シャンパン「さあ、行きますよ〜」
ポンっ
爽快な音がしてシャンパンのコルクが弾け飛んだ。黄金のシャワーが天から降ってくる。きっとアルセウスが雨に姿を変えたならこんな感じなのだろう。上品かつ芳醇な香り。唇の上に落ちた水滴を舐めるとシュワシュワと舌の上で踊った。
異国の王が戦勝記念に行ったと伝わるシャンパンシャワー。勝利の証たるアルセウスは、その恵の雨の向こうに佇み、静かにウォロを見つめている。シャンパンのせいなのか、気分は今だかつてない高揚感に包まれていた。
ああ、やはり、世界を作り替えた記念にこの一本は相応しい――。
「ハッッッ!!」
目覚めるとすでに朝日は高く上がっていて、遅刻だ、と一瞬で理解した。ウォロは再び布団を被る。遅刻が確定した以上、急いでも意味がないからだ。もう一度、あの勝利の高揚感を味わいたい。いや、これは大切な予行練習なのだ。なにせあんなに心地よい気分になってしまったら、ワタクシはアルセウスの前で何をしでかすか分からない。脱ぎ出すかもしれない。雪山では良くあることらしいが、ただでさえ薄着のシンオウの衣を脱いでしまったらそれはすなわち死を意味する。やはり神殿でのシャンパンシャワーは考え直した方が良いだろうか――。
あれこれ考えはじめたのがよくなかったらしく、いつの間にか眠気は消えていた。いや、とウォロは首を横に振る。勝利の高揚感などわざわざ夢で見ずとも現実にすればいい。気分は良かった。世界を作り直す機会は刻一刻と迫っている。もはや勝利は手を伸ばせば触れられるところにあった。遅刻のことなどすっかり忘れ、ウォロは上機嫌でイチョウ商会のギンナンの元へ向かった。
「おはようございます、いい朝ですね!」
「もうすぐ昼だよ」
ギンナンは愛用の椅子に座ったまま相変わらず何を考えているのか分からない無表情でウォロを見上げる。
「すみません、ジブンちょっと体調が悪くて」
もう少し体調が悪そうにした方が良かっただろうか、と思うころにはにっこりと笑った口から嘘が飛び出ていた。
「そうなんだ」
信じてないけど、という顔だったが、ギンナンからの追求はそれ以上なかった。暖簾に腕押し、という感じは相変わらずだが、あれこれ突けば埃の出るウォロにとってはありがたかった。
「ちょうど人手が欲しかったところなんだ、今日はツイリが休みだから……」
よっこいしょ、と立ち上がったギンナンはすぐ裏にある幌車のなかにウォロを呼び寄せる。
「あれを売りたいんだけどさ」
「なんですかあ?」
荷台の奥にポツネンと置かれていた木箱が一つ。昨日まではなかったから今朝仕入れたのだろう。ウォロは幌車の中に入り、中を覗く。丁寧に包装された一升瓶が数本入っていた。やけに厳重だなと思いながら一本手にしてみると、たっぷりと酒が入って、コルクで栓がされていた。異国の字で書かれたラベルは、どこかで見覚えがあった。ウォロは素早く脳の記憶をひっくり返す。
「これはこれは、まさかまさか……!」
「ふふ、気づいちゃった?手に入れるのに苦労したんだよね。幻の……」
夢で見た酒!
「リーダー!これ一本譲ってください!」
パッと振り返ると珍しく口の端を緩めたギンナンが立っていた。
「え、だめだよ。いくらすると思ってるの?」
ウォロは両腕で一升瓶を抱き抱えたまま幌車から勢いよく飛び降りる。このままの勢いで突き通せば我儘が通ることを長年の経験から知っていた。
「ください!後生ですから!」
「あのね、ウォロの給料一ヶ月分じゃとてもじゃないけど足らないんだよ」
「では、ツケておいてください!」
どうせワタクシが世界を作り替えたら借金もなにもなかったことになるのだ。
幌車の外でぴょんぴょん跳ねているとギンナンが情けない鳴き声を上げる。あわや割ってしまったら、と珍しく冷や汗を浮かべていた。だがウォロはそんなことはどうでも良かった。
あの夢は吉兆なのだ。いやもしかしたら予知夢かもしれない。ああ!アルセウス!やはりワタクシはアナタと共にシャンパンファイトをする運命にある、それを夢で知らせて下さったのですね!
目を白黒させているギンナンを尻目に、ウォロは布で瓶を何重にも巻いてからそっと自らの鞄に仕舞い込んだ。
向かうべきは、テンガン山。最もアルセウスに近い場所、シンオウ神殿だ。
――――――――
「何年……何十年 何百年かかったとしても!!」
負けた。アルセウスを眼前にして、目の前にあった千載一遇のチャンスがウォロの手をすり抜けていく。
いつの間にか自らを鼓舞するような捨て台詞を吐いて、夢を挫いた子供の元から去っていた。綿密に立てた計画は問題なかったはずだ。問題は、自らの実力不足だ。なんと、不甲斐ない。しばらく山道を闇雲に歩き続け、薄布が枝に引っかかり、破け、あわやポケモンに襲われかけ、身も頭も文字通り冷え切ったころ、鞄や服を取りに神殿に戻った。子供の姿は既になかった。アルセウスに会いに行ったのか、それとも会えずに帰ったのか。
どちらにせよ、この姿で歩き回るなど正気ではなかった。
着替えを済ませると、鞄の奥底にふと布で包まれた一升瓶が目に入る。
「フフ、ハハハ……ハハ……」
あの夢は、予知夢でも吉兆でも何でもなかったのだ。踊らされていた自分が馬鹿みたいだった。だが今やそんなことも、どうだって良い。今ここで割ってしまおうか。
取り出したシャンパンに、ふと夢で見たアルセウスの顔が重なる。
チャンスは逃した。でも、これで終わりではない。そう誓ったばかりではないか。今ここでこれを割ったら、それすら否定することになってしまう。
ウォロはシャンパンを鞄にしまい直し、下山した。
諸々を片付けて、たった一人、夜になった。
あれほど感じていた怒りが嘘のように心が薙いでいた。感情というものがなくなってしまったかのようだった。これからどうするべきか、一度、この地から離れるべきなのかもしれない、と感じていた。
数年後。
「さあ!さあさあさあ!シャンパン入りました!乾杯、いきますよー!」
ポンっ
爽快な音がしてシャンパンのコルクが外れた。黄金の液体がグラスに注がれ、芳醇な香りが鼻をくすぐる。シャンパンコールの喧騒の中、ウォロは客と微笑みを交わし、共にグラスを傾ける。シュワシュワと舌の上で踊る炭酸を味わうこともなく飲み込んだ。勝利の味であったはずのシャンパンは資金調達のための手段へと変わっていた。
グラスの底から湧き上がってくる細かい泡の粒を見ていると、賑やかな夜の街がぼやけていき、代わりに「あの日」見た夢が思い起こされる。
いつか、いつの日か、必ず。アルセウスと共に迎える朝日を夢見て、ウォロは今日も無味乾燥な夜を飲み下していく。