催事場 デパートの上階は、たくさんの人で溢れていた。催事場を埋め尽くすように、黒い頭の生き物が蠢いている。大抵の人はコートを着ているから、視界を覆うのは茶色か黒の二色だ。たまに赤やピンクのような鮮やかな色が混ざっていて、特に僕たちの目を引いた。
「本気で、この人混みに入っていくつもりかよ」
隣からは、子供の呆れたような声が聞こえてくる。コートに身を包んだルチアーノが、ちらりと僕に視線を向けていた。人間の集団が苦手な彼は、苦々しい顔を浮かべている。
「もちろんだよ。早くしないと、お目当てのものが売り切れちゃうからね。はぐれないように、しっかりと手を繋いでてよ」
「ここで待ってるんじゃ駄目なのか? どうしてわざわざ好き好んで、こんな人混みに飛び込まないといけないんだよ」
「ルチアーノにも感じてほしいんだよ。バレンタインのイベントっていう環境を」
そう。僕たちが来ていたのは、デパートのチョコレート売り場である。この大きなデパートでは、バレンタインの季節になると、催事場をまるっと使ってチョコレートの販売を行うのだ。規模はシティの中でも一番で、国内のみならず、海外の有名店まで出店しているらしい。その様子はテレビニュースでも放送されていたから、僕も存在は知っていた。
「もう十分だろ。全く、人間の食に対する執着ってのは恐ろしいものだな」
呆れを隠さずに呟くと、ルチアーノは大きく溜め息をつく。そんな彼を引き連れて、僕はイベントエリアへと足を踏み入れた。
すし詰め状態の催事場を、しっかりと手を繋いで歩いていく。通路は人で溢れていて、人とすれ違うのがやっとなほどだった。引っ張られるようについてくるルチアーノに気をかけながらも、首を左右に揺らして周りを見る。
右も左も、聞いたことのある名前ばかりだった。バレンタイン商戦の最前線なだけあって、高級ブランドのお店が多いようだ。テレビで紹介されていたベルギーのチョコレートのお店や、東京で流行っているお店、動物やものの形を模したチョコレートや、フルーツがメインのチョコレートもあった。
お目当てのお店は、エリアの奥の方に配置されていた。平日の昼間だと言うのに、会計を待つ人々の列がずらりと壁際に伸びている。店舗の前のショーケースには、カラフルな薔薇が並べられていた。といっても、本物の薔薇ではなく、薔薇の形を模したチョコレートだ。
「あのお店だよ」
声をかけると、ルチアーノはちらりと前方に視線を向けた。あまり興味が無いようで、すぐに視線を逸らしてしまう。
「並んでるな。これもチョコを買いにきた客なのか?」
「そうだよ。有名な上に、シティには店舗が無いお店だからね」
ショーケースの中を見ながら、どの薔薇を買うかを吟味する。本人には内緒にしているが、僕が買いにきたのはルチアーノに渡すためのバレンタインチョコなのだ。去年はもらうだけだったから、今年は僕からも渡したい。そう思って、口実をつけて買いにきたのだ。
ルチアーノに内緒で買う以上、本人を連れてくることはリスクになるのだけど、僕はあえて同行を求めた。人智を越えた力を持つ彼は、遠隔操作で人間の様子を観察することができるのだ。僕がこっそり行動したとしても、彼には筒抜けになってしまうだろう。バレンタインチョコを買ったのがバレて問い詰められるくらいなら、はじめから一緒に出掛ければいい。
少し悩んでから、僕は会計待ちの列に並んだ。そこそこ人は多いが、レジも複数人体制で捌いているから、待ち時間は数十分で済むだろう。後ろを振り向くと、ルチアーノに声をかける。
「買ってくるから、ルチアーノはチョコを見ててよ」
「結局待たせるのかよ。勝手なやつだな。先に外に出てるぞ」
ぶつぶつと文句を言いながら、背を向けてどこかへと歩いていく。小さな後ろ姿は、すぐに人混みの中へと消えてしまった。
壁際の最後尾に並ぶと、ワクワクしながら前に並ぶ人々を見た。誰もが浮かれた様子で、色とりどりの薔薇の花を買っている。花束を買ったあの女性は、恋人にでも渡すのだろうか。あの女の子が買った一輪の薔薇は、自分へのご褒美なのだろうか。季節に浮かれた僕の心は、そんなことを考えてしまう。あっという間に、僕の番がやって来た。
店員の女性に、目的の品を伝える。僕が選んだのは、五本入りの花束だった。包んでもらう薔薇は、定番の赤一色に揃えてもらう。これは、僕からルチアーノへの、真剣な愛の表れだ。本物の薔薇は恥ずかしくて渡せないけど、チョコレートなら渡せる気がしたのだ。
商品とプレゼント用の袋を受け取ると、軽い足取りで催事場を出た。本当はもっと見て回りたいけど、ルチアーノを待たせているから、あまり動き回ることはできない。早歩きで外へと向かった。
ルチアーノは、エリアの外に出ていた。休憩スペースの椅子に腰を掛けて、流れていく人々を眺めている。僕を見つけると、やれやれといった様子で席を立った。
「遅い。売り場を一周しても来ないなんて、どれだけ時間がかかるんだよ。待ちくたびれたぜ」
じっとりとした目で僕を見ると、咎めるような声色で言う。言葉とは裏腹に、怒っている様子は見えなかった。機嫌を損ねた訳ではないと知って安心する。
「ごめんごめん。でも、ちゃんと目的のチョコは買えたから」
軽い言葉で謝りながらも、僕の視線は催事場の方に向いていた。せっかく出向いたのだから、これだけで帰るのは勿体ない。ルチアーノの手を取ると、窺うように提案した。
「せっかくだから、もっと見ていこうよ。試食もできるからさ」
「えーっ。まだ見るのかよ。わざわざ人混みに入っていくなんて、君もかなりの物好きだな」
嫌々を隠さずに、ルチアーノは抗議の声を上げる。あからさまな態度に苦笑しながらも、僕は彼の手を引いた。
「だって、せっかく来たんだよ。見るだけでも堪能しないと勿体ないよ」
「別に買うわけじゃ無いんなら、端末で見てればいいだろ。人間って、無意味なことばっかするよな」
文句を言いながらも、大人しく後をついてきてくれる。最近の彼は、滅多に抵抗しないのだ。僕がそういうやつだと思って諦めているのか、信頼ゆえの許容なのかは分からない。後者だったなら嬉しいと、僕は思っている。
「無意味なことが楽しいんだよ。意味のあることだけが人生じゃないからね」
どこかで聞いたような言葉を返しながら、僕は催事場へと足を踏み入れる。ただでさえ甘い季節が、さらに甘いものに思えた。