盆 その2「明日は、午前中に出かけるからね」
布団の中に潜り込むと、彼は僕に向かってそう言った。部屋を包み込む静寂を切り裂くような、はっきりとした声である。僕が沈黙を保っていると、彼は気にせずに言葉を続けた。
「明後日の夜には帰ってくるよ。この家は、好きに使っていいからね」
「分かってるよ」
小さな声で答えて、僕はベッドの反対側へと寝返りを打つ。今日、この夜だけは、彼とくっついて眠る気などなかったのである。彼が家を開けることに対して、気持ちの整理がついていないのだ。自分勝手だと言われたらそれまでだが、僕には、彼の里帰りというものが許せなかった。
彼が外泊をすることになるなら、僕も一緒だと思っていた。実際、昨年の夏には彼の実家に挨拶に向かったし、正月も帰省についていったのだ。彼は僕のことを家族同然に扱っているから、当然のように誘われると思っていた。
でも、現実は違った。僕は彼の家族にはなれなくて、親戚の集まる場には連れていってもらえないのだ。法的な繋がりは何もないのだから、当然といえば当然である。それなのに、僕の心らしきものは、想像以上の痛みを感じていたのだ。
どうして、こんなにも胸が痛むのだろうか。人間と家族になりたいだなんて、あまりにも人間の感情だ。人間と過ごす時間を取りすぎたせいで、この身も人間になってしまったのだろうか。
僕が考え込んでいる間にも、隣からは寝息が聞こえてくる。こんな時であっても、彼の寝付きの良さは変わらないようだった。考えていても仕方ないから、僕も静かに目を閉じる。スリープモードに移行すると、意識はまどろみの中に溶けていった。
翌朝、充電を終えた僕が目を覚ましても、青年は布団の中に横たわっていた。穏やかな顔で両目を閉じて、すやすやと寝息を立てている。彼のことだから、外出の支度を終えて家を出るのは、日が高く昇ってからになるのだろう。誰よりも寝坊助なこの青年は、早起きというものができないのだ。
音を立てないように布団から抜け出すと、急いで身支度を整える。呑気な彼とは対照的に、僕は朝早くから任務に向かうことになっていたのだ。神の代行者としての使命には、暦のイベントなど関係ない。淡々と与えられた命令をこなして、神の意志を示すだけだ。
ワープホールを出現させる前に、僕はもう一度青年の寝室へと向かった。寝息を立てる男の横顔を、目の前から眺めてみる。任務を終えて家に帰る頃には、この男の姿はなくなっているのだ。そう思ったら、顔を見ておきたくなってしまった。
気が済むまで寝顔を見つめると、僕はワープホールを起動する。時空の乱れを肌に感じながら、空間の間に足を踏み入れた。身体が光を抜けたときには、僕の身体は目的地へ着いているだろう。普段と変わらない出発の儀式が、少しだけ寂しく思えた。
任務を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。街灯に照らされた繁華街を歩いて、ワープホールを展開するスポットを探す。面倒事に巻き込まれないためにも、直接のワープは避けたかったのだ。イリアステルの幹部となれば、どこで何者に見られているか分からない。
路地裏に入り込むと、僕は青年の家へと移動した。自由に使っていいと言われたのだから、言葉に甘えて使わせてもらうつもりである。着地点をリビングへ設定すると、一気に空間を飛び越えた。
無人のリビングは、暗い静寂に包まれていた。家電の動く鈍い音以外に、一切の音声は聞こえてこない。家の主が不在にしているから、電気も全て切られていた。必要がないとは思いながらも、最初にリビングの電気をつける。
これから一晩の間は、僕がこの家の主なのだ。彼の代わりに家を守り、留守の責任を取ることになる。初めからそのつもりで、彼は僕に家への侵入を許したのだろう。
室内が灯りに照らされると、視界に見慣れないものが映った。胴体に割り箸が突き立てられた、きゅうりとナスの置物である。形の歪なこの生き物は、彼が用意した精霊馬だ。僕のオリジナルの霊を迎え入れるなどと、馬鹿げたことを言っていた。
彼は、いったい何を考えていたのだろう。精霊馬なんて作ったところで、未来の死者など呼べるわけがないのに。そんな非科学的な信仰など、ただの気休めでしかないのだから。それに、億が一魂が帰ってきたとして、僕と二人きりにしてどうするつもりなのだろう。
大きくため息をついてから、僕はその場から立ち上がった。彼の部屋に入る前に、風呂場で身体を清めて起きたかったのだ。彼と共に暮らすようになってから、僕は毎日のように風呂に入っている。いつのまにか、入浴そのものが習慣になっていた。
