Recent Search
    Create an account to bookmark works.
    Sign Up, Sign In

    ka2chahan

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 🍑 🍌 🍒
    POIPOI 40

    ka2chahan

    ☆quiet follow

    怪異に巻き込まれる勇者達の話の後半〜ラストまで。お読みくださりありがとうございます。

    怪異に巻き込まれる勇者達の話(後半) 怪異はほどなくして現れた。
     時の部屋に布団を持ち寄り、中央に四枚を並べる。10畳敷きの和室なので四枚敷いてもかなり余裕があった。わけもわからないまま起きていても良くないので寝てしまおうということになったが、寝られるわけもなく四人はそれぞれ掛け布団を背もたれにしたり布団の中から顔だけ出したりと思い思いの体勢で雑談をし始めた。
     トワが今年の米は特に美味いと農業談義に熱を入れている最中、突然空が屋敷中に響くかのような大声で悲鳴を上げた。
    「どうした?!空?!」
    「い、今そこ…そこに……」
    「そこ?」
    「何だ?」
     空が障子を指差す。空の座っている位置は向かいのブレ越しに廊下へと出られる障子が見える。その障子を指差し、ガタガタと震えている。
    「何かいたのか?」とブレは振り返ってみたが、閉め切られた障子があるだけで変わった点はない。廊下の方に耳を澄ましてみたが、物音一つしない。
    「人影が……写って……」
    「え?」
     時とトワも空の指の先を見つめる。白い紙がピンと張られた障子には何も写っていない。
    「見間違いだろ」
    「そんなことない!!」
     怖がりだから変な想像したんだろ、と笑うトワに空が本気でキレる。「僕見たんだから!障子いっぱいの大きさで、手が長くって……」と手振りを入れて説明する空の言葉は想像のようには思えない。しかし空の見たという謎の人影は、現状ではあり得ないことだった。
    「……廊下の灯りは消えてるのに、何で影が写るんだよ」
     ブレの言葉に、部屋の湿度と重力が明らかに増した。しん、と静まり返った無音の数秒が、更に重さを助長する。
     人影など見えるはずがないのだ。
     廊下に灯りが点されるか、廊下に窓があってそこから雷の光で照らされでもしない限り、真っ暗闇の廊下に人がいても影として障子には写らないはずなのだ。しかし廊下の行灯は全て消されており、廊下には窓はない。部屋の外に光源がないのに、影が写るはずがない。
     開けてみようか、とブレは障子に手をかけた。すかさず空が「やめて!」と叫ぶ。
    「何かいたらどうするんだよ!!」
    「だって開けてみなきゃ正体がわかんないだろ」
    「もし誰かいて部屋に入ってきたらどうするんだよ!!」
     こんなとこで死ぬなんてヤだからね!と空が布団を頭までかぶった。「空、落ち着け」となだめようとする時の言葉は空の耳には入っていないようだ。
    「部屋から出るなってのはマジなのか…?」
    「……かもしれないな」
    「廊下に何かがいて、出るとそいつに捕まるってことか?」
    「なんだよホラゲじゃあるまいしよぉ」
    「ホラゲだったらここから出て逃げなきゃいけない展開になるよな」
    「そうなのか?」
     ホラーゲームをしたことがない時にはトワとブレの会話に対して想像がうまく出来ないのだろう。ホラーゲームはお化けから逃げるゲームなのか?などと少しズレた質問をしてきて会話が逸れかけたので、空が布団の中から「今そんなことどうでもいいよね?!」とツッコミを入れてきた。怯えながらもちゃっかり三人の会話を聞いているのが空らしい。
    「そうだったな、すまない」
    「部屋から逃げなきゃいけない理由もないし、部屋から出なきゃやり過ごせるんだろ?だったら朝まで寝てしまおうぜ」
    「電気はつけたままにしておくか」
     ブレの提案に空が「そのままにしといて」と気弱な声で布団から懇願してくる。お互いの確認もできるし、闇の中でいきなり何かに襲われた時にも何かしら対処ができるので、電気は消さないことにした。
     きっと朝を迎えられたら、電話を借りられて村から戻れるだろう。道に放置したままのレンタカーが今頃どうなっているのか気にはなったが、レッカー移動され借主を探されていたとしても対応のしようがないので、ブレは車のことを考えるのはすぐにやめて布団に潜った。

     しまった、とブレは寝る前に持ってきたペットボトルのお茶を飲み干したことを後悔した。夜中に用を足しに行くなと忠告されていたせいもあってか、余計に下腹部に違和感がある。人間、するなと言われたことはしたくなるということか…となるべく音を立てずに布団から半身を起こした。三人はぐっすりと寝ている。空がトワの掛け布団を抱き枕にするように半分巻き取っているので、立派な足が電灯の下に露わになっている。寒くないのだろうかと思ったが、トワなら大丈夫だろう。
     眠りにつく前に空が言っていた人影のことも気になる。暗い廊下には得体の知れない何かがいるのだろうか。影を見たのはその一度きり、トワに話しかけられていてしばらく寝付けなかったブレも、そしてトワも、怪しい人影は見なかった。
     ──なら素早く行ってくるくらい…。
     トイレまではそう遠くもない。廊下の様子を伺ってから早足でサッと行って戻ってくれば大丈夫なのではなかろうか。朝まで我慢をしようとも思ったが、一度意識をすると股間がむずむずとしてくる。生理現象には抗えない。
     どうしてたかだかトイレまで行くことを躊躇っているのだろう、とブレは三人を起こさないように静かに立ち上がった。隣で寝ている時を踏まないようにソッと跨ぎ、廊下に出ようと障子に手をかけた。
    「ブレ?」
     いつの間にかトワが目を覚ましていた。突然名前を呼ばれてブレはびくりと体をこわばらせてから振り向いた。
    「起きてたのか」
    「んー…まぁ」
    「どうした?」
    「いや……」
     トワがもぞもぞと起き上がり、歯切れの悪い言い回しをしながらチラチラとブレを見てくる。
    「……もしかしてお前……」
    「……うん」
    「こんな時にかよ……」
     はぁ、と寝ている二人にも聞こえそうなほどの大袈裟なため息をつき、ブレは頭を掻いて恥じらいながら胡座をかいているトワの浴衣をめくった。
    「寝付けなかったからよ、その、ブレのこと考えながら寝たらさ、夢の中で…その……」
    「それ以上言うな」
     トワの夢の中で自分が何をしていたのか聞かされるなんてたまったものじゃない。ブレは空がトワの布団を全て奪い取ってしまわなかったことに感謝した。トワの股間まで露わになっていたら、どういう気持ちでトワを見ていただろうかと、ブレはトワの下着を突き破るかのように元気に聳え立つ尊厳の象徴をまじまじと見た。
    「見んなよ〜恥ずかしい」
    「見るほど呆れてるんだよおれは」
    「仕方ねえだろ〜」
     男子の尊厳をぴこぴこと前後に揺らしながら、トワが情けない声を出す。尊厳もクソもあったものじゃない。
    「…俺の部屋行くぞ」
    「えっ、ブレ抜いてくれんの?!」
    「そのつもりなんだろ…」
     股間ではなく長い耳を今度はぴこぴこと振りながら、途端にトワの声色が明るくなる。ここで処理をしてやるわけにはいかない。トワに静かにしていろとキツく言っておけば大人しく黙ってはいるだろうが、いつ時か空が目を覚ますかわからない。覚ましたところで気にしないと気を遣ってくるから余計にブレを居た堪れない気持ちにさせる。
    「しゃぶるだけだぞ?」
    「えーついでにヤろうぜ」
