アドレス帳 青年の家にワープすると、僕はぐるりと室内を眺めた。周囲は静まり返っていて、機械の稼働する鈍い音だけが響いている。いつもなら僕を待っているはずの青年も、今日は先に風呂へと向かったらしい。それもそのはずだ。今現在の時計の針は、短針が八と九の間を指しているのだから。
ソファに腰を下ろすと、僕はテレビのリモコンに手を伸ばす。短時間の暇潰しなら、テレビを見ることが一番なのだ。この家に通うようになってからというもの、僕は俗世に染まってしまった。すぐに答えが分かってしまうクイズ番組を、思考を緩めながら眺めてみる。
不意に、背後からけたたましいメロディが聞こえてきた。机の上に視線を向けると、置きっぱなしの携帯端末が淡い光を放っている。ブルブルと震えているところを見ると、電話の着信か何かだろう。やかましいと思いつつも、僕は再び視線をテレビに向けた。
三十秒ほどメロディを流すと、それは唐突に音を止めた。騒音の後であることもあって、余計にテレビの音声が際立つ。少しの間を置いてから、僕は再び端末に視線を向けた。画面の消灯した端末は、淡い光を放っている。こんなところに置いていくなんて、無防備にもほどがあった。
彼に連絡先を尋ねられたのは、一週間ほど前のことだった。夕食が終わり、僕が風呂に向かおうとした頃に、彼は携帯端末を持ってきたのだ。目の前で画面を点灯させると、彼は迷うような声でこう言った。
「僕に、ルチアーノの連絡先を教えてほしい」
恐れていた言葉に、僕は大きくため息をつく。いつかは、そんなことを言われる日が来ると思っていたのだ。名実共にパートナーになったにも関わらず、僕たちにはお互いへの連絡手段がない。僕は彼の動向を逐うことができるが、彼には一切の繋がりがなかったのだ。
「連絡先を知って、どうするつもりだよ。僕に命令でもするのかい?」
威圧するように言うと、彼は怯えたように顔を伏せた。慌てた様子で言葉を返す。
「違うよ。連絡先を知らないと、困ることもあるでしょう。急な用事が入った時に、約束を破ることになっちゃうし」
「君には僕の命令よりも、さらに優先するべきことがあるのかい? 上司のことを甘く見てるんじゃないか?」
「違うって……!」
僕が言葉を重ねると、彼は面白いくらいに動揺を見せる。いつものことながら、からかいがいのある態度だった。とはいえ、あまり意地悪をするのも気分が悪い。彼の言い分も一理はあるから、おとなしく応じてやることにする。
「分かったよ。僕も、連絡手段の必要性は感じてたからな。君にだって用事もあるだろうし」
声色を緩めると、彼は安心したように息をつく。こちらに向けられた顔は、頬が少し緩んでいるようだった。僕の態度が緩んだことで、張りつめていた糸が解けたらしい。やはり分かりやすい態度だった。
「で、どこに連絡するつもりだよ」
「えっ?」
問いの意味が分からなかったのか、彼はぽかんと口を開ける。そういえば、大抵の一般市民は、連絡先をひとつしか持っていないのだ。言葉の通じなさに辟易としながら、仕方なく説明を重ねる。
「君は、僕のどこに連絡するつもりなんだよ。僕自身なのか? それとも、治安維持局の端末か? 僕個人の端末もあるから、そっちって選択肢もあるぜ」
「じゃあ、ルチアーノの端末で……」
端末を持ち上げながら、控えめに彼は言う。僕自身を選ばなかったのは、彼らには馴染みの無い通信手段だからだろうか。直接メッセージを送られることくらい、僕には日常茶飯事なのだが。
とはいえ、そんな経緯を踏まえて、僕たちは連絡先を交換した。つまり、今の彼の携帯には、僕の連絡先が登録されているのだ。だからどうしたと言う話だが、やはり意識は向いてしまう。
それにしても、端末を置きっぱなしにしているなんて、無防備にもほどがあるではないか。僕らに寄ってくる人間たちは、全てが善良な一般市民なわけではない。中には情報を探っていたり、妨害を目的にしている者もいるのだ。こんな風に端末を放り出していたら、やつらの格好の餌食である。