リビングから足を踏み出したとき、室内で違和感を感じた。無人のはずの洗面所に、何かの気配を感じたのである。僕がその場で足を止めると、その気配もピタリと止まった。しばらくしてから、洗面所でコトリと音が響く。
「誰かいるのか?」
声を上げながら、僕は洗面所へと向かっていった。僕が一番に疑ったのは、人間の侵入者である。金品狙いの盗賊か何かなら、セキュリティに突きつけてやるつもりだった。
足音を殺すと、僕は洗面所に向かって歩を進めた。左手は前に出していて、いつでも戦闘に移れる体勢を取っている。並みの人間であれば、僕の力には敵わないだろう。そう思って洗面所を覗き込んだのだが、そこには誰もいなかった。
「隠れているのか?」
威嚇のために言葉を発しながら、僕はぐるりと室内を見渡す。念のために探索機能を使ってみたが、人の気配はどこにもなかった。どうやら、人がいると思ったのは、僕の気のせいだったらしい。安心と落胆に肩を落とすと、着替えを取りに青年の部屋へと向かう。
しかし、この夜の異変は、これだけでは済まなかった。僕が風呂から上がってからも、人の気配は消えていなかったのである。洗面所で衣服を身に付けていると、廊下の方から足音が聞こえてきたのだ。怪訝に思って確認してみるが、そこには誰もいなかった。
大きくため息をついてから、僕はリビングへと足を運んだ。二度も気配の察知に失敗するなんて、戦闘兵器としては由々しき事態である。機能に問題があるのなら、神に報告して修理してもらわないといけない。そう考えながら何気なく顔を上げて、僕は息が止まりそうになってしまった。
机の片隅にあった精霊馬が、さっきと違う配置になっていたのである。ナスの牛はそのままなのだが、きゅうりの馬が真横に転んでいる。まるで、誰かがバイクで乗り付けて、そのまま置いて行ったかのようだ。そんな感想が頭をよぎって、僕は再び息を呑む。
もしかしたら、もしかするのではないだろうか。この精霊馬は、誰かを迎えに行ったのかもしれない。しかし、この家には仏壇なんてないはずだし、迎え入れる相手もいないだろう。だとしたら、帰ってきたのはいったい誰なのだろうか。
僕の胸の中に、未知の感情が駆け巡っていく。それが恐怖だと気づくまでに、少し時間がかかってしまった。自分が何かに恐怖するなんて、僕は少しも考えたことがなかったのである。当たり前だ。僕にとって、この世に怖いものなどないのだから。
得体の知れない気持ち悪さを感じて、僕は青年の部屋へと移動した。気配が無いことを確認すると、しっかりと部屋のドアを閉める。布団の中に潜り込むと、頭から布団を被った。彼の匂いが鼻をつくが、今は堪能している場合ではない。
今、この家には、本当に別の誰かがいるのだろうか。青年の用意した精霊馬に乗って、未来の死者が帰ってきたのだろうか。そんな眉唾物の話が、本当にあり得るのだろうか。思考領域をいくつもの疑問が流れて、頭がショートしそうだった。
周囲に籠る熱を感じながら、僕はゆっくりと目を閉じる。こうしてスリープモードに移行してしまえば、疑問とは向き合わなくて済むのだ。それに、日が昇る時刻になったら、あの気配も消えるかもしれない。半ば強制的に、僕の意識は眠りの世界へと落ちていった。
翌日は、朝早くに目が覚めた。ゆっくり布団から這い出すと、室内の様子を確かめる。蒸すような暑さに襲われているものの、異変が起きた形跡は無い。部屋の扉を開けると、今度は家全体の様子を確かめた。
昨夜感じていた怪しい気配は、跡形も無く消え去っていた。室内は静まり返っていて、人の蠢く気配は感じられない。恐る恐るリビングへと移動するが、そこにも人の気配はなかった。机の上に置かれた精霊馬にも、動いたような形跡は無い。
昨夜の出来事は、僕の見た幻覚だったのだろうか。青年と離れたことによる不安が、僕の認識能力に影響を与えたのかもしれない。あまり認めたくはないが、この身体には人間らしい反応をする機能が搭載されているのだ。感情の動きに身体が反応していたとしても、おかしいことではなかった。
大きく息をつくと、僕は洗面所へと向かった。今日も今日とて、僕には任務があったのだ。神の代行者という職業は、人間のように長期休暇があるわけではない。本当は、不安を紛らわせるために予定を立てていたのだが、絶対に口にはできなかった。
手早く身支度を済ませると、僕はワープ機能を起動する。得体の知れない何かから逃げるように、僕は時空の狭間へと身を滑らせた。
この日も、任務を終える頃には、太陽がビルの隙間へと沈んでいた。人間で賑わう大通りを通り抜けると、彼の家へと向かっていく。わざわざ歩いて目的地を目指すのは、時間を潰したかったからだ。どうせ、日が沈む頃にならないと、青年はあの家に帰ってこない。
