黄色い夜 本当に今日はダルいことばっか起こる。深い溜息をついて隆文は我が身を呪った。
そもそもの原因はバイトで急な欠員がでたせいだ。おかげで俺は居酒屋が一番盛況する金曜の夜に一人でキッチンをやらないといけなかった。ホールに入ってた女子大生も最近きた新人で、全然客をさばけていなかったから、俺はドリンクの面倒までみる必要があった。こんな日になんでヘルプが誰もみつからないんだ。もっと余裕持って人雇っとけよ。長年世話になっている雇い主の朴訥とした顔を思い浮かべ悪態をつく。ああイライラする。煙草が吸いたくてたまらない。
文字通り息をつく間もなく働いて、閉店時間を迎えた頃には、眉間に深い皺が刻まれていた。最後の客が帰り、あとは厨房を片すだけ……と疲弊した肉体を叱咤してノロノロ元栓を確認してると「劍先輩~」と泣きそうな声で呼ばれた。嫌な予感がする、が出ていかない訳にはいかない。しぶしぶホールに出ると新人がレジの前で眉をよせ困った顔をしていた。
「どしたん」
「すみません…レジ合わないんです」
「え~…」
マジかよダルすぎる。レジ締めだけは極力避け続けてきたのにこの状況では逃げようがない。ちらりと壁の時計を確認する。
「あ~俺あとやっとくから、先あがっていいよ」
「えっそんな悪いです」
「電車なんだろ?俺原チャだし」
見られながらだとやりにくい。頼むから先に帰ってくれ。という本音は一応隠しておく。
「でも……」
「いや終電逃したら送らないといけなくなるじゃん。そっちのが困る」
言い淀む様子にイライラして、少し語気が強くなってしまったけど仕方ない。彼女が少しビクリと身体を揺らしたのには気がつかないフリをする。
「……すみません。じゃあお先失礼します」
「うん」
着替えにバックヤードに引っ込んだのを確認してレジに向き直る。伝票どれだよ……。クソ、昨日の数字ってどこみるんだっけ?
「お疲れ様です」
「……ッス」
視線は手元のままおざなりに返事をする。次に顔合わせた時、ちょっと気まずくなるだろうな。でもホントの事だし。俺は疲れてるし。これあわせないと帰らんないんだよ。背後で引き戸が閉まる音がして気配が完全になくなってから、ため息をつく。お互い悪い印象ついちゃったな。最後の声少し震えてた気がするし、ビビらせただろうか。あの子、大学生のくせに黒髪貫いてて、結構好きなタイプだった。控えめで、真面目で、ちっちゃくて。でももう関係ない。一回きつくするとああいう優等生系の子は二度と俺に近寄ってこなくなる。
結局1時間くらい数字と格闘して、なんとか勘定を合わせた。原因は6と9の書き損じだった。
「は~~っ」
何度目かのでかいため息をこぼす。仕事着から着替えるのもダルくて上から私服のジャンパーを羽織る。もういいや、今日はこれで帰ろう。戸締りだけはちゃんとやってそのまま店を出る。
裏に止めてあった原付に跨り、時刻を確認するためにスマホを取り出す。画面を明るくすると、ライムの通知が目に入った。「都」と表示された名前を見て、今日一番の深いため息が出る。こんなん絶対に未読無視だ。月末近く、つまり家賃の引落日が近づいてくるとこうして届く妹からの生存確認は、母親の指示によるものだと容易に想像できる。
(そんなに息子が信用ならないかよ)
「クソ…」
ズルズルと上半身を倒す。ハンドル部分にうなだれて、このムカつきをやりすごそうとする。
(俺だって、頑張ってる)
ちゃんとバイトして、家賃とか光熱費とか払って、掃除して、ゴミ出しして、アイツらと動画撮って、編集ソフトの勉強もして、最近は喋りだって、ちゃんとしようって……
「フーッ」
ジャンパーのポケットをまさぐる。でもそこにあるはずの金マルの箱がない。
「バカがよ……」
たぶん家に忘れてきたんだ。落ち着くために吸いたかったのに、直ぐに吸えないことで更にイライラはつのる。結局帰るしかない。ブレーキレバーを握りスイッチを強く押し込んでしぶしぶエンジンをかける。車体は俺の気持ちとは裏腹に軽快に滑り出した。
夜風を頬に感じながら暗い道を走り抜ける。心にかかったモヤのような不安や不満が、目の前の真っ暗闇をまるで自分の未来のように錯覚させた。とりあえず帰ったらメシ…いやその前にヤニ……ビールあったっけ。明日は夕方から撮影だから別に昼過ぎまで寝ててもよかった筈だ。でも、なんか忘れている気がする。
「あー…」
なんだかむしょうに泣いてやりたい。
