いたずら お風呂から上がると、僕は自分の部屋へと向かった。薄暗い廊下を通り抜けると、眩しい光を放つ室内に足を踏み入れる。頭に被っていたタオルを椅子の背にかけると、ベッドの隅に腰を下ろす。シーツの中央では、ルチアーノが雑誌を広げながら寝転がっていた。
身体の火照りが引いてくると、僕はルチアーノの隣に寝転がる。マットレスにかかかる体重が偏って、彼の身体が斜めに揺れた。その身体を全身で支えるように、僕は肩をくっつける。ルチアーノの子供らしい体温が伝わって、半身がほんのり温かくなった。
体勢を整えると、ルチアーノの手元に視線を向ける。雑誌の紙面に写っていたのは、トレンドの服に身を包んだ男性モデルの写真だった。彼にしては珍しいことに、男性をターゲットにしたファッション紙を読んでいるらしい。不思議に思って覗き込んでいると、彼は怪訝そうに顔を上げた。
「なんだよ」
「なんか、珍しいなって思って。ルチアーノ、いつもはファッション紙なんて読まないでしょ」
僕が言うと、彼は小さく鼻を鳴らした。再び雑誌に視線を落とすと、指先を伸ばしてページを捲る。
「確かに、僕にはファッション紙なんて必要ないよ。衣類は神から与えられた表面装甲で十分だし、人間との取引はスーツで十分だ。潜入のために人に変装することもあるけど、この姿だと学生ばかりだからな」
一気にそう捲し立てると、再び指先でページを捲った。言葉が少し尖っていたのは、自分の発言に不満を感じたからだろうか。プライドの高いルチアーノは、子供として扱われることを何よりも嫌うのだ。学生に変装しての潜入なんて、最もプライドを傷つけられる行為だろう。
「じゃあ、どうしてそんなものを買ってきたの? これって、僕の家の本じゃないよね?」
横から覗き込みながら、僕はさらに質問を重ねる。ルチアーノが開いていたページには、一週間の着回し特集が載っていた。見慣れない洋服に身を包んだ男の人が、オフィスやカフェでいい感じのポーズを取っている。紙面の雰囲気は大人びていて、服装も明らかに社会人向けだった。
「そうだよ。君の家にはろくな本が無いから、僕が調べて買ってきたんだ。わざわざ女にリサーチまでしたんだから、もっと感謝してくれてもいいだろ」
上から目線な声色で言うと、ルチアーノはこちらに視線を向ける。いかにも褒められ待ちの態度だったが、僕には話の流れが分からなかった。そもそも、彼の行動の目的さえ、僕には分からないのである。頭の上に疑問符を浮かべると、恐る恐る尋ねてみる。
「待ってよ。どうして、急にファッション紙なんて買ってきたの? ちゃんと説明してくれないと、どこを褒めていいか分からないでしょ」
「ああ、そうだったな。君みたいな一般の人間は、詳しく説明しないと分からないのか」
しれっと失礼なことを言うと、彼は面倒臭そうに息をついた。無礼千万なセリフにも聞こえるが、悪気は一切無いのだろう。聞いた話では、彼らのような神の代行者は、脳に直接メッセージを送ってやり取りするらしい。複雑な説明が必要になっても、データの送信で伝えることができるのだろう。
「僕がファッション紙を買ってきたのは、元はと言えば君のためなんだよ。君が普段から着ている服は、いかにもなデュエルマニアって感じだろ。そんな服でプロデュエリストの前に出たら、田舎者だって舐められかねないぜ。だから、君に似合いそうなブランドものが無いか、わざわざ探してやってるんだ」
ルチアーノの説明を聞いて、ようやく僕も理解した。彼は、僕がこの町で暮らしやすいように、環境を整えようとしてくれているのだ。それに、僕が舐められるということは、チームメンバーである彼も舐められるということだろう。これは僕の身を守ることであると同時に、自分の身を守ることでもあるのだ。
「そうなんだ。ルチアーノは、そこまで僕のことを考えてくれてるんだね。ありがとう」
正面からお礼を言うと、彼は頬を赤く染めた。わざとらしく雑誌のページを捲ると、小さな声で答えてくる。
「言っておくけど、これは君だけの問題じゃないんだぞ。君が舐められるってことは、チームが舐められることと同じなんだから」
「分かってるよ。これからは、服にも気を遣うから」
「本当に分かってるのか? 君はファッションに疎いからな」
他愛も無い話を続けながら、僕はルチアーノに視線を向ける。隣に寝そべっている男の子の身体は、僕より一回は小さかった。子供らしい寝間着に身を包み、頬をほんのりと染めた姿は、年相応の子供のようにしか見えない。絵画か何かのように美しい横顔に、ついつい見惚れてしまった。
僕が視線を向けていても、ルチアーノが顔を上げる気配は無い。雑誌を見ていると思っているのか、それとも、見られていると気づきながら知らんぷりをしているのか。どちらにしても僕には都合がいいから、そのまま観察させてもらう。横顔をじっくり見る機会なんて、普通に過ごしていたらそうそう無いのだ。
