猫 広場のソファに腰を下ろすと、僕は大きく息を吐いた。鞄からペットボトルを取り出して、中の飲み物を口に流し込む。半分凍っているスポーツドリンクは、水分が多くて味が薄かった。タオルで汗を拭いながら、シャツの裾をパタパタと動かす。
隣では、ルチアーノが涼しい顔で立っていた。こんなに暑いというのに、彼は汗ひとつかいていない。木陰に佇む姿は、絵画か何かのようにも見えるくらいだ。汗びっしょりな僕と並ぶと、天と地ほどの差があった。
汗が引くまで身体を休めてから、僕はペットボトルを鞄に戻した。朝から大量の水を飲んでいるから、お腹は水分でたぷたぷだった。大半が汗で流れているとはいえ、トイレが近くなっているのも確かである。次のデュエルが始まる前に、トイレを済ませておきたかった。
「ちょっと、トイレに行ってくるね」
ルチアーノに声をかけてから、僕はベンチから立ち上がった。広場の奥を見ていたルチアーノが、僕の方へと視線を移してくる。こんなやり取りも、既に日常茶飯時になっていた。
「とっとと戻ってこいよ」
「すぐに戻るよ」
ルチアーノに背中を向けると、僕は早足で広場を横切る。少し離れたところに、比較的新しい公園があったのだ。そこのトイレなら、その辺の公衆トイレよりは綺麗だろう。ルチアーノを待たせるのも申し訳ないから、できるだけ早く済ませることにする。
早足で来た道を戻ると、さっきの広場が見えてきた。街路樹に囲まれたスペースに、いくつかのベンチが並べられている。確か、僕がさっきまで座っていたのは、一番右のベンチだったはずだ。ルチアーノの姿を目で探しながら、僕は広場を横切っていった。しかし、端から端までを調べてみても、そこに彼の姿はない。見逃したのかと思ってもう一度確かめるが、やはりルチアーノの姿は見えなかった。
「ルチアーノ?」
小さな声で呼び掛けながら、僕は周囲に視線を向ける。広場を行き交う人々を眺めてみるが、ルチアーノの姿は見えなかった。嫌な予感が胸を満たして、背中に冷や汗が流れ始める。彼に限ってそんなことはないと思うのだが、やはり心配になってしまった。
「ルチアーノ? どこなの?」
さっきよりも大きな声で名前を呼ぶと、僕はベンチの周りを彷徨う。近くを歩いていた女の人が、ちらりとこちらに視線を向けた。あまり僕が目立ってしまったら、彼は姿を現さないだろう。必死に頭を悩ませながら、さっきまで座っていたベンチに腰を下ろす。
「ルチアーノ、どこに行っちゃったんだろう」
小さな声で呟いてから、僕は大きく息をついた。自分から探そうにも、見当なんてつかなかったのだ。困ったことに、今の僕は彼との連絡手段を持っていない。どうすることもできないまま、僕はその場で途方に暮れた。
──にゃー
その時、僕の少し後ろから、猫の鳴き声が聞こえてきた。音の感覚から察するに、ベンチの真後ろの辺りである。首を回して後ろを見ると、小さな赤い塊が蠢いている。それはゆっくり前へ進むと、僕の隣へと登ってきた。
──にゃー
さっきと同じような声色で、猫は僕へと語りかける。その姿を見て、僕は思わず息を飲んでしまった。目の前にいる猫の毛皮は、ルチアーノの髪の色と同じ赤色なのである。こちらを見つめる瞳も、どこか緑がかって見えた。
もしかして、という気持ちが、頭の隅に浮かぶのを止められなかった。思わず手を伸ばしそうになって、直前で思い留まる。現実的に考えて、人型の機械が猫になるなんてあり得ないことである。目の前に現れた猫の姿は、きっと他人の空似だろう。
猫から視線を逸らすと、僕はベンチから立ち上がった。早く合流しないと、ルチアーノは機嫌を損ねてしまうだろう。場合によっては、面倒なことになるかもしれない。