    「トワお前な、置かれた状況考えてみろよ。処理どうするんだよ」
    「あ、そっか」
     車に置いてきたボストンバッグの中にはトワが盛ることも考えてゴムを入れてきたものの、ここには持ってきていない。さすがに和室の畳の上を精液まみれにしたりたっぷりと放たれた尻穴をそのままに寝る気にはなれない。そもそもブレは今トイレに行きたくて目を覚ましたのだ。これ以上の我慢を強いられる状態まで昂らさせられることは避けたい。
    「わかったらさっさと部屋移動するぞ」
     がっかりした顔で股間をいじるトワの手を引き、ブレはなるべく音をさせないように時の部屋から自分の部屋へと通じる襖に手をかけ開けた。

     鏡越しに写るトワがこれ見よがしに不満そうな顔を向けてくる。フェラだけで終わらせられたことが余程不満だったらしい。ブレは全部飲み込むつもりでいたのに射精する直前にトワが体を動かすから、つい口から離してしまった。動くな喘ぐなとトワに我慢させることの難しさを、こんな所でブレは痛感した。
    「帰りも大丈夫だよな」
    「だといいがな」
     顔も髪も精液でベトベトで、風呂の後部屋に干していたタオルで拭いても取りきれなくて気持ちが悪い。洗面所で顔も髪も洗ってしまいたい。トワは多少の反省の色は見せているものの「挿れたかったなー」などとぶつくさ言っている。こんなことなら尻で受け止めた方がマシだったか…と今更ブレは後悔したが、もう遅い。ベタつく髪を掻き上げながら、暗闇の廊下を洗面所まで行くこととこのまま時の部屋に戻ることを天秤にかけた。
    「行きに何にもいなかったんだから、何にもいねえって。あれは空が寝ぼけてただけだろ?」
     真っ暗な廊下は曲がり角が見えないほどの闇だった。隣の時の部屋から漏れる光がほんのりと格子模様を板に写す。そういえば、とブレは廊下の灯りが消えた時のことを思い出した。
     行灯は一斉に消えたのだ。それぞれに蝋燭が灯されているはずなのに。奈備が一つずつ消していったのなら、鈴の音がしよう。他の誰かが消したとして、ブレの歩幅五つ分ほどの感覚で置かれていた小さな行灯が一斉に消せるわけがない。それらはフッと突然、時の部屋の電灯のみを残して消えたのだ。
     ──あの廊下には『何か』いる。
     ブレの部屋から出た二人は、音を極力立てないようにして足早に洗面所まで歩いた。ぎしぎしと音を出す板張りの廊下を無音で通り切るのは難しかったが、時と空を起こさない程度の制御は何とか出来た。廊下を歩いている間、何とも遭遇はしなかった。暗闇なのでスマホのライトを懐中電灯代わりに使い、ブレが足元を、トワが目の前を照らしながら歩いた。しかし空が見たという人影らしきモノには出会うことなく、二人は洗面所のドアを無事開けることが出来たのだった。
     ──たまたま運が良かっただけかもしれない。
     ブレはトワのように楽観視出来ない。トワも本当は得体の知れないモノの気配を感じているのを、あえて気にしていないふりをしているのかもしれない。
     しかしいつまでもここにいるわけにはいかない。部屋から出るなと言われたからには部屋の中は安全なのだろうが、洗面所が安全だとは限らない。万が一のために紅葉の彫りが入っている窓を見た。鉄格子がはめられていて出られそうにない。もし何者かにドアが開けられて襲われたら、逃げ場はどこにもないのだ。
    「トワ、念のため気をつけた方が」
     ──ドン!!!
    「えっ?!」
     ブレもトワも反射でドアの方を振り向いた。ドアに嵌め込まれた磨りガラス窓に、髪を振り乱したような真っ黒の人型の影が写った。
    「うわあっ!!」
     トワが叫ぶ。咄嗟にブレは身構える。磨りガラスごしに中の様子をじっと凝視しているようで、影はそこから動かない。
    「っオイ、何だよコイツ…!」
    「トワ黙って!」
     トワの口を塞いで黙らせる。コクコクと頷くトワを横目で見て、視線を影に戻す。ドアに鍵はない。大きさは天井までありそうで、そんな怪物のようなモノなのだからドアくらい破れそうなものだが、破って侵入する様子はない。鍵がないのだから開けたらいいだけなのだが、ドアノブを回す動きもない。
     ここまでほんの十秒ほどのことだが、ブレには恐ろしく長く感じられた。
    「入ってはこれない、のか…?」
    「そうみたいだな」
     ドアを叩く音や擦るような音はするものの、ノブが動かされる音はしない。
    「どうするブレ?」
    「どうしようったって…どうしようもないだろ」
    「だよなぁ」
     このまま諦めて去ってくれることを願うしかない。スマホで時間を見ると深夜2時。朝が来るまでまだ数時間ある。それまでずっと洗面所にいてもいいが、この状況を時と空に伝えなければ二人も危ない。空が明け方前に起きて寝ぼけながらトイレへ向かうかもしれないし、たまたま起きた時が「トワとブレがいない」とシキタリを破って探しに来ないとも限らない。忠告やルールにはきちんと従う時だが、友人のためならば躊躇いなく友人を選ぶ一面がある。
     ドンドン、という音が止んだ。少し間を置いて、スゥと影がガラス窓から消えた。どうやら諦めてくれたらしい。
    「いなく…なったな」
    「今すぐ出るのはやめよう。まだ近くにいるかもしれない」
    「ったく何なんだよアレ」
     俺が寺生まれのTさんだったら「破ァ!!」てアイツを退治するのにな〜、とトワがこんな時なのに冗談を言ってくる。トワは空ほどの苦手というわけではないが、怖いのが得意な方ではない。そのくせ澱んだ空気に敏感だったり嫌な感覚が働いたりと、いわゆる第六感が優れている。トワが「やばい」と言う時は本当に「やばい」のだ。そんな風に恐怖に対して変に耐性のついてしまっているトワ──そのくせ驚く時のリアクションがオーバー過ぎるのだが──が、寺生まれのTさんというネット怪談ネタを出してきたものだから、ブレは「お前は寺じゃなくて村育ちのTさんだろ」と真顔でツッコミを入れてしまった。しかしおかげで、ぐっと重苦しい圧力がかかっていた洗面所の空気が一気に軽くなった。
     ブレはそっとドアを半分ほど開けてみた。あの影の気配はない。廊下は真っ暗だからどこかに潜んでいても気付けないが、おそらく周辺にはいないだろう。今のうちだ。影は時の部屋がある方向へ去った。ブレ達は影の後ろを歩いて部屋まで戻ることになる。
    「大丈夫かな」
    「アイツが何体もいたらやばいだろうけど…一体だけなことを願う」
    「あんなのがたくさんうろついてるとか想像したくねえよ」
    「おれもだ」
     ギイ、とドアを全開にする。音を立てずに静かに歩けば、前を徘徊しているだろう影に気付かれずに部屋まで戻れる。
    「行こうトワ」
     ブレは洗面所から足を踏み出した。トワも後に続く。ライトをつけると気付かれる危険があるので、行灯を蹴らないよう気をつけながら壁伝いにゆっくりと歩を進める。角を曲がったところで、時の部屋から漏れる光が見えた。あそこまで辿り着ければ安心だ。
    ──カタン
    「!!」
     部屋の明かりを見て気が緩んでしまった。足元の行灯に爪先を引っ掛けて倒してしまったという状況を頭が理解するその一瞬、ぶわっと廊下一面が赤黒いぞわぞわとした空気で覆われた。
    「何だこれ?!?!」
    「逃げるぞトワ!!」
     ぐいとトワの手を掴みブレは来た方向へ全力で走った。幸い裸足だから滑ることもなく走るのに支障はない。トワが「アイツだ!!」と後ろを見ながら叫ぶ。見なくてもそんなことはわかっている。とにかく捕まる前に逃げなければ。後ろを見る余裕などないのに、追ってくるものがあの影で、通路全体を赤と黒が入り混じった気味の悪い色をした霧のようなモノで蝕みながら追っているのだと肌に伝わる。アレに触れたら捕えられる。闇雲に逃げる先に、微かに光の灯る部屋が見えた。
