心配 洗面所から出ると、僕は真っ直ぐにリビングに向かった。狭い廊下へと足を踏み出すと、賑やかな音声が聞こえてくる。リビングで待っている青年が、ゴールデンタイムのバラエティ番組を見ているのだろう。男の話し声が聞こえたかと思うと、大きな笑い声が響き渡った。
予想通り、部屋の中に足を踏み入れると、青年がソファに座っていた。寛いだ様子で足を伸ばして、視線をテレビに向けている。テレビ画面に映っているのは、VTRが流れるバラエティ番組だ。芸人が奇妙な仕草で笑いを取りながら、人気テーマパークをリポートしていた。
ちらりと彼に視線を向けると、僕は彼の元へと歩み寄った。ソファの背凭れに手をかけると、彼の頭に声をかける。
「上がったよ」
「うん。ありがとう」
テレビへと視線を固定したまま、彼はぼんやりと言葉を返した。VTRに集中しているのか、返事は上の空である。特にやることもないから、僕もテレビを見ることにした。彼の隣に腰を下ろすと、同じ方向に視線を向ける。
画面の向う側では、芸人たちが絶叫マシンに乗せられていた。パーク内一のスピードを誇るジェットコースターという触れ込みだからか、不安そうに席に腰を下ろしている。中には絶叫マシンが苦手な人間もいて、半ば無理矢理乗せられていた。全員が準備を整えると、勿体ぶった動きでマシンが動き始める。
そこからは、よくあるバラエティ番組のワンシーンだった。高速で流れていく景色を背景に、マシンに乗った芸人が悲鳴を上げているのだ。顔は風圧で押し潰され、見ていられないほどに変形している。数分の間叫び続けると、ようやく映像が切り替わった。
マシンから降りてしばらく歩くと、彼らはジェットコースターのリポートを始めた。何が面白いのかは分からないが、青年は画面を見つめている。マシンのリポートをしたいのなら、わざわざ顔を映す必要などないのだ。画面が圧迫されて、周りの光景が隠れてしまう。
僕が呆れていると、テレビ番組がテロップを流し始めた。どうやら、今の映像を最後に、この番組はエンディングを迎えたらしい。隣に座っていた青年が、おもむろにソファから腰を上げる。僕の方に顔を向けると、ひと言だけ声をかけた。
「じゃあ、僕はお風呂に行ってくるね」
そのまま僕に背を向けると、洗面所の方へと歩いていく。彼の後ろ姿を見送ると、僕はテレビに視線を戻した。
バラエティ番組が終わった後には、別のバラエティ番組が始まる。次に流れ始めたのは、トーク系の番組だった。女性芸能人が何かを喋ると、男性の司会者がツッコミを入れる。しばらく内容紹介が流れた後に、ようやく本編が始まった。
見るともなしに画面を眺めていた僕は、息が止まりそうになってしまった。画面の上に流れ出したテロップには『恋愛の本音』と書かれていたのだ。しかも、その下には目立つ赤文字で、『束縛する男』という文字が書かれている。どうやら、この赤文字の内容が、今日のトークテーマであるらしい。
真っ直ぐに画面を捉えたまま、僕は動きを止めてしまう。視線がテレビに向けられたまま、動いてくれなくなったのだ。数分間のオープニングトークを終えると、彼女たちの話は本題へと移っていく。今日のトークテーマが発表されると、僕の体内のモーターが音を立てた。テレビから流れる声を聞き取るために、聴覚機能が研ぎ澄まされる。
どうして、僕はここまで気にしてしまうのだろうか。こんなものはただのバラエティ番組で、人間の恋愛についての講座などではないのだ。それでも、人間の常識を知らない僕にとっては、貴重な情報源に他ならない。テレビ番組で放送される内容となれば、一般市民の意見に近いものだからだ。
音を立てて唾を飲み込むと、僕はテレビに意識を向ける。テレビの中の女性芸能人たちは、勝手気ままに言葉を交わしていた。甲高く耳障りな語り口調を、司会の男が盛り上げていく。彼女たちの言葉をまとめると、このような内容になった。
