ハンドクリーム 冬になると、人間の身体は乾燥しやすくなる。関節は皮膚がガサガサになるし、手の甲は皮がひび割れてしまうのだ。指は皮が捲れてささくれができ、ひどい時には出血することもある。予防として毎日ハンドクリームを塗っているが、あまり効果は見られなかった。
そうなってくると、ひとつ困ることがある。手が乾燥してしまうと、デュエルに支障が出てきてしまうのだ。上手くカードを捲れなかったり、プロテクターの入れ換えに手間取ったりする。指から血が出ている時などは、ディスクやプロテクターを汚してしまう危険だってあった。
その日も、僕の手にはささくれができていた。最もよく動かす右手の親指に、長さ数ミリの縦線が入っていたのだ。まだ血が出るほど深くはなかったが、皮の奥が僅かに露出している。気を付けておかないと、すぐに傷が深くなりそうな様子だった。
小さな傷を庇いながら、僕は慎重にデュエルを続ける。今日のタッグのパートナーは、珍しいことにアキと組んでいた。町で姿を見かけたから、僕の方から声をかけたのである。彼女も異論はなかったようで、二つ返事で引き受けてくれた。
相手のフィールドを睨み付けると、僕は脳内で展開を考える。仮にもアカデミアの学生の前だから、負けるような真似は許されなかった。いや、そこまで気負わなくてもいいのだけれど、負けるのは僕のプライドが許さない。僕だって年頃の男の子なのだ。それくらいの見栄はあるのである。
手札から一枚のカードを掴むと、僕はモンスターを召喚する。モンスターの効果を使うと、今度は別のモンスターを特殊召喚した。フィールドに並べられたモンスターのレベルは、僕の想定どおりになっている。エクストラデッキからカードを取り出すと、シンクロモンスターを召喚した。
再び相手のフィールドを眺めると、僕は脳内で数字を辿る。既にフィールドに出ていたモンスターと合わせれば、攻撃力は十分に足りているだろう。ディスクを操作してテキストを確認するが、相手のフィールドに強大な効果を持つモンスターはいない。トラップでの反撃さえ飛んで来なければ、確実に勝利に大手をかけられそうだった。
最後にもう一度自分のフィールドを確認すると、僕はディスクを操作する。バトルフェイズに切り替えて、相手のモンスターを攻撃することにしたのだ。僅かな緊張を抱えながら、モンスターでの攻撃を宣言する。相手のフィールドにはトラップが伏せられていたが、発動される様子はなかった。
一体目のモンスターを破壊すると、今度は隣のモンスターを破壊した。こちらも、さっきの攻撃と同じように、トラップカードが発動される気配はない。真っ直ぐに攻撃が命中して、相手のライフが大きく減った。ここまでダメージを与えていれば、相手も挽回することはできないだろう。
カードを二枚伏せると、僕はターンエンドを宣言する。僕の予想通り、相手に状況を挽回することはできなかった。フィールドはほぼがら空きの状態のまま、ターンはアキへと回ってくる。アキも大会に出るほどの実力者だから、戸惑うことなく勝負に決着をつけた。
「やったね」
デュエルディスクを片付けると、僕はアキに声をかける。同じようにディスクを畳んでいたアキが、にこやかな笑顔でこちらへと微笑んだ。
「○○○のおかげよ。私一人では勝てなかったわ」
「そんなことないよ。アキは強いから」
他愛もない会話を交わしながら、僕たちは前へと歩を進める。僕たちの誘いに乗ってくれた、対戦相手の二人にお礼を告げるためだ。コートの中央で向かい合うと、デュエルについての言葉を交わす。最後に別れの挨拶を済ませると、踵を返してコートの外へと向かった。
次に使う人たちが待っているから、僕たちもコートの外へと移動する。デッキを鞄の中にしまおうとしたところで、僕はあることに気がついた。
「あっ」
「あら、どうしたの?」
急に声を上げた僕を見て、アキは不思議そうな表情を浮かべる。そんな彼女の隣で、僕は静かに足を止めた。僕の視線が落ちているのは、さっきまでデッキを握っていた右手である。正確には右手そのものではなくて、ささくれができていた指先だ。皮の一部がめくれていたその部分は、いつの間にか剥がれて血が出ていた。
「ちょっと、ささくれができちゃって」
手元に視線を下ろしたまま、僕は鞄からハンカチを取り出す。出血は少し前から始まってたのか、皮膚にも擦れた血の跡がついていた。もしかしたら、自分が気づいていないうちに、どこかに血をつけているかもしれない。ハンカチを押し当てると、溢れ出す血の玉を吸い上げた。
