いい肉の日 秋は、食欲の増す季節だ。外気が冷たくなることで、消費するエネルギーが増えるのである。ただでさえカロリーを消費するのに、これからどんどん寒くなるから、脂肪を蓄えないといけないのだ。何もしてなくてもお腹が空くし、ついついたくさん食べてしまう。それはみんなも同じようで、世間では食欲の秋なんて言われていた。
スーパーの食料品売り場は、色とりどりのポップで彩られていた。秋の味覚を全面に出し、レシピや調味料を添えて存在を強調している。さつまいもや栗のような定番食材から、きのこのような、普段は目立たないものまで並べられていた。
その中で、僕は気になるポップを見つけた。お肉コーナーの片隅に、焼き肉用品の特設コーナーができていたのだ。そこに垂らされたポップには、『いい肉の日』と書かれていた。
ポップの隣には、焼き上がったお肉の写真が載せられている。バーベキュー用の薄いものもあれば、豪快なステーキまで撮影されている。見ているだけでお腹が空く光景だった。
そう言えば、最近は焼き肉を食べていない気がする。ルチアーノがお寿司派だから、外食と言ったらほとんどが寿司屋だったのだ。焼き肉なんて家ではできないから、煙に満ちた店内も、肉の焼ける香ばしい匂いも、長いこと感じていなかった。
そんなことを考えていたら、焼き肉が食べたくなってしまった。学校に通っていた頃は、友達と一緒に食べ放題のお店に行っていた。元を取るつもりで食べていても、お肉ばかり食べることは難しい。悔しさを感じながらも、サラダとお肉を交互に食べていたのだ。
二十九日は、もうすぐそこだった。今年のいい肉の日は、ルチアーノを焼き肉に誘うのもいいかもしれない。そんなことを思いながら、僕はお肉コーナーを後にした。
「今日は、焼き肉を食べに行こうよ」
そう言うと、ルチアーノは怪訝そうな顔をした。眉を上げると、まじまじと僕を見つめる。
「焼き肉? どうしたんだよ、そんな急に」
「明日は、いい肉の日でしょ。せっかくだから、焼き肉を食べに行きたいなと思って」
そう言うと、彼は僅かに首を傾げた。一瞬だけ思案するような表情を浮かべると、すぐに納得した顔になる。彼も、僕と一緒に買い物に行っているから、俗世の文化がそれなりに分かるのだ。
「ああ、企業の販促記念日か。君は、そんなものに乗せられるようなやつだったのかい?」
からかうような笑みを浮かべながら、彼は僕を見上げた。意地悪な顔付きをしているのは、からかってやろうという魂胆があるからだろう。彼には申し訳ないが、今日は早めに話を進めたかった。
「そうだよ。おいしいものを食べる口実になるなら、僕はいくらでも販促に乗るんだ。だって、その方が楽しいでしょ」
「簡単に認めたな。ミーハーなやつめ」
にやにやと笑いながら、ルチアーノは僕の脇腹をつつく。普通の子供のような態度に、思わず口角が上がってしまった。こういうやり取りをしていると、彼が神の代行者であることを忘れてしまいそうになる。
「ルチアーノもついてくるよね?」
尋ねると、彼は僕から視線を逸らした。僕の身体から手を離すと、繕ったような声色で言う。
「僕は遠慮するよ。肉なんて好みじゃないし、油は装甲を痛めるからな」
予想通りの発言だった。彼は、好物以外の食にはほとんど興味を示さないのだ。しかし、こんなことで折れる僕ではない。両手を合わせると、拝むような仕草を取った。
「お願いだから、一緒に行こうよ。席に座ってるだけでいいからさ。ね?」
畳み掛けるように言うと、ようやく彼は視線を向ける。必死に頼み込む僕を見て、満足したように言葉を告げる。
「まあ、そこまで言うなら、行ってやってもいいぜ」
こんなお願いを聞いてくれるなんて、彼もかなり丸くなったものだ。時間の積み重ねを感じて、僕は少し嬉しくなった。
店内は、人の声で賑わっていた。まだ夕食のピークではないが、席は半分ほどが埋まっている。テレビでも紹介される人気店であることもあって、客足は多いみたいだった。