──GPSをつけろと言われたら
「GPSとかあり得ないでしょ。私生活全部まる見えなんだよ」
「いつどこにいるかまで見られたら、絶対に追及されるよね」
「私は、条件をつけるならいいかな。プライベートなことは詮索しないとか」
「そういう男は、GPSなんかつけないって」
──浮気の線引きが厳しい
「いるよね。面倒臭い男。異性と食事をしたら浮気だとか言い出したりしてさ」
「些細なことでも浮気を疑ってくるやつ、いるよね。職場の友達だって言ってるのに、全然信じてくれないとかさ」
「そのくせ、自分は女友達と飲んだりしてるんだよね。それは浮気じゃないのかよ」
──連絡先のチェック
「これはアウトでしょ。メッセージ画面を覗き見するとか、即別れるわ」
「昔の男がこういうタイプだったな。仕事の関係者って言ってるのに信じてくれなくて、端末二台持ってた」
「えーっ! そこまでしてたの? あたしだったら無理だな」
「まあ、半年で別れたけどね。そんなやつろくな男じゃないよ」
──デートの回数
「いるよね。空いてる日は毎日会わないと気が済まない男とかさ」
「同棲してるわけでもないのに入り浸ってるやつとかさ、絶対人の都合考えてないよね」
「それで用事があると浮気を疑ったりするから、ほんとやってられないよね」
好き勝手に交わされる会話を聞いているうちに、僕は両手が震えてきた。彼女らが語る愚痴の内容は、ほとんどが僕に当てはまっていたのだ。僕は青年にGPSをつけているし、女と密会することを咎めている。端末の内容だって覗き見できるし、家に入り浸っているのだ。
あの青年は、僕のことをどう思っているのだろう。僕の束縛が強いことを、不満に思ってはいないだろうか。僕のタッグパートナーになったと言っても、彼は普通の人間である。四六時中監視される生活が続いたら、いつか限界を迎えてしまうかもしれない。
一度不安に思ったら、落ち着かなくなってしまった。リモコンででテレビの電源を落とすと、ゆっくりとソファから立ち上がる。青年の部屋に移動すると、ベッドの中に潜り込んだ。大きく深呼吸をすると、彼の香りが漂ってくる。優しい温もりに包まれていたら、少し気持ちが落ち着いてきた。
しばらく身体を横たえていると、廊下から足音が聞こえてきた。風呂から上がった青年が、僕たちの寝室へと向かってきたのだ。ベッドのすぐ隣まで歩いてくると、真上から僕を覗き込んだ。
「ルチアーノ?」
「……なんだよ」
平静を装うと、僕は小さな声で答える。布団から僅かに顔を出すと、青年の微笑む顔が見えた。
「良かった。起きてたんだ」
普段と変わらない声で答えると、彼は僕の隣に潜り込んでくる。大きな身体が近づいてきて、柔らかい温もりが伝わってきた。僕の身体へと手を伸ばすと、さりげなく背中を撫でてくる。その手つきは溶けるくらいに優しくて、またしても不安が蘇ってしまった。
彼は、僕のことをどう思っているのだろうか。認めたくはないが、僕は世間的には束縛の強い男に当たるのだ。彼が他の相手を選ばないか不安で仕方ないし、四六時中見張っていないと気が済まない。何度も彼を問い詰めて、困らせたり怒らせたりもしているくらいだ。一般的な恋愛関係であれば、いつ捨てられてもおかしくない。
もしかしたら、と考えてしまって、僕は頬が熱くなった。開かれた片方の瞳から、人工の涙が零れ落ちる。それは頬を滴り落ちると、シーツに吸い込まれて消えていった。衝動的に寝返りを打つと、彼の身体に抱きついてしまった。
「わっ……! どうしたの、急に」