だけどこんな真夜中に一人泣いたら余計虚しくなるだけなのはわかっているからやらない。第一俺はこんな風体だし。デカい男が深夜に原チャ乗りながら泣いてるのなんてホラーだろ。かわりに冷たい空気を肺いっぱいに吸う。すると冷気が鼻奥をツンと刺激して、じんわりと目に水の膜が張る。そのまま生理現象に任せているとツウとひとすじの涙が頰をつたう。これはノーカン。でもあんま効果ないな。胸の奥は相変わらず重いままだ。
ようやく住んでるアパートが見えてくる。するとその門柱に人影があった。こんな時間に?警戒しながら顔の中身がわかるまでの距離に近づく。そしてようやく俺は自分が忘れていたものに気がついたのだった。
「お疲れ。遅かったね」
人影がこちらに手を振る。宇宙だ。エンジンを切って、原付から降りる。
「すまん」
「いいよ。実は俺も学校から帰ってきてから寝ちゃっててさ、さっき来たとこだったし」
バイト、忙しかったんだろ?そう言って笑う顔をみたら、さっきまでの鬱憤が少し解けた。かわりに申し訳なさが湧き出す。
「連絡せずスマン。約束してんの忘れてた……」
「ううん。明日は土曜だし、あ、もう今日か」
「待っててくれ。これ停めてくっから」
今日は宇宙がおすすめの雑談系の配信者を教えてくれて二人でソロ配信の研究をする約束だった。夕飯も一緒に食べてそのまま泊まり、明日の夕方の撮影まで俺の家で過ごそうと言っていたのだ。
裏手の駐輪場に原付を停め、ロックをつける。表に戻って宇宙に声をかけて建物の外階段を登る。カンカンと二人分の金属製の足音が響く。
「飯は?」
「まだだけど…やっぱ俺帰ろうか?」
「え、なんで」
「いや、隆文しんどそうだからさ。さっき帰ってきたときすごい顔してたし」
「あー……」
すごい顔ってどんな顔だろ。コイツに心配されるのってなんか、普通にいたたまれないな。いや別に宇宙的にはなんも思わんのだろうけど。純粋に俺のこと心配してるワケなんだろうし……。
自宅のドアの前まで来て、鍵を回して中に入る。後ろを振り返るとどうするべきか困っている宇宙と目が合った。思わず視線を反らしてしまう。
「いいよ。飯ひとりで食うのもあれだし。どーせ明日撮影だし……」
だから俺のためにも帰んないで。言外に含めた希望には気がつかれないように、できるだけ平静を装ってそう伝える。
「そう?じゃあお邪魔します」
「おう」
「でも配信研究は朝にしよう。俺も課題明けで疲れてるし……」
「ん」
「雑談メインで見てる配信者そんなにいないと思ってたけどリストにしたら結構いてさー···」
自然に会話が続いたことにホッとする。お邪魔しますと言って宇宙が靴を脱ぐ。引き留めが成功してよかった。安心した途端、自分がいたく空腹なことに気がつく。さて何を作ろうかと冷蔵庫のなかを物色すると、豚肉とキャベツと……もやしがあった。
「宇宙、」
「ん?」
「焼きそばつくるけど。ソースかしょうゆどっちがいい?」
「やった!ソースがいい!」
ベッドにもたれ掛かった宇宙がこちらをみる。でかい目がキラキラと光るのをみて、今日は少し手間をかけて目玉焼きもつけてやろうと思った。
食事を終え風呂を済ませて部屋に戻ると、パソコンデスクで宇宙がなにかを見ていた。
「何みてんの?」
「いや、イヤホンマイクいいやつ買ったんだなーと思って」
宇宙の手には家電量販店のシールが貼られた未開封のパッケージがあった。
「知らん。スカイぺやるって言ったらなんかすすめられたやつ」
嘘だ。一万円近くはしたそのイヤホンマイクはちゃんと下調べして自分で選んで買った。優しいアンチとの喧嘩の為に買った最初のは、千円もしない安物だった。安物だからか音がざらざらで、長く耳につけていると痛くてしょうがなかった。だから買いかえた。もっと本腰をいれて配信するためだ。自分を見に毎回同じ視聴者がくるようになって、その数が3桁に乗ることもあって、もっと増やしたくて、気合をいれるためにそこそこ良い値段のを選んだ。
「いいじゃん。頑張ってて」
「なんだよ」
「配信用機材見るの楽しいよな」
「機材ってほどか?」
「配信につかうならそうでしょ」
「じゃあ煙草も機材になるな、」
「結構界隈多いよね、喫煙者……」
