G 洗面所から出ると、僕は真っ直ぐにキッチンへと向かった。冷蔵庫の扉を開けて、中から冷やした麦茶を取り出す。コップに注いで口に運ぶと、水分が身体の中を満たしていった。しばらくの間その場に佇むと、ゆっくりと麦茶のボトルを手に取る。
冷蔵庫の扉を開けると、ボトルを同じ位置に戻した。少し考えてから、マーガリンを片手に食品棚へと歩み寄る。厚切りの食パンを手に取ると、表面にマーガリンを塗り込んでいく。オーブントースターの扉を開けると、三分に設定してスイッチを入れた。
踵を返して背後を振り向くと、再び冷蔵庫の扉を開ける。マーガリンを中に戻すと、ついでにベーコンと卵を取り出した。トースターが焼き上がる前に、食器棚からお皿を取り出すことも忘れない。全てを机の上に置くと、棚からフライパンを取り出した。
その時、僕の少し後ろから、カサリという音が聞こえてきた。何かが落ちたのかと思って、音の鳴った方へと視線を向ける。目の前に広がっているのは、何の変哲もないキッチンのフローリングだ。怪訝に思いながら視線を戻そうとした時、それは唐突に動き出した。
僕の視界の隅を、焦げ茶色の小さな物体が横切っていく。それは少しだけ前にスライドすると、目の前でぴたりと動きを止めた。丸みを帯びた身体の前では、二本の触覚が小刻みに動いている。その一瞬の情報だけで、すぐにやつだと分かってしまう。
「うわあ!」
姿を認識すると同時に、僕の唇から悲鳴が零れた。右腕がフライパンの持ち手に当たって、ガシャンと大きな音を立てる。その音に余計にびっくりして、僕はその場に固まってしまった。しかし、この騒ぎに驚いたのは、僕だけではなかったのだ。
フローリングの上に止まっていたそいつが、急に動き始めたのである。小刻みに両足を動かすと、真っ直ぐにキッチンの奥へと向かう。進行方向に設置されているのは、大きな食器棚と食品棚だ。やつは棚の隙間に直進すると、細い隙間に入り込んで行った。
何もいなくなった空間を眺めながら、僕は大きく息をつく。心臓がバクバクと音を立てて、なかなか鎮まってくれなかった。背筋は冷たく冷えているし、呼吸は荒くなっている。呆然としている僕の隣で、トースターが能天気な音を響かせた。
なんとか気を取り直すと、僕はコンロへと向かい合う。パンを焼いてしまったからには、中途半端な状態で置いておくわけにはいかなかった。震える手でベーコンのパックを開けると、フライパンの上に敷き詰める。上から卵を落とすと、蓋をしてしっかりと焼き上げた。
朝食の用意ができる頃には、僕の心も落ち着いていた。トーストを机の上に運ぶと、パンの片端からかぶりつく。口の中に広がるベーコンの味を感じながらも、頭の中ではやつのことを考えていた。いくら広い家に住んでいると言っても、あんなものと同居する気にはなれない。とっとと見つけ出して、息の根を止めてやる必要があった。
とはいえ、やつとの遭遇に慣れていない僕に、手際よく始末することなど不可能だろう。さっきのように悲鳴を上げるだけで、簡単に逃げられてしまうに決まっている。何を隠そう、実家に住んでいた頃は、その手の害虫は親が叩き殺していたのだ。自分が一人で始末するのは、今日この日が初めてだった。
そこまで思考を巡らせたとき、僕はあることに気がついた。この手の害虫の除去に関しては、僕より適任な人物がいるのだ。彼なら悲鳴を上げて固まったりもしれければ、何もできずに取り逃すこともないのだ。この状況を打開するためには、適役と言っても過言ではないだろう。
携帯端末を手に取ると、僕は急いでボタンを操作する。僕から連絡を取ることは滅多にないから、緊張で手が震えてしまった。いや、手が震えているのは、緊張だけが理由ではないのだろう。ついさっき目の前に出没したアイツは、一匹見たら三匹はいると言われているのだから。
メッセージを入力して送信すると、すぐに返事が返ってきた。僕にとってはありがたいことに、急ぎの用事は無いようだ。さらにメッセージを入力して、すぐに助けてほしいと伝える。数秒の間を開けた後に、了承を告げるメッセージが届いた。
とりあえず、やつと一対一で対峙するという状況だけは、なんとか避けることができたらしい。ホッと安堵の息をつくと、僕は周囲に視線を向ける。影に隠れていった宿敵は、見つからないように息を潜めているらしい。静まり返った部屋の中で、僕たちは静かに睨み合った。
「で、わざわざ僕を呼んだのか?」
一通り僕の話を聞くと、ルチアーノは真っ直ぐに視線を向けた。光を湛えた緑の瞳が、真っ直ぐに僕の両目を貫く。明らかに機嫌を損ねている様子だった。
「僕は、君が急いで来てくれって言うから、わざわざ駆けつけてやったんだぞ。それなのに、ゴキブリを退治してほしいだなんて、僕を馬鹿にしてるのか?」
