怖い話 ベッドの上に上がると、僕は両手を大きく広げた。両足を真っ直ぐ前に伸ばして、全身でシーツのありがたみを噛み締める。湯船に浸かって熱された身体は、ほんのりと汗をかいているのだ。もう、秋も中頃を過ぎたというのに、気温は全く下がる気配がない。
「おい、何してるんだよ」
大の字に寝転がる僕を見下ろして、ルチアーノが呆れた声を出す。枕元に腰を下ろすと、指先で僕の額をつついた。にやにやと笑う整った顔立ちを、僕は真っ直ぐに見上げている。純粋な背丈は僕の方が高いから、下から見るルチアーノの姿は新鮮だ。
「お風呂上がりは身体が熱いから、冷めるまでごろごろしてるんだよ。秋とは思えないくらいに熱いから、布団を被ったら汗をかいちゃうでしょ」
そう言って寝返りを打っていると、ルチアーノは呆れたようにため息をついた。真上から僕の顔を覗き込むと、妙に大人びた声で言う。
「熱いんなら、わざわざそんなところで寝なくてもいいだろ。リビングには扇風機だってあるんだから、この部屋にいるよりも涼めるぜ」
「嫌だよ。リビングは涼しいけど、この部屋みたいなベッドがないでしょ。僕は、ベッドの上でごろごろしたいんだよ」
子供のように答えながら寝返りを打つと、ルチアーノは呆れたように視線を逸らした。僕の間抜けな振る舞いを見て、愛想を尽かしたのかもしれない。彼はポケットから端末を取り出すと、一心に何かを打ち始めた。
それにしても、今日も夏のように熱い。冷房を入れるほどの暑さではないが、寝転がっているだけで汗が滲んでくる。僕たちが住むこの惑星は、いつからこんなに熱くなったのだろう。僕が子供の頃には、ここまでの寝苦しさは感じなかった気がする。
数分寝転がっていただけなのに、シーツは発熱しているかのように熱くなってしまう。関節に滲む汗から逃れるように、僕は横へと寝返りを打った。涼しくなったのは一瞬だけで、すぐに燃えるような熱に襲われる。再び寝返りを打つと、さっきと変わらない体勢のルチアーノが視界に入った。
「さっきから、ごそごそうるさいぞ。落ち着きの無い子供みたいだぜ」
子供という言葉を強調しながら、ルチアーノは素っ気ない態度で言う。半袖の寝間着に身を包んだ後ろ姿は、汗ひとつかいていなかった。機械で作られた彼の身体は、気候の変化にも強いのだろう。内部がどうかは分からないが、汗に煩わされないことだけは羨ましい。
「だって、熱いんだもん。僕の身体は機械じゃないから、熱には弱いんだよ」
「機械だって、熱には弱いんだぜ。外からは分からないかもしれないけどな、内部は冷却機構がフル稼働してるんだ。エネルギーの消費も激しいし、本当に困ったもんだぜ」
僕の言葉に重ねるように、ルチアーノも苦言を呈してくる。吐き捨てるような物言いをしているが、その顔は平然としていた。そういえば、コンピューターのような精密機器は、温度管理が必要になるんだっけ。最近の陽気は凄まじいから、未来のアンドロイドでも負担になるのかもしれない。
僕がそんなことを考えていると、不意にルチアーノが振り返った。真上から僕の顔を覗き込むと、にやりと口角を上げる。
「なあ、そんなに熱いなら、僕が涼しくなる話をしてやろうか」
突然の申し出に、僕は大きく口を開けてしまった。彼の発した言葉の意味が、いまいち分からなかったのである。弾むような響きとにやにやした表情から、それがいたずらの一種であることは分かった。
「涼しくなる話?」
言葉を繰り返すように尋ねると、彼はきひひと笑い声を上げた。楽しそうに口角を上げると、僕に顔を近づける。
「そうだよ。夏場の納涼と言ったら、この手の話が定番だよな。身体の芯から冷えるような話を、僕が君に聞かせてやるよ」
嫌な予感しか感じない言い回しに、僕は背筋が冷えるのを感じた。そんな意味深長な言い回しを聞いたら、さすがの僕にも彼の意図が分かってしまう。彼が語る『涼しくなる話』というのは、怪談話か何かなのだろう。僕が嫌がることを知った上で、そんなことを言い出したのだ。
「待ってよ。それって、お化けとかの話でしょ! 僕がホラーが苦手なことは、ルチアーノだって知ってる癖に」
「だからだよ。人間は、怖い話を聞くと涼しくなるんだろ。君のためを思ってやってやるんだから、おとなしく受け取りな」
