青い夜「フフッ」
ミツクリの漏らした小さな笑い声が、真夜中の沈黙を柔らかくやぶった。編集画面とにらめっこしていたネモは思わず顔を上げてそちらをみやる。先ほどまで大学の課題をやっていた筈だが、今は熱心にスマホの画面に見入っていた。いつの間にか有線のイヤホンまでしている。時刻は午前2時半。照明を落とし、光源をPCとスマホの画面だけにしたこの部屋は真っ暗で、向かい合わせに座っているミツクリの顔だけがぼんやりと白く浮かんでいる。指先で綻んだ口もとを隠すようにしているがその表情はすっかり緩みっぱなしだ。
(わかりやす!)
3ヶ月程前に拾ったエリート風のこの男について、ネモはいくらか理解し始めていた。今ミツクリが熱視線を注いでいるものが何かの検討もつく。その答え合わせがてら休憩しようとネモは腰をあげ、ミツクリの隣に移動した。手元を覗き込む為に肩へ顎を乗せると、あからさまに嫌な顔をされる。それを無視してイヤホンを片耳分奪う。
「オイ!何すんだよ」
「いーじゃん。俺も休憩」
「暑いから離れろクソガキ」
「え〜」
奪ったイヤホンを自分の耳の穴にさしこむ。するとボソボソとした低い男の声が流れ込んできた。予想通りだ。ネモは満足してニヤリと笑ってみせる。ミツクリは少したじろいで、それから諦めた様に大きなため息をついた。
「邪魔すんなよ」
そう言って視線をスマホに落とし、口を噤む。ネモもそれに習って小さな液晶を見る。画面の中では、襟足を伸ばした黒髪の男がなにやら話をしている。ネモにとってはあまり見慣れないUIのサイトだ。画面に流れるコメントの文字が反転している。つまりこの動画は転載されたものなんだろう。数日前に「金脈を見つけた!」とミツクリが騒いでいたのはこれだったに違いない。動画の男は益体もない話をつらつらとしながら、狭いキッチンで何かを作っている。
『······居酒屋の出汁巻きっておろしついてるじゃん。アレの存在意義って何なのかね?卵の味がボケない?』
『“醤油かけたらいいじゃん”ウワそれするやつキライだわ。一生一緒に呑みたくないね』
ビビるくらいつまんねえ〜!というのがネモの正直な感想だ。しかしこんなクソ退屈な雑談を天啓の様に聴き入るミツクリ自体は面白いと思う。真剣な横顔を見詰め、あー最初にコイツとエンカウントしたときもこんな表情だったなと思い出す。スカした顔で何事にも関心が薄そうな人間が、誰かの信者をやっているのが意外だった。少しからかってやりたくなって、ネモは口を開く。
「なーコレそんなおもろい?」
「うん」
こちらを一瞥もせずにミツクリが応える。ネモも負けずに次の質問をする。
「昨日も一昨日もみてなかった?」
「うん」
「どこがいいの“ギンガ”って」
「うん」
「やっぱ顔?」
「うん」
「喋り…···はフツウじゃね?」
「うん」
「声も低くてよく聴き取れんし」
「うん」
「あ、寝落ち用?」
「うん」
意味のない問いかけと生返事。なんて不毛なキャッチボールだ。ネモがどんなに話しかけてもミツクリの関心は逸れない。細いけど雄弁な視線はただ一人に注がれている。その熱心さは、ネモにひとつの仮説を建てさせる。
(やっぱりガチ恋なんかな?)
リスナーの信者タイプとリアコの見分けはつきにくい。寧ろネモはこの2つをざっくばらんに同じものとして考えている。理由は体感だ。駆け出し配信者のネモにも徐々にファンはつき始めていて、中でも若い女性リスナーの熱心さは目を引く。動画に必ずコメントを残し、こまめに評価ボタンを押し、SNSでもハッシュタグ付きで感想を書いてくれる。そしてその原動力は、「配信者」としては勿論、恋愛(又は性的な)対象としてネモのことを魅力的に感じているからだろうとも分かる。彼女らの視線には熱がある。そしてネモには彼女たちとミツクリの視線には違いがないように感じられる。
(じゃあコイツは男が好きってコトになるけど)
ここでネモは少し悩む。その場合ミツクリにとってネモが恋愛対象に含まれてしまうからだ。同性同士のそれについて強烈な嫌悪感があるとかではない。懸念しているのは色恋によるヘイダルゾーンの瓦解だ。例えばミツクリがネモに惚れてしまったら?ネモが応えるにしろ応えないにしろ、火種のない恋愛なんてあるわけない。しかも相手は面倒くささを煮詰めた様なミツクリだ。きっと揉めて、中国の爆竹並に派手に弾ける。メンバー間の恋愛トラブルで炎上(その盛り上がりにちょっと心惹かれない訳でもないが)そんなものでこの男を失うのは惜しい気がする。配信業というレッドオーシャンでの航海を共にしようと船に乗せたのだ。ネモの本気にとことん付き合ってもらわなくては困る。
(まー多分未経験だろうしいざとなってもなんとかなるか)
恋愛に疎そうだから御しやすかろう、なんてネモが考えている事がミツクリにバレたら般若の如く怒りそうだ。ばちりとミツクリと目が合う。へらりとネモが笑うと、怪訝な顔をされる。
「イテッ!」
「もういいだろ」
乱暴に耳からイヤホンが引き抜かれた。痛みに顔をしかめるネモを無視して、ミツクリは丁寧にイヤホンのコードを巻いてケースに閉まった。いつの間にか動画は終わっていた様だ。いつも通りの無表情に戻った横顔に投げ掛ける。
「なあ」
「何」
「次の企画なんだけどさ、お前なんか考えてよ」
「······いいの?」
「いーよ」
ネモの突然の提案に戸惑った様子をみせたミツクリは、しかし直ぐに喜色を浮かべる。
ネモのchはそろそろ登録者数が10万人に届こうとしていた。もっと数字を伸ばす為には加速しなければならない。今まで動画のネタはネモが考えたものばかりだったが、更新頻度を上げるにはミツクリが企画も出来るようになる方がいい。ミツクリにはネモのビジョンが共有できている筈だ。だからもうヘイダルゾーンにふさわしいネタが理解るだろう。そんなネモの思惑に気がついたのか、ミツクリはニヤリと笑う。
「ch内で一番再生数回るヤツ考えてやるよ」
「あー?強気じゃん」
「競争するか?」
「負けたら何奢る?」
「焼肉」
「乗った!」
ネモは指を鳴らして挑戦を受ける。そうと決まれば、ネタ出しと企画練りと撮影と編集だ。ミツクリの目に青い炎がみえる。先程までのうかれた熱とは違う、真っ直ぐな闘志がネモを射る。それはネモの心にも引火する。やっぱりお前、面白えよ。きっとミツクリだって、ネモのことをそう思ってるはずだ。
(だからつまらんことにはなるなよ)
そんな警告を心のなかで送る。なんせ時間は限られていて、しかしやりたいことは山程ある。全部やりたい。なぜってネモが面白いと思うことは全部面白いに決まってるからだ。そしてそれをする為なら、どんなことだってやってやろうとネモは思っている。
(早く動画作りてーな)
ネモには海が見える。果てのない水平線が見える。そこはいずれ辿り着く場所だ。まるで風を受けた船の帆の様に、ネモの夢は膨らんでいく。