ソファから立ち上がると、僕は机の上に手を伸ばした。彼の携帯端末を手に取ると、スリープモードを解除する。起動には四桁のロックナンバーを要求されるが、簡単なハッキングですり抜けられてしまう。あっという間に、彼の個人情報は白日の元へと晒された。
やはり、あの男は無防備が過ぎるようだ。こんなに簡単に覗き見ができるなんて、秘密も何もあったもんじゃない。そもそも、ロックナンバーなんてものは、一般人でも簡単に推測できるのだ。本当に隠す気があるのなら、指紋認証を使うべきである。
憤りを感じたことで、僕はさらに先を知りたくなってしまった。こんな無防備に端末を放置するということは、見られても構わないということなのだろう。それならば、僕には堂々と見せてもらう権利がある。
ボタンを操作すると、アドレス帳を起動した。ここには、この男が登録している連絡先が、五十音順に並べられている。さすがは彼と言うべきなのか、登録数は五十を軽く越えていた。男の名前が多いように見えるが、女の名も頻繁に混ざっている。
ざっとスクロールしていくと、その中に奇妙な名前を見つけた。本名での登録が多い一覧の中に、一件だけカタカナのみのものが混ざっていたのだ。『ハニー』といういかにもすぎる文字列は、何かの罠のようにも感じる。訝しみながら詳細を開いて、僕は心臓が止まりそうになった。
そこに登録されていたのは、僕の連絡先だったのだ。教えたばかりの電話番号とメールアドレスが、そこには書き連ねられている。恥ずかしすぎる行動に、僕は足の震えが止まらなかった。
呆然と画面を見ていると、背後から足音が聞こえてきた。風呂から上がった青年が、リビングへと戻ってきたのだ。僕の姿を認めると、呑気な声で挨拶をする。
「おかえり、今日は遅かったね」
僕の隣に座ろうとするが、僕はそれどころじゃない。端末の画面を開くと、彼の前に突きつける。
「おい、なんだよ、これ!」
至近距離に端末を押し付けられて、彼は不思議そうに首を傾げる。ようやく状況を理解すると、諭すような声で嗜めた。
「ルチアーノ、僕の端末を見たんだね。駄目だよ。そんなことしたら」
「説教はいいんだよ。それよりも、なんだよ、これ!」
彼の言葉を遮りながら、僕は手の中の端末を見せつけた。画面に映し出されているのは、『ハニー』の名で登録された僕のデータだ。常人ならこっ恥ずかしくなりそうなそれを、彼は平気な顔で見つめた。
「なにって、ルチアーノのアドレスだよ。よく使うから登録しておいたんだ。何か変だった?」
何も分かっていなさそうな顔で、彼は淡々と言葉を続ける。何度もかわされているうちに、自分の方がおかしいのかと思い始めてきた。そんなことはないと言い聞かせると、叩きつけるように登録名を指差す。
「だから、『ハニー』ってなんだよ! こんなの、馬鹿なカップルがやることだろ!」
目の前で捲し立てると、彼はようやく表情を変えた。口元を緩めると、手を伸ばして端末を奪い取る。
「これは、ルチアーノのためだよ」
「はあ?」
おかしなことを言われて、僕は間抜けな声を上げてしまう。嬉しそうに笑みを浮かべると、彼は浮かれた声で説明した。
「ルチアーノは、名前を知られることを嫌がるでしょ。万が一人前で電話がかかってきてもいいように、登録名を名前以外にしてるんだ。これなら、誰にもルチアーノだって分からないよ」
もっともらしいことを言っているが、やってることはバカップルそのものである。何よりも、登録されてる僕が恥ずかしい。なんとかやめさせようと、半ばむきになりながら答えた。
「だからって、ハニーじゃなくてもいいだろ。パートナーとか、そういうので……」
「ルチアーノは、僕の恋人なんでしょ。こういうところくらいは、恋人っぽいことをしたいんだよ」
そこまで言われたら、僕には何も言い返せない。何だかんだ言っても、この男に愛されることを、僕は心地よく感じてしまうのだ。胸を満たす嬉しさを感じて、頬を染めながら言葉を吐く。
「分かったよ。その代わり、誰にも見せるなよ」
羞恥心に襲われるままに、僕は部屋から出ていった。彼の部屋で着替えを手に取ると、そのままの足で洗面所に向かう。身体がほんのりと温かいのは、体内のシステムが稼働しているからだろう。燻る熱を冷ますように、僕は服へと手を伸ばした。