シャドー・バブルまだ空に昇ったばかりの太陽の光を反射させ、瑠璃色の小さな湖が朝の静けさの中で輝いている。ここは学校近くにある小さな湖だ。だが、通学路からは道が外れている。だからこの時間に、この場所に居ることはどう考えてもおかしい。それに絶対ついさっきまで通学路を歩いていたはずだし、もう少しで学校という所まで来ていた気がする。
なのに……なにが起きたんやろう。
記憶を辿るが、いつも通りの時間に起きて朝飯を食べ、ばぁちゃんと一緒に神さんに手を合わせてから家を出た。何一ついつもと変わったことはなかった。湖に用事があった覚えもない。それにこの場所には幼い頃来て以来、足を運んだ覚えすらなかった。近くにあるもの程、意外とそういうもんなのかもしれんなぁ。
つい物思いにふけってしまい、頭を左右に動かした。のんびりしている場合ではない。早く学校へ行かないと朝練の時間になってしまう。その前に習慣となっている、いつものことをしないと落ち着かない。部活前に部室やトイレの掃除をすることは、もう随分と前から日常の一部となって生活に沁みついている。しない方がなんだか落ち着かず、心がざわざわと音を立てる。
さてと、と湖に背を向けて歩き出そうとした瞬間、湖の真ん中がふわっと黄金色に輝いたように見えた。なんやろうと目を凝らして見ていたら、その光はどんどん広がっていき瑠璃色の水面を一瞬にして黄金色に変えてしまった。
一体目の前で何が起こっているのか……その光景につい足が固まり、見入っていると体がふっと湖の方に引き寄せられていった。
「なっ……、」
何が起こっているかわからないまま声を漏らすと同時に、輝く光の中に吸い込まれた。『このままそっちに行ってはいけない』と無意識に思ったが、体はいうことを聞いてはくれない。そのまま光の中へと吸い込まれ、あっという間に飲み込まれた。
あまりの眩しさについ目を閉じる。それでも瞼の向こう側が輝いていることが分かった。そしてその光は少しだけ温かいような……そんな気がした。
どこへ向かっているかは分からないが、導かれるようにして体は光の中を進んでいるようだった。するとその時、すれ違うようにして右肩に一瞬ナニかの気配を感じ取った。ゾクリ、と体が震える。それはあまり気持ちの良いものではなく、どちらかと言うと不快なものだった。
「 」
すれ違ったナニかに言葉のような物を囁やかれたような気がしたが、ソレを聞き取ることはできなかった。
グングンと体が光の中に吸い込まれていく。ココは湖の中なのかそれとも……。
数分のように感じたが実際はどれくらいその光の中を移動していたのかわからない。気が付くと空気感が変わり先程まで感じていた温かさではなく、どこか澄んだような神聖な空気を全身に感じた。
瞳の中に感じていた光がやっと落ち着いた気がしたので、ゆっくりと瞼を開けてみる。すると目の前には澄んだ青が一面に、そして自分自身を包み込むようにして広がっていた。上を見上げるとキラキラと輝いている。光を反射しているのだろうか。もう一度ぐるりと自分の回りを見てみるが、これはまるで透き通った海の中のような世界だ。
ここは水の中いうことやろか……。でもどうやらこの水は海水ではないらしく、目に痛みは感じない。それどころか水の抵抗も感じない。なのに熱帯魚のように色鮮やかで原色を纏った魚たちが優雅に泳いでいる。これが水ではないとしたら、泳いでいると言っていいのかは分からないが……。ただ、どの魚もみたことのない形や色をしている。彼らは本当に魚なのだろうか。
「んっ……」
目の前を漂う魚のような物に見とれていると、急に苦しさが肺の奥からぐっと込み上げてきた。
しまった、あかん、息が……。この場所を水中だと認識した時から無意識に呼吸を止めていたが、もう長くは持たないだろうことが一瞬にして分かった。少しでも耐えようと片手で口を押さえるがそれも数秒しか持たなかった。
苦しさが我慢の限界を超えてしまい口を開くと、コポッという音と共に空気が泡となって青色の世界に溶けていった。
