ペットネーム お風呂から上がると、ルチアーノは真っ直ぐにリビングへと向かう。テレビを見ながら順番を待っている僕を、わざわざ呼びに来てくれるのだ。その後は彼が待つ側になるから、そのままリビングでテレビを見る。そんな流れが、僕たちの夜の日課だった。
その日のルチアーノは、見たい映画があるようだった。光の中からディスクを取り出すと、再生機器に押し込んでスイッチを入れる。少しノイズが走った後に、映画のプロローグが始まった。
今回の映画も、彼のお気に入りのホラーらしい。古い映画を選んだのか、画質はあまりよくなかった。森の中にキャンプに行く若者という展開は、いかにもなスプラッタの導入だ。グループの若者は六人で、そのうち二人はカップルだった。
このカップルの女の子が、この映画の主人公らしい。ホラー映画の定番らしく、怯えた様子で森の中を歩いていた。恋人は陽気な性格らしく。女の子が怖がらないように周囲を盛り上げている。そんな二人に近づくのは、黒ずくめの怪しげな殺人鬼だ。能天気な一行を眺めながら、最初の犠牲者を品定めしている。
そんな映像を眺めながら、僕は入浴の準備を整える。ルチアーノが隣で見始めたからといって、一緒に見るつもりはなかったのだ。今日も沢山汗をかいたから、早く身体を洗い流したい。足早に洗面所へと向かうと、服を脱いで浴室に入る。
シャワーで身体を洗い流すと、いくらか気分がすっきりした。試しに買ってみたクール系のボディソープも、身体がスースーして気持ちいい。今は気温が高いから、湯船に浸かるのは数分だけだ。温まった身体を引き上げると、洗面所に上がって身体を拭く。
身支度を整えると、タオルを片手に廊下へと出た。廊下を流れる心地よい風が、僕の身体を冷やしてくれる。早い人はそろそろクーラーを入れる季節だけれど、僕は窓を開けることで耐えているのだ。所詮は郊外の一軒家だから、窓を開けて寝ることにも抵抗はない。
リビングに近づくと、甲高い悲鳴が聞こえてきた。ルチアーノの見ているホラー映画が、終盤の殺戮シーンに入ったのだろう。もう慣れたとはいえ、あんまり見たくないシーンである。
リビングに足を踏み入れると、僕はテレビへと視線を向けた。殺人鬼に追われた若者たちが、我先にと森の外を目指している。主人公カップルはまだ無事で、恋人が主人公の手を取っていた。しっかりと手を握りしめたまま、二人は先へ先へと駆け抜けていく。
「珍しいね。この映画、カップルが生き残ってるんだ。ホラー映画だったら、付き合ってる相手が死ぬものなのに」
冷蔵庫からコップを取り出しながら、僕は何気なく呟く。ルチアーノに何本もの映画を見せられたことで、ホラー映画のセオリーを理解してしまったのだ。ホラー映画の世界においては、イチャつくカップルは確実に死ぬ。女の子が主人公の場合は、男が死ぬのがセオリーなのだ。
「ああ。この映画は、ホラーのセオリーを破るために作られたらしいからな。カップルの片割れは死なないし、殺人鬼だって失敗する」
淡々と言葉を返しながら、ルチアーノは画面に視線を向ける。映像では血飛沫が飛び散っているのに、彼は退屈そうにしていた。逃げ出すカップルの姿を見ながら、僕は何となく納得する。
「ふーん。キテンさんだっけ。その人の運がいいのかと思ったよ」
呟きながらソファへと近づくと、ルチアーノは訝しそうに視線を上げる。変な反応を疑問に思っていると、不意に閃いたように声を上げた。
「なんだ。そういうことか」
言い終わるか終わらないかのうちに、彼はクスクスと笑い声を上げる。さらに大きな笑い声を上げると、にやりと瞳を細めた。
「君は勘違いしてるみたいだけど、この女の名前はキテンじゃないよ。キテンっていうのは、こいつらの使うペットネームだ」
「へ? ペットネーム?」
急に笑い声を上げられて、僕はぽかんと口を開けてしまう。脳内に流れているのは、犬や猫が戯れている映像だった。この女の子とペットに、一体何の関係があるのだろうか。そんなことを考えていると、再びルチアーノが笑い声を上げる。
「今、動物のペットのことを考えただろ。そうじゃないよ。ペットネームっていうのは、恋人同士が使う特別な呼び名のことだ」
「恋人同士が使う呼び名……?」
彼から説明を受けても、僕の頭にはクエスチョンマークが浮かんでいる。相当間抜け面をしていたのか、ルチアーノは呆れたように息を吐いた。
