カップル 頭の上で、目覚まし時計が大きな音を立てた。布団に潜ったまま手を伸ばして、なんとか響き渡る機械音を止める。寝ぼけた頭で再び身体を縮めると、ごろんと右に寝返りを打った。
再び眠りの世界に落ちようとした時、僕はあることを思い出した。力一杯布団を跳ね除けると、勢いよく上半身を起こす。冬の冷たい空気に晒されながらも、ルチアーノの行方を探した。
彼は、この部屋にはいないようだった。朝に強いルチアーノは、僕が起きるずっと前に目を覚まして、リビングを温めてくれるのだ。それだけではなく、時間になると僕を起こしに来てくれる。朝に弱い僕は、いつも彼に起こされてばかりだった。
洗面所で軽く身支度を整えると、浮き浮きとした足取りでリビングに向かう。意気揚々と扉を開けると、ルチアーノがこちらを振り返った。
「おはよう」
「なんだよ、起きてきたのか。こういうときだけじゃなくて、普段も自力で起きてほしいもんだな」
弾んだ声で挨拶をする僕を見て、彼は呆れたように目を細める。普段は遅くまで寝ている僕が、この日だけ自力で起きてきたのが気に食わないのだろう。しかし、それには理由があるのだ。
「起きたよ。だって今日は、楽しみにしてた映画の日なんだから。自力で起きられたから、ルチアーノも来てくれるんだよね」
そう。今日は、ルチアーノとの約束があったのだ。僕がインターネットで見かけて気になっていた映画が、今日から公開されるのである。軽い気持ちでルチアーノを誘ってみたら、彼はこういう言葉を返してきた。
「ついていってやってもいいぜ。ただし、君が自力で起きられたらな」
だから、僕は自力で目を覚ました。音量を上げた目覚ましを少し離れたところに置いて、嫌でも目が覚めるようにしたのである。冬の凍えるような冷気も相まって、その効果は絶大だった。
「なんか腑に落ちないな。イベントの日だけ起きるなんて、普段は努力してないって言ってるようなもんじゃないか」
「違うよ。起きるのは苦手だけど、ルチアーノと出かけたかったから頑張って起きたんだよ。約束、守ってくれるよね」
「まあ、約束は約束だからな。ついていってやるよ」
渋々ながらも、ルチアーノは了承してくれる。彼はあまり乗り気ではなさそうだが、恋人と自分の楽しみを共有できる嬉しさに心が弾んでしまう。浮き足だった足取りでキッチンへ向かうと、パンを焼いてマーガリンを塗った。
食事を終え、すばやく支度を済ませると、ルチアーノと一緒に家を出る。目的地の映画館は初回上映が十時からだから、あまりゆっくりもしていられないのだ。早歩きで人のまばらな繁華街を越え、郊外のショッピングモールを目指す。
映画館の中は、たくさんの人で溢れていた。平日のはずなのに、チケット売り場にも飲食物売り場にも、列らしきものができている。ルチアーノと一緒に一番後ろに並ぶと、空席案内の掲示板を見上げた。
「けっこう流行ってるんだな。もっと閑散としてると思ってたぜ」
子供の集まるグッズ売り場を眺めながら、ルチアーノは小さな声で言う。
「有名な映画だからね。ネットでも話題になってるんだよ」
答えながら、僕も館内を見渡した。フロアを歩いている人たちは、大半が僕たちと同じ映画を見に来た観客だろう。アニメ映画なこともあって、幼い子供から年配の人まで、幅広い年代の姿が見えた。スクリーンも一番大きいものを使っているらしく、案内板はまだ丸表示のままだ。しばらく雑談をしていると、すぐに順番が回ってきた。
「お次の方、どうぞ」
受付の女性に呼ばれて、僕はカウンターへと足を運ぶ。そこに『カップル割』とかかれたポップが貼ってあって、心臓がドクンと音を立てた。日付の割引イベントらしいが、さすがに僕たちは該当しないだろう。なんとか平静を装って、チケットを注文する。
「十時からの映画で、高校生が一枚と小学生が一枚、お願いします」
「かしこまりました」
女性がチケットを発券するのを待っていると、ルチアーノが横からカウンターを覗き混んできた。そこに貼られているポップを見て、にやりと口元を歪める。嫌な予感がして視線を向けたが、止める間もなく声が発せられた。