やっぱりここは水中なんやろか……、このまま死ぬんかなぁ……、こんな死に方もあるんやな。まさかこれが三途の川というやつやろか、それにしては川いうレベルちゃうなぁ……まぁいい人生やった、んやろか。でも、ばぁちゃん達泣くやろな……アラン達も泣くやろか……侑は……きっと泣かんやろなぁ……そう思ったらふっと笑みが漏れた。
ん? なんで俺、今侑んこと考えたんやろう……まぁえぇわ。侑がこれから先もバレー楽しんでできとったらえぇな。死んだら空から見守ることできるんやろうか……そんなことをぼんやり考える。
コポコポと体内に僅かに残っていた酸素達が、水へと溶けて消えていった。
……おかしい。苦しさが限界を超えたと思ってから、もうどれくらい時間が経っただろう。あれから一向に意識が無くなることもなく、今日の練習メニューは何にしようなんて死に際にふさわしくない事を考え始めた。
まったく苦しくない上に水が口から体内に入ってくることもない。それどころか、普通に息ができる。陸にいる時と同じように呼吸ができるのだ。もうこれは本当に俺の頭がおかしくなってしまったのか、それとも夢を見ているのか、寧ろもう死んだ先の世界なのか……。そう思い軽く頬をつねってみると、しっかりとした痛みを感じた。
「あら、こんにちわ」
すると柔らかい女性の声がして、慌てて声のする方へと振り返る。するとそこには侑より少し落ち着いた色の長い髪をした人が立っていた。背中からは、まるで天使のような大きく白い羽が生えている。もはや彼女を人と呼んでいいのかもわからないが。
「こんにちは、私はこの湖の女神です」
女神……いよいよ俺もあかんかな、とそう思っていると女神が言葉を続ける。
「声を出しても大丈夫よ。息も普通にできたでしょ」
そう言われ、ゆっくりと言葉を声にする。
「こんにちは。俺は北信介言います」
恐る恐る声を出してみたが、あまりにも普通に会話できたことに驚いた。
「ご丁寧にありがとう。北信介さん」
そう言って女神は微笑む。
「俺は死んだんやろうか」
女神は、ふふっと笑った。
「死んではないわよ、大丈夫」
その言葉に安堵する。
「正直この状況が何一つわからんのやけど、俺は多分湖に落ちたんやと思う。死んでへんのやったら、元の場所への帰り方を教えてもらえると助かります」
深々と頭を下げた。しかし女神からの返事は何もなく、どうしたのかと気になってゆっくりと頭を上げて女神を見ると少し困ったような表情をしていた。
「ごめんねぇ、でもたぶんそれは無理。どちらかはココにいないと」
「どちらか?」
「でも大丈夫、心配しないで」
そう言って女神が少し先の方を指さした。
「これは……」
その方向を見ると水の中に映像が写しだされた。そこには見慣れた体育館と見慣れた人物達の姿もあった。ただ一人を除いては。
「あそこに映っとる俺とそっくりな奴は……」
スクリーンには自分と瓜二つの顔をした男がいたが、ゲラゲラと腹を抱えて大笑いする姿は別人のようだった。
「顔も形もそっくりでしょ。まぁそっくりと言ってもあたな自身……のようなものなんだけど……」
「俺自身? それってどういう」
「まぁほら、あっちはあっちで楽しそうにしているみたいだし。もうどうしようもないのだからゆっくりお茶でも飲みましょう」
その先の言葉を遮られてしまう。しかもいつの間にか目の前には、こたつとミカンそして煎れたての緑茶のはいった湯呑が置かれていた。
この状況が本当に何一つ飲み込めないが、慌てても仕方ない。女神の機嫌も損ねない方がいいだろうと考え言われるがまま、こたつに入ると中は丁度いい温度に保たれていた。口にした緑茶は自分好みの味と温度だった。あまりにも、自分好みのそれがとても気持ち悪く感じた。
ただただ目の前に映し出される映像を眺める。少しだらしのない自分に似た姿の男は友人や仲間たちに溶け込んで、それはもう楽しそうに笑っていた。始めは戸惑いを見せていた仲間たちも、どうやらなんだかんだ言って案外受け入れているらしい。
なんや複雑やなぁ、なんでやろ。そう思っていると「いやぁ、たまにはえぇやん。ゆるい北さんも」と侑が笑顔で言った。
