ホワイトデー その日、僕は朝からそわそわしていた。期待で心が弾んで、少しも落ち着いてくれない。それもそのはずだ。だって、今日は待ちに待ったホワイトデーなのだから。
別に、恋人のいるホワイトデーを迎えることは、僕にとって初めてのことではない。去年もルチアーノにバレンタインのチョコをもらっているし、僕はお返しを渡しているのだ。一度経験したことなら、そこまで期待することではないのだろう。しかし、今回は大きく違うことがあった。
今年のバレンタインは、僕もルチアーノにチョコを渡していた。チョコを渡したということは、当然お返しをもらえるということである。彼はお返しなど考えそうにないが、変なところで律儀だから、絶対に何かを贈ってくれるはずだ。普段はなかなかプレゼントをもらえないから、楽しみで仕方なかった。
もちろん、僕もルチアーノへのプレゼントは用意している。デパートの地下で見つけた、猫の形をしたクッキーとチョコレートの缶だ。中身だけでなく、缶そのものも猫の形をしていて、白い毛並みがルチアーノにそっくりなのだ。なんだか前にも同じようなことをしていた気がするが、はっきりとは思い出せないから気にしない。
身仕度を整えると、弾む心で家を出た。真っ直ぐに繁華街へと向かうと、ルチアーノに声をかけられる。特に約束をしているわけではないが、こういうお約束になっていたのだ。
「やあ、○○○。今日も一人かい?」
からかうような声色なのは、今日が何の日なのかを知っているからなのだろう。下手に突っ込んだりはせずに、素直な言葉を返した。
「一人だよ。今日は、ルチアーノに会いに来たんだから」
「記念すべき日に一人ぼっちなんて、君は寂しいやつだなあ。かわいそうだから付き合ってやるよ」
にやにやと笑みを浮かべながら、彼はそんなことを言う。僕の隣に並ぶと、しっかりと腕を取った。彼らしくない大胆な態度に、一瞬言葉に詰まってしまう。
「紙袋を持ってるってことは、お返しを渡しに行くんだろ。とっとと済ませるぜ」
話を急かすように言うと、腕を引っぱって先へと進んだ。そんなところまで見ているなんて、相変わらずの観察眼だ。話が早くて助かる。
「ありがとう。じゃあ、まずはポッポタイムから行こうか」
「げーっ。シグナーのとこかよ。僕は中に入らないからな。一人で行けよ」
僕の言葉を聞くと、ルチアーノは嫌そうに足を止めた。さっきまでの機嫌が嘘のように、眉を潜めて僕を見る。あからさまな態度に、苦笑いを浮かべてしまった。
「分かってるよ。家には僕一人で行くから、ルチアーノは噴水広場で待ってて」
そんなことを言いながら、僕はルチアーノの腕を引く。嫌がる彼を引っ張りながら、僕はポッポタイムへの道を急いだ。
ポッポタイムには、誰も残ってはいなかった。遊星たちもたくさんチョコをもらっているから、お返しを渡しに行っているのだろう。僕もお返しで忙しいから、家主のゼラに預けることにする。
「あら、遊星ちゃんに? きちんと渡しておくわね」
お菓子の包みを受け取ると、彼女は嬉しそうに声を上げた。彼女は、明らかに遊星を贔屓しているのだ。このままだと遊星だけに渡されてしまいそうだから、さりげなく伝わるようにと言葉を重ねる。
「遊星と、ポッポタイムのみんなにです。いつもお世話になってますって、伝えておいてください」
「ええ、ちゃんと伝えておくからね」
ニコニコと笑顔を浮かべながら、ゼラは上機嫌に言う。その笑顔が少し怖くて、僕はそそくさとその場から退散した。
「終わったか?」
僕の姿を見ると、ルチアーノは簡潔にそう言った。簡潔になりすぎて、ターゲットを始末した殺し屋みたいな表現になっている。自分の発想に笑いそうになりながらも、僕は彼の隣に歩み寄った。