彼の家に辿り着く頃には、すっかり日が沈んでいた。目の前に佇む民家からは、光が漏れている様子はない。中が筒抜けであることを考えると、誰も帰ってきていないのだろう。少し気が重いが、先に室内に入ることにする。
恐る恐る玄関を開けると、フローリングの上に片足を踏み出す。昨夜のこともあって警戒していたが、人の気配はしなかった。真っ直ぐにリビングへと向かうと、精霊馬の姿を確認する。当たり前と言えば当たり前なのだが、動いた形跡はなかった。
リビングのソファに腰を下ろすと、テレビのリモコンを手に取った。賑かな音声を垂れ流しながら、息を殺して青年の帰りを待つ。画面に映し出されているのは、普段であれば見ることの無いようなバラエティだ。霊を信じているつもりはないが、得体の知れない存在は気味が悪かったのである。
黙って画面を見ていると、微かに違和感を感じた。賑かなテレビの音声に紛れて、人の生活音のようなものが聞こえるのである。不審に思ってテレビの音声を下げると、洗面所から物音が聞こえてくる。背筋が冷たくなって、モーターが激しく音を立てた。
僕が悲鳴を上げそうになった時、玄関から物音が聞こえてきた。鍵が開く音がして、荷物が運び込まれる音が聞こえる。しばらくすると、青年の能天気な声が聞こえてきた。
「ただいま。ルチアーノ、来てる?」
その声を聞いた途端、僕の身体は動き出していた。廊下を早足で駆け抜けると、真っ直ぐに玄関へと向かう。青年の姿を捉えた時には、胸の中に飛び込んでいた。
「わっ。どうしたの?」
唐突な僕の行動に、青年が驚いた顔を見せる。子供らしい態度になってしまったが、気にかけている余裕はなかった。今、この家の中には、得体の知れない生物がいるのである。その正体を確かめるまでは、安心することなどできそうにない。
「家の中に、見えない何かがいるんだ。きっと君の作った精霊馬に乗って、この家に入って来たんだよ。全く、君は余計なことをしてくれたよな」
感情のままに吐き出すと、僕は彼の顔を見上げる。彼はよく分かっていないようで、ぽかんとした顔で僕を見下ろしていた。その間抜け面を見ていると、苛立ちが込み上げてくる。感情の赴くままに、僕はその男を睨み付けた。
「君は、リビングに精霊馬を置いてただろ。僕のオリジナルを呼ぶとかなんとか、馬鹿らしい理由をつけてさ。その願いが、どうやら叶ったみたいだぜ」
吐き捨てるように言うと、彼は小さく首を傾げる。少し間を置いた後に、呑気な声色で答えてきた。
「それは、ただの迷信だよ」
「迷信だろうが何だろうが、そんなことはどうでもいいんだよ。この家には、得体の知れない何かがいるんだ。昨日の夜からずっと、何かの気配がするんだよ!」
必死に訴えるが、彼は全く取り合ってくれない。僕の身体を包み込むと、手のひらで頭を撫でてきた。
「それは、ただの思い込みだよ。幽霊なんていないって」
子供のようにあしらわれて、僕は苛立ちが頂点に達してしまう。彼の身体を振り解くと、強引に手を掴んだ。
「だったら、部屋の中を見てみろよ」
彼の手を引っ張りながら、僕は家の中を歩いていく。物音の聞こえた洗面所や、部屋と部屋を繋ぐ廊下、彼の部屋や空き部屋になっている部屋まで全てを確かめたが、人の気配は依然としてしなかった。彼が家に帰ってきたことで、未知の人影も姿を消したのかもしれない。
「ほら、何もいないでしょ。あれは迷信なんだって」
リビングに足を踏み入れながら、彼は言い聞かせるように語る。幼い子供にかけるような、甘くて優しい言葉だった。悔しさと羞恥心で、僕は唇を噛み締める。このままだと、僕が存在しないものに怯える子供のようではないか。
「さっきまでは、本当にいたんだって。信じてくれよ」
必死に言葉を紡ぎながら、僕もリビングに足を踏み入れた。机の上に視線を向けて、ある違和感に辿り着く。二つ並べられていた精霊馬が、隊列を崩していたのだ。ナスで作られた牛の置物が、何者かに触れられたかのように横転している。
「倒れてる……」
小さな声で呟くと、青年も机の上に視線を向けた。倒れたナスを視界に捉えると、僕の方へと視線を移す。
「これは、さっきまでは立ってたの?」
「僕は触ってないぜ。勝手に倒れたんだ」
むきになって答えると、彼は僅かに口角を上げた。ナスを元の位置に戻すと、穏やかな笑顔で口を開く。
「もしかしたら、その人はこれで帰ったのかもね。今日で、お盆も終わりになるから」
突飛な発言に、僕は頬を膨らませてしまう。冷めた瞳でナスを見ると、小さな声で呟いた。
「なんだよ。それ」
結局、最後の最後まで、あの気配の正体は分からなかった。本当に僕のオリジナルがやって来たのかもしれないし、別の何者かが紛れ込んだのかもしれない。あるいは、全てが僕の幻覚で、思い込みによる錯覚なのかもしれないのだ。幽霊の正体など、結局のところ誰にも分からないのだから。