ホットケーキを君と「おはよう、兄さん」
ギシ、というスプリングの音とともに、謝憐のこめかみにやわらかな感触が押しあてられた。
カーテン越しの陽光は明るい。
どうやら二度寝をしていたらしい。
一人ベッドで目を覚ました謝憐のもとに、ちょうど花城がやってきたところだった。
「三郎……おはよう」
腕をのばして花城の首に回すと、微笑んだ花城が謝憐の唇をとらえ、軽く口づけを落とした。
「兄さん、昨日言ってたこと、覚えてる?」
「昨日? 何だっけ」
「夜、寝る前に言ってたでしょ。明日は休みだから、朝はゆっくり寝て、それから……」
「あ! ホットケーキを焼きたい!」
花城が笑ってうなずいた。
「兄さんさえよければ、今から焼かない?」
「焼く! すぐ着替えるから待ってて」
謝憐は急いでベッドから起き上がった。
✼ ⋈ ✼
コポコポとコーヒーの沸く音がする。
花城の住む高級マンションのキッチンは広く、大柄な男性二人が並んで立っても十分に余裕があった。
ボウルを抱えてホットケーキの生地を混ぜる謝憐の横では、花城が手際よくサラダ用のレタスをちぎっていた。
「兄さんはホットケーキが好きなの?」
「そこまで好きなわけじゃない。ただ……」
「ただ?」
「……いや、パンケーキアートの特集を見て、面白そうだなと思ったんだ」
「そう」
花城は何かを考えるように上を向き、それなら、とつぶやいて、プラスチックの容器を取り出した。
「生地をこれに入れて絞り出そう。その方が描きやすい」
「三郎は用意がいいな」
「たまたまあっただけだよ」
二口並んだコンロの両方にフライパンを置く。
生地入りの容器を手にコンロの前に立った謝憐は、ふむ、と考え込んだ。
いきなり絵は難しいだろうか。まずは文字や記号からがいいだろうか。
手にした容器は案外力加減が難しく、思わぬところで出たり出なかったりと、謝憐のフライパンにはでこぼこした線が並んだ。
自分の分を焼きながら横目でそれを見ていた花城は、ふと謝憐の手が止まったことに気がついた。
「兄さん、どうしたの?」
花城がのぞきこむと、そこには不格好な横線が3本、フライパンいっぱいに大きく書かれていた。
「…………バランスを間違えた」
一瞬おいて、花城は吹き出した。
書かれていたのは『三』だ。
『三郎』と書こうとしたようだが、どうやら線を引くことに精一杯で、『郎』のスペースまで気が回らなかったらしい。
嬉しいやらおかしいやらで笑いが止まらない花城を、謝憐がすねたような目でにらむ。
「そんなに笑わないで」
「ごめん。それ、僕がもらっていい?」
涙目になりながら花城が言うと、謝憐は口をとがらせたままうなずいた。
✼ ⋈ ✼
キッチンにホットケーキの焼ける甘い匂いが漂う。
二枚目を焼き終えた謝憐に花城が声をかけた。
「兄さん、見て」
花城のホットケーキには、かわいらしい動物の絵が描かれていた。
小さい頭に、まるい耳。くりくりした目と、ちょこんとした鼻。
「すごい! オコジョだ! さすが三郎」
「そうでもないよ。でもありがとう」
「どうやったらそんな風に描けるんだ? コツは?」
「コツか……」
少し考え込んだ花城が、おもむろに体を寄せる。
何をするのかと問う暇もなく、謝憐は後ろから抱きすくめられる形になっていた。
花城の右手が、容器を持った謝憐の右手にそっとそえられる。
反対の手はしっかりと謝憐の腰を抱いていた。
「兄さんはたぶん力を入れすぎなんだ。こうやって軽く持って、均一に生地を絞り出すといい。ゆっくり、力を抜いて、少しずつ」
言いながら、花城の指先が謝憐の手の甲をするりと撫でる。
謝憐が反射的に身じろぎすると、たしなめるように腰に回された花城の手に力が入り、体がさらにぴったりとくっついた。
薄い部屋着越しに花城のたくましい体を感じ、謝憐は赤面した。
「……三郎」
「ん?」
わざとやっているだろう、と目線だけで抗議するも、返ってくるのは満面の笑みだ。
にやりと口角を上げた口元はいたずら好きの子供のようなのに、謝憐を見つめる目の奥には確かなやさしさがある。
その目で見つめられてしまっては、謝憐には抵抗できない。
花城の胸に体をあずけてわずかに顔をかたむけると、ほんの一瞬目を見開いた花城が、すぐにやさしく微笑んで顔を寄せた。
唇が重なり、二人だけのキッチンに甘い空気が流れる。
だが、口づけが深くなった瞬間、謝憐の手から力が抜け、容器がすべり落ちた。
あわてて力を込め直した謝憐と、容器が落ちるのを防ごうとした花城の力が重なり、フライパンの上に盛大に生地が飛び出す。
「ああ! もう、三郎!」
「ごめん、兄さん」
花城は笑って謝憐を解放した。
✼ ⋈ ✼
日の光の差し込む食卓に、おそろいの皿と食器が並ぶ。
花城が用意したサラダに、冷蔵庫から出してきたハム、はちみつ、バター、熱いコーヒー。
お互いの皿には焼きたてのホットケーキが何枚も重ねられていた。
花城が、最後に焼いていた一枚をフライパンごと持ってやってきた。
「これは兄さんにあげる。さっきのお詫び」
謝憐は一目見て、驚きに口を開けた。
そこに描かれていたのは、舞い散る花びらに袖をなびかせ、片手に剣、片手に花を持ち、面をつけた美しい人――仙楽太子悦神図だ。
線は流麗にして繊細。
焼き加減で色の濃淡までつけてある。
どうやって描き上げたのか、謝憐には見当もつかなかった。
「すごい……もったいなくて食べられないよ」
「食べてよ。大したものじゃない」
あたふたと写真を撮ろうとする謝憐を見ながら、花城は小さく笑い、謝憐のホットケーキの一番上に最後の一枚をのせた。
✼ ⋈ ✼
二人で遅い朝食をのんびりと楽しみ、食後のコーヒーを飲んでいた時、謝憐がふとつぶやいた。
「三郎」
「うん?」
「本当はね、子供のころ一度だけ、両親とホットケーキを焼いたことがあるんだ。それがとても楽しかったから、君とやりたかったんだ」
明るい光の中で、謝憐が微笑む。
花城はまぶしさに目を細めた。
「今朝は付き合ってくれてありがとう」
「また焼こうよ。兄さんが望むなら、いつでも、何度でも」
「うん、次は君の名前をちゃんと書くよ」
「嬉しいな。じゃあ僕は兄さんの似顔絵を描く」
二人は笑い合った。
かすかに残るホットケーキの甘い匂いが、おだやかな時間の中に溶けていく。
休日はまだ始まったばかりだ。
今日は何をしようかと、二人は話に花を咲かせた。