「血が出てるじゃない。絆創膏を貼った方がいいわ」
そんな僕の様子を見て、アキは自分の鞄に手を伸ばす。小さなポケットを開けると、ケースに入った絆創膏を取り出した。中から一枚だけ取り出すと、僕の方へと差し出してくれる。自分では絆創膏を持っていなかったから、ありがたく受け取ることにした。
「ありがとう」
絆創膏のパッケージを捲ると、血の玉が浮かぶ指先に貼り付ける。膨らんでいた赤色の液体が、ガーゼにピンク色の染みをつけた。左右の台紙を剥がして、片方ずつ指に巻き付ける。出血の原因さえ覆ってしまえば、周りを汚すこともないだろう。ごみを鞄の中に入れると、僕はアキと向かい合った。
「冬は乾燥するから、デュエルをするのも一苦労だね。カードを汚しちゃっても困るし」
何気なく言葉を発すると、アキは柔らかな笑みを見せた。僕の顔を見上げると、諭すような声色で言う。
「そういうときは、ハンドクリームを塗って眠るといいわよ。手を保護する習慣をつければ、肌の状態はかなり変わるわ」
「塗ってるんだけど、あんまり効果がないんだよ。手の甲もガサガサになっちゃうし、ちょっと困ってるんだ」
アキの言葉に応じるように、僕は静かに言葉を口にした。僕だって、何も対策をしていないわけではないのだ。毎晩ハンドクリームを塗って眠っているし、日中もこまめに塗り直している。そこまでしているというのに、僕の手はガサガサなままなのだ。
「もしかしたら、ハンドクリームがあってないのかもしれないわ。合わない薬を塗っていても、身体には悪影響にしかならないでしょう」
「ハンドクリームが合わない?」
聞き慣れない言葉が飛び出してきて、僕は思わず声を上げてしまう。ハンドクリームに相性があるだなんて、これまでに聞いたこともなかった。確かに、ブランドによって価格に違いはあるけれど、それは匂いがついていたりブランド代が入っているからだと思っていた。しかし、アキの話を聞く限りでは、何か違いがあるようなのだ。
「そうよ。一口にハンドクリームと言っても、成分の配合はブランドごとに違うの。目的にあったものを選ばないと、余計に肌が荒れてしまうこともあるのよ」
「そうなんだ……」
彼女の話を聞きながら、僕はぼそりと言葉を発する。これまでに触れたこともなかった知識に、感心することしかできなかったのだ。この手のケア用品については、男よりも女の子の方が詳しいのである。知り合いに女の子がいて良かったとさえ思った。
そんな僕の姿を見て、アキは何かを思い付いたような表情を見せた。再び鞄を開けると、中から花柄のチューブを取り出す。
「よかったら、私のものを使ってみない? きっと、違いが分かると思うわ」
「いいの?」
「ええ。そこまで高いものでもないもの」
そこまで言われたのなら、少しもらってみてもいいだろう。彼女の好意に甘えて、僕は目の前に両手を差し出した。小さい手でチューブのキャップを開くと、彼女は中のクリームを絞り出す。手のひらに着地した乳白色の塊は、思っていたよりもずいぶん柔らかかった。
手のひらの温度で溶けてしまいそうなそれを、僕は両手で塗り広げる。水のように滑らかなその物質はすぐに手のひらに広がっていった。そのまま手の甲をなぞってみると、皮膚の凹凸に浸透していく。ガサガサしていたはずの表面が、いつもよりもつやつやになるのを感じた。
「確かに、いつもとちょっと違うかも……」
手の甲を何度もなぞりながら、僕は小さな声で呟く。アキから借りたハンドクリームは、僕が使っているものよりも明らかに質がよかった。肌に乗せるとすぐに広がるし、塗り広げた後もベタベタしたりしない。それに、ほんのりと花の香りが漂っていたのだ。
「それならよかったわ。薬局でも買えるから、探してみるといいわよ」
優しい笑顔を見せながら、アキはハンドクリームを鞄にしまう。そうこうしているうちに、外では日が暮れ始めていた。彼女はトップス出身のお嬢様だから、あまり遅くまで外出することはできないだろう。そろそろお別れの時間だった。
「じゃあ、今日はこれで解散にしようか。ハンドクリームのこと、教えてくれてありがとう」
建物の外に出ると、僕はアキに声をかける。繁華街の中央に位置するショッピングビルには、冷たい冬の風が吹き付けていた。この辺りはビルが多いから、風も郊外より強くなるのだ。厚手のコートのボタンを留めると、アキは微笑みを浮かべて答えた。