「ねえねえ、このカップル割っていうの、僕たちも使えるの?」
無邪気な子供の演技をしながら、ルチアーノは受付の女性を見上げる。突然の言葉に、彼女は反応ができないようだった。僕たち二人の姿を見比べると、呆然とした顔で呟く。
「へ?」
それもそのはずだ。僕とルチアーノは、どう見ても同性の子供二人なのだ。カップルという言葉で表すには、あまりにも不釣合だろう。
「ちょっと、ルチアーノ!」
慌てて止めに入るが、彼は聞く耳を持たなかった。楽しそうに笑みを浮かべると、からかうような声色で続ける。
「そっか。男二人だと、カップルには見えないよね。証拠が必要なら、ここでキスしてもいいんだよ」
その言葉に、女性はさらに混乱したようだった。高校生と小学生の子供二人を前にしたまま、困ったように口をパクパクさせている。後ろに並んでいたカップルらしき男女も、興味津々な目で僕たちを見ていた。
「やめてってば!」
急いでルチアーノを引き寄せると、片手で口を押さえた。子供の口を塞ぐのもどうかと思うが、こうしないと彼は止まらないのだ。僕に無理矢理言葉を遮られて、ルチアーノが小さな呻き声を漏らす。
「むぐっ…………!」
抵抗するルチアーノを押さえつけると、僕は女性に向き直った。フリーズしたように動かない女性に、慌てて言葉を告げる。
「すみません。この子、人をからかうのが好きで……!」
僕の言葉を聞いて、彼女はようやく気を取り直したようだった。動揺したようなぎこちない動作で、すばやく端末を操作する。
「こちら、高校生一枚と小学生一枚になります」
差し出されたチケットを、僕は急いで受け取った。ルチアーノの手を引っ張り、早歩きでその場を後にする。恥ずかしさに頬が染まって、後ろを振り向くことさえできなかった。
「ちょっと、ルチアーノ! なんであんなことを言ったの!?」
人混みから離れると、僕はルチアーノに詰め寄った。今にも、羞恥心で爆発しそうだ。顔を真っ赤に染める僕を見て、彼は満足そうに笑った。
「なんでって、今日はカップル割とやらのキャンペーンがあるんだろ? 使える制度があるなら、使っておかないと損だと思ってさ」
「だからって、わざわざ言わなくてもいいでしょ。店員さんが困ってたよ!」
偏見は少なくなっているとはいえ、同性のカップルというものはまだ少ない。男二人が急にカップルだと言い出したら、多くの人は困るに決まっている。それに、子供料金の僕たちは割引の対象外だろう。明らかにからかい目的の発言だった。
「なんだよ。本当のことを言っただけだろ。昨日だって、僕の中に突っ込んで喘いでた癖に」
「ルチアーノ!」
際どい発言に、再び大きな声が出てしまう。僕たちがカップルであることも、愛を交わしていたことも、紛れもない事実である。でも、だからと言って、簡単に口に出していいことではなかった。
「なんだよ。いつもは隠したくないって言う癖に、こういうときだけ隠すのか?」
不満そうに口を尖らせて、ルチアーノは僕を見上げる。その口元がにやりと歪んでいることを、僕は見逃さなかった。
「こういうのには、TPOってものがあるんだよ。相手が困るような場所では言っちゃいけないの」
「せっかく割引を使ってやろうと思ったのに、人間のルールってのは面倒臭いな。まあいいか、面白い反応が見れたし」
退屈そうに唇を尖らせると、ルチアーノは飲食物売り場に向かった。後を追うように、僕も列に並ぶ。ルチアーノはぶどうジュースを、僕は炭酸のジュースを選んだ。
しばらくすると、開場を案内する放送が響いた。ぞろぞろと移動する一団と一緒に、指定されたシアターへと入っていく。チケットに記された席につくと、ルチアーノが耳元で囁いた。
「もうすぐだな。君、楽しみにしてたんだろ」
正直なところ、もう映画どころではなかった。ルチアーノにからかわれたせいで、意識が変な方向に飛んでしまったのだ。頭の中では、昨夜の行為の反応がちらついてしまう。ルチアーノの甘い声が、意識の深層から僕を揺さぶった。
ドキドキする心臓を押さえながら、僕はスクリーンに視線を向ける。全く頭に入ってこない予告編を見ながら、大きくため息をついたのだった。