お世話 リビングに足を踏み入れると、僕はソファに倒れ込んだ。身体がずっしりと重くて、少しも動けそうにない。それもそのはず、今日の練習メニューは、いつにも増してハードだったのだ。体力も精神力も磨り減っていて、これ以上動く気にはなれなかった。
ソファの上で横になったまま、僕はルチアーノに視線を向けた。へとへとな僕とは対照的に、彼は余裕綽々の態度でリビングへ入ってくる。ソファに寝転がった僕を見ると、呆れた声で言葉を吐いた。
「何へばってるんだよ。だらしないなぁ」
「当たり前だよ。あんなに連戦させられたら、体力が持たないって。僕は、ルチアーノみたいな機械じゃないんだよ」
強い語調で言い返すと、彼は甲高い声で笑った。この様子だと、全然響いてないようである。返ってくる言葉も、いつもと変わらず呑気なものだった。
「人間は脆いもんな。雑に扱うと、簡単に壊れちまう。全く、困ったもんだよ」
「そんな他人事みたいに言って……。僕が戦えなくなったら、困るのはルチアーノでしょ」
ここまで言い返すと、さすがの彼も言葉に詰まったようだった。悔しそうに視線を逸らすと、少し怒ったような声で言う。
「そうだな。君が倒れたら、これまでの作戦が台無しだ。明日からは、もう少し考えてやるよ」
相変わらず尊大な口調だけど、分かってはくれたみたいだ。大きく息をついてから、再びソファに倒れ込む。
そんな僕を横目に、ルチアーノは荷物の片付けに向かっていた。僕が放ったらかしにした買い物袋を手に取ると、それぞれの収納スペースへと詰めていく。僕たちも一緒に暮らして長いから、彼も片付ける場所は知っているのだ。しばらくごそごそと音を鳴らしてから、レジ袋を手に僕の元へと戻ってくる。
「おい、これはどうするつもりだったんだよ」
彼が手にしていたのは、お弁当の入ったビニール袋だ。夕食にしようと買ってきて、そのままになっていたものである。
僕は、ぼんやりとそれを見つめた。買ってきたばかりのお弁当は、まだほかほかと湯気を立てている。隙間から漏れた水蒸気で、袋の内側に水滴がついていた。温かい唐揚げのことを考えると、胃の中がきゅるきゅると音を立てる。お腹が空いているのに、身体は重くて動かなかった。
「食べさせて」
レジ袋に視線を向けると、僕は小さな声で言った。僕を見下ろしているルチアーノが、呆れたように口を開ける。心底呆れたとでも言うように、甲高い声を上げた。
「はあ?」
「疲れて動けないんだ。冷めちゃう前に食べさせて」
もう一度言うと、彼は眉を吊り上げた。レジ袋を僕に突きつけると、怒りを露にした声で言う。
「君は、僕をなんだと思ってるんだよ。飯くらい一人で食べられるだろ!」
真正面から突っぱねられて、僕は仕方なくお弁当を開ける。いくら丸くなったと言っても、人間のお世話は嫌なようだ。仕方なく割り箸を取り出すと、いつものように唐揚げを掴んだ。
それを口に運ぼうとして、僕は違和感に気がついた。割り箸を持つ手が強ばって、上手く口まで運べないのだ。ポロポロと具材を落とす僕を見て、ルチアーノが苛立ったように声を上げる。
「ああ、もう!」
僕から箸を引ったくると、トレイの上の唐揚げを掴んだ。僕の口元まで持ってくると、尖った声で要求する。
「ほら、口を開けろ」
ムードも何もなかったが、食べさせてはくれるみたいだ。大きく口を開くと、突っ込まれた唐揚げを齧る。肉を噛んで咀嚼すると、今度はお米が差し出された。そのお米を口に入れると、今度は食べかけの唐揚げが突き出される。
いつの間に覚えたのか、彼は僕の食事の順番を把握していた。僕が食べたいと思ったタイミングで、的確におかずやお米が差し出されるのだ。あっと言う間にお弁当は空になり、僕のお腹も満腹になった。
「ほら、食わせてやったぜ。とっとと風呂に行って休みな」
苛立たしげに言いながら、ルチアーノは空になったトレイを片付ける。さすがにこれ以上のお世話は頼めないから、僕もおとなしくお風呂に向かうことにした。まだ湯船のお湯は半分ほどしか溜まってないのだろうけど、何もないよりはましだろう。
「もしかして、風呂にも介護がいるとか言わないよな」
ふらふらと歩き始めると、ルチアーノが心配そうにこちらを見てきた。予想外の言葉に、一瞬だけ言葉を失ってしまう。彼がそんなことを提案するなんて、普段からは信じられない。お願いした方がいいんじゃないかと思ったけど、さすがに恥ずかしかった。
「…………それは、大丈夫だよ」
答えると、ルチアーノは眉を潜めた。奇妙なものでも見るような瞳で、遠巻きに僕のことを見てくる。
「なんだよ、今の間」
「何でもないって」
答えるが、ルチアーノは冷たい瞳で僕を見ていた。下心を見透かされているようで、余計に恥ずかしくなってしまう。重い身体を引きずるようにリビングを出ると、ふらふらとした足取りで着替えを取りに行った。
予想通り、湯船は半分ほどしか溜まっていなかった。シャワーで身体を洗い流すと、少ないお湯の中に身体を沈める。バスタブに頭をかけると、足を折り曲げて全身を浸した。少しずつ増えていく水量が、徐々に僕の身体を包み込んでくれる。適度な温もりに包まれていると、なんだか眠くなってしまった。湯船に身体を預けたまま、僕はうとうとと船を漕ぐ。