「いいのよ。じゃあ……またね」
帰りの挨拶を済ませると、彼女は繁華街の奥へと歩いていく。その後ろ姿を見送ってから、僕はくるりと向きを変えた。迷うことなく足を踏み出すと、目的地を目指して進んでいく。しばらく歩くと、派手な色合いの看板が見えてきた。
そう。僕が向かったのは、繁華街に位置するドラッグストアだった。アキの話を聞いて、早速新しいものを買いに来たのである。町にあるような大きな店舗なら、ハンドクリームもたくさん並んでいるだろう。天井から吊るされた案内板を見ながら店内を歩くと、ハンドクリームの棚の前で足を止める。僕の予想通り、そこには棚一つ分のハンドクリームが並んでいた。
隙間なく並ぶ商品に視線を向けると、一つ一つのパッケージを眺めていく。一口にハンドクリームと言っても、その形は様々だった。ケースもチューブ状のものが主流のようだが、缶やプラスチックの容器のものもある。値段もかなり差があるようで、三百円もしないものから二千円近くするものまであった。
左右に視線を動かすと、僕は棚の前で途方に暮れる。これだけたくさんの容器が並んでいると、僕にはどれが良いものか分からないのだ。チューブをひっくり返して成分表示を見てみるが、効果や効能など分かるわけがない。分かるのは、匂いがついているかいないかくらいである。
こんな調子では、どれか一つを選べるような状態ではない。ここは一度家に帰って、評判のいいものを吟味するべきだろう。そう思って踵を返そうとしたとき、視界にひとつのパッケージが映った。
それは、アキが持っていたハンドクリームだった。ピンク色をベースにした花柄のチューブに、アルファベットの商品名が書かれている。隣には同じ製品と思われる、水色や緑のパッケージが並んでいた。デザインにあしらわれた花が違うのは、クリームの香りを示しているのだろう。
サンプルのチューブに手を伸ばすと、蓋を開けて中身を捻り出してみた。鼻に届く香りや触れた感触は、アキが持っていたものと全く同じである。下に貼られた値札には、三桁の数字が書かれていた。決して安いわけではないが、買えないほどに高いわけでもない。
しばらく悩んだ後に、僕はそのチューブを手に取った。足早にレジへと向かうと、手早く会計を済ませて商品を受け取る。男が花柄のハンドクリームを買うなんて、少し気恥ずかしかったのだ。いくら時代が変わったと言っても、この手のアイテムは女の子が使うものだと思われているのだから。
お店の外に出ると、辺りはさらに暗くなっていた。容赦なく吹き付ける冷たい風が、僕の身体を包み込む。コートのボタンをしっかりと止めると、僕は壁際で足を止めた。買ったばかりのハンドクリームを取り出すと、追加で両手に塗りたくる。
両手が潤うと、僕はようやく家路を目指した。寄り道をしていたこともあって、時刻はすっかり夜になっている。寂しがり屋のルチアーノは、僕の帰りが遅くなることを嫌がるのだ。彼の機嫌を損ねないためにも、早めに家に帰らなくてはならない。
数十分かけて家に辿り着くと、既にルチアーノは帰ってきていた。リビングのカーテンを全開にしたまま、ソファに座ってテレビを見ている。僕の足音に気がつくと、彼はちらりとこちらに視線を向けた。
「やっと帰ったのか」
「ただいま。寄り道してたら遅くなっちゃって」
言葉を返しながら、僕はリビングの窓際へと向かう。窓を覆うカーテンを閉めなければ、部屋の中が丸見えなのである。ルチアーノは電気こそつけてくれるものの、カーテンまでは気にかけてくれない。急いで室内と外を遮る僕の背後で、ルチアーノは疑うように言葉を吐いた。
「ふーん。僕を待たせてまで寄り道するなんて、よほど大事な用事だったんだな。もしかして、他の奴と密会してたのか?」
冗談のような語調を作ってはいるが、そこには本気が滲んでいる。僕が浮気などするわけがないのに、心の奥底では疑っているのだろう。彼をここまでの追及に駆り立てるのは、嫉妬心なのか人間不信なのかどちらなのだろうか。
「そんなわけないでしょ。ただの買い物だよ」
軽い調子で言葉を返すと、僕はルチアーノの隣を通りすぎる。椅子に置いていた荷物を片付けて、夕食の準備をしようと思ったのだ。しかし、僕のその計画は、ルチアーノの一言で止められてしまった。
「なあ、君。僕に隠し事してるだろ」