「渡してきたよ。誰もいなかったから、ゼラに渡してきた」
「ああ、あの女か。『遊星ちゃん遊星ちゃん』って言ってるやつだ」
苦々しげな顔をするルチアーノを見て、僕は少し笑ってしまう。ルチアーノにとっても、ゼラは印象の強い上に苦手な相手らしい。なんだか面白かった。
「今度は、アカデミアの方に行こうか。あっちの女の子達にも、いろいろもらってるんだ」
紙袋を見せると、ルチアーノは不満そうな顔をした。機嫌を損ねた様子で唇を尖らせる。
「なんだ? 自慢か? 言っておくけど、僕だってアカデミアに潜入したら、それくらいのものはもらえるんだからな」
「分かってるよ」
不機嫌そうなルチアーノを引き連れたまま、僕はアカデミアへと足を運ぶ。目的地が近づくと、彼はしっかりと腕を組んできた。
「君は僕のものだからね。あいつらが変な気を起こさないように、ちゃんと示しておくんだよ」
にやにやと意地悪な笑みを浮かべながら、ルチアーノは楽しそうに言う。ぴったりとくっついているのは、僕に贈り物をした女の子への威嚇なのだろう。一緒に過ごす時間が増えたことで、彼はかなり大胆になっていた。
お返しを渡すと言っても、僕は人の顔を覚えるのが得意ではない。手紙や包装紙に書かれていた名前を頼りに、リストアップした女の子たちを探していく。知り合いの学生たちに尋ねたり、預けたりしながら、なんとかお返しを配り終わった。お返しと言っても個包装のお菓子なのだけど、感謝の気持ちは伝わるだろう。
「終わったよ。そろそろ帰ろうか」
そう言うと、ルチアーノは退屈そうに顔を上げた。何をするでもなく隣に張り付いていたから、退屈で仕方なかったのだろう。
「やっと終わったのかよ。全員にお返しをしようだなんて、真面目過ぎるほど真面目だな。知り合いだけでいいだろ」
「全員じゃないよ。それに、バレンタインはお返しも含めてのイベントだからね。名前を教えてくれたんだから、お返しくらいは渡したいよ」
「そこが真面目なんだろ。僕は、君のそういうところが嫌いだよ」
僕の言葉が気に入らなかったのか、ルチアーノはそっぽを向いてしまう。何が気に触ったのか分からなくて、僕は首を傾げてしまった。そんな僕を置き去りにするように、彼は先へと歩き出す。
結局、家に帰るまで、ルチアーノは一言も話さなかった。不安を抱えながらも、僕は後をついていくことしかできない。身体が冷え込んでいるのは、風の冷たさだけではないのだろう。
家に帰ると、ルチアーノはくるりとこちらを振り返った。鋭く光る緑の瞳が、真っ直ぐに僕を見つめている。僕が小さく息を飲むと、彼はにやりと笑みを浮かべた。
「今日は、ホワイトデーだよな。君は、僕のお返しを期待してるんだろ。今から渡してやるよ」
「えっ?」
突然の展開に、僕は驚きの声を上げる。恨み言を言われるんじゃないかと、覚悟を決めていたのだ。
状況を理解できない僕の前で、ルチアーノはふわりと片手を上げる。空中を光が瞬いて、立体物の輪郭を形成していく。それを片手で掴むと、すぐに僕の前に差し出した。
「ほら、僕からのプレゼントだ」
それは、小さな箱だった。僕の手のひらに乗るくらいの、正方形の立方体である。困惑したまま受け取ると、反射的にお礼を言った。
「あ、ありがとう……」
手のひらに乗せたその箱を、ぐるりと回して観察する。こんなに小さいから、中身は食べ物ではないのだろう。不思議に思っていると、ルチアーノが口を開いた。
「開けてみなよ」
言われるがままに、箱の中身を開ける。そこに入っていたのは、くるくると巻かれたネクタイだった。