    「おいブレ!あそこ電気ついてる!」
    「洗面所の時みたいに、アイツ明かりのついてる部屋には入れないかもしれない」
    「じゃあ入る一択だろ!!」
     ブレとトワは、光の漏れ出る部屋の障子を勢いよく開けて室内へ転がり込んだ。


    「ここ……物置か……?」
     6畳ほどの部屋は四方が襖ではなく板戸で、床も廊下と同じ板材が張られていた。天井に電灯がないのに、どういうわけか室内が明るい。
    「物置かもしれないが…何で電気もないのに明るいんだ?この部屋」
    「知るかよ」
     もう意味不明過ぎて何が起きても驚かねえよ、とトワがその場にどかっと腰を下ろした。ブレもつられて座る。
    「予想通り入ってはこないようだな」
    「外にはいるんだろうなぁ」
     トワがコンコンと扉を叩く。反応はない。自分で叩いたくせに「…コンコンって返ってきたらびびるよな」と長い耳を下げて少し怖がっている姿が情けなくていっそ可愛く思える。
    「絶対開けるなよトワ」
    「開けるわけねーだろ」
     ブレは部屋を見渡した。廊下と仕切られていない三方も引戸になっているようで、隣接する部屋があることがわかる。隙間に目を凝らしてみても光は見えず、この部屋だけが光を帯びているようだった。開けてみようか、と思ったが、暗がりの中にアレがいない保証はない。部屋の中には何も置かれておらず物置なのか空き部屋なのか判断がつかない。ふとよく天井付近を見回すと、札のようなものが貼られていた。
    「お札……?」
     トワの肩を揺すり「あそこ、ほら」と上を向くよう促す。「何だよ?」とトワが首を持ち上げたのと同時に、廊下と反対側の引戸が開いた。
    「わっ!!」
     ちょうど札の真下の戸だったせいで、札を確認する前に開く戸が視界に入ってしまったトワが座ったままで後退る。ブレも突然のことに喉が詰まった。
    「驚かせてしまい申し訳ありません」
     チリン、と鈴が鳴った。戸の向こうから奈備が入ってくる。やはり鈴の音は戸が開けられるまでしなかった。
    「あの者から逃げるとはさすがです」
    「あの者って……あの大きな黒い影?」
    「はい。あれは監視者とでも呼べばわかりやすいでしょうか。その名の通り、この村の者を監視している鬼です」
    「監視者……」
    「捕まったらどうなるんだよ?!」
    「二度とあちら側には戻れません」
     あなたがたの魂を監視者達は狙っています、と奈備が淡々と打ち明けてゆく。
    「殺されるってことか……」
    「はい。そしてあの者達は生者の肉を喰らい己の血肉にしています」
    「うぇ……喰われるのかよ俺達」
     長い手で捕えられ、頭から食べられるところをブレは思わず想像した。どこかで見た油彩の絵画のように、骨を噛み砕かれながら食べられるのだろうか。
    「もしかして、この屋敷では今まで……」
    「その目で確かめられますか?」
     奈備が己の右の引戸を見た。その視線の誘導に合わせてブレとトワも向かって左の引戸を見た。
    「髪の毛一本も残さず喰らうので、何も残されてはいませんが」
     そう言いながら奈備が戸を開ける。真っ暗な部屋の中が、ブレ達のいる部屋の光の流出によってじんわりと照らされてゆく。同じような板張りの部屋の床をよく見ると、黒いシミのようなものが一面に付着していた。
    「……これ、血か……?」
     血と肉が混ざって腐ったような異質な臭いに、二人は浴衣の裾で鼻と口を押さえた。形容しがたい、全身がぞわぞわとする強烈な悪臭。嗅いだことのない臭いに耐えながら部屋の中を覗き込むと、天井まで飛んだ血飛沫が見えてブレはこみ上げる胃液を抑えきれずその場で吐いた。トワの方はまだ平気だったらしく、後で聞いたら、地元では家畜の解体を手伝っていたから血肉の臭いには多少の免疫がある、とのことだった。
    「申し訳ありません、強烈過ぎましたか」と奈備が戸を閉めた。思い出したらまた吐きそうで、出るものが残っていない胃袋から無理矢理出そうとしてブレは膝をついたままゲホゲホと咽せた。いつの間にやら奈備は水の入った湯呑みを手に持っていて、それをブレに差し出してきた。「あなたも」とトワにも差し出された湯呑みをトワが不審そうに受け取る。
    「飲んだらやべえモンじゃねえだろうな?」
     元々の吊り目の目尻を更に吊り上げて、トワがキッと奈備を睨みつける。奈備は臆せず「ご心配なく。この水はあちら側の水です」と早く飲むようブレに促した。
     消化器官を焼くような胃液のムカつきが和らぐなら、とブレは差し出されたみずを一気に飲み干した。スッの胸が軽くなる。邪気が浄化されたかのような感覚から、ただの水ではないのだろう。ブレの青ざめた顔に紅が戻るのを見て、トワも湯呑みの中身をゴクリと飲んだ。
    「捕まったらそこで喰われるということか」
    「相当な数だろ、あれ」
    「はい。今までに数えきれない人間達が監視者に捕まり喰らわれていきました」
     淡々と答える奈備は眉一つ動かさない。死というものに慣れきってしまっている顔だ。彼女はきっと、あの監視者に喰われる人間を表情を変えずに見つめ続けることができるのだろう。
    「それでも、あちら側から彷徨い込んだ人達がただ喰らわれてゆくさまを見るだけというのは些か心が辛くあります」
    「……だから、部屋から出るなと忠告したの?」
    「はい」
    「シキタリシキタリってうるさかったのは俺達を守るためだったってことかよ?」
    「はい。ですから、守っていただかなければ即ち死……『死来たり』です」
    「『死来たり』……シキタリってそういうことか……」
     少女ははじめからブレ達を守ろうとしていたのだ。少しでも足を踏み外せば、足を踏み入れれば生きて帰ることのできない死の淵からの手招きに誘われぬよう、ずっと警告していたのだ。
    「てことはさ、ここは何なんだよ?あの世か?でも俺達まだ死んでねえんだろ?」
     監視者の彷徨くこの村が元いた世界とは考えにくい。『門』が閉まると奈備が言っていたのだから、ここは異界であることは確かだろう。
     奈備がその場に座り、手を床についた。深々と頭を下げサラリと床に放射状に散る黒髪の奥から、手首に巻かれた鈴が見えた。
    「ここは神奈備、現世と常世を繋げる領域です。そして私はこの神奈備の案内者です。元の名はとうの昔に忘れました。いつだったか名を聞かれ、咄嗟に奈備と答えて以来己の名としています」
     説明が遅れてしまい申し訳ありません、と奈備は俯いたまま弁解をする。「んなことしなくていいから頭上げろって」とトワが奈備の肩を叩くと、奈備はゆっくりと体を起こした。
    「じゃあ、この村にいた人達は何なの?あれも監視者なの?」
     公会堂にいた男達、膳を運ぶ女達、バス停に座っていて消えたという老婆。彼らはこの世の存在ではないのか、それともここに囚われている現世の者なのか。
    「彼らは監視者ではありません。肉体を失った魂達の姿です」
     あの広間に集められていた男達は皆、この村で犠牲となった者達なのだろう。黄泉戸喫の話を時がしていたが、この領域の物を食べずとも肉体がないのだから元の世に戻ることは叶わない。ブレはホッとした。どうやら、夕飯を食べたことによりあちら側に戻れなくなるということはなさそうだ。それでも、得体の知れない物を体内に入れてしまったことには変わりはないのだが。
    「なぁ、俺達もこのままだと捕まっちまうのか?村から出ることはできるのか?あの世とこの世を結んでるなら、向こうに戻ることも出来るはずだろ?」