横暴なことを言うと、彼はさらに笑い声を上げる。恩を売るようなことを言っているが、明らかに嫌がらせが目的だった。一度その気になってしまったら、ルチアーノを止めることなど叶わない。哀れな僕は、その場に寝転がったまま情けない声を上げることしかできなかった。
「意地悪……」
「意地悪じゃないだろ。じゃあ、まずは軽めの話からだな」
僕の前から顔を離しながら、ルチアーノは楽しそうに言葉を紡ぐ。この後のことを考えると、なんとしてでも止めるしかなかった。一瞬だけ策を考えた後に、身体を起こして声を上げる。
「嫌だ。聞きたくない!」
「うるさいな。静かにしろって」
そんな必死の抵抗も、ルチアーノの前では無意味だった。簡単に口を塞がれて、僕はもごもごと口を動かす。なす術もなく座り込んだ僕に、ルチアーノは勿体ぶった声で囁いた。
「なあ、知ってるか? 全身麻酔のメカニズムは、まだ解明されてないんだってさ。どうして効いてるかも分からないのに、効いてるからという理由で使われてるんだ。怖い話だと思わないか?」
「え?」
予想外の話題が飛び出してきて、僕はポカンと口を開く。わざわざ怖い話と言ったから、てっきりお化けの話をされるのかと思ったのだ。この手の蘊蓄だと分かれば、そこまで怯えることはない。
「なんだ。そういう話か。てっきり、心霊現象の話をされるのかと思ったよ」
僕が安堵の息を吐くと、ルチアーノはにやりと口角を上げた。余裕の笑みを浮かべながら、僕を煽るように言葉を並べる。
「油断してるな。これはまだまだ序の口なんだぜ。これから先には、もっと恐ろしい話が待ってるんだから」
彼は自信満々な様子だったが、僕はそこまで心配していなかった。背筋が凍るような話だと言っても、所詮はただの蘊蓄なのだ。びっくりするような内容でもなければ、目を背けたくようなグロテスクなものでもない。話半分に聞いていれば十分だろう。
「そうなんだ。じゃあ、楽しみにしてるよ」
流すような態度で呟くと、ルチアーノは僅かに唇を尖らせた。不満を隠しもしない表情のまま、吐き捨てるように言葉を重ねる。
「余裕な顔をしてられるのも今のうちだぞ。なあ、君は知ってたか。海老の尻尾とゴキブリの羽は、どっちも同じ成分でできてるんだってさ」
次に告げられた蘊蓄も、そこまで怖いものではなかった。確かに、海老を食べているときに思い出したら気持ち悪いかもしれないが、それ以上の感想は湧いてこない。
「なんか、インターネットの雑学みたいな話だね。他にはないの?」
「まだあるぜ。……日本人の主食として名高い米には、虫の卵が産み付けられていることがあるんだ。人間は米を食う時に、卵まで一緒に口に入れてるんだよ。米袋を放置すると虫が沸くのは、米粒から孵化してるからなんだ。まあ、家で米を炊かない君には、あまり関係ないかもしれないけどね」
淡々と吐き出された蘊蓄を聞いて、僕は顔をしかめてしまった。今度の雑学は、僕にとっても気分が悪い話だったのだ。自分が毎日食べている物に虫の卵がついていたなんて、できれば知らないまま生きていたかった。こんな話を聞かされてしまったら、明日からお米なんて食べられないだろう。
「今の話は、けっこう効いたみたいだな。どうだよ。少しは涼しくなったか?」
そんな僕の反応に満足したのか、ルチアーノが楽しそうに笑みを浮かべる。寒気を感じたのは事実だったから、おとなしく認めることにした。
「涼しくなったっていうよりも、ちょっとぞわっとした感じかな。そんな気味の悪い話、できれば聞きたくなかったよ」
「そういう、背筋が凍るような現象が、納涼の醍醐味なんだろ。古き良き日本の文化ってやつだな」
僕には分からないことを言いながら、ルチアーノはケラケラと笑い声を上げる。明らかに意味が間違っているが、指摘する気にはなれなかった。まあ、ルチアーノが楽しんでいるのなら、少し付き合ってあげてもいいだろう。あまりにもひどい蘊蓄が出てきたら、その時に止めればいいのだ。
「じゃあ、次の話だな」
僕が何も言わずにいると、ルチアーノは楽しそうに言葉を続ける。勿体ぶるように間を開けると、僕の耳元に顔を近づけた。
「知ってるか。野菜や果物のダンボールには、ゴキブリの卵が産み付けられていることがあるらしいんだ。常温で放置しておくといつの間にか孵化して幼虫が……」