「ネクタイ?」
「君は、パーティに出るときにはスーツを着るだろう。チームニューワールドのメンバーたるもの、ネクタイにも気を使わないとな」
にやにやと笑いながら、ルチアーノは僕を見上げる。決まったとでも言わんばかりの、自信満々な表情だった。そんな彼の姿を見ながら、僕は中のネクタイを引っ張り出す。
ベースは、シンプルな青の無地だった。よく見ると、表面にうっすらと模様が入っている。僕はファッションに詳しくないから分からないが、それなりに名の知られたショップのものなのだろう。想定外の贈り物に、僕の視線は釘付けになってしまった。
「そっか、ネクタイか……。そんなこと、少しも考えなかったな」
呟くと、ルチアーノはにやにやと笑う。僕の反応が嬉しかったのか、自信満々な声色で言った。
「ちゃんと、スーツに合わせて選んであるんだぜ。今から着てみなよ」
ルチアーノに背中を押されて、僕は自分の部屋へと向かった。汗でシャツを汚したくないから、着替える前にシャワーを浴びる。少し緊張しながら、シャツとスラックスを身に纏った。
「どう?」
尋ねると、ルチアーノは眉を平行にして僕を見た。困ったように首を傾げると、ぶつぶつと呟く。
「組み合わせは悪くないはずなんだけどな。君が着ると、服に着られてるみたいだ」
「なに、それ」
そうは言うが、彼の言うことはもっともである。鏡越しに見た僕の姿は、初めて制服を着た学生のようだったのだ。いや、実際に僕は学生なのだけど、そういう意味の言葉ではない。服が浮いて見えるのだ。
「まあ、こういうのは着てるうちに馴染んでくるからね。君をパーティに連れ出せばいい話だ」
自分を納得させるように言いながら、ルチアーノは一人で頷く。失礼なことを言われている気がするが、面倒だから突っ込んだりはしなかった。
釈然としない気持ちを抱えながらも、僕は普段着に着替える。やっぱり、いつもの服には馴染みを感じる。いつも着ているのだから当たり前だ。
「で、君からのお返しは何なんだよ。シグナーやアカデミアの女たちには渡したのに、僕には無いなんて言わないよな」
着替えを終えて一息ついていると、ルチアーノが唐突にそう言った。いろいろあってすっかり忘れていたが、元々はルチアーノにプレゼントを贈ろうと思っていたのだ。
「あるよ。……と言っても、この流れで出すのは少し恥ずかしいんだけど」
そう前置きしてから、僕は置きっぱなしだった紙袋に手を入れる。そこに入っているのは、猫の形をしたお菓子の缶だ。買った時はこれしかないと思ったのだけど、ネクタイを受け取った後だと恥ずかしい。
「はい、これ。大したものじゃないけど」
缶を差し出すと、ルチアーノはちらりと視線を向けた。呆れたような表情を浮かべると、表面に印刷された猫を見つめる。
「まさか、僕が猫に似てるから猫にしたとか言うんじゃ無いだろうな」
「その通りだよ」
素直に答えると、彼は呆れたように息をついた。缶を時空の四次元ポケットにしまうと、小さな声で言う。
「君って、変なことしか考えないよな。誰が猫なんだよ。全く」
猫にしか見えないのだが、怒らせると後が怖いから言わないことにする。
何にせよ。僕たちのホワイトデーは無事に終わったのだ。一瞬だけルチアーノが不穏な姿を見せたけど、何事もなかったから怒ったわけではないのだろう。彼の移り気な心は、僕にはあまり分からないのだ。
ルチアーノにもらったネクタイは、スーツと一緒に大切にしまった。恋人からの大切な贈り物なのだ。汚さないように大切に扱わなくてはならない。少しずつ贈り物で染まっていくクローゼットが、愛おしくて仕方なかった。