     逃げられたヤツはいるのか、とトワが真剣な顔で奈備に問う。トワはトワなりにここから戻る方法を情報から模索しているのだろう。これはいわゆる「神隠し」だ。古来から忽然と現世から姿を消した者の事例は山ほどある。「連れて行かれた」という表現がそのまま正しかったのだと、ブレはこの国が昔から現世と常世の境界が曖昧で、自分達の生きるどこにでもすぐそばに狭間は生じていたことを実感した。
    「あなたがたが現れた社……『門』が開いている間はあちらへ戻れます。しかし、あなたがただけではそこへは行けません」
    「どうして?」
    「あなたがたを監視者は探しています。四つの魂が投じられたのなら、あの者達は四つの魂を喰らうまでひたすらに探し続けます」
    「でも、行く方法はあるってことだよな?」
    「はい。私がいれば気付かれずに行くことが可能です」
     公会堂へ行く時に奈備が「私の後を必ずついてきてください」と何度も言っていたのは、これが理由だったのだとブレの頭の中で疑問の答え合わせが浮かんだ。公会堂への道にも監視者は潜んでいたのだ。人間、認識外にあるものは目に映らないという。監視者はおそらく、ブレ達のすぐ近く──いつでも襲える範囲にいた。見たこともなく想像すらしていない未知のものを脳は認識せず、奈備の後ろを素直を歩いている限り襲われることはないので、「ただの田舎の道と風景」としか思わなかっただけなのだろう。
    「明日朝、あなたがたを社までお連れします」
    「いいのか?数が合わなくなったことに気付かれたらお前が喰われたりしねえの?」
    「ご心配なく。私はすでに魂のみの存在ですので」
    「あ……そっか。キミもここで……」
    「遠い遠い過去のことはもうよく覚えておりません」
     静かに首を振る奈備の髪がひらひらと揺れる。本当に覚えていないのか、はぐらかしているだけなのか。どちらにせよ、すぐにここから部屋に戻って時と空に伝えなければならない。
    「俺達の部屋まで案内してくれる?」
     闇雲に走ったから、部屋まで監視者に見つからず戻れる自信はない。トワはどうだと視線を送ると、「俺もわかんねえよ」と困った顔で首を数度振られた。
    「それはできません」
    「どうして?」
    「私は廊下には出られません。あの者達の纏う気……瘴気が強過ぎるのです。夜はあの者達が支配する時間です。私ごときの力では、いくつかの部屋に光を残すことが精一杯なのです」
     トワが「戻れるか?」と聞いてきた。「自信ない」と率直に答えると、「俺も」とトワも情けない声で同意してきた。
    「せめてこちらをお使いください」
     奈備が懐から短刀を取り出した。柄巻きに青色の紐が使われており、鞘も青梨子地の美しい刀だ。
    「心許ないかもしれませんが、この短刀は破魔の力を宿しています。あの者達を斬れます」
     腕を斬って逃げることくらいならできるかもしれません、との発言にブレとトワは一縷の希望が見えたが、すぐに奈備には「腕はまた再生しますが」と付け加えられた。それでも時間稼ぎにはなる。逃げ延びて時の部屋に入りさえすればいいのだ。短刀など扱ったことはないが、斬りつけるだけなら反射神経でどうとでもなる。一つしかない短刀をどちらが持てばいいのか……とブレが考えるよりも早く、トワが短刀をブレの胸に押し付けてきた。
    「何でおれなんだよ」
    「お前の方が慣れてるだろ?」
    「慣れてるって……短刀なんか使ったことあるわけないだろ」
     トワの言い分は、ブレの方が喧嘩っ早いし経験もあるから、ということなのだろう。中高時代にそこそこ人に言えないレベルの喧嘩沙汰は起こしたことがあるが、さすがに本物の短刀は使ったことも持ったこともない。すらりと鞘から刃を引き抜くと、綺麗に磨がれている直刃の刃紋が目を引いた。
     柄を握り、数度振ってみる。不思議と手に馴染む。これなら使えるかもしれない、と浴衣の帯をきつく締め直して短刀を差す。
    「借りていくね」
    「ブレ、さまになってんじゃん」
    「茶化すなトワ」
     自分が使わないからと気楽にしやがって、とブレはトワの頬をつねった。ふふ、と奈備が小さく笑った。出会ってからずっと能面を張り付けたかのように表情を変えなかった奈備が、年相応の少女のように笑うこともできるのだということにブレは今日出会ったばかりの相手なのに嬉しくなった。
    「ありがとね、じゃあ朝に」
    「お気をつけください。気を緩めませんよう」
    「俺とブレなら心配ねーって!」
     その自信はどこから来るんだ、とトワを小突く。奈備がまた笑う。
     何としても部屋まで戻らなければならない。あの赤黒い瘴気を纏いながら襲ってくる黒い影に、何故か不思議と恐怖感が和らいでいる。腰の短刀のおかげだろうか。
     廊下に出られる引戸をそうっと開ける。監視者はいないようだ。トワが奈備に手を振る。奈備は手を振り返して、札の貼られた面の戸から向こうへ消えた。
    「行こう」
     ブレはトワの腕を掴み、一寸先さえも見えない闇の中へ飛び出した。

    「ブレ大丈夫?僕もタオル取ってくる……怖いからトワついて来て!」
    「一人で行けよ~襖開けるだけだろ」
    「開けてその監視者ってのがいたらどーするんだよ!」
    「電気つけてんだろ?なら入って来ねえよ」
    「……消しちゃったかも」
    「はああ?!アホ空!一人で行け!!」
    「やだ!!僕が食べられたらトワのせいだからね?!」
    「お前達、行くならさっさと行ってきてくれ」
    「へいへい」
    「はぁ~い」
     時に怒られたトワと空がのそのそと立ち上がって空の部屋へと出て行った。掛け合い漫才のようで見ていて飽きないが、ブレとしては今は呑気に眺めている場合ではない。
    「空がタオルを持ってきたら交換しよう」
    「ごめん。もうほとんど止まったから大丈夫そうだけど……」
     ぼたぼたと右腕から床まで滴り落ちていた血は、じわりと滲み出てくる程度に治まっている。腕の付け根にきつく巻かれた止血用の帯をほどこうとして、ブレまで時に怒られた。
    「そのまま巻いておけ」
    「……ごめん」
     謝らなくていい、と言いながら時が器用にシーツを、トワが持ってきたハサミで等間隔に裂いている。トワの鞄の中にはハサミだけでなく消毒用ウェットティッシュ、傷用の塗り薬が入っていた。いつも出掛ける時に大きなリュックやショルダーバッグを使うトワの鞄には大抵のものが入っている。ティッシュやハンカチ、折りたたみ傘などは当たり前で、裁縫セットや洗濯ばさみまで持ち歩いている。備えあれば憂いなしだろ!と得意気に話すトワの鞄の中身に今日ほど感謝したことはない。さすがに標準サイズの絆創膏で塞がるような可愛らしい傷口ではないが。
    「朝イチで診てもらえる病院があればいいんだが……」
    「時、ここに病院なんてないよ」
    「そうだったな……すまない、耐えてくれ」
    「大丈夫」
     でもこれじゃあ戻れても旅行は続行できないかなぁ、とブレはぼんやりとシーツを裂く時と右腕を交互に見る。咄嗟のことでかわせなかった。運動神経にも反射神経にも自信はあったが、相手の腕の長さを予測しきれなかったのが敗因だと、先ほどのことを思い返して悔しがった。何を考えていたのか時に察せられてしまい、「いくらブレでも無理だろう」と慰められた。行きの車内で運転の不安さをトワに指摘されてしょげていた時を慰めていたのに、今はブレと時の立場が逆になっている。
    「掴まれる、って頭ではわかってたんだ」
    「わかったことと動けることはまた別だろう?」
    「そうなんだけど」
     時が手を止めて、ブレのそばに近寄る。考えていることを読まれているようで、ブレは時をチラとだけ見て顔を背けた。
    「動きには自信があったのに躱せなくて負傷してしまって悔しい、みんなに迷惑かけて足手まといになる自分の弱さが許せない、せっかくの旅行なのに戻ってもキャンセルして麓の病院まで行かなきゃいけないのが申し訳ない、……といったところか?」