青年の能天気な声が、僕の頭上から降り注いでくる。泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、顔を上げることができなかった。視界から顔を背けるように、彼の胸元に押し付ける。静かに息を整えると、声を振り絞って返事をした。
「なんでも、ないよ」
必死に取り繕ったつもりでも、声は涙に震えてしまう。異変を感じ取ったようで、青年が小さく身じろぎをした。僕の頭に手を伸ばすと、髪を掻き分けるように撫で付ける。その優しさに触れたことで、余計に涙が溢れてきた。
彼の胸に顔を埋めたまま、僕はポロポロと涙を流す。瞳から溢れた熱い水は、彼の寝間着に吸い込まれていった。喉の奥から嗚咽が溢れて、隠すことすらできなくなる。彼は僕を抱き締めると、優しく背中を撫でてくれた。
「大丈夫だよ」
僕の背中を擦りながら、彼は小さな声で呟く。何も事情を知らないのに、よくもそんな言葉が言えるものだ。口では優しい言葉を吐きながらも、本心では面倒に思っているかもしれない。一度湧き出した負の感情は、渦を巻いて僕の心を黒く染めていく。
でも、そこまで疑っているのに、彼を突き放すことはできなかった。この男を失ってしまったら、僕には縋る相手がいないのだ。情に触れて脆くなった僕の心は、彼から突き放されることに耐えられない。不安と疑心を抱え込んだまま、彼の側にいるしかないのだ。
嗚咽の止まらない僕を見て、彼は困ったように身体を揺らす。僕の頭に手を触れると、優しく髪を撫でてくれた。しばらくそうした後に、耳元に顔を近づけてくる。
「大丈夫だよ。僕は、ルチアーノを一人にはしないから」
小さな声で発せられたのは、いつもと変わらない言葉だった。優しくて無責任な、人間らしい世迷い言である。人間なんてすぐに壊れてしまうのに、どうしてそんなことが言えるのだろうか。僕の機嫌を取りたいのなら、そんなものでは足りないというのに。
「本当かよ」
気がついた時には、口から言葉が漏れていた。自分の発言にびっくりして、僕は思わず顔を離す。青年も驚いたのか、頭を撫でる手を止めていた。間に漂う沈黙に、羞恥心が込み上げてくる。今なら誤魔化せると分かっていたのに、口から出る言葉は止まらなかった。
「本当に、一人にしないって誓えるのかよ。命をかけて、僕の側にいるって言えるのか?」
「誓えるよ。僕は、ずっとルチアーノの側にいる。この命が尽きるまで」
頭上から聞こえてくる言葉は、やはり無責任な響きに聞こえた。人間が何を言ったところで、僕の疑念は消えないのだ。人の感情の移り変わりの早さは、僕が一番よく知っている。紛れもない僕自身が、人の感情を操って生きてきたのだ。
「嘘ばっかりだ。人間は、いつも嘘ばかり並べてくる。信じるような素振りを見せておきながら、平気な顔をして裏切るんだろ。どうせ君だって、僕に愛想を尽かして去っていくんだ」
一度零れ出した言葉は、次から次へと溢れ出してくる。青年の胸元に視線を向けたまま、僕はいくつも言葉を吐き出した。八つ当たりのような言葉の羅列を、彼は静かに受け止めてくれる。僕が言葉を切ると、優しく背中を撫でてくれた。
「ルチアーノが大変な人生を送ってきたことは、僕もちゃんと分かってるつもりだよ。騙したり騙されたりして、人間を信じられなくなってることも。でも、僕はその人たちとは違うんだよ。ルチアーノに嘘なんてつかないし、裏切ったりもしないから」
青年の甘くて優しい声が、少し上から響いてくる。彼の親身な言葉を聞いていたら、少し気分が落ち着いてきた。流れ続けていた涙が止まって、喉から漏れる嗚咽が収まっていく。深呼吸をして呼吸を整えると、僕は思いきって顔を上げた。
「本当に、側にいてくれるのか。僕は君を束縛するし、すぐに浮気を疑うんだぞ。八つ当たりだってするし、困らせることだって言うんだ。そんなやつと一緒にいたら、すぐに愛想を尽かすだろ」