「まだ分からないのかよ。海外の恋愛ドラマで聞くような「ダーリン」と「ハニー」みたいなやつだ。……全く、僕に恥ずかしいことを謂わせるなんて、君も大したやつだよな」
自分で言ったことが恥ずかしかったのか、ルチアーノは頬を赤く染める。彼のその言葉で、僕もようやく理解が追い付いた。キテンという呼び名は、恋人が女の子を呼ぶときのあだ名なのだ。あまり聞かないスラングだから、てっきり名前なのかと思ってしまった。
「なんだ。キテンキテン言ってるから、てっきり名前なのかと思ったよ。この呼び方も、監督の意向ってやつなの」
「だろうな。それにしても、君はものを知らなすぎるんじゃないか。ペットネームくらい知っておけよ」
ほんのり頬を染めながら、ルチアーノは鋭い視線を向ける。自分で口にしておいて、羞恥心に怒っているようだった。滅茶苦茶な理屈で責められて、僕もさすがに理不尽を感じてしまう。同じように見つめ返すと、少し拗ねた様子で言い返した。
「そんなこと言われても、僕たちはペットネームなんて使わないんだよ。そう簡単に分かるわけないでしょ」
僕の反論を聞くと、ルチアーノは拗ねたように頬を膨らませる。僕から視線を逸らすと、今度は突き放すような声で言った。
「日本人ってのは、恋人に対して冷たいよな。付き合ってるのに名前でしか呼ばないなんて、外国のやつと付き合ったら悲しませるぜ」
その言葉を聞いて、僕は思わず表情を変える。彼の発した言葉が、僕の心臓に突き刺さったのだ。アンドロイドとして産み出されたとはいえ、ルチアーノのベースとなっているのは外国人の男の子だ。今の言葉は、彼自身の意見だったのかもしれない。
「もしかして、ルチアーノはペットネームで呼ばれたかったの? 名前で呼ぶだけじゃ寂しい?」
真面目な顔で尋ねると、彼は驚いたように僕を見た。小さく口を開く姿を見て、自分の推測は間違っていたかもしれないと思った。案の定、彼は鋭い声で問う。
「なんでそうなるんだよ」
「だって、ルチアーノは外国の男の子だから……」
答えると、今度は大きなため息が返ってきた。心底呆れているような、気の抜けたようなため息だ。さっきの推察が間違いであったことは、態度を見る限り明白である。少し目を細めると、彼は淡々と答えた。
「確かに、僕の元になった人間のデータは、西洋で生まれ育った子供だ。だからといって、僕の元になった人間が、西洋の文化を知っているとは限らないだろ。彼は幼い頃に両親を失くしてから、レジスタンスの中で暮らしてきたんだ。人間の国籍は入り乱れてるし、文化なんて守ってる余裕もない」
口から吐き出される言葉は、どこか寂しそうに沈んでいる。彼にとってオリジナルの記憶というのは、自分のことでなくても悲しいのだろう。余計なことを言わせてしまったと、心の底から反省する。
「なんか、ごめん」
反射的に謝ると、彼はこちらを睨み付ける。その瞳は、涙に潤むように濡れていた。
「謝るなよ。もっと惨めになるだろ」
「ごめんって」
さらに謝ってしまって、またしまったと思う。なんとかして、彼を元気づけることはできないだろうか。少し考えて、僕はあることを閃いた。
「あのさ」
声を上げると、ルチアーノが伏せていた顔を上げる。少し緊張しながら、僕は思い付いた言葉を吐き出した。
「愛してるよ、ハニー」
「…………は?」
さっきまで泣きそうだったルチアーノが、最大級に間抜けな顔を見せる。目は死んだように光を失って、口は大きく開かれている。自分に負い目を感じていなければ、笑いだしてしまいそうな顔だった。
「だから、その、ペットネームってやつだよ。海外の恋人たちは、こうやってコミュニケーションを取るんでしょう」
絶対零度の視線を向ける彼に、僕は必死になって説明をする。つまり、これは僕なりの、彼への愛の証明だったのだ。まあ、あんまり伝わってないみたいだけど。
「だから、僕も言ってみようかなって。『大好きだよ。スウィーティー』」
さらに言葉を重ねると、彼はくすくすと笑い声を上げた。それは少しずつ大きくなって、やがては甲高い笑い声に変わる。いつもと何も変わらない、ルチアーノの笑顔だった。
「なんだよ、それ。全然似合ってねーぞ」
ケラケラと笑うルチアーノを眺めながら、僕はにこりと口角を上げる。彼の顔に浮かんだ悲しみは、いつの間にか跡形もなく消えていた。彼が笑ってくれるなら、僕の愛の言葉は間抜けでも構わない。格好のつかない思いこそが、僕の愛の在り方なのだから。