    「……正解。全部」
     ──どうしてわかるんだろう。時には隠しごとができない。隠しておきたいことや言いたくないことがあっても大抵時にはすぐバレてしまう上にその理由まで当てられてしまう。時曰く「ブレはわかりやすい」らしい。同じようなことはトワにも空にも言われる。「ブレは何も言わないから、逆に顔見て判断するクセがみんなついてるんだよな」とトワに言われたこともある。
    「トワに任せた方がよかったかもしれない」
     ブレが持って当然とばかりに短刀を譲ったトワも、運動神経は抜群にいい。手足が長い長身で筋肉もしっかりついている。仕事で力仕事もするからと毎日筋トレは欠かさないし、職場で飼われている黒柴の散歩ついでにランニングもしているらしい。
     先に追いつかれたのはトワの方だった。外から見た時には想像もできないくらいの広い屋敷の中は、廊下がいくつも分かれていてとても複雑な作りになっていた。監視者の気配を探りながら、行灯を蹴らないようにしながら、ゆっくりと暗い廊下を進むと左右に通路が分かれていた。どちらを見ても明かりは見えない。左にいたトワが「こっちじゃねえ?」と先導するように手招きし、数歩進んだところでアレは現れた。「逆だ逃げろ!」とトワが振り返る。ブレも慌てて踵を返す。ぞぞぞ、と瘴気で空間を満たしながら監視者の影が二人に迫る。逃げ切れないのならば、とブレは腰の短刀を引き抜いて逆手に構えた。
    「先に行け!」
     トワよりブレの方が小柄で身が軽い。丸腰のトワをこの場から離してコイツに一太刀でも入れられたら、逃げ切れる自信がブレにはあった。
    「トワだったら届いたのに」
     捕まる前に斬ってしまおうと、ブレはあえて踏み込んで短刀の切先を監視者へ振り上げた。届かない。暗闇で間合いが掴めないのと、短刀の長さを把握しきれていないせいだ。己の体格を言い訳にしたくはないが、決して恵まれているわけではない自分の手足の短さに苛立った。
    「トワだったらアイツの腕を斬れてた」
    「ブレ、自分を蔑むな」
    「だってめちゃくちゃ悔しいんだよ、時」
     先に行け、なんて漫画か映画でしか聞かないようなセリフを決めておいてやられるなんて情けない以外の何ものでもない。腕を斬るどころか、引き裂かれたのは己の腕の方だった。振り抜いてしまったブレの右腕を目掛けて監視者の黒く長い腕が高速で伸びる。一瞬の速さのはずなのに、スローモーションで見えた。それなのに躱すことができなかった。掴まれた腕に爪が食い込み肉が裂かれる感覚が全身に伝わる。「ブレ!」と叫ぶトワの声が聞こえるが、武器も何も持っていないトワに加勢をさせるわけにはいかない。このままでは二の腕の骨ごと潰されて持っていかれてしまうだろう。ブレは短刀を握る手にグッと力を込めて、黒い腕に思い切り突き立てた。
    「そう簡単にやられてたまるかよ!」
     刺されたことにより怯んで力が緩んだ隙に、無理矢理腕を振り解いた。食い込んだままの爪に、肉と皮膚を裂かれる。どれほど深いのかわからないが、体にくっついているのなら大丈夫だろう。
    「ブレ!トワ!どうした?!」
     背中から時の声がした。騒ぎで目が覚めたのだろう。運良く、襲われたのは時の部屋からすぐ曲がったところだった。
    「時、部屋にいろ!出てくるんじゃねえ!」
    トワが時に向かって叫ぶ。「ブレこっちだ!」と右腕を押さえるブレの左腕を力任せに引き寄せる。再び強い瘴気を放出し二人を襲おうとする影を視界の端に確認したが、構わずブレはトワと共に時の部屋まで駆けた。
    「腕だけで済んだんだからよかったじゃないか」
     腕から滴り落ちて畳に広がってゆく血に、空が別の悲鳴を上げた。オロオロと心配する空は落ち着きがなく、何があったのかしきりにトワに聞いていた。トワの説明は説明で要領を得ないものだから、「どういうこと?」「もう一回説明して」「だからこういうことだっつーの」「何でわかんねえんだよ空」とブレの応急処置をする時の隣でずっとうるさかった。
    「それはそうだけど……」
     時が風呂場で使って干していたタオルを当てがい、体が露わになることも躊躇わず浴衣の帯を解いてブレの腕の付け根をキツくしばった。「しばらく押さえてろ」と指示を出す時からは普段のぽやんとした雰囲気が消えている。学生時代一緒にコンビニバイトをしていた頃はおれが指示を出すばかりだったのにな…と滅多に見られない時の頼もしい姿を見てブレは昔を思い出した。
    「ブレ〜タオルあったよ!」
     空が勢いよく襖を開けて戻ってきた。使ってないタオルだから綺麗だよ、と時に渡す。「交換しよう」と言われるがままに押さえていたタオルを取ると、傷口はどれも閉じていた。
    「動かすと開くから、朝まで大人しくしていろ」
    「わかった」
     どうせ外に出られないしね、と空が均等幅に切られたシーツの端を持ち上げて「本物の包帯みたい」と時の器用さを褒めた。血で汚れたタオルをビニール袋──もちろんトワの鞄に入っていたものだ──に入れて、時が器用にブレの腕にタオルの上からシーツを巻いていく。
    「タオル探すだけなのに時間かかり過ぎだろ」
     処置されるブレを隣に座って見つめていたトワに話しかけると、「……まぁな」と曖昧な返事が返ってきた。
    「何だよ?」
    「別に」
    「気になるだろ」
    「気にしなくていいっつの」
    「トワ責任感じてるんだよ」
     空の割り込みに、トワが「言うな空!」と顔を真っ赤にして怒ってきた。「だって本当のことじゃん。タオルすぐ見つかったのに、戻りたくないって駄々こねたのはトワだろ?」という空の暴露に、トワは反論出来ないでいる。
    「あの時引かなきゃよかった、って。ブレが喧嘩強いのはよく知ってるから加勢する必要はないって判断した自分を許せないんだって」
     丸腰でカッコつけてブレの前で怪我でもしたらそれこそブレが落ち込むのにね、と空が眉毛を下げてフフッと笑う。吊り目なのに大きく愛嬌のある空の目は、笑うととても柔らかい雰囲気になる。
    「そうなんだ……気にしなくていいのに」
    「ブレはいっつもそうだよな!」
     予想外の反応に三人とも呆気に取られてトワを見た。ブレはてっきりトワが凹んでいるのだと思ったので「気にするな」と慰めようとしたが、トワにいきなり睨みつけられた。どうやら悪手だったらしい。
    「空の言ってることも本当だけどよ、それは俺の後悔だ。もう次ああいうことがあったら絶対お前置いて引いたりしねえ。俺が反省してこれから行動で返せばいい話だ。俺が部屋に戻るの躊躇ったのはそれじゃねえよ」
    「じゃあ何だよ」
    「何でお前さ、全部自分のせいにするんだよ」
     三人がまたトワを見る。頭をがしがしと掻くのは言葉を探している時のトワの癖だ。感情が先行してうまく言葉を紡げない時、トワはよく頭を掻く。
    「こうしてたらとか、トワだったらとか、全部自分の責任にすんなよ。短刀をブレに持たせたのは俺の責任でもあるだろ。一人で背負おうとすんな。俺が一緒にいるだろ?俺と半分こだろうが。……ブレがそういう性格なのはわかってるけどさ」
     ごめん俺ブレを困らせてる、とトワが耳をしょんぼりと下げて俯いた。怒ったり落ち込んだり感情の起伏が目まぐるしい。
    「あっちに戻れたら、トワの相手最後までしてあげなよブレ」
     僕達邪魔せず寝ててあげるから、と言う空に、ブレとトワは顔を見合わせた。
    「空テメ、起きてたのかよ?!」
    「寝てたよね空?!」
    「寝てたよ」
    「は?」
    「寝てたの…?」
     どういうことだ?と二人は空の悪戯っぽく笑う目をじっと見た。「やっぱりね〜」と笑う空にカマをかけられたのだと気付いたが、誤魔化すにはもう遅い。