涙を浮かべながら言うと、彼は小さく笑みを浮かべる。僕の背中を優しく撫でると、言い聞かせるような声で言った。
「大丈夫だよ。ルチアーノに弱いところがあることは、ずっと前から知ってるから。僕は、そんなところも含めて、ルチアーノのことを好きになったんだよ」
どれだけ言葉を交わしても、彼の表情は変わらなかった。包み込むような笑みを浮かべたまま、優しい声で説得を続ける。瞳に映る光を見て、そこに一切の嘘がないと理解する。少し安心すると、胸の奥から言葉が溢れてきた。
「本当に、僕で良いのかよ。僕は、君にGPSをつけるんだぞ」
「見られてることには、もう慣れたよ。ルチアーノは僕と付き合う前から、僕のことを見てたんでしょ」
「僕は、すぐに浮気を疑うんだぞ。君が女と歩いてるところを見るだけで、離れていかないか心配になるんだ。そんなやつの相手なんてしてられないだろ」
「心配になる気持ちは、ちゃんと分かってるよ。僕も心配をかけないように、できるだけ気を付けるから」
「それに、僕は君の端末を覗き見するんだぞ。人間の世界では、端末の覗き見はあり得ないことなんだろ」
「確かに、ちょっと恥ずかしいけど、見られて困るようなことはないよ。僕は、浮気なんてしてないから」
そこまで言葉を並べると、彼は困ったように口元を緩めた。真っ直ぐに僕の瞳を見つめると、戸惑ったような声で言う。
「ねえ、ルチアーノ。どこかで変なものでも見たの? そんなに心配するなんて、ルチアーノらしくないよ」
正面から図星を突かれて、僕は何も言えなくなってしまう。テレビの会話を見て不安に思ったなんて、口が裂けても言えなかった。一般市民の言葉に踊らされるなんて、神の代行者としてあってはならないことだ。それも、恋愛に関する与太話なんて、僕には必要ないものなのに。
急に口を閉ざした僕を見て、青年はにこりと口角を上げる。恥ずかしさと腹立たしさを感じて、僕は思わず視線を逸らした。この男はいつもぼんやりしてるのに、こういう時だけ察しがいいのだ。実際には僕が本心を隠し切れなくなってるだけかもしれないのだが、認める気は一切なかった。
「ルチアーノは、こういう時だけは分かりやすいよね。何を見たかは分からないけど、心配しなくていいんだよ。僕は、ルチアーノが普通じゃないことを知った上で、恋人になりたいと思ったんだ。少しくらい迷惑をかけられたくらいで、愛想を尽かしたりはしないよ」
正面から言葉を投げかけられたら、羞恥心に耐えられなくなってしまう。さっきまで抱えていた不安は、どこか遠くへと消え去っていた。情けない姿を見せたことが恥ずかしくて、僕は頬を赤く染める。彼の胸元に顔を埋めたまま、小さな声で確かめた。
「本当だな」
「本当だよ」
「約束だからな」
僕から彼に言える言葉は、これだけが精一杯だった。子供のように甘えてしまったことで、羞恥心も倍増しているのだ。僕は神の代行者なのに、よりにもよって人間に甘えてしまうなんて。この青年と顔を合わせると、僕はおかしくなってしまう。
ゆっくりと彼から身体を離すと、触れていた腕を振り払った。その場で寝返りを打つと、彼に背を向けて目を閉じる。泣き顔を見せたことが恥ずかしくて、顔を見せる気にならなかったのだ。普段は使わない機能を使ったせいで、エネルギーも消費している。
僕が黙って背を向けても、青年は深入りして来なかった。僕の隣に横たわったまま、静かに呼吸を繰り返している。彼も一日中歩き回っていたから、エネルギーを消費しているのだろう。普段ならスキンシップを取るのだけれど、今日はそんな空気ではない。
しばらく目を閉じていると、意識が薄くなっていった。隣から響く物音を聞きながら、微睡みの中に身を委ねる。それから数分も経たないうちに、僕の身体はスリープモードに移行する。眠りの世界に落ちた後も、悪い夢は見なかった。