その言葉と表情にズキンと心臓の奥が痛んだ。侑にはあまり好かれていないのではないかと思っていたし、怖がられているもの知っている。別にそれはいいのだが、いざ言葉にしたものを聞くとなんだか複雑だ。
「ずっとこのままにしよか!」
「せやな!」
そう言って南と呼ばれた自分とそっくりな姿をした男は、どんどんいつも自分の居た場所に溶け込んでいったようだ。
「もうえぇわ……これ消してくれんか」
これ以上見れいられなかった。そうかきっと後輩達は俺みたいな怖い人間やなくて、あぁいうんがえぇんやな。侑もきっと……、
「なんで今俺、侑のこと考えたんやろう」
わからんけど、なんやこう、心臓の柔らかいところが痛いわ。こういうんなんて言うんやろう。
足はぽかぽかと温かく、まったりとした眠気が襲う。こんな得体のしれない場所で眠るなんて危険すぎると思い眠気と戦うが、すぐ眠りに落ちてしまった。夢と現実の間のようなまどろみの空間で、思う。
反復・継続・丁寧は心地いい。それを意識しだしたのはいつ頃だっただろう。そしてそれと共に消えたものがあったような気が……。その先のことは考えられず、夢の深い部分へと落ちていった。
「おやすみなさい、北信介さん」
そう女神の声が聞こえた気がした。
◇◇◇
「あかん! アラン君! 俺には無理や! そんな大役!」
「侑今更何言うてんねん。朝は南ちゃん、南ちゃん言うて楽しんどったやろ」
「せやけど無理やって!」
ゲラゲラと笑いながら、オリジナルの創作ダンスをサム達の前で披露している南ちゃんを横目に見る。異様に体をくねらせて踊る姿は狂気に満ちている。そしてそれを永遠と見せられ、謎の合いの手を要求されているサムや角名の目は死んでいる。銀は何故か泡を吹いて倒れていた。
本人曰く、北さんは湖に落ちたから代わりに自分がココに来たのだと言っていた。北さん……なんで湖になんて落ちるんや。案外おっちょこちょいなとこ、あるんかな……。いやいや! 今はそれどころやない。
「なぁ! なんで俺が南ちゃんを湖に連れていかんとけんのや!」
体育館に声が響く。
「しゃあないやろ。日中大変やったんやで……すれ違う女子のスカートはじからめくろうとするからそれを止めるの必死やったし、授業中窓の外に蝶が飛んでくるとそれを捕まえようと3階から飛び降りようするし、俺ら三年はもうヘトヘトや……俺の美声もカスッカスや……」
アラン君は本当にカスッカスの声を絞りだしていた。他の三年生達は皆ぐったりと体育館に寝そべって白目を剝いていた。本当に疲れたのだろうということがわかる。だけど、それとこれとは話が別だ。
「でもアラン君、」
「侑に拒否権はないからな。学年の皆に北のこと誤解されへんようにすんの俺らほんまに! ほんまに大変やったんや!」
「無理やて! 3年生があんなに手を焼いたのに俺一人で南ちゃんを湖まで連れていかんといけんなんて、できひん! それに北さんが返ってくる保証もないやんか!」
「しゃーないやろ『侑だけが付き添ってくれるなら湖に行ってもえぇ』ってそう言うてるんやから」
「でも!」
「いつも信介に迷惑かけとるんやから、こうゆう時に親孝行せぇ」
「北さんは親ちゃうもん!」
「じゃあ北孝行や。もうなんでもえぇから早よ南ちゃん連れて湖行ってこいや」
そう言うとヒョイとジャージの首元を摘まみ上げられ、体育館の入口からヒョイと摘まみだされた。そして俺の横には同じく摘まみだされた南ちゃんも、もれなく転がっている。
「フハハハ!! ヤッバイなぁ~マイケルほんま力持ちやなぁ! 俺今20回転くらいしながらここまで飛ばされたわ! もう一回やってもらお!」
スキップでアラン君の元へ戻ろうとする南ちゃんの腕を力強く掴む。
「頼むから大人しくしとってや! お願いや!」
もう涙が出てきた。放っておくと直ぐにどこかへ行ってしまうから、仕方なく手を繋いでまだ明るい道を歩く。通りがかりの人の視線に気が付くと「俺らラブラブなんですぅ」と言ってみせるから、その度に南ちゃんの尻を蹴りたくなるのをグッと耐えた。北さんやなくて南ちゃんやと思っても、やっぱり北さんそっくりの見た目の人物に蹴りを入れるのはできなかった。北さんに対する恐怖心みたいなもんが、植え付けられとるからやろか。