僕とルチアーノの間には、頭ひとつ分ほどの体格差がある。僕の視界に映っているのは、斜め上から見た横顔だった。小さくて丸い頭には、燃えるように赤い頭髪と人形のように繊細な顔のパーツが、真っ白な肌の上に浮かんでいる。左右に分けられた髪の生え際からは、形のいい耳が姿を覗かせていた。
彼の真剣な横顔を見ていたら、不意に不純な気持ちが浮かんできてしまった。今ここで、露出された耳に息を吹き掛けたら、彼はどのような反応を見せるのだろう。耳が弱点であるルチアーノのことだから、きっと面白い反応を見せてくれるはずだ。
一度そんなことを考えてしまったら、もう他のことなど考えられない。彼が雑誌を読んでいる隣で、僕はその耳を眺めていた。小さくても形のいい真っ白な耳は、まるで作り物のようである。肩と肩が触れそうなほどの距離だから、耳の中まではっきりと見えた。ここに息を吹き掛けたら、耳の中にまで入るのだろうか。またしてもそんなことを考えてしまって、僕は慌てて視線を離す。
しかし、改めて考えてみたら、僕がそのような発想になるのは当然のことなのかもしれない。当のルチアーノ本人が、常日頃から僕にいたずらを仕掛けているのだ。彼のいたずらはなかなかに過激で、時には僕を困らせるようなこともある。今さら僕がいたずらを仕掛けたところで、怒られることもないだろう。
そう思うと、余計に仕掛けたくなってしまう。美しい横顔を眺めながら、こっそりその状況をシミュレーションしてみた。ルチアーノの顔に唇を近づけると、軽く息を吹き掛けるのだ。少し想像しただけなのに、心臓がバクバクと音を立てる。やっぱり、僕という人間には、いたずらは向いていないのかもしれない。
あまり長い間視線を向けていたら、ルチアーノは違和感に気付いてしまうだろう。いたずらを成功させるには、彼がこちらを振り返る前に実行なければならない。深呼吸をして覚悟を決めると、彼の耳に唇を近づける。一瞬だけ息を止めると、思いきって息を吹き掛けた。
「ひゃあっ……!」
女の子のような甲高い声が、ルチアーノの唇から零れ落ちる。かわいらしい声にびっくりして、思わず動きを止めてしまった。一瞬の間の後に、ルチアーノがゆっくりこちらを振り返る。僕を見つめる緑の瞳は、怒りの炎に燃えていた。
「おい、何するんだよ!」
怒りに満ちたどす黒い声が、彼の口から吐き出される。頬が真っ赤に染まっているのは、自分の反応を恥じているからだろう。羞恥を感じている分、怒りも増幅しているはずだ。そこに込められた怒りの深さを察して、僕は血の気が引く思いがした。
「ちょっと、いたずらをしたくなって……」
慌てて身体を離すと、僕は喉から言葉を押し出す。自分で仕掛けたいたずらなのに、恐怖で声が震えてしまった。いくら気を許してくれたと言っても、ルチアーノは神の代行者なのだ。気に入らないことをしたら、最悪の場合消されてしまうだろう。
「なんで、そんなことをしようと思ったんだよ。君は、自分の立場を忘れたのか?」
そんな僕を追い詰めるかのように、ルチアーノは距離を詰めてくる。ベッドの端まで後退りすると、落ちるギリギリのところで体勢を立て直した。
「違うよ。違うけど、僕もいたずらをしてみたかったんだ。いつもルチアーノがいたずらをしてるから、僕も反応が見たいなって……」
「ふーん。やっぱり、君は自分の立場をわきまえてないみたいだな。そんなことじゃ、いつ何をしでかすか分からないぜ」
低い声で呟くと、彼はわざとらしく顔を近づけてきた。光の宿らない緑の瞳が、真っ直ぐに僕を見つめている。恐怖で背中が震えてしまうが、これ以上逃げることはできなかった。怯える僕を睨み付けると、彼は言い聞かせるように言葉を続ける。
「いいか。君はただの人間で、僕は神の代行者なんだ。本来であれば、君は僕に触れることすらできない存在なんだよ。僕がこうして一緒に過ごしているのは、君の有用性を買ったからだ。その事を忘れるんじゃねーぞ」
「分かってるよ」
鋭い瞳から目を逸らしながら、僕はなんとか返事を返す。背筋が凍えそうなほどに冷えていて、嫌な汗が流れ落ちた。息がつまるような思いを抱えながら、なんとか重圧に耐え続ける。しばらくすると、ようやく許しの声が聞こえてきた。
「まあ、今日はこれくらいで許してやるよ。でも、あんまり調子に乗ってるようだったら、またお仕置きをするからな。覚悟しておけよ」
吐き捨てるように言うと、ルチアーノは雑誌へと視線を戻す。怒りの矛先から逃れたことで、僕はそっと息をついた。一緒にいると忘れがちだが、彼は世にも恐ろしい神の代行者なのである。迂闊なことをしたら、命の危機に晒されるかもしれない。
それにしても、あんなにも怒りに満ちたルチアーノの姿は、久しぶりに見た気がする。最近は本気で怒ることもなかったから、少し油断してしまっていたのだ。いたずらをしただけで怒るなんて、まだ心を許してくれていないのだろうか。心の距離を感じて、僕は少し寂しくなった。