カクンと身体が揺れた衝撃で、僕は現実に引き戻された。いつの間にか湯船のお湯張りは終わっていて、並々のお湯が肩まで競り上げている。このまま眠ってしまっていたら、僕はお湯の中にドボンしていたかもしれない。恐ろしくなって、すぐにお風呂から上がることにした。
寝間着に着替えてリビングに戻ると、ルチアーノはソファに座っていた。見るともなしにテレビをつけて、ぼんやりと画面を眺めている。僕の姿を見て学習しているからか、日々の過ごし方は僕とほとんど同じだ。微笑ましく思いながらも、彼の隣に腰を下ろす。
「お風呂、上がったよ」
声をかけると、ルチアーノはちらりとこちらに視線を向けた。寝間着の僕を一瞥して、すぐに視線を逸らしてしまう。
「見れば分かるよ」
淡々とした彼の態度を見ていたら、なんだか物足りなくなってしまった。僕がここまで疲労したのは、彼の練習メニューに従ったからなのだ。もう少し労ってくれてもいい気がした。
一度ソファから立ち上がると、僕はルチアーノのお腹に顔を埋めた。急に抱きつかれて驚いたのか、彼は身体を強ばらせる。反射的に抵抗されるよりも先に、僕は両腕を回していた。
「うわっ。何するんだよ!」
困惑したようなルチアーノの声が、僕の真上から飛んでくる。そんなこともお構いなしに、僕は布地越しに息を吸い込む。
「一日頑張ったから、撫で撫でしてほしい」
「はあ?」
甘えるように言うと、彼は呆れたように声を上げる。尖った響きを持っていたが、僕は気にしなかった。一度お腹から顔を上げると、ルチアーノの顔を見上げる。
「僕がこんなに疲れてるのは、ルチアーノの練習に付き合ったからだよ。誉めてくれてもいいでしょう?」
「何言ってるんだよ。パートナーなんだから、練習するのは当たり前だろ」
「当たり前じゃないよ。たまには誉めてくれないと、やる気だって続かないんだから」
強引に押しきると、僕は再び顔を埋めた。ルチアーノの温もりを感じながら、息を吸っては吐いてを繰り返す。まだお風呂に入っていないからか、ほんのりと機械的な香りがした。
「なんだよ、僕が労ってないみたいなこと言いやがってさ」
ぶつぶつと文句を言いながらも、彼は僕に腕を回してくれる。否定の言葉を吐いてはいるが、彼なりに思うことはあるのだろう。僕の背中に手を回すと、子供をあやすようにとんとんと叩いてくれる。恥ずかしそうに身じろぎをしながらも、耳元で何かを囁いた。
「…………ほら、よしよし」
なんだか、赤ちゃんをあやすような言葉選びだ。僕は恋人らしいスキンシップがしたかったのだけど、下手に反論してやめられるのも嫌だから、大人しく従うことにする。彼にとって誉めるという行為は、親から子供への褒美なのだろう。僕が赤ちゃんに見えているという意味だとしたら、それはそれでちょっと遺憾だ。
僕が大人しくしていると、ルチアーノは背中を撫でてくれた。何度か上下に動かした後に、今度は頭の方へと手を伸ばす。髪の間を掻き分けるように手を入れると、わしゃわしゃと頭皮を撫で回した。
何だかんだ言いながらも、ルチアーノは人間を撫でるのが上手いのだ。子供らしい手のひらの体温も、包み込むような手の動かし方も、身を委ねていて心地がいい。黙って身体を撫でられていたら、またしても眠たくなってしまった。
ルチアーノのお腹に顔を埋めたまま、僕はうとうとと船を漕ぐ。今度は危険な場所ではないから、本気で眠りそうになってしまった。身体を支えていた筋肉が緩んで、カクンと大きく頭が揺れる。驚いて顔を上げると、ルチアーノは動かしていた手を止めた。
「なんだ? もしかして、本気で寝てたのか?」
呆れたとでも言いたげな声が、真上から僕の方へと降ってくる。図星を突かれて、僕はいたたまれなくなってしまった。ルチアーノから目を逸らすと、恥ずかしさを堪えながら口を開く。
「ごめん」
僕の反応を見て、ルチアーノは楽しそうに笑みを浮かべた。僕が本気で寝そうになっていたことが、彼には嬉しかったようである。きひひと甲高い声で笑うと、からかうような声色で言う。
「撫でられて寝るなんて、君はでかい赤ちゃんだな」
そんなことを言われたら、僕には何も言い返せない。言葉を失ってしまうほどには、彼の発言は図星だったのだ。寝惚けた頭をフル回転させ、求められていそうな言葉を考える。
「…………バブ」
小さな声で言うと、彼は笑みを引っ込めた。重苦しい沈黙が、僕たちの間を包み込む。少しの間を開けてから、冷たい声が降ってきた。
「変なこと言うなよ。気持ち悪い」
「ごめん」
軽い気持ちで言ってみたものの、本気で引かれてしまったようだ。さすがに、大人が赤子のような声を上げたら、誰から見ても気持ち悪いだろう。自分で言ったことなのに、自分でも引いてしまった。
お互いが微妙な空気になっていると、ルチアーノが僕から手を離した。僕の頭を何度か叩くと、お腹から降りるように誘導する。
「ほら、撫で撫では終わりだよ。自分の部屋で寝な」
言われるがままに席を立つと、ふらふらした足取りでリビングを出た。壁にぶつかりそうになりながらも、何とかベッドの中に潜り込む。頭から布団を被ると、意識はすぐに微睡みに蕩けていく。ルチアーノの手のひら官職を思い出しながら、僕は眠りの世界に落ちていった。