広場の周辺を歩き回りながら、僕は彼の姿を探す。あまり遠くには行ってないと思うのだが、それらしき姿は見つからなかった。埒が明かなくて、僕は再び彼の名前を口にする。
「ルチアーノ?」
──にゃー
「どこにいるの?」
──にゃー
背後から聞こえてくるのは、猫の鳴き声だけだった。後ろを振り向くと、さっきの赤い猫がついてきている。猫は尻尾を真上に立て、身体を揺らすような動きで僕の元へと歩み寄る。真っ直ぐにこちらを見つめると、何かを訴えるような声で鳴いた。
──にゃー
ここまで来ると、いよいよ偶然とは思えなくなってくる。目の前にいる赤い猫は、もしかしたらルチアーノなのではないだろうか。何らかの要因で猫になってしまって、元に戻れなくて困っているのかもしれない。実際に、彼は少し前に、猫の耳と尻尾が生えたことがあったのだ。
「ルチアーノ、なの?」
──にゃー
僕が問いかけると、猫ははっきりと返事をした。確信を持つには十分すぎるほどの、返事らしい返事だった。恐る恐る手を伸ばしてみると、小さな頭を擦り付けてくれる。気がついた時には、僕はその猫を抱き抱えていた。
「とりあえず、家に帰ろう」
両腕で猫を抱えると、僕は必死に自宅への道を歩いていく。次のデュエルをしている余裕など、今の僕にはなかったのだ。それに、集合場所へ向かったとしても、タッグパートナーは猫である。こんな状態では、デュエルの成立すら難しいだろう。
重みで腕がちぎれそうになりながら、なんとか家の玄関を開ける。猫の身体をフローリングに放り出すと、僕はその場に座り込んだ。肩で息をしている僕の周りを、彼がぐるぐると回っている。申し訳なさでも感じているのか、ルチアーノにしては優しい仕草だった。
とはいえ、家に帰ってきたところで、僕にはどうすることもできなかった。猫のルチアーノを前にしたまま、僕は一人で途方に暮れる。とりあえず、デュエルの予約をしていた相手には、キャンセルの電話を入れておいた。パートナーが猫になったなんて言えないから、欠席の理由は体調不良である。
僕がソファに腰を下ろすと、猫のルチアーノもソファへと上がってきた。僕の隣でお尻を落とすと、腿の上に顎を乗せてくる。彼も急に猫になって、不安を感じているのかもしれない。少しでも和らげばと思って、その小さな頭を撫でてみる。
「ルチアーノ」
──にゃー
「戻り方、分かる?」
──にゃー……
試しに声をかけてみるが、あまり意味は成さなかった。猫の姿のルチアーノとは、意思の疎通もできないのである。僕たちにできることは、一方的な声かけと返事である。いや、返事が返ってくるだけ、ただの猫よりもましなのかもしれない。
「どうしよう……」
なけなしの考えを巡らせながらも、僕は彼の頭を撫で回す。猫の毛皮はふわふわとしていて、やけに肌触りがよかったのだ。相手も撫でられるのは嫌じゃないのか、ゆらゆらと尻尾を揺らしている。ソファの布地を叩く乾いた音が、静かな室内に響いていた。
ルチアーノの異常を直せるとしたら、彼が神様と呼ぶ何者かだけだろう。しかし、一般市民でしかない僕には、神様への連絡手段はどこにもなかった。彼の仲間なら知っているのだろうけど、彼らの連絡先だって知らない。町で探すとしても、会える確証なんてなかった。
猫の頭を撫で回しながら、僕は大きく息を吐く。結局、僕にできる唯一の方法は、彼が元に戻るのを待つことだけなのだ。いつになるかは分からないから、しばらくはデュエルなどできないだろう。ソファから立ち上がると、室内に光が漂うのを感じた。
僕の目の前で、その光は一点に集まっていく。浮かび上がったシルエットは、僕よりも頭ひとつ分小さかった。この移動方法を使う知り合いなんて、僕にはルチアーノしかいない。しかし、当のルチアーノは、猫の姿になっているはずなのだ。