    「時に起こされて起きたら二人がいないんだもん。どうせ盛っちゃって隣の部屋でやってたんだろうなって最初は思ったけど、トワってうるさいからブレが最後までさせなさそうだなって。ここ仕切りが襖だしね」
     合ってる?とニコリと笑う空に返す言葉がない。その通りです、と答える代わりにため息をついたら「やっぱりね」と余計に微笑まれた。四人の中で脱童貞が一番早かった空はやはり侮れない。ちなみに空が言うには彼女のゼルダとの初体験は中学生の時だったらしい。
     何とも言えない空気が部屋の中に漂う。怪奇現象などどうでもよくなってきて、疲労と痛みで充満した体は今すぐ寝たいとブレに告げている。
    「ひとまずみんな寝よう。色々聞きたいことはあるが、時間も時間だ。明日またあの子に聞けばいいし、ブレの体も心配だし、寝た方がいいと思う」
     その通りだ、と時の言葉に三人とも頷く。
    「僕寝ないと明日絶対起きれないよ」
    「お前寝てたって起きないだろ」
    「だって眠いんだからしょうがないだろ」
     こういう時、トワと空がいてくれてよかったとブレは思う。自分と時だけだと、トワと空の掛け合い漫才のような軽快で明るい空気はあまり出せない。いまだに腑に落ちないことが多々ある状況の中で、ネガティブにならずにいられるのは二人のおかげだ。
    「ブレ横向きじゃなきゃ寝られねえだろ?俺にくっついて寝るか?」
     そうトワが布団に横たわって「来いよ」とポーズを決めてきたので、ブレは「盛られちゃ困る」と枕を投げつけて自分の布団に入った。

     ブレが目覚めると、襖が開いていてすでにトワが起きていた。農業に関わっているトワは仕事がなくても習慣で朝が早い。頬が紅潮していて額に汗が滲んでいた──ついでに上半身は裸だった──ので指摘したら「朝の筋トレ」と返ってきた。こんな時にもトレーニングを怠らないのか…と感心したが、自然とやっているだけだろうとすぐに感心を否定した。日が昇っているからといって襖を開け放つのは危険なのではないかと思ったが、夜と打って変わって廊下の空気は来た時のように穏やかだった。床板に落ちていたはずの血は消えている。奈備が拭き取ったのだろうか。
    「寝れたか?」
    「あんまり寝られなかったけど……寝る前よりはマシ」
     腕の痛みは一晩中引かなかったし、掴まれたことで生気を持って行かれたのか、ずっと体が怠くて呼吸がしにくかった。寝て起きて多少は回復しているものの、本調子ではない。
    「無理すんなよ」
    「無理そうな時はちゃんと言うから」
    「よろしい」
     嬉しそうにトワが目を細めて笑う。人から頼られることに嬉しさを感じるトワを、もっと頼って喜ばせなきゃな、とブレはトワに笑い返した。
    「傷の具合見てくれる?」
    「任せろ」
     早速トワを頼ると、いそいそと救急セットと昨日時が作っていたシーツの布を取り出してきた。洗面所で水に浸してきた布で傷口を湿らせながら、止血のために巻いたままで血でくっついてしまったタオルを剥がしてゆく。ガサツそうに見えて、トワはとても丁寧で細かい。
    「塞がってねえから、戻ったら即病院な」
    「せっかくの旅行だったのにな……」
    「旅行はまた行けばいいだろ」
    「そうだけど」
     四人の中で旅行を一番楽しみにしていたのは、トワでなくブレだろう。楽しみにしている素振りは三人に見せていないが、内心すごくワクワクしていた。残業続きの仕事で心身共に疲れ切っていたから、リフレッシュできるのは想像しただけで天国だったし、人付き合いがあまり得意でなく職場の人とは仕事の話ばかりなブレにとって気心の知れた親友達と学生の頃のように喋れることは温泉に浸かること以上の癒しだった。
    「車が動かなくなったのも、偶然じゃなかったのかな」
     かもな、とトワが包帯代わりのシーツを傷口に巻いていく。巻かれるそばから血が滲んでいくが、動かさなければ広がることはないだろう。
    「おれ達はたまたまここへの入り口を見つけて足を踏み入れたんじゃなくて、『そうするように』仕向けられていたってことなのかな?」
     点検がされているはずのレンタカーがたまたま突然止まり、たまたま村への看板を見つけ…などという偶然があり得るとは思えない。常世へと通じる狭間である神奈備へ、車を運転している時からすでに絡め取られていたのかもしれない。
    「なら、誰が俺達を呼んだんだよ」
    「……ここにはまだ姿を現していない何かがいるのかもしれないな」
    「ボスってやつだな!」
    「倒さず逃げさせてもらうけどな」
     昨晩奈備から借りた短刀はブレの枕元に置かれている。昨日はあまり細かい意匠を見ている余裕がなかったので観察してみると、金で家紋らしきものが付けられていた。
    「これ、××家の家紋…」
    「有名なのか?」
    「うーん…一応有名、だと思う」
     歴史に興味があるなら知っているだろうという三角形を三つ重ねた家紋。見たことはあってもどの家の家紋かまで判断できる人間は少ないだろうが、たまたまブレは中学生の頃に読んでいた歴史の漫画で知っていた。
    「あの子元々人間だったらしいし、あの子の家がそこってことか?」
    「かもしれない」
     この出来事とこの家紋に意味があるのかはわからない。時なら今までの材料で何かしら推測をできるかもしれない、と時を見たら「ん……」と眠そうな声を発して目を覚ました。目をこすりながら「もう起きてたのか?」と二人に声をかける時の雰囲気は妙に色気があって、二人は(イケメンはこれだから…)と困り顔でお互い見合わせた。
    「おはよう時」
    「おはよう。二人とも眠れたか?」
    「バッチリ寝たぜ」
    「ありがとうね、おかげさまで寝られたよ」
    「なら良かった」
     ニコニコと笑う時が可愛らしい。真剣な時のキリッとした表情と声と、普段の天然でおっとりしている時のギャップが激しい。これに落ちる女子が多いんだよな……とブレは思ったが黙っておいた。
     起きてしまえばてきぱきと動く時が、浴衣を脱いで着替え始めたので、ブレも合わせて布団と一緒に時の部屋に持ってきておいた服に着替えはじめた。トワに上着を着ろと嗜めると「へーい」と自分の部屋に戻って行った。
    「朝ご飯、またあそこで食べるのかな」
    「それが『シキタリ』なら従うが、出来ればその『門』が開いてるのならすぐに戻りたいな」
    「長居したくないよね」
    「ブレの腕も心配だしな」
    「本当はあんまり大丈夫じゃない」
     物を持つ程度のことは出来るが、箸を使ってご飯を食べることは出来そうにない。トワにバレると厄介だな、と考えてることはしっかり時に読まれてしまっていた。
    「……トワに言うんだぞ?」
    「う……わかってる」
     洗濯した服が着てえよ〜とトワがぼやきながら戻ってきた。着替えを持たずにここに来たから、服は昨日と同じままだ。昨日はほとんど車内でクーラーが効いていたしここは山奥だからか気温も涼しかったのでそう汗をかいているわけではなかったが、一度着た服をもう一度着るのは気持ちの良いものではない。「いつもはTシャツを鞄に入れてるのにね」と言うと「さすがに今回は別の鞄があるからそっちにまとめてたぜ……」とため息と共にぼやきが返ってきた。
    「空まだ寝てんのか?」
     叩き起こしてやろっかな、と悪いことを企んでいる顔で空を覗き込むトワを「やめといてやれよ」と止める。
    「しかし起こさないと起きないしな……」
     ゆさゆさと時が空を揺らすと、心底起きたくなさそうに時の腕をどかしながら、空が「まだ寝てたい……」と不満げな声を漏らしながら一応起きた。起きたが目は開いていない。
    「空起きろよ」
    「あの子が来たらすぐ出られるようにしておくから、空も準備しろ」