鋭い瞳で僕を睨みながら、ルチアーノは低い声で捲し立てる。どうやら、彼は僕の身に何かがあったと思って、大急ぎで駆けつけたらしい。刺客に襲われることも日常茶飯事だから、最悪の事態も考えていたのだろう。その結果がこれなのだから、怒るのも当たり前だ。
「だって、怖かったんだよ。アイツは一匹姿を現したら、三匹はいるって言うでしょ。早めに息の根を止めておかないと、家がやつらの住み処になっちゃうよ」
僕も必死に状況を説明するが、言い訳じみた言葉になってしまう。人間が持つ虫への嫌悪感というものは、機械である彼には伝わらないのだろう。僕だってなぜかと言われてしまうと、上手く説明ができないのだ。でも、やつの息の根を止めないと、今夜は安心して眠れない。
「そんなもの、自分で殺虫剤でも使って殺せばいいだろ。僕は忙しいんだ。こんな下らないことで呼び出さないでくれ」
「下らないことじゃないよ。アイツの息の根を止めておかないと、僕は眠れないんだから。ルチアーノも僕のパートナーなんだから、安心を確保するのを手伝ってよ」
今にも帰ってしまいそうなルチアーノを、僕は必死に呼び止める。このままこの家に放り出されるなんて、想像するだけで恐ろしかった。何としてでも彼を説得して、やつを倒して貰わなければいけない。そのためには、形振り構っている暇はなかった。
「お願い。この通りだから」
顔の前で両手を合わせると、僕は一心に頭を下げる。真剣さが伝わったのか、彼は呆れたように溜め息をついた。
「分かったよ。……全く、君は一人じゃ何もできないんだから」
渋々ながらも立ち上がると、彼は机の上の殺虫剤を手に取った。少し缶の検分をすると、足音を殺してキッチンの方へと歩いていく。僕はあまり近づきたくないから、少し離れたところから覗いていた。食器棚の前で足を止めると、ルチアーノは黙って周囲を見渡す。
「そこだな」
小さな声で呟くと、彼は殺虫剤を構えた。食器棚の隙間を睨み付けると、棚の間にノズルを差し込む。確信を持った表情でポンプを押すと、中の成分が噴射された。
しばらく中身を撒き散らした後に、彼はそっと手を止めた。くるりとこちらを振り返ると、淡々とした声で言う。
「おい、細長い棒とかないのか?」
「えっ?」
邱にそんなことを言われても、僕にはさっぱり見当もつかない。思い出そうと頭を捻っていると、ルチアーノは焦れたように言った。
「ああもう。役に立たないな」
面倒臭そうに吐き出すと、彼はどこかへと歩いていく。足音を立てて戻ってきた時には、手にほうきが握られていた。物置になっている部屋で埃を被っていた、学校の掃除道具入れにあるような形のものである。上下反対に持ち上げると、持ち手の奥を隙間に差し込んだ。
何年も掃除していない隙間からは、大量の埃が溢れだしてくる。その白い固まりに混ざって、焦げ茶色の物体が転がってきた。その丸みを帯びた身体は、僕が朝に見かけたものと全く同じだ。実物との遭遇に、僕は思わず声を上げてしまう。
「うわあ!」
思わず一歩引いてしまう僕を、ルチアーノは呆れた顔で眺めている。埃と死骸をビニール袋に詰めると、冷めきった声で呟く。
「そんなにびびるなよ。もう死んでるんだから」
「だって、気持ち悪いんだもん」
結局、ルチアーノが死骸を片付けるまで、僕はキッチンに入れなかった。死骸を入れたビニール袋は、二重に縛ってごみ袋の奥に押し込んでもらう。万が一夜中に蘇生したとしても、ここまでしたら抜け出せないだろう。そこまでして息の根を止めないと、僕は安心できないのだ。
「ほら、片付けてやったぞ」
手早く仕事を終えると、ルチアーノは勝ち誇った顔で言う。恩着せがましい物言いだったが、咎めることはできなかった。彼にやつを始末して貰わなければ、僕はずっと怯えて暮らすことになったのだから。
「ありがとう。助かったよ」
正面からお礼を言うと、ルチアーノは誇らしげに顔を上げる。僕に優位を取れることが、嬉しくて仕方なかったようだ。少し思案するような表情を浮かべると、思い付いたように言葉を告げる。
「助けてやったお礼に、ひとつお願いを聞いてもらおうかな」
「えっ?」
予想もしなかった言葉に、僕は間抜けな声を上げてしまう。ポカンとする僕を見上げると、ルチアーノは勿体ぶるように言った。
「だって、そうだろう。わざわざ駆けつけてやったんだから、相応の感謝をしてもらわないとな」
確かに筋は通っているが、僕には不安しかない申し出だった。ルチアーノが言うお願いは、僕にとっては難易度が高いものなのだ。恥ずかしい思いをさせられたり、危ないことをさせられたりする。できれは避けて通りたい道だった。
「確かにそうだけど、変なことだったら聞かないからね」
「どうだろうな。今回は汚れ仕事をやらされたんだから、多少の要求は許されるだろ」
「嫌だよ。それとこれとは別なんだから」
念を押すように言うが、ルチアーノは全く聞いていない。嫌な予感が胸を掠めて、僕は少し不安になった。