『あーん』 翌朝は、いつもより早く目が覚めた。隣で服を着替えていたルチアーノが、退屈そうに視線を向ける。軽く頬を膨らますと、拗ねたような声で言った。
「なんだ。もう起きたのかよ。からかってやろうと思ったのに」
僕は、ゆっくりと布団から這い出した。顔を洗い、服を着替えると、キッチンへ移動して冷蔵庫の扉を開ける。中には、深皿に移されたマスカットのタルトが、昨日の食べかけのまま収まっている。僕の食べていたものは三分の一ほどが綺麗に残っているが、ルチアーノの食べていたものはほとんどがクリームだ。どうしようかと考えて、コーヒーに入れることにした。
「ルチアーノも食べる?」
尋ねると、ルチアーノはちらりとこちらに視線を向けた。すぐに視線を戻してから、興味の無さそうな声色で返事をする。
「要らないよ」
仕方なく、一人分だけ食器を用意した。スプーンを取り出すと、大量に残ったクリームに突き刺した。
生クリームを掬い取り、コーヒーの海に落としていく。真っ黒だったカップの表面は、すぐに茶色のまだらになった。液体からスプーンを取り出すと、そのまま口に含む。こんなに砂糖の味がするのに、思ったより甘くない。
ケーキをつついていると、ルチアーノがそろそろと近づいてきた。形の崩れたケーキを見ると、にやにやと笑いながら声をかける。
「貸せよ」
返事も聞かずに、無理矢理スプーンを奪い取った。ケーキに刺し込むと、クリームとマスカットを掬い取る。
「どうしたの?」
尋ねると、彼はにやにやと笑った。何かを企んでいる顔だ。少し嫌な予感がする。
「せっかくだから、イイコトをしてやろうと思ってさ」
そう言うと、彼はスプーンをこっちに差し出した。顔の前に突きつけると、にやにや顔を保ったまま言う。
「はい、あーん」
「えっ……?」
僕は、呆然とその姿を眺めていた。目の前の光景が理解できなかったのだ。彼は何をしているのだろう。この構えはどう見ても、俗世に伝わる『あーん』というものだ。
「なんだよ。食べないのかよ」
頭を巡らしていると、ルチアーノは急かすように言った。考えている暇がなくなって、慌てて顔を突き出す。スプーンを口に入れようとすると、すぐに躱されてしまった。
重力に導かれるままに、僕は体勢を崩す。前に倒れそうになったところを、直前で持ち直した。ルチアーノに視線を向けると、声を上げて非難する。
「何するの? 危ないでしょう」
「引っ掛かったね。僕が『あーん』なんてすると思うかい? 君は、少し人を信じすぎる癖があるみたいだね」
ケラケラと笑いながら、ルチアーノは弾んだ声で言う。マスカットを乗せたスプーンを口に運ぶと、一口で平らげた。見事な間接キスだ。
「あっ」
声を上げると、彼は怪訝そうな顔で僕を見た。奇妙なものを見たような声で言う。
「なんだよ」
「間接キス……」
僕が呟くと、今度は呆れたような表情を見せる。付き合ってられないとでもいうような態度で、再び言葉を発した。
「そんなの、今さら気にすること無いだろ。僕たちは、これまでにも散々口づけをしてるじゃないか」
「そうだけどさ……」
そんなことは分かっている。それでも、やっぱり気にしてしまうのだ。僕は年頃の男の子なんだから。
「ほら、こいつを返してやるよ。とっとと続きを食べな」
僕に興味を失ったのか、ルチアーノがスプーンを差し出してくる。その姿を見て、僕の欲望は膨れ上がってしまった。
「あのさ」
「なんだよ」
「『あーん』してほしい」
僕の言葉を聞くと、ルチアーノは動きを止めた。眉を真上に吊り上げると、甲高い声を上げる。
「はあ?」
「だから、その、『あーん』してほしい」
もう一度言うと、今度は呆れたように眉を沈める。相変わらず、表情豊かな男の子だ。
「嫌だよ。君はもう結婚できる歳なんだろ? ケーキくらい一人で食べな」
「誕生日だったんたから、それくらいいいでしょ。特別にお祝いしてよ」
嫌そうに眉を動かすルチアーノを、真正面から見つめる。眼力に押されたのか、彼は渋々受け入れてくれた。
「分かったよ。一口だけだからな」
そう言うと、彼はクリームとマスカットを掬い上げた。スプーンの先を、真っ直ぐに僕の方へと差し出す。心なしか、頬が赤く染まっているように見える。
「はい、あーん」
僕は、大きく口を開いてスプーンを飲み込んだ。クリームのこってりした甘味が、口の中いっぱいに広がる。身体を引いてスプーンを引き抜くと、マスカットを噛み砕いた。果実のさっぱりとした甘さは、クリームの重みを軽減してくれる。いくらでも食べられそうだった
「満足したかよ」
呟いて席を立とうとするルチアーノを、僕は腕を掴んで引き留めた。大きく口を開くと、『あーん』のおかわりを催促する。
「もっと食べさせてほしい」
「ああもう! ガキかよ!」
怒ったように答えながらも、彼はクリームとマスカットを掬い上げた。乱暴に突き出すと、僕の口の中に押し込んでくる。
「うぐっ……」
かなり奥まで押し込まれて、喉から声が出てしまった。口を押さえながらえずいていると、ルチアーノが怒ったように宣言する。
「こうなったら、全部食べてもらうからな。途中で気持ち悪くなっても知らないぞ」
どうやら、怒らせてしまったらしい。不満そうに鼻を鳴らしながら、タルトのクリームを掬い上げている。差し出されたスプーンを咥えながら、僕は必死ににやけを押さえていた。
ルチアーノは、僕のために『あーん』をしてくれているのだ。理由はどうであれ、その事実が嬉しかった。
そのあとも、彼は淡々とスプーンを動かして、僕は次々とクリームを飲み込んでいった。山のようにあったクリームも、食べさせてもらえばあっという間になくなってしまう。すぐにお皿の上は空っぽになった。
「食べたな。これで満足だろ」
「うん。ありがとう」
口元を拭いながら、僕はルチアーノにお礼を言う。僕の方をちらりと見ると、彼は不敵な笑みを浮かべた。
「君の要望を聞いてやったから、今度は僕のお願いを聞いてもらおうか」
散々『あーん』を求めておいて、今さら断ることなどできない。不安な気持ちになりながらも、僕は二つ返事で答えた。
「いいよ。ルチアーノのお願いを聞いてあげる」
せめて、難しい要求ではありませんように。そんなことを祈りながら、僕は次の言葉を待った。