呆然とする僕の前で、影は人の姿へと変わっていく。赤い髪を靡かせたその姿は、まごうことなきルチアーノだ。信じられない光景に、僕は大きく瞳を広げる。呆然とする僕を見て、彼は鋭い声で怒鳴った。
「おい、何してるんだよ!」
しかし、僕は何も返事ができなかった。呆然とルチアーノを見つめると、ソファの上に座っている猫を見つめる。猫はこちらへ視線を向けると、甘えるような鳴き声を発した。再びルチアーノに視線を向けると、僕は間抜けな声で呟く。
「え…………?」
「え?じゃねーだろ! 人を待たせて勝手に帰るなんて、君は何を考えてるんだよ!デュエルの約束はどうするつもりなんだ!?」
そんな僕を睨み付けると、彼は立て続けに怒鳴り声を上げる。鋭い声で捲し立てる語り口は、いつものルチアーノそのものだった。やはり、目の前にいる男の子は、まごうことなきルチアーノである。しかし、混乱した僕の頭は、目の前の出来事を上手く受け止められなかった。
「ルチアーノは、猫になったんじゃなかったの?」
「はあ?」
僕の言葉を聞いて、今度はルチアーノが間抜けな声を上げる。唐突に支離滅裂なことを言われて、言葉の意味が理解できなかったのだろう。佇む僕たちの間を、ソファから降りた猫が横切っていく。猫はルチアーノの前で歩みを止めると、甘えるように鳴き声を上げた。
──にゃー
ルチアーノの瞳が、目の前の猫に釘付けになる。次に顔を上げた時には、再び怒りの表情に戻っていた。鋭い瞳で僕を睨み付けると、低い声で言葉を発する。
「もしかして、君はこの猫が僕だと思ったのか?」
怒りに満ちた声色に、僕は反論の言葉が出なかった。真っ直ぐにルチアーノを見つめたまま、必死に返す言葉を考える。
しかし、その沈黙の重みで、僕の真意は伝わったようだった。怒りの表情を浮かべていたルチアーノが、呆れたようにため息をつく。自分の足元に纏わりつく猫に視線を向けると、さっきよりも落ち着いた声で呟いた。
「図星なんだな。全く、君はとんでもないやつだよ。まさか、僕が猫になったと思うなんてさ」
心底呆れたとでも言うような、気の抜けた声だった。僕があまりにも間抜けなことを言ったから、怒りすら消えてしまったみたいだ。冷静な彼の言葉を聞いて、僕も恥ずかしくなってきてしまった。頬を赤く染めながらも、小さな声で答える。
「この前、ルチアーノに猫耳が生えてたでしょ。だから、猫になってもおかしくないかなって思って……」
「おかしいに決まってるだろ。質量保存の法則を知らないのかよ」
「だって、ルチアーノは未来の機械でしょ」
そんな話をしている間も、猫は僕たちの間を歩いている。流れで連れてきてしまったが、この子はどこから来たのだろうか。毛並みがふわふわしているから、ただの野良猫とは思えない。猫を膝に乗せると、頭の上に手を伸ばした。
「この子、どうしようね。野良猫なのかな」
「どう見ても飼い猫だろ。首輪がついてるし、こんなに人になついてるんだから」
ルチアーノに言われて、僕は猫の首に視線を向ける。彼の言う通り、毛に覆われた首回りには、赤い首輪が巻きつけられていた。シティ中心部の飼い猫らしく、しっかりした素材でできている。毛の中に紛れるようにつけられているから、言われるまでは全く気づかなかった。
「ほんとだ……」
「気づかなかったのかよ。猫を拾ったら、一番に首輪を確めるべきだろ」
ルチアーノに釘を刺されて、僕は再び黙り込む。別に拾ったつもりはないのだけど、そんなことは口にできなかった。僕は、彼が猫になったと思い込んで、冷静さを失っていたのだ。大人げない振る舞いをしてしまったことが、今になって恥ずかしい。