    「寝てたらここに置いていくぞ」
     三人が口々に話しかけるとようやく空が覚醒してきた。「置いてかれるのは嫌だ」とのそのそ立ち上がる。「着替えてくる」と自分の部屋に戻った空はほどなくして帰ってきた。
    「あの子いつ来るんだろうね?」
    「お待たせいたしました」
    「わっ!!」
     開け放たれた廊下に現れた奈備に、空が大袈裟に驚く。「びっくりさせないでよ」と言う空に深々と頭を下げ、奈備は空に謝った。やはり鈴の音は全くしなかったが、もう不思議なことではない。
    「これから社へお連れします。ご準備はいかがでしょうか」
    「ちょっと待って!」
     空が慌てて部屋に戻り、ガサガサと散らばったスマホや財布、お菓子を雑に鞄に詰めていく。ブレとトワもすでに用意していた鞄を取りに部屋に戻る。時の部屋に持ってきた布団や浴衣はどうしたらいいのかと考えたが、旅館でもないのだからとそのまま置いておくことにした。
    「それでは、私からはぐれませんよう着いてきてください」
     時に渡された短刀を懐にしまい、奈備が四人を先導する。玄関には靴が綺麗に並べられていた。
    「お忘れのものはありませんか。あちらに帰れば二度と取りには来れません」
    「確認したから大丈夫だ」
     時に三人も頷く。部屋はきちんと見たし、万が一何か忘れていてもまた買い直せばいい。
     昨日見たものと同じ風景が目の前に広がる。今日はバス停には誰も座っていなかった。この村は異界というのなら、地図に存在しないこの村の風景は誰かの記憶なのだろうか。現代では見られない立派な家屋、整地されておらず斜面をそのまま切り拓いて作られた棚田、古びた板がかけられただけの粗末な橋。茅葺き屋根の軒にぶら下げられた大根。ここに住まう者達が皆魂だけの存在なら、あの大根は何のためにぶら下げられているのだろう。もはや食というものを必要としないはずなのに、魂だけになりかつて肉体があった頃と同じ生活をここで営む幻が生み出した幻影なのだろうか。触ってみたいとブレは感じたが、道を外れたら目に見えぬ監視者に捕らえられるのだろう、昨夜のあの出来事を思い出しぞわぞわと鳥肌が立った。無意識のうちに右腕を押さえてしまっていたらしく、気付いた時に「痛むのか」と心配された。「大丈夫、」と言いかけて、トワが不安そうにこちらを見てくるのに気付いて「…じゃないけど、我慢できるから」と付け足した。
     社に着くまで誰ともすれ違わなかった。ここに囚われている人達の姿を見たかったが、それは叶わなかった。見てどうするのか。助けることもできないし、もしそれがテレビで行方不明になったと報道されていた人だとしても警察に届けることもできない。誰とも出会わなくてよかったのだ、とブレがぼんやり考えている間に目の前に昨日来た社が現れた。
     山道を登ってたどり着いた社への道は消えている。社をぐるりと取り囲む茂みには切れ目がなく、確かここから入ってきたはず……とその場所を見てみるも奥は深い藪になっている。
    「よく見たらすげえ古いなこの建物」
    「ボロくて傾いてるだけかと思ったけど、年代物ってやつ?」
    「創建時期はかなり古そうだ」
    「神社だと思ってたけど、神社というよりお社って言葉の方が合うね」
     そんなことを口々に言い合っている間に、奈備が社の扉を開けた。
    「『門』を開きます」
     中は暗くてどうなっているのかよくわからない。よく目を凝らすと、台座のようなものが見えた。
     奈備が懐から短刀を取り出す。あの台座に?と予想しているとその通りに奈備は台座に短刀を突き立てた。
     ざあ、と強い風が社の中から吹き付ける。何が起こったのだと四人が辺りを見回すと、昨日登ってきた場所に道が現れていた。
    「すげ……」
    「これで帰れるんだね?!」
    「はい。道を降りれば戻れます」
     場が沸き立った。奈備の言うことに嘘は無さそうで、四人はお互い手を叩き合って喜び合った。しかし、やった!とハイタッチを決めるトワと空に対して、時の表情がすぐに曇る。ブレが理由を問うと、時は奈備に向き直った。
    「……きみが俺達を誘ったのか」
     時の滅多に聞くことのない低く重い声色に、トワと空の体がハイタッチのポーズのまま硬まる。時は奈備を睨んで、もう一度同じ言葉を吐いた。
    「きみが俺達を誘ったんだな?」
     誰も口を挟めない沈黙が流れる。時、と呼びかけることすら許されない沈黙が、ほんの数秒のことだろうにとても長く感じられる。
    奈備は答えない。しかし沈黙が肯定を表している。
    「これは俺の推測だが、この村に捕らえられた人達は皆きみが誘い込んだ人達なんだろう。きみは門を開けることで現世の人間をこの神奈備という現世と常世の狭間へ連れ込んだ。いわゆる贄だな。あの監視者というのはこの領域の神……神と呼ぶにはおぞましい。祟り神や鬼と呼ばれる歪んだモノといったところか。監視者は昨日ブレ達を襲った一体のみだな?きみは村の中にも監視者がいると言っていたが、それはこの村の物に触らせないための方便だ。景色を見ていて気付いたよ、この村はあまりに『そのまま』過ぎる」
     時の推測を、奈備は黙って聞いている。時の言う通りなのだろう、とブレは昨日からの現象を思い返してみた。監視者が複数いるのならブレ達を挟み撃ちすることだってできたはずなのに、アレは一体しか現れなかった。村を歩く時に道を外れるなと忠告したのも、空があのバス停の老婆に話しかけでもしたらこの空間が紛い物だとバレてしまっていたからだ。たまたま空が見た老婆が消えたことで自分達に疑心を抱かせることに繋がったのだが。
    時は黙ったままの奈備を見つめて更に続ける。
    「きみも贄の一人だね、そしてきみはこの領域を支配する神に仕えている。合っているかい?」
     チリン、とかすかに返答の代わりかのように鈴が鳴った。
    「申し訳ありません」
     奈備が頭を下げる代わりに目を伏せた。
    「私はかつてこの地を治めていた××家の娘です。我が家は山の禁忌に触れ、山の神は祟り神と成り果てました。私が生まれる前のことです。祟り神となった神はこの地に禍をもたらしました。その神を鎮めるために、私が贄として差し出されたのです」
    「だからあの短刀に××家の家紋がついていたの?」
    「はい」
     贄として差し出される娘に短刀を持たせる、その意味をブレは考えた。娘に短刀を持たせて他所に出すその意味で、思いつくことは一つしかなかった。
    「輿入れのためか」
     ブレが口を開く前に、時がブレと同じことを言った。時のことだから他にもいくつか思いつく理由はあったのかもしれないが、ある種の確信を持って時は奈備に訊ねたように思えた。
    「よくある話です。若い娘を差し出し妻とさせることで、神の怒りを鎮める……昔からよくある習わしです」
     遠い過去のことは忘れたと言っていたのは真実を隠すためだったのだろうが、奈備の表情はそれ以外の感情も物語っている。彼女を見ていると、彼女があの禍々しい神に何をされ何を経て今ここでこうしているのか、思考を巡らせたくなくなってくる。本当は己の名も覚えているのだろう。しかしその、人間の娘だった頃のことを思い出したくなくて、自らの名を思い出と共に心の奥に封じて生きてきたのだろう。頭の中に思いつく下卑た想像の解像度を上げたくなくて、ブレは奈備から目を逸らした。
    「で、お前はここで人を攫ってアイツに喰わせてたってことか」
     お前も同罪じゃねえか、とトワが吐き捨てる。「まだ俺達を騙してんじゃねえだろうな?あそこの道行ったらアイツが待ち構えてるなんていうパターンか?」と睨みつけるトワに奈備は「いいえ!」と初めて語気を荒げた。
    「いいえ、いいえ!!あなたがたは帰します!私を信じてください!」