「おっ!! なぁなぁ、あれ見て!」
「なんや……」
疲れ果てている俺のことなんて気にもせず、南ちゃんは元気いっぱいだ。
「犬のうんこあった!」
そう言うと俺の手を引きながら、うんこの前に連れて行かれた。
「ほぉ~、これがうんこか」
南ちゃんはまじまじと、犬のうんこの観察に励んでいる。南ちゃんが屈むから俺も仕方なく屈んだが、高校生の男が二人並んでうんこを眺める光景は、傍目にはどう映っているのだろう。いや、考えたくもない。
「ほら、はよ行くで」
「ちぇ~、トムはケチやなぁ」
「ケチいう問題ちゃうわ」
南ちゃんはそれからも草や花、道にあるありとあらゆる物に興味を示した。自動販売機に興味を示した時は地獄だった。俺の小遣いはスッカラカンになり、ケラケラと笑いながら南ちゃんは次から次へとジュースを腹に納めていった。でもなんだかその姿はまるで、初めて見る物にはしゃぐ子供のようにも見えた。
「なぁなぁ、バム!」
「バムってなんやねん……まぁもうどうでもえぇわ、今度はなんや……」
疲れ果てうなだれながら歩いていると、またも南ちゃんが足を止める。
「あれ、夕焼け言うやつやろ!?」
南ちゃんに言われ顔を上げると、オレンジ色の夕焼け空が広がっていて青空を塗りつぶしていた。それはまるで、世界の色を塗り変えてしまってかのようだった。
「え、あぁ……夕焼けや。確かに綺麗やなぁ」
普段ならこの時間はまだ部活をしているから、こうやって夕焼け空の下を歩きながら下校することはあまりない。空に絵具を溢したような光景につい見入ってしまった。
「こう見えるんやな、ほんま……綺麗や」
その声はとても静かで落落ち着いていて、まるで北さんみたいだと思った。でも、今までと違って落ち着いた声色が逆に気になり、横目で南ちゃんを見るとその瞳が少しだけ潤んでいるように見えた。
「なぁボム、」
「なんや?」
「俺が帰らへん言うたらどうする?」
「それは……困る」
「なんでや」
「せやかて、それは……もう北さんに会えん言うことやろ」
俺がそう答えると「チッ」と舌打ちが聞こえ、それと同時にコンクリート壁にグッと体を押しつけられ南ちゃんに詰め寄られる。
両手を持ち上げられ、両手首は頭上で南ちゃんの手によって力強く捕まれ、押さえつけられている。抵抗することだって振りほどこうとすることだってできるのに、北さんと同じ顔をしている南ちゃんの手を乱暴に振りほどくことは何故かできなかった。
北さんと同じ澄んだ瞳に近距離で見つめられ、ゴクリと唾を飲んだ。つい顔を背けてしまう。
「ちゃんと俺を見ろ」
低い声で言われ、ゆっくりと顔を戻して南ちゃんの目を見た。
「同じ顔やろ、あいつに会えんでも俺がおったらえぇやんか」
その声は怒りを含んでいるようだった。
「顔は同じでもちゃう。南ちゃんには悪い思うけど俺はやっぱり、几帳面すぎる程ちゃんとした北さんがえぇ。そりゃ怖いけど、なんやろなそれが心地よくも感じる言うか……それが北さん言うか……」
ごもごもと言葉を述べていると南ちゃんが少し寂しそうな顔をしたような、そんな気がした。
「フッ、なんやそれ。チャーリーってマゾなん?」
いや、やっぱり気のせいやったな、訂正や訂正。つーか、北さんの顔でしかも至近距離でマゾとか言わんでほしい……なんや変な気持ちなるわ……
「ちゃうわ! そういうんちゃうくて」
「あ~ぁ、アホらし」
そう言って南ちゃんは俺の手首をパッと離して、湖があるという方向に向かって歩き出した。
「ちょ、先行くなや」
さっきのは一体なんやったのか俺の中に疑問を残したまま、俺は慌てて南ちゃんの背中を追いかけた。
◇◇◇
「こんな所に湖なんてあったんやなぁ」
あれから南ちゃんは寄り道もすることなく無言で真っ直ぐ歩き、数分で湖へと辿り着いた。小さな湖の水面には夕日が映りこんでいた。
「なぁ南ちゃん、ほんまに湖ん中からきたん? これどうやって帰るん? てか、ほんまに北さんは帰ってくるん?」
俺に背を向けて湖の前に立つ南ちゃんに話しかける。
「うっさいなぁ」
南ちゃんは面倒そうに頭を掻いた。
「なぁ南ちゃん」
「なんや」
すると、ふわっと優しい風が俺らの体を吹き抜けた。少し乱れた髪を搔き上げてから言葉を続ける。
「北さんに帰ってきてほしいけどな、俺……南ちゃんとおるのも案外楽しかったで。みんなも同じやと思う。まぁ後半は、ほんま勘弁してほしい思ったけどな。」
南ちゃんから言葉は返ってこない。
「北さんちゃんとしすぎやから、たまにはだらしなくしとってもえぇんちゃうかなぁって思ったし……でもあれやで、程度いうもんがあるからな」
返事は相変わらずないまま、南ちゃんはゆっくりと湖へと歩いて行く。
「なぁ! 南ちゃん! また会えたらえぇなぁ! 今度は北さんと一緒に! そうしたら俺とサムと北さんと南ちゃんで一緒に幽体離脱漫才しようや!」
南ちゃんには見えていないのは知っているが、俺はニカッと歯を見せて笑った。
「バァーカ!!」
やっと聞こえた声は、言葉とは裏腹にどこか丸みを帯びていた。でも南ちゃんはやっぱり俺に背を向けたまま歩いて行く。決して振り返ってくれない。そしてトンッと地面を蹴り勢いよく夕日を写した湖へと飛び込んだ。
「じゃあな! 侑!」
そう言って、ヒラヒラと後ろ向きに手を振った。
「……俺の名前、わかっとるやんか」
南ちゃんの姿が見えなくなると同時に大きな水しぶきが上がり、俺の頬を濡らした。
◇◇◇
「なぁ、いい加減に起きんとまた俺向こう戻るで」
まどろみの中頭上から聞こえてきた声に導かれるようにして、俺はゆっくりと瞼を開けた。すると目の前には、俺と同じ顔をした人物が不機嫌そうな顔をして立っていた。
「あんたは……」
目の間に居るのはきっと、さっきスクリーンに映っていた俺と同じ顔をした男だ。夢の中……まどろみの中でなんとなく思った疑問を率直に問う。
「なぁもしかして、あんたは……南ちゃんは……俺に似た誰かやなくて『俺』なんやな」
「南ちゃん言うなや」
「さっき侑達にそう呼ばれとったやろ」
「あいつらはえぇけど、お前に言われるんは嫌やな。胸糞悪いわ」
「なぁ、なんで俺をココに呼んだんや」
「はぁ? なんでお前に言わなあかんねん」
そう言って舌を見せた。
「俺やっぱり向こうの世界に帰りたい思う。でもそれは、お前を……俺の一部をココに置いていかんといけんいうことやな。どちらかはココにおらなあかんのやろ」
「……」
「なぁ一緒にはいけんのか」
「行けるわけないやん。ココから見とったやろ。正反対やで。一緒に同じ世界にいけるわけないやろ。どっちかだけなんや」
そう言った顔はどこか寂し気だった。
「……ずっとここに一人でおったんか」
「あんたが俺のこといらんいうて捨てたんやろ」
「捨てたんとちゃうよ」
「捨てたやろ」
「ちゃうよ」
押し問答が続く。俺は真っ直ぐにその瞳を覗いて言葉を続ける。
「捨てたんとちゃう。お前も俺の一部やろ……一緒におってくれてありがとう」
きっとこの性格の俺も『俺』なのだ。ただ成長する過程で、反復・継続・丁寧を選びそれが心地よくなっていっただけなのだ。きちんとすることが心地よくなり、それを選び、今の自分として性格が形成されていった。出会う人が違ったら、なにかきっかけがあったら、こんな自分も居たのかもしれない。いや……居るのだろう。そう思ったら、目の前の自分を抱きしめずには居られなかった。
ふわり、両腕で抱きしめると、とてもとても温かく懐かしい気持ちになった。
「はよ帰り……」
『俺』の声が優しくなる。
「おん、」
もう一度ぎゅっと抱きしめる。
「もうえぇから。ほら、あいつが待っとる」
そう言って『俺』が笑うと同時に、頭上から聞き覚えのある声がした。
「北さ――――――ん!!」
「北さ――――――ん! こん中におるんですか―――? 北さ――ん!!」
聞き覚えのあるその声は俺の名を呼び続けている。
「侑か、来てくれたんか……」
久しぶりに聞いたその声になんだか胸の奥が温かくなった。
「なぁ、最後にこれだけは言っとくわ。真面目なんもえぇけどな、少しは自分の気持ちに素直になれや」
「なんやそれ、」
「まぁえぇわ。もしずぅっと気づかんままなら、今度こそ俺があいつ貰うで」
「せやから、なんの」
この先を言おうとした時、グッと体を引き離され腕を捕まれたかと思ったらブンブンと体を振り回された。
「う、わ、」
「アラン仕込みの投げ技や!!」
そう言って、腕を離されたかと思ったら体は勢いよく水面に向かって投げ飛ばされた。
◆◆◆
「あら、帰ってきてしまったの?」
「……」
「……気持ちは伝えられた?」
「俺やあかんて」
「そう……」
「まぁしゃーないから今回は大人しく引き下がっとってやるわ。でも、あいつが自分の気持ちに気がつかんままやったり、今後その想いを押し殺そうなんてことがあったらまた湖ん中引きづりこんでやるわ」
ケタケタと笑うと、女神が悲しい顔をした。
「せっかく人間の体にしてもろうたんに、堪忍な」
「それは別にいいのだけど……あなた泡になって消えてしまうのよ」
「まぁ元々そうゆう約束やしな」
「いいの?」
「向こうの世界は疲れたし、ゆっくり眠らせてもらうとするわ」
「そう……」
「そんな悲しい顔すんなって」
そう言ってからそっと目を閉じた。不思議と何も怖くはない。寧ろなんだか心臓の奥が温かかった。俺もちゃんと俺の一部やったんやな。そう思ったらもう、充分だった。
「おやすみなさい、―――」
最後に聞こえたのは、涙が出るほどに優しい女神の声だった。
◇◇◇
「き! 北さんやー!」
いきなり水しぶきが上がったと思ったら目の前には北さんが立っていた。南ちゃんやないよな? と念のため目を凝らしてみる。
「侑? なんでそんな濡れとるん? はよ拭かんと風邪ひくで」
その言葉に目の前の人物が北さんであることを確信する。
「北さんがいきなり湖ん中から出てきたからでしょ!? てかなんで北さんは濡れとらんの?! でもその言い方、やっぱり北さんや~!」
北さんが戻ってきてくれたのが嬉しくて、両腕を上げた。だが、北さんがは険しい顔をしたままだ。濡れたままであることに怒っているのだろうと思い、慌てて鞄からタオルを取りだそうとすると、北さんが眉を下げた。
「侑はだらしない俺がえぇんか」
「え?」
タオルを取り出そうとして手が止まる。
「だらしない俺の方がえぇ言うてたやろ」
「え、あ、その、それはちゃうくて、」
そう言ったのは事実だが、でもそうやない。でも言葉にした事実は消えないから、その先の言葉がうまく出てこなかった。
「優しくしてやれんで、ごめんな」
北さんが寂しそうな顔で俺に言う。北さんは決してニコニコ笑って優しくしてくれることはないけど、でも優しくない人間だと思っていたかと聞かれるとそれも少し違う気がする。そりゃ怖いけど……でも、前にアラン君が言っていた。「信介は優しいで」と。それは俺が今まで知らなかった『優しさ』いうやつらしい。どうやら優しさにも種類があるらしい。
「北さんは……その……優しい、と思います……」
「それほんまに言うてんの」
うっわ、きた! この背中がひんやりする感じ。でも、少し会わなかっただけなのに懐かしく感じる。
「正直俺にはまだよくわかりません。でも優しくないなんてことは無いんやと思います。……多分」
「ふっ、多分てなんやねん」
「あ、北さん、笑った」
やっと見ることのできた北さんの笑顔に、心臓がトンと跳ねた。
「北さん、みんな待っとるから学校戻りましょ」
俺の言葉に北さんはコクリと頷いた。
「あ、でも……もう少しこの湖見てってもえぇですか」
「えぇよ」
北さんの声は優しかった。南ちゃんの消えた湖には、未だ夕日が写されいて俺はこの景色を忘れないようにと、じっと眺めた。なんだかもう、南ちゃんには会えないような気がしたから。
するとその時、湖からコポコポと泡が水面に浮かび上がってきた。その泡を見た瞬間、俺は無意識に湖の淵に駆け寄り膝をついて、その泡を両手で水と一緒にそっとすくいあげた。北さんも俺の横に膝をついてその泡を眺めている。
「あ……」
するとその泡は夕日に包み込まれるようにして、直ぐにふわっと空へ消えてしまった。
水と泡をすくったはずなのに、手の中には温かさが残っていた。そして俺はこの温かさを知っている。
「またな、南ちゃん」
シャドー・バブル 完