ボックス席に腰を下ろすと、ほっと息をつく。予定通り、混雑する前にお店に入れたようだ。席に置かれていたメニューを手に取ると、食べ放題のページに目を通した。
このお店のコースは、三段階あるみたいだった。内容と値段を比較して、真ん中の値段のコースを頼むことにする。メニューを差し出すと、向かい側のルチアーノに声をかけた。
「僕は決まったよ。ルチアーノは何にする?」
彼は、ちらりとメニューを一瞥した。ページを開くこともなく、興味なさげに視線を逸らしてしまう。
「僕は要らないよ」
「せっかくだから、同じコースにしようか。小学生は半額みたいだし」
「話聞いてるのか?」
抗議の声を無視して、僕はオーダーボタンを押した。店員さんにコースを伝えると、最初に食べるメニューをオーダーする。とりあえず、鶏肉とカルビを頼んだ。
しばらくすると、キッチンからお肉が運ばれてくる。トングで肉を掴むと、熱せられた金網の上に乗せた。ジュージューとお肉が焼ける音がして、煙と匂いが周囲を包み込む。焼き肉店ならではの光景だった。
「これでこそ、焼き肉って感じだよね。久しぶりだからたくさん食べちゃうぞ」
焼き加減を見ながら、火の通ったお肉をひっくり返す。前のめりになる僕を見て、ルチアーノは呆れたように言った。
「こんなことではしゃぐなんて、子供みたいだな。見ていて恥ずかしいぜ」
「だって、久しぶりの焼き肉なんだもん。ほら、ルチアーノも食べなよ」
声をかけると、お皿に焼きたてのお肉を入れた。腕を組んで僕を観察していたルチアーノが、僕に抗議の視線を向ける。
「要らないって言ったんだけど。聞こえなかったのかい?」
「同じコースを頼んでるんだから、食べないともったいないよ。一緒に食べよう」
「それは、君が勝手に頼んだんだろ」
文句を言うルチアーノをよそに、僕は自分の分のお肉をお皿に乗せた。箸に持ち変えると、たれを付けて口の中に押し込む。久しぶりの焼き肉は、環境も相まってものすごくおいしく感じた。
「おいしい。やっぱりお肉はいいよね」
一度手を止めると、空いた金網にお肉を乗せる。時間は限られているのだ。たくさん食べないともったいない。きゅんきゅんに敷き詰めてお皿を開けると、次のお肉をオーダーした。箸休めになるように、野菜の盛り合わせも忘れない。サイドメニューにたこ焼きがあったから、それも一緒に注文する。
「肉よりも寿司の方がいいだろ」
そんなことを呟きながらも、彼はお肉に興味が出てきたみたいだった。恐る恐る箸を取ると、お皿の上のお肉をつまみ上げた。たれをちょんちょんとつけると、リスのように口に含む。普段は見られない小振りな動作に、ついつい釘付けになってしまった。
「……何見てるんだよ」
真正面から、冷たい声が飛んでくる。急に恥ずかしくなって、慌てて視線を逸らした。
「ルチアーノがそんな仕草をするの、珍しいなって思って」
答えると、彼は恥ずかしそうに手元を隠してしまった。せっかくかわいい仕草だったのに、なんだかもったいない。
そうこうしている間にも、次のお肉が運ばれてくる。僕はどんどんお肉を焼いて、口の中に押し込んでいった。ルチアーノはマイペースで、サイドメニューのたこ焼きを口に運んでいた。お肉をお皿の上に乗せると、抗議の視線を送りながらも食べてくれた。
制限時間も後半になると、だいぶお腹が膨れてきた。脂の多いものを食べたから、口の中も重くなっている。そろそろ、デザートを食べる頃合いだと思った。
食べ放題メニューを広げると、デザートのページに視線を向ける。少しいいコースを選んだから、食べられるデザートも多種多様だった。外食とは、デザートを食べることで完成するのだ。並べられた文字列を眺めながら、僕は真剣に食べるものを選んだ。
「うーん……」
僕が唸り声を上げると、ルチアーノはちらりとこちらを見た。呆れたような顔をしながら、残っていた野菜を食べている。メニューとにらめっこをする僕を見て、気の抜けた声で言った。
「悩みすぎだろ。たかがデザートだろ」
「されどデザートだよ。デザートは、外食の醍醐味なんだから」
