屋上 建物の外に出ると、空はすっかり暗くなっていた。瞳を突き刺すほどの眩しい街灯が、夜へと移りゆく繁華街を照らしている。肌に触れる空気は少し湿っているが、不快感を与える温度ではない。少し前まで夏真っ盛りだったのに、いつの間にか秋が顔を出していた。
周囲をぐるりと見渡してから、僕は大通りへと歩を進める。家路へと急ぐ人間たちによって、歩道はすし詰めになっていた。楽しそうに笑う学生たちの間を、作業着を着た男が通りすぎていく。一際大きな声で会話を交わしているのは、酒に酔ったサラリーマンの集団だった。
夜の繁華街は、いつも明るくて賑やかだった。シティで働く無数の人間たちが、血肉としてこの町を動かしているのだ。夜遅くまで灯りの灯った町並みからは、空を見上げても星空さえ見えやしない。立ち並ぶ高層ビルの群れは、天空に輝く月さえ隠してしまうのだ。
そんな空間に立っていると、僕は言い様の無い虚しさを感じる。このだだっ広い町の中で、僕だけが孤立いているように思えるのだ。行き交う人々には帰る家があるのに、僕の向かう先は空っぽだ。任務のために用意された玉座の間にあるのは、仮初めの仲間との権力争いだけなのだから。
しばらく人の流れに添って歩いた後に、僕は路地裏へと歩を進めた。建物と建物の隙間を繋ぐその通りは、繁華街にありながらも暗く澱んでいる。昼間ならまだしも、周囲が闇に沈んだこの時間に、暗闇を通る者などいないだろう。人間から身を隠すとしたら、これほど最適な場所はなかった。
暗がりに身を隠すと、僕は大きく息をついた。都会の喧騒から離れたことで、胸のざわめきが小さくなる。やはり、人間社会に紛れるなんて、僕には性に合わないのだ。元から神の代行者として産み出されたのだから、神の代行者らしく人の上に立つべきである。
暗視カメラを起動させると、僕は周囲の様子を確かめた。当たり前と言えば当たり前だが、人間の気配はどこにもない。力一杯地面を蹴りつけると、身体を宙へと浮かび上がらせる。そのまま空を蹴って天空を駆け上がり、高層ビルの屋上へと飛び乗った。
コンクリートの床に足を乗せると、僕は周囲へと視線を向ける。周りを取り囲んでいるのは、点々と煌めくオフィスの蛍光灯だった。大抵の人々は帰路についているというのに、まだ残っている人間がいるのだ。このような企業戦士達によって、この町は発展し、やがては滅びていくのだろう。
そんな人々から目を逸らすように、僕はフロアの隅へと向かった。縁を覆う段差に片足を乗せると、宙に足を放り出すように腰を下ろす。この建物は屋上を利用していないのか、そこに転落防止の柵はなかった。まあ、こんな中途半端なビルに上る者など、自殺志願者か人ならざる者しかいないのだろう。
空から人の営みを見下ろすと、僕は静かに息をついた。人間の生活から離れたことで、神の代行者としての感覚が戻って来たのだ。さっきまでの喧騒が嘘のように、ここには何の音も聞こえて来ない。死んでいるかのように冷たい静寂は、僕の生きていた世界によく似ていた。
それなのに、眼科に広がる光景は、よく見る大都会の夜景そのものである。空には転々と灯りのついたビルが並び、ネオンの看板が煌めいている。地上の大通りを満たしているのは、等間隔に並べられた街灯の灯りだ。間を流れていく等間隔の光は、家路へと急ぐ人間の自動車だろう。夜のネオドミノシティは、生者の光に溢れているのだ。
しばらく町を見下ろすと、僕はその場に立ち上がった。屋上の縁に両足を乗せると、踏み外さないように気を付けながら歩を進める。町の景色を眺めながら歩いていると、自分が宙に浮いているような錯覚を感じる。人間の言う『地に足の着かない感覚』というのは、このようなものを指すのだろうか。
微かに胸を覆う黒いもやは、まだ僕の中に残っていた。それを追い払うかのように、一歩ずつ足を前に進める。少し前までは知らなかったその感覚は、気づいた頃には僕の精神を蝕むようになっていた。人間に関わりすぎたせいで、僕は人という存在に近づいてしまったのだろうか。神の代行者としての感性を失ったら、不良品として始末されてしまうかもしれないのに。
暗い考えが脳裏を埋め尽くして、僕は慌てて首を振った。さらに遠くへと視線を向けると、シティ郊外が見えてきた。段々と低くなっていく建物の先には、一軒家が立ち並ぶ住宅地が密集している。繁華街で働く人々の多くは、この住宅地で寝泊まりしているのだ。
