あなたに見せない顔「三郎、折り入って頼みがあるんだが」
昼下がりの極楽坊。二人でおだやかな時間を過ごしていた、ある日のことだった。謝憐があらたまった顔で花城に告げた。花城はいつものように笑顔で応じた。
「はい、哥哥。何なりと」
「君がよく敵にやるフフンていう顔で私を見下ろしてみてほしい」
「は……え」
返事をしようとして、思わず聞き返す。今、なんと? 敵に見せる顔で? 殿下を見下ろす? 私が?
一瞬呆気にとられて固まった花城は、しばしの沈黙の後、ゆっくり口を開いた。
「なぜ突然そんなことを?」
「う……それは、その……」
口ごもる謝憐の頬がほんのり赤い。視線も泳いでいる。
「この間、がらくた集めに行った街で妖魔を退治しただろう。街の人に頼まれて」
「ああ、そんなこともありましたね」
「その時の君の様子が……とても…その……格好よかったから……」
尻すぼみになりながらもはっきりと告げられた褒め言葉に、口元がゆるむ。だが、そんなに褒められるような活躍をしただろうか。妖魔といっても雑魚中の雑魚で、実力もないくせに口ばかり達者な下劣な奴だった。その当時謝憐は両手にいっぱいのがらくたを抱えていたので花城が相手をしたのだが、当然一瞬で勝負はついた。
――いや、待て。
花城は先ほどの謝憐の願いを頭の中で反芻した。
「つまり、あの妖魔を見る私の目つきがお気に召したと……?」
「そう!」
謝憐が目を輝かせて、両手を握りしめる。
「前から思っていたんだ。君はああいう顔を私に向けないだろう?」
「それはそうです」
「いつも横から見ているだけだから、気になっていたんだ。もし正面からあの顔で見下ろされたらどんな気分だろうって」
――明らかにわくわくしている。
そして可愛らしい。
困ったことになった、と花城は口元を押さえながら思った。
✼ ⋈ ✼
「行きますよ」
「うん」
咳ばらいをひとつして、立ったまま向かい合う。かつてない緊張感が花城を襲っていた。
結局、花城は謝憐の願いを聞き入れることになった。謝憐の動機が「恋人の格好いい顔を見たい」というものである以上、花城も悪い気はしなかったし、何より謝憐の望みならどんなことだって叶えたい。意気揚々と自分の前にひざまずこうとする謝憐をあわてて押しとどめ、花城は自分の正面に謝憐を立たせた。
「やっぱり私が座ったほうがやりやすいんじゃないか?」
「大丈夫です。身長差がありますから」
気持ちを落ち着かせて、笑みを消し、花城は目の前の謝憐を見た。
――――ああ、今日も美しいな。透きとおるような肌が午後の光をうけて輝いている。額にかかる髪もさらさらと手ざわりがよさそうで、意志の強そうな眉も、整った鼻筋も、すべてが美しい。哥哥は本当にこの三界の誰よりも――――。
「三郎」
「はい」
「笑っている」
「……はい」
指摘されて花城は口元を手で覆った。上がった口角をむりやり引き下ろす。謝憐がまじめに考えこみながら言った。
「もっとこう、演技だと思ってやったらいいんじゃないか? 私を、そうだな、君が時々言う『廃物』だと思ってやってみたら」
「哥哥を?」
無理です、と反論しようとして、花城は言葉を飲み込んだ。たとえ演技でも謝憐を廃物だなどと思えるはずもないが、他ならぬ謝憐自身の頼みなのだ。ここはいっそ心を鬼にして、悪意に満ちた表情を見せたほうがいいのではないか。
花城が戸惑っていると、謝憐がその場でさっとしゃがみこんだ。
「ま、待って、哥哥」
「いいから。ほら、やっぱりこのほうが見下ろしやすいだろう?」
ここまでされては後に引けない。花城は呼吸を整えて、目を閉じ、自分が謝憐以外の存在を見る時の気持ちを必死に思い出した。廃物、戚容、屑の妖魔や神官ども――。
虫けらを見る時の思いで、花城は目を開けた。
そこには、八百年間想い続けた最愛の人が、その人の存在だけで世界が輝いて見えるような大切な恋人が、無邪気な微笑みをたたえ、上目づかいの大きな瞳をきらめかせて、こちらを見上げていた。
――――いとしい。
花城はうなだれて謝憐の前に膝をついた。
「すみません、私には無理です」
弱々しく言うと、なぜか呆気にとられたような顔をしていた謝憐が、一拍おいて吹き出した。
「あはは、ごめん、君がそんなに困ると思わなかった。だって君はよくあの顔をするから」
「哥哥にはしません」
「わかったって。あの表情は横顔で我慢する」
くすくす笑う謝憐に、花城は少しだけ拗ねたように横を向いた。
「哥哥の望みを叶えられないなんて、情けない」
「何を言っているんだ。馬鹿なお願いをした私が悪かった。君が――」
謝憐はふわりと花城に抱きついて耳元で続けた。
「――どれだけ私を好きでいてくれるか、今の笑顔でわかった。許して」
「では、もうあなたに笑顔を向けてもいいですか?」
「もちろん。さっきからずっと笑顔だったけど」
二人は額をくっつけたまま、笑い合った。
この先もきっと、心からの笑顔が積み重なって、日々が綴られていくだろう。そんな何気ない午後の一幕だった。