「わあぁっ! その話はそこで終わり!」
背筋に嫌な寒気が走って、僕は大きな声を上げてしまう。虫の話だって嫌だというのに、ゴキブリの話はご法度だ。そもそも、二つ前の蘊蓄の時だって、ゴキブリの話をしていたではないか。ここまで何度も重ねられたら、僕のキャパシティが耐えきれない。
「なんだよ。まだ話は終わってないぞ。これから、もっと恐ろしい話をするんだから」
無理矢理話を切り上げられて、ルチアーノは不満そうに鼻を鳴らす。明らかに話し足りない様子だったが、僕は聞くための気力を失っていた。さっきまでの熱が嘘のように、身体は冷たく凍えている。何を隠そう、僕の実家から届く荷物の入っている箱は、その多くが野菜のダンボールに詰められていたのだ。
「もう、十分涼しくなったよ。これ以上寒くなったら、身体が凍えちゃうでしょ」
近づいてくる身体を押し戻しながら、僕はなんとか言葉を紡ぐ。納得してくれたのかは分からないが、彼はおとなしく身を引いてくれた。
「まあいいか。納涼という目的は果たしたし、面白い反応も見れたしな」
吐き捨てるように呟くと、ルチアーノは再び端末を取り出す。話は終わったみたいだから、僕も再びベッドの上に横になった。さっきの言葉で発生した鳥肌は、今も僅かに残っている。お風呂上がりの発熱も冷めているから、布団を被ってもそこまでの暑さは感じない。シーツの上で全身を伸ばすと、僕は温もりに身を委ねた。
翌朝、朝食の準備を整えた僕は、テーブルの上を睨み付けていた。視線の先に並べられているのは、温めたばかりのパックご飯である。右手に箸を持ちはしたものの、手が動いてくれなかったのだ。僕の脳裏を横切っていくのは、ルチアーノが告げたあの言葉である。
──日本人の主食として名高い米には、虫の卵が産み付けられていることがあるんだ。人間は米を食う時に、卵まで一緒に口に入れてるんだよ。
そんなことを教えられたら、嫌でも意識が向いてしまう。僕の目の前にある無数の米粒は、いったいいくつが虫付きなのだろう。これまで気にせずに食べてきたことが、我ながら信じられなかった。
僕が白米とにらめっこしていると、背後から足音が聞こえてきた。身支度を終えたルチアーノが、僕の様子を見に来たのである。僕の後ろ姿を視界に収めると、彼は呆れた声で呟いた。
「何してるんだよ。食べるならとっとと食べな」
「そんなこと言われても、やっぱり気になっちゃうんだよ。今から食べるお米には、どれくらいの虫がついてるんだろうって」
小さな声で答えると、彼は面倒臭そうに溜め息をつく。僕の隣に歩み寄ると、子供に言い聞かせるような声で言った。
「そんなどうでもいい蘊蓄くらい、とっとと忘れろよ。そんなことばっか気にしてたら、二度と米なんか食えないぞ」
「そうなんだけど、でもさ……」
箸を宙に浮かべたまま、僕は情けない声を上げる。彼の云うことはもっともなのだが、そういう話ではなかったのだ。機械である彼にとっては、そんなことなど気にならないのだろう。
「そもそも、その蘊蓄の話をしたのはルチアーノでしょ。変なことさえ言わなければ、こんなことにはならなかったのに」
恨みを込めて呟くと、ルチアーノは不満そうに鼻を鳴らす。軽く僕を睨み付けると、トゲのある声で答えた。
「それは、君が涼みたいって言ったからだろ。納涼に付き合ってやったんだから、感謝してほしいくらいだよ」
お互いに沈黙を守ったまま、僕たちはその場に対峙する。しかし、どれだけ不満を語っても、状況が変わるわけではないのだ。嫌なことを知ってしまったとしても、おとなしく受け入れるしかない。覚悟を決めて箸を伸ばすと、白米を掬って口に入れた。
口の中に広がる感触は、いつもと同じお米の食感である。いつもと同じものを食べているのだから、当たり前と言えば当たり前だ。しっかりと咀嚼して飲み込むと、次の一口に手を伸ばす。食事は順調に進んでいって、すぐにパックの中身は減っていった。
「とっとと食べろよ。今日も練習があるんだから」
僕のすぐ隣から、ルチアーノの急かす声が聞こえてくる。誰のせいでこうなっているのかなど、少しも気にしていないみたいだ。そういう大胆なところこそ、彼らしいと言えば彼らしいのだろう。小さく溜め息をつくと、僕は再び箸を動かした。