鱈に駆けずり回るよりも遥かに効率的に情報が手に入る。だからこそ、人集りから離れた壁際に突っ立っていては意味がない、というネロの苦言は尤もである。
けれど。
「……此処は、人の動きがよく見えます」
勝ち誇る者、悦に浸る者、怒れる者、怯える者、そして不審な動きをする者も全てが見渡せるのだと。
「なるほど、無為に突っ立っていたわけではないと言うのだな」
「ええ。それに何故か、聞いてもいないのに話をしてくれる方々が多くて助かります」
ひとりで居ることを気遣ってくれているのでしょうかと笑う裔に、今度はネロの方が眩暈を覚えそうだった。
この男、やはりこの場における自分の価値を分かっていないのだ。
ネロが見立てた燕尾服は深い夜を想起させる濃紺。黒色が正式な礼服とされる中で異色ではあるが、そんな形骸化した格式よりもネロは自身の直感と美意識を優先した。装飾が多いドレスとは異なり、シンプルな分だけ着た者の本質が現れる。硬く糊付けされた白無地のシャツと同色のタイは、その清廉で高潔な精神を如実に現わしているし、シルク地のジャケットもトラウザーズも、しなやかで逞しい肢体を上品かつ美しく引き立てている。何よりも、日頃謙遜してばかりのこの裔は、眉目秀麗などという一言で片付けることが勿体ないくらいの美しい顔立ちなのである。緩く波打つ射干玉の黒髪。肌は大理石を思わせる滑らかさ。黒橡色の瞳には、時折落日を思わせる赤い虹彩が透けて見える。そして一見近付き難い端正な容姿を和らげる柔和な微笑み。そのうえ、隠し果せることが出来ないローマ皇帝としての品性を兼ね備えているのだから、周囲が放っておけるはずがない。当の本人にその自覚がないのが少しばかり危ういが、全てネロの思惑どおりである。
「ネロ帝、如何されました?」
頭の天辺から爪先までを品定めするような視線に、コンスタンティノスの声音に怪訝な響きが混じる。
「其方、やはり相当の美丈夫よな」
「……申し訳ありません、話の筋が見えないのですが……」
「良い。余の見立ての確かさに若干の恐ろしさを感じたまでよ」
ネロは満足そうに頷く。
「本当は余のエスコートくらいして欲しいものだが、其方は其処に突っ立っているだけで十分なようだ」
何処から眺めても美しい男がひとりでぽつりと立っていれば、否が応でも目立つ。其処彼処から物言いたげな視線が送られていることに、コンスタンティノス本人だけが気付いていない。それが幸か不幸かは兎も角として、この男の関心を得ようと思わず口を滑らす輩の多さに、逆に呆れてしまうほどだ。
だが、情報収集としてはこの上なく上出来だ。時間的にも頃合いで、もうこの場所に長居する必要はない。
――ないのだが。
「ネロ帝」
「どうした裔よ、敵対性の気配でも?」
「いえ、」
少しばかり躊躇した後に、しなやかな腕が恭しくネロに差し出される。全てを見透かしているような淡色の瞳が、この時ばかりは不思議そうに瞬きを繰り返す。
「折角の機会ですから、踊りませんか?」
思いがけない言葉に、今度こそネロの瞳が驚愕に見開かれた。
「こういった場は苦手だと申していたであろう」
「そう、なのですが。眺めているうちに、これは競技のようなものなのではと思ったら、参加しないのは負けを認めたようで釈然としないというか、」
「我が裔は見掛けによらず負けず嫌いと見える」
甘やかさもロマンもないが、実直でありながら、意外と貪欲に勝利を求める性分は清々しくて悪くはない。
「だが、次からはもう少しマシな誘い文句を考えるがよい」
差し出された手に、深紅のオペラグローブに包まれた指先をそっと添える。
ふたりのローマ皇帝を待ちかねていたように、緩やかな音が鳴り響く。まるで夢のように美しい、どこか浮世離れした光景に誰もが感嘆の溜息を溢す。
これは一夜の夢。
特異点が修復されてしまえば誰の記憶にも残らない儚い幻。
けれど、これはとても忘れることが出来ない夜だと、緩やかな三拍子と裔の腕に身を委ねながら薔薇の皇帝はひそりと微笑んだ。
(了)