    「信じろったってなぁ……」
    「俺達が帰ったら、魂の数が合わなくなる。多分公会堂に皆を揃えたのは、魂の数を確認するためもあったんだろう?数が合わなくなったら、咎めを受けないのか?」
     あ、あれそういう意味だったんだ、と空が時に感心した顔をする。空は昨日からの不可解な出来事の答え合わせがされるたびに「ふぅん」とか「へぇ」とか面白そうに相槌を打っていた。また一つ解決したことが嬉しそうなのが見て取れる。
    「咎めは受けます。ですがもう肉体はありませんので。それに、私を失えば新たな魂を喰らうことは出来ませんから」
     奈備の短刀が『門』を開く装置である限り、神は奈備を手放さない。神は奈備にまた新たな贄を求め、門を開かせるだろう。
    「さあ、お行きください。決して振り向かれませんよう。振り向いてしまったら、永久に帰ることもこちらに来ることも出来なくなります。振り向いてはならない、これが私が伝えられる最後の『シキタリ』です」
     ザワザワと茂みが風で揺れる。こちらへ来いと四人を誘っているのだろうか。行こうぜ、と先陣を切るトワに、空が続く。
    「時?」
     見送る奈備を見つめて動こうとしない時に、ブレは呼びかけた。まだ何か聞きたいことが残っているのだろうか。ブレとしてはこれ以上疑問があったとしても元の場所に戻れるのならどうだってよく、それより早くこの腕の傷をまともに手当てしてもらいたい現実的な気持ちの方が強い。
    「時」
    「きみは、」
     奈備の眉間にわずかに皺が寄る。それ以上言うてくれるなと、彼女の目が訴える。
    「どうして俺達を助けた?どうして短刀を渡した?渡さなければ俺達は喰われ、きみは咎めを受けることもない。罪悪感などではない何か理由があるんじゃないのか?」
     わざわざ短刀を渡して監視者への対応も教え、自らの危険を犯してまでここへ連れて来たことは、確かに罪悪感などというものでは説明がつかない。時の真っ直ぐな視線に、奈備の目から涙が溢れた。
    「あなたの魂が、あの人と同じだったから……」
     ブレの目の前に、少年の姿が映る。茂みに入ろうとしていたトワと空も気付いたのか足を止めた。時のそばに、奈備よりいくつか年上らしき少年が立っている。時によく似た端正な顔立ちで、奈備に笑いかけている。
    「──さま」
     奈備が少年の名を呼んだ。何と呼んでいたかは葉擦れの音で聞き取れなかった。
    「お行きください。私とあなたは共に生きてはいけません。その優しい顔で私を見つめないで。私に笑いかけないで。でないと私はまた──あなたに未練を残してしまう」
     奈備が社の中へと走り込んだ。開いたままの扉に手をかけ、叫んだ。
    「行ってください!今すぐに!決して振り向かずに、それが……シキタリです」
    「行こう」
     ブレは時の袖を引いた。突然の展開にうまく整理が出来ないのか、時はなかなか動こうとせずじっと社を見つめている。
    「時」
    「……ああ、すまない」
     ようやくハッと正気に戻った時が、ブレの後ろを付いてくる。トワと空は先に行っていて背中だけが奥に見える。
     振り向いてはならないと言われたのに、振り向きたくなってしまう。彼女は今どんな顔で、どんな感情で自分達の気配が薄れゆくのを感じているのだろうか。おそらく何百年という長い時を、唯一の心の拠り所であっただろう少年への恋心すら封じて耐えてきた少女の心うちを、たかだか二十年と少ししか生きていない自分達に想像することなど出来はしない。
     ──もしおれ達が喰われて魂だけの存在であそこに留まり続けていたら……。
     彼女はかつて愛した者の輪廻の果ての魂と、永劫あそこで過ごすことが出来たのだろうか。
     その選択を彼女が考えなかったわけはないだろう。しかし彼女はそれを選ばなかった。己の代わりに生きてもらうという自己犠牲が、彼女の祈りであり救いだったのだろう。
     
     しばらく山道を降りると舗装された道へ出た。「車があるよ!」と空が大声で手招いている。レッカー移動はされておらず、盗難にもあっていない。もしかして、とエンジンをかけたらあっさりかかった。スマホのロック画面を見ると日付は昨日──ここに車を停めた時と同じ時間が表示されていた。
     振り返ると、『か○○○村』と書かれた看板は消えていた。周囲を見渡してみても、どこにも上へ登れそうな山道は見当たらなかった。
    「ブレ、とりあえず麓の町まで戻るぞ」
     ズキズキと痛む右腕が、これまでの出来事が夢ではないことを物語る。「どういう言い訳したらいいと思う?」「熊に襲われたってことにしたらいいんじゃね?」「ブレと熊ってどっちが強いと思う?」「さすがに熊だろ」と人の怪我の具合もヨソに勝手に熊とバトルする妄想を繰り広げるトワと空に時が苦笑している。
    「運転は誰がするんだよ?」
     と笑いながら聞いたら、三人揃ってトワを指さした。

    「は〜〜温泉はいいなやっぱ」
    「遅くなったけど夜の露天風呂もいいね」
     麓の病院まで戻って診てもらい、治療が終わった頃にはすでに日が暮れかけていた。旅館は諦めて帰ろうと思ったが、ダメ元で「泊まるだけ泊まらせてもらってもいいか」と聞いてみたら、キャンセルされるよりは良いからと快諾の返事が返ってきた。夕飯は食べられなくとも楽しみにしていた秘湯に入れるのならば、とトワの運転する車で再び山道を走って旅館まで辿り着いたのだった。
    「今までもあの道で消えちゃった人がいたんだよね」
    「頻繁に人が消えてたら噂やニュースになりそうなものだがな」
    「喰われたらさ、それこそこっちでも存在から消されるんじゃね?」
    「うわ、そういうこと?!」
     ニュースにならないのはそういうことなんだろうなと、ブレはトワに頭を洗われながらぼんやりと振り返っていた。腕が浸けられないから部屋で待ってる、と留守番をしようとしたのに、三人に「せっかくだから」と連行された。「ブレが一番行きたがってたじゃん」と何故かしっかり皆にバレていた。
     トワがブレの世話ができると張り切り、ブレを座らせ背中を流したり髪を洗ったりを嬉しそうにしている。一通り終えたようなのでおれのことはいいから湯船に浸かってこい」と促すと、「ブレも浸からなきゃ意味ねーだろ」と左腕を引かれた。
    「時がいなかったら僕達食べられちゃってたんだよね」
    「だよなぁ。時に感謝だぜ」
    「俺が何をしたというわけじゃなく、たまたまだがな」
     あの少女は、領域内に誘い込んだ魂の中に想い人の魂があることにはじめから気付いていたはずだ。その時、何故放さなかったのか。一度絡め取った者は神奈備の中に入れることがあの領域のルールなのか、それともわざと招き入れたのか。
     ──会いたかったのかな。
     言葉を交わせなくとも。己のせいで目の前で喰われてしまおうとも。数百年という長い長い年月の間に数えきれないほどの人間の死を見てきた彼女が、その年月からするとほんの瞬きほどでしかないただ一瞬だけでも、愛しき人のぬくもりを再び感じられるのならばと、同じ魂を持つ時と自分達をあそこに招き入れたのだろう。
    「ブレどうした?俺の顔に何かついてるか?」
     時が顔をペタペタ触って不思議そうにしている。ブレが湯船に浸かった後に、トワは空を誘ってサウナへ行ってしまった。すぐに空が音を上げて出てくるだろう。
    「何でもないよ」
     時がやたらモテるのは時の魂も関係してるのかな、とブレは笑いながら湯船を出た。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    ☺☺☺👏👏👏👏👏❤❤👏🌋👏👏👏❤🙏💖
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works