「え?」
想像もしていなかった言葉に、思わず間抜けな声を上げてしまう。それが気に入らなかったのか、彼は余計に表情を険しくした。正面からこちらを睨み付けると、喉から絞り出すような声で言う。
「誤魔化そうとしたって無駄だぜ。君が女と密会してた証拠は、しっかりと掴んでるんだからな」
「へ?」
さらに言葉を並べられて、僕はまたしても間抜けな声を上げる。彼の言っている言葉の意味が、僕には全く理解できなかったのだ。浮気をした証拠があるなんて、いったい何を元にして言っているのだろう。だって、僕が浮気に当たることをしていないことは、僕自身が一番よく知っているのだ。
「まだとぼけるのか。なら、僕が教えてやるよ。君の身体からは、香水の匂いがするんだ。花の匂いがする香水なんて、男は絶対につけないだろ」
混乱する僕をよそに、ルチアーノは自信満々な声色で言う。しかし、どれだけ確信を持った声色で語られても、僕にはピンと来なかった。花の香りがする香水なんて、アキは使っていなかったはずだ。そもそも、タッグパートナーが香水を使っていたとしても、匂いが移ったりはしないだろう。
そこまで考えた時に、ふと思い当たることに気がついた。花の匂いの正体について、一つだけ心当たりがあったのだ。それは香水などではなく、もっと生活に密着したものだ。持ち上げたままになっていた鞄を手に取ると、中から目的のアイテムを取り出す。
「ねぇ、もしかして、それってこんな匂いだった?」
片手にそれをを握ったまま、僕はルチアーノの方へと歩いていった。余裕に満ちた僕の態度に、今度はルチアーノが気圧される。そんな彼の隣で足を止めると、僕はハンドクリームのキャップを開けた。
「なんだよ。急に」
戸惑った様子のルチアーノの前に、僕はハンドクリームの先を突きつける。僕からは少し離れているのに、フローラルな匂いが漂ってきた。僕が思い付いた心当たりというのは、このハンドクリームのチューブである。ルチアーノの表情が僅かに変わるのが、僕の視界の端に見えた。
「ルチアーノが嗅いだのは、この匂いじゃない?」
突きつけるように言葉を放つと、彼は悔しそうに顔を歪める。追及が全て空振りだったことが、恥ずかしくて仕方ないらしい。頬をほんのりと赤色に染めると、彼は勢い良く顔を背けた。
「そんな紛らわしいもの使うなよ! そもそも、男が香りつきのハンドクリームが使うことないだろ」
僕から視線を逸らしたまま、彼は甲高い声で捲し立てる。その饒舌な仕草から、抱えている羞恥心が伝わってきた。浮気の疑いをかけるということは、独占欲を示すことにも繋がるのだ。勝手に想像を膨らましたとなると、余計に恥ずかしいのだろう。
「仕方ないでしょう。おすすめされたのが匂い付きだったんだから。人間はルチアーノみたいに鼻がいいわけじゃないから、これくらいは気にならないんだよ」
言葉を返しながら、僕はハンドクリームの蓋を閉じる。本体のチューブを握ると、再び鞄の中へと押し込んだ。途中で遮られてしまったが、元々は鞄を片付けて手を洗うつもりだったのだ。鞄を手に部屋を出ようとすると、再びルチアーノに声をかけられた。
「で、おすすめされたって、誰にだよ」
廊下に一歩踏み出した状態のまま、僕は再び足を止める。恐る恐る後ろを振り返ると、彼はソファに座ったままテレビ画面を眺めていた。言葉では何気ない態度を装っているが、芯には疑惑の感情が滲んでいる。すぐには口に出せなかっただけで、聞いた時から気になっていたのだろう。
「……友達に」
咄嗟にそう答えたものの、自分でも失敗したと思ってしまう。僕の返しは、明らかに不自然だったのだ。言葉が出るまでにタイムラグがあるし、声も少し強ばっている。こんな違和感に満ちた振る舞いを、ルチアーノが見逃すわけがないだろう。
「今のは嘘だな。僕には分かるんだ」
僕の後ろで、ルチアーノが低い声を出す。明らかに機嫌を損ねたと分かる、重たくて冷めきった声だった。嫌な予感が背筋を走って、胸を冷たいものが溢れていく。黙って動きを止める僕を見て、ルチアーノは低い声で言った。
「今度は、ちゃんと聞かせてもらうからな。覚悟しろよ」
耳に入り込む声を聞きながら、僕は胸の中でため息をつく。やはり、僕はここで足止めされる運命らしい。荷物の片付けと身の回りのことは、彼の追及が終わってからになるだろう。これからのことを考えると、少し気が重くなるのだった。