その場で足を止めると、僕は目を凝らして住宅地を見た。ここからだと少し見づらいが、点々と灯りが灯っているらしい。確か、あの一軒家がまとまった区画に、彼の家もあったはずだ。彼は遅帰りはしない質だから、あの灯りの中に混ざっているだろう。
無意識にそんなことを考えて、僕は再びため息をついた。彼の帰りを気にしてしまうなんて、神の代行者として相応しくない。神の遣いとしてこの地に降り立ったのだから、一人の人間に情を移すべきではないのだ。そんなことをしているから、僕の心は蝕まれているというのに。
遠い町並みを眺めながら、僕は静かに涙を流す。頭では分かっていても、心が理解してくれなかった。少年の模造品として作られた僕の『心』は、常に愛してくれる他者を求めてしまう。一度愛を知ってしまったら、本能がそれを求めてしまうのだ。
こんな想いをするのなら、感情システムなど要らなかったのに。何度もそう思ったが、神の意思には逆らえなかった。神は、僕が人の心を持ち、苦しむことを望んでいる。僕たちが絶望に囚われて生きることが、オリジナルの残した遺言だったからだ。
ひとしきり涙を流すと、僕は再び前を向いた。夜景の煌めく下界を睨み付けると、勢いよくコンクリートを蹴りつける。風を切る感覚が伝わると同時に、僕の身体は宙へと浮かび上がる。落下が始まる直前に、僕の足元にはワープホールが開いた。
金色に輝く粒子の光が、僕の身体を包み込んだ。重力が失われる感覚と共に、身体が時空の狭間へと溶けていく。独特な浮遊感を味わいながらも、着地点の座標を整える。足が地面に触れた時には、周囲の風景は切り替わっていた。
シティ郊外の住宅街は、今日も穏やかな空気に満ちていた。人々が眠るベッドタウンには、繁華街のような喧騒が無いのだ。末端地域が身体を休めている間にも、中心部は止まること無く鼓動を続けている。そう捉えると、町とは大きな生き物のようだ。
帰路を急ぐ人々に混ざると、僕は青年の家を目指した。擬態を解いていない僕の姿は、彼らにはスーツ姿の男にしか見えないだろう。不本意な扱いを避けるには、成人の姿を取るのが一番だ。僕が神の代行者であることなど、一般市民は知らないのだから。
辿り着いた一軒家は、今日も静かに僕を出迎えてくれた。閉じられたリビングのカーテンからは、うっすらと灯りが漏れている。室内が見えないのは、青年が帰ってきているからだろう。手早く玄関の鍵を開けると、廊下を通ってリビングへと向かった。
青年は、いつもの席に座っていた。僕の足音に気がつくと、手を止めてこちらを振り返ってくれる。右手に箸を持っているのは、食事の途中だったからだろう。机の上には、蓋を開けた弁当のケースが置かれていた。
「ただいま」
「お帰り。玄関から入ってくるなんて珍しいね」
僕が声をかけると、彼は穏やかな声で返事をする。いつもと変わらない優しい声が、僕に安心感を与えてくれた。黙ったまま彼の元へ歩み寄ると、無理矢理膝の上に腰を下ろす。少し頭を下げると、肩に頭を押し付けた。
「どうしたの?」
僕の真上からは、青年の戸惑った声が聞こえてきた。それもそうだろう。普段の僕だったら、直接甘えることなど滅多にないのだ。でも、黒いもやに満たされた僕の心は、こうでもしないと正気を保っていられない。震えそうになる声を押さえつけると、僕はなんとか言葉を発した。
「どうもしてないよ。ただ、こうしたい気分だっただけだ」
それは精一杯の強がりだったが、彼には真意が伝わったらしい。僕の頭に手を伸ばすと、優しく髪を撫でてくれた。僕にも振り払う気はなかったから、そのまま静かに身を委ねている。しばらくの間そうした後に、僕は彼の身体から顔を上げた。
「邪魔して悪かったな。風呂に行ってくるよ」
一言だけ言葉を返して、僕は廊下へと引き返していく。目の前に座っている青年の顔は、恥ずかしくて見ることができなかった。表面装甲を外して浴室に入ると、蛇口を捻ってシャワーを浴びる。熱い湯を身体にかけていると、暗い気持ちも流れていくような気分がした。
僕という存在は、どれだけ歪んでいるのだろう。神の代行者として人間を操りながら、常に他者の愛を望んでいる。その空白を埋めるたったひとつの手段は、人間の悲鳴を求めることだけだ。狂気に身を染めているその瞬間だけは、僕も神の代行者として立っていられる。
きっと、僕は歪んだ存在として生きていくしかないのだ。神の望みが叶うその日まで、稼働を止めることは許されない。精神をすり減らし、心身に傷を負いながらも、神の代行者として生きるのだ。それが僕の生まれた理由で、たったひとつの使命だからだ。