結局、候補に上げたメニューは二つまでにしか絞れなかった。ボタンを押して店員さんを呼ぶと、アイスクリームとチョコレートケーキを注文する。こういうコースのデザートは、単品メニューよりも小さいことが多い。二つくらいなら食べられると思ったのだ。
しばらく待っていると、店員さんがデザートを運んできた。アイスクリームを僕の前に置くと、チョコレートケーキをルチアーノの前に置く。後ろ姿が見えなくなるのを待ってから、ルチアーノがケーキを僕の方へと滑らせた。
僕はまじまじと目の前のデザートを見つめた。チョコレートケーキは洋菓子店に並んでいるような大きさのピースで、アイスクリームもレギュラーサイズくらいには量がある。膨れたお腹に詰め込むには、少し量が多かった。
沈黙を察したのか、ルチアーノがにやりと笑う。目の前に並んだお皿を見ると、からかうような声色で言った。
「君が考えてること、当ててやろうか」
僕は答えない。チョコレートケーキを引き寄せると、静かにフォークを差した。先の三角形を切り分けると、手で受け皿を作りながら口に運ぶ。ココアパウダーの粉っぽさと、チョコレートクリームの甘味が口の中に広がった。
僕が答えないことを悟ったのか、ルチアーノは淡々と言葉を続けた。笑みを含んだ高い声で、僕の感想を暴いてしまう。
「思ってたよりもでかい」
僕は、真っ直ぐにルチアーノを見つめた。斜めに吊り上がった緑の目が、光を湛えながら僕を見つめている。きひひと笑うと、身を乗り出しながら僕を煽った。
「そんなに食べられるのか? 君は、相当腹が膨れてるんだろ?」
「食べるよ。残したりしたらもったいないから」
答えてから、僕はアイスクリームに手を伸ばした。アイスは、早く食べないと溶けてしまうのだ。アイスとケーキを交互に食べたり、ケーキの上に乗せたりしながら、時間をかけてデザートを口に運んだ。
その間にも、ルチアーノはカレーを食べている。焼肉屋だというのに、お肉を少しも感じさせない取り合わせだった。
制限時間が終わるまでには、なんとか食事を終えることができた。甘くなった口の中を、烏龍茶の苦味で整える。満腹でお腹が破裂しそうだ。こんなに食べたのは久しぶりだった。
会計を済ませると、ルチアーノと並んで外に出る。あまり食べていなかったから、彼は涼しげな顔をしていた。勿体ないような気もするが、金額も半額だったから気にしないことにする。
家に着く頃に、身体の違和感に気がついた。胸の辺りに、ぼんやりとした不快感があるのだ。それは時間が経つにつれて大きくなり、身の回りのことを済ませた頃には、耐えきれないほどに重くなっていた。
リビングに戻ると、ソファの上に倒れ込む。テレビに向かって横になると、少し楽になった。僕の行動を見て、ルチアーノが不思議そうな表情を浮かべる。
「何してるんだよ。食べてすぐに寝たら牛になるぜ」
「なんか、少し気持ち悪くて……」
答えると、彼はにやりと口角を上げた。からかいモードに移行すると、楽しそうに僕の隣へと歩み寄る。
「なんだよ。胃もたれか? 君って、そんな歳だったんだな」
「違うって。お腹が空いてる時にたくさん食べたから、お腹がびっくりしてるんだよ」
「案外、歳だったりするかもしれないぜ。君は、もうすぐ大人になるんだろ」
「違うって。…………違うよね?」
「僕に聞くなよ」
答えながらも、彼は押し入れの方へと歩いていく。音を立てて棚を漁ると、薬箱から何かを取り出す。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、薬と一緒に持ってきてくれた。
「ほら、胃薬があったぜ。……半年くらい期限が切れてるけどな」
「ありがとう」
お礼を言ってから、彼から薬を受け取った。薬を口に含むと、水を傾けて流し込む。期限のことについては、とりあえず忘れることにする。
「じゃあ、僕は風呂に行ってくるからな。ゆっくり休めよ」
乱暴な声色で言うと、彼はリビングから出ていった。その後ろ姿を眺めながら、僕はにこりと笑みを浮かべた。