滞っていた執務をあらかた終え、寝室へと移動する。すっかり夜も更け、肌寒い。月が高く登り煌々とあたりを照らしていた。
寝室前にいた侍女に下がるようにとありがとうおやすみなさいを言う。待たせてしまっていただろうか。温められた寝室は最低限の灯りのみついているだけで目が慣れるまで少し時間がかかる。
「うわっ」
慣れた寝室のはずだが足元に見慣れないものがあって躓いた。よく見るとリンハルトが床に突っ伏しており、周りにも大量の本と書類が散らばっている。
「ううん…せんせー…」
掠れた、低いわりに舌足らずな声が響く。リンハルトがもぞもぞと動き、寝転がったままぼんやりした瞳で周りを見渡した。
「おはよう」
膝をついて散らばった書類をぱらぱらとめくった。
「起こしたか?」
「いや、起こしてくれてよかったです」
リンハルトの研究に関して、論文などは一通り目を通したり本人に直接解説してもらったりしているが、専門的なことまでは理解できていないと感じる。ベレトがリンハルトの研究結果を何の気なしに外へ持ち出してから忙しなく働かされることになり、最近はあまりゆっくりと2人で言葉を交わす時間も取れなくなってしまった。意思に反して忙しくさせてしまって申し訳なさもあるが、研究が進んでいること自体は嬉しいことだ。
ふと仄かなランプに照らされる寝転がったリンハルトのほうを見遣る。
「少し痩せたか?」
リンハルトが以前よりやつれているように感じて心配で胸の奥がぎゅっとなる。リンハルトは研究に夢中になると食事をすぐ抜く傾向にある。研究が進むことは嬉しいが、自分が表舞台に立たせたから苦労を背負わせてしまっているのは確かだ。
リンハルトは宙を見つめて少し思案した後、不意にシャツと上着をバッとめくって白い腹を出した。予告のない突拍子もない行動少し驚く。
「痩せましたかね?」
表情を変えずにリンハルトは続ける。
突拍子のなさに面食らったが、彼としては自身の体にあまり興味がないのでいつも見ている自分に判断してもらったほうが正確だと思ったのかもしれないな、と思い至る。
不思議な考え方をする子だからな。少し面白くなりながら、無防備に晒された白い腹に手を伸ばす。
「んっ…」
先ほどまで衣服に包まれていた肌に自分の指先は冷たかったようだ。晒された腹にうっすらと浮き出る肋骨をなぞる。自分と違う、大理石のような整った肌に凹凸の少ない腹。
「うん…ちょっと痩せたな」
そのまま手を這わせ、服の上から胸を伝い、頬に触れる。元から厚くはない頬の肉を確かめる。おもむろにリンハルトが首筋に手を伸ばしてきたので抱きかかえ膝に乗せる。お互いの体温を分け合うように抱きしめ合う。こうやってゆっくりと抱き合うのはいつぶりだろう。直接触れる肌の暖かさが優しく、心地よい。お互いの匂いに包まれ、どちらともなく深く息が吐かれる。度数の高い酒が注がれたように、胸が熱くなる。
「あんまり放置しないでくださいよ、先生」
「うん、そうだな…」
どちらともなく口付けを交わし、甘えるように頬を押し付け合う。リンハルトの唇は少し乾いていて、後で冷たい水を飲ませようと頭の別の部分で考える。
疲れていて固まっていた身体に暖かで柔らかい風が吹き込んでいく。ご褒美…という言葉は適切ではないだろうが、先ほどまでの身体の重たさがいつのまにかどこかへと消えている。
「うーん、やっぱり割に合わないですねぇ。この労働は。交換条件として僕との昼寝の時間をとっていただかないと嫌です」
「君は一度決めると頑なだからな」
「え?先生は僕と昼寝したくないんですか?」
「ええと、そういうわけではないが…」
言い淀むとじっと見つめてくる。
「…君と昼寝したい」
答えに満足してふふっと鼻を鳴らす。彼と結婚してから、彼のストレートな物言いに随分と素直に物を言わされてしまっている。口喧嘩では勝てないかもしれない。
「ううん…もうちょっとお話したいけれど、今日はもう寝ましょうか」
「ああ」
先ほどより随分と軽くなった身体で寝台に向かう。次の休日の昼寝とお茶会を約束し、体温を分け合いながら微睡に沈んでいくのだった。