朝支度の話 朝。寝起き半覚醒な浪巫謠の姿を見て、裂魔弦は仕方ないなぁと思う――ではなく、むしろこれぞ好機とばかりに相棒の身支度を手伝い始めた。
寝間着を着替えさせて帯を締め、髪を整えて三つ編みに。装飾をひとつひとつ丁寧に付けさせ、最後に水晶の冠を髪に飾りつければ完成。普段と違わぬ『浪巫謠』の姿へと仕立て上げた裂魔弦は満足げに顔を綻ばせて「出来た!」と声を上げた。
瞬間、はっと我に返るように、巫謠の翡翠に理性の色が灯った。そうしていつの間にかすっかり身支度が済んでいる己の有り様に気づき、言葉なく驚愕を示す。僅かに丸くなった双眸に気分を良くした裂魔弦は、どうだとばかりに胸を張った。
「手足があるってのは便利なもんだよなぁ。世話を焼きたい時にいくらでも手が出せるんだからよ。どうした浪、驚いたか? 伊達にお前さんと長年一緒に過ごしてきたんじゃないぜ。普段のお前の装いくらいなら、着させ方もすっかり覚えてるってもんだ。ま、見るのと実践するのとじゃ当然勝手は違うが、初めての仕事にしちゃ上出来だろう?」
問えば、未だ困惑が解けない表情のまま、こくん、と縦に振られる首。そのどこか稚い所作に悪戯心が湧いた裂魔弦は、にまりと意地悪く口角を釣り上げて、巫謠の耳元に顔を寄せた。
「もちろん、脱がし方だって完璧だぶふっ!!」
最後まで言い終える前に口許目掛けて容赦なく飛んできた張り手に言葉を遮られる。琵琶の時のような折檻は出来ないとはいえ、余計なことを口走るお饒舌りへの巫謠の制裁は人型相手でも健在なのだ。むしろ、人体相手の方がやり方として物理的な威力が大きい分、普通に痛い。琵琶であれ人であれ、もう少し旅の道連れを大切に扱ってほしいものである。裂ちゃん悲しい。
などと心の内で泣き真似などしていると、不意に目の前へ何かが差し出された。ずいっと眼前に晒されたのは巫謠の左手で。一見普段と変わりないその指先に何か違和感を覚えて、あ、と一拍遅れて気づく。
普段ならば紅の色を乗せているはずの左手の爪は、今はまっさらな素の肌色のままだ。
とはいえ、流石に爪紅を上手に塗りつけるような技術は裂魔弦にはない。人型を自ら繰るようになって浅い年月の中、我ながら小器用な方だとは自負しているが、正直これに関しては自信などない。
どうしたものかと主人に窺いを立てる犬のように巫謠を見遣れば、感情の揺らぎを乗せない凪いだ翡翠の色に見つめ返されるだけだった。言葉は無くとも、状況から答えは言わずと知れる。そもそも、長年を共に過ごした聆牙には、おしゃべりな己とは真逆に、口よりも多くを語る眼差しの言わんとするところなど当然のように理解ってしまう。つまり結局は、お前が塗れ、ということだ。
「……失敗しても怒んない?」
おそるおそる差し出された左手を取り、最終確認をとる。じ、と真っ直ぐに裂魔弦を見つめる翡翠の下で、真一文に結ばれていた唇がゆるやかに綻んだ。
「怒らない」
だから、
「――全部、お前が仕上げてくれ」