益体もない会話が続く。こういうずっと寄り道みたいなペースで会話できるのは宇宙とだけだ。金色の髪の根元が少し黒くなっているのを見下ろしながら、丸い頭のてっぺんにあるつむじをぐっと押したい衝動にかられる。細い首といかり肩。骨ばってて衝撃に弱そうな身体。これだけ身長差があると宇宙の全部が無防備にみえて、時折すごく不安になる。世の中にはこいつよりか弱い人間なんていくらでもいるけど、身近なのは宇宙と実家の猫くらいだ。宇宙は俺にとってそういうレアな要素をいくつか兼ね備えている奴だ。
「そろそろ寝る?」
「そうだな…宇宙、お前ベッド使えよ」
「いや、いいよ。いつも通り掛け布団だけ貸して」
「ないんだよ。今一枚しか。お前来るから昨日干してたんだけど夕方雨降って…」
「あーそうか」
「俺はダウンかけて寝たら良いから…」
「じゃあもう一緒に寝ればいいじゃん」
「え?」
唐突な提案にギクリと身体が強張る。
「いや狭くない?」
「風邪ひくよりマシじゃないか?」
「えー…」
「大丈夫だって!隆文と薫だったらキツイだろうけど、俺とならいける!」
そう言って壁に寄せられたベッドの奥に宇宙が寝そべった。
「ほら!いけるって!テトリス的にうまいことハマれば」
「ええ~…」
促されてしぶしぶ横になる。宇宙のたまに発揮される頑固さは親しくなってから随分経って知った。その頑なな主張は自分のためではなく、主に薫と俺への気遣いを起点として発される。こういう場面では宇宙は絶対に折れない。利他的とも言えるその性質は、俺には一番奇妙に感じられた。
「な!結構余裕」
勝ち誇った顔で笑いかけられる。
「……宇宙、」
「ん?」
「顔近すぎるからあっち向いてくんない?」
「へっ?」
「さすがに気まずい。鼻息とかかかりそうで嫌だろ」
「た、確かに…ちょっと笑っちゃうなこれ……」
気恥ずかしそうに小さくなった宇宙が壁側に顔を向ける。俺はそれとは反対側を向いて背中合わせの形をとる。
「電気消すぞ」
「うん。おやすみ隆文」
「おやすみ」
暗くなった室内で宇宙の体温と息づかいを感じながら、そういえば結局煙草を吸い忘れていたことに気がついた。背中越しに穏やかな寝息が聞こえる。もう寝たのか。注意深く上体を起こし、捻じるようにしてそちらを向く。暗闇と最近悪くなってきた視力のせいで、宇宙の顔はよくわからなかった。
「宇宙…寝た……?」
確かめるように身体を屈める。そうして覗き込んだ顔は、印象的な瞳が閉じられているために別人みたいに見えた。先程つむじをみたときと同じ衝動が湧き上がる。ほとんど覆いかぶさるようにしてもっと顔を近づける。俺の吐いた息が宇宙の頬にかかるくらい近く。
(もしも俺が寝ぼけたフリして抱きついたら、コイツどんな反応するんかな)
「ん……」
「……!」
宇宙が身じろぐ。起きたと思って、反射的に飛びのいた。どうやらただの寝返りだったようだ。心臓がバクバクと鳴っている。宇宙はうつ伏せの体勢になってしまって、顔はもう見れなかった。クソ、ビビらせんな。急激に恥ずかしくてたまらなくなる。
そのいたたまれなさから逃げるように、そろりと布団から抜け出す。向かうところはキッチンだ。狭い1Kだからすぐにたどり着く。薄暗いなかで目当てのものを探す。カウンターの上の調味料たちに混ざって、金色の四角い箱とライターが立てかけてあった。バイトに出掛ける前に一服したままここに忘れていったのだ。換気扇をカチリと回す。低い羽音を立ててそれが動き出したのを確認し、煙草を咥え火をつける。
「フーッ」
ああ、美味い。口から煙を吐き出すと、ようやく人心地がついた。顔はまだ少し火照っているが、いつものペースを取り戻した感じがした。本当に今日はダルかった。でもこうして飯も食って煙草もうまくて、明日やることもある。ちゃんとやれてる。
(俺だって、頑張ってる)
数時間前とは違うこざっぱりとした気持ちでそう思う。ベッドの方に視線をやると、布団にくるまれた丸い頭がぼんやりみえる。さっきの情動は鳴りを潜め、今はひどく穏やかな気持ちになった。
(コイツには迷惑かけたくねーよなあ……)
漫然とそんなことを考えて、シンクに灰を落とす。もう一度深く煙を吸い込む。黒いそれがモクモクと肺を満たして、やがて全身に巡っていく。そんなイメージをしながら、瞼を閉じる。
(次のソロで、なに喋ろうかな)
試さないといけないことが山ほどある。時間はあるようで全然ない。
…………早く配信、やりてぇなあ。
ジジ、と短くなった煙草が指先を焼くまでのつかの間、青写真を脳裏に描き、自分の心が滾るのを隆文は静かに感じていた。