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    idobatadance

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    idobatadance

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    数年前にちょろっと書いて投げ出していた現パロのお