「首輪には、動物の個人情報がかかれてたりするんだぜ。もしかしたら、飼い主のことが書いてあるかもしれない」
冷静に分析すると、ルチアーノは猫に手を伸ばした。毛の中に埋まった首輪を掴むと、恐る恐るといった仕草で留め具を外す。外した首輪をひっくり返すと、自信に満ちた表情で口角を上げた。
「やっぱりだ。全部ここに書いてあるぜ。住所はシティ中心部、旧トップスエリアの飼い猫だな」
突きつけられた首輪には、細かい字の印刷された布地が縫い込まれていた。飼い主の住所と電話番号、猫の名前が書かれている。この子は『シエル』という名前で、ルチアーノとは全く被っていない。僕を見つめて返事をしたのは、ただの人懐っこさの表れなのだろう。
「じゃあ、早速電話してみようか。この後のデュエルは断っちゃったから、時間はたくさんあるよ」
「また、勝手なことをしてさ。まあいいか、君一人じゃ心配だし、受け渡しについていってやるよ」
呆れた声で呟きながらも、ルチアーノは同行を宣言する。僕が心配だと言っているが、本当は興味があるのだろう。ルチアーノに猫を預けると、僕は鞄から端末を取り出す。画面を起動すると、首輪に書かれた番号を入力した。
それから二時間ほどたった頃、僕たちはシティ中心部に来ていた。僕の腕には猫が抱えられ、隣には緊張した様子のルチアーノが歩いている。飼い主との待ち合わせ場所は、あの広場から近い公園だった。僕の前に現れたのも、猫にとってはいつもの散歩だったのだろう。
しばらく待っていると、向こうから女の人が歩いてきた。僕よりも少し年上の、髪の長い女性である。公園には僕たちしかいないから、彼女がこの子の飼い主なのだろう。猫を視界に捉えると、彼女は安心したように表情を変えた。
「すみません。シエルちゃん、知らない人に甘えるのが好きで……。急に近づいてきて、迷惑かけましたよね」
猫の身体を抱き抱えると、彼女は深く頭を下げる。僕の方が動揺してしまうほどの、真剣な謝罪の言葉だった。女性の態度につられて、僕も深く頭を下げる。
「こちらこそ、急にお電話してしまってすみません。ずっとついてきてたので、どうしていいか分からなくて」
猫を連れて帰ってしまったことは、彼女には言わないことにした。言ったところでどうなるわけでもないし、経緯を語っても伝わらないだろう。とりあえず、無事に猫を引き渡せたのだから、目的としては十分だ。その後も何言か会話を交わすと、会釈してその場を離れた。
「全く。君のせいでデュエルが台無しだよ。明日は、どう責任を取ってもらおうかな」
女性の姿が見えなくなると、ルチアーノはにやにやと笑みを浮かべる。申し訳なさを感じているから、僕には何も返事ができなかった。僕が冷静にルチアーノを待っていたら、デュエルの約束を破ることにもならなかったのだ。そこまで考えて、ふと疑問が浮かんできた。
「ねえ、ルチアーノ」
「なんだよ」
「どうして、あの時広場にいなかったの?」
そう。僕の勘違いのきっかけは、ルチアーノがその場を離れていたことだったのだ。彼がずっと広場にいたのなら、僕もすぐに気づいただろう。案の定、触れてほしくないことだったらしく、ルチアーノは不満そうに唇を尖らせる。僕から視線を逸らすと、拗ねたような声色で言った。
「君には言わないよ」
結局、ルチアーノがいなくなった理由は、最後まで分からないままだった。任務絡みか何かで、僕には語りたくないのだろう。それがルチアーノという男の子だから、僕も特に深入りはしない。
どうやら、明日は大変な一日になりそうだ。ルチアーノの横顔を眺めながら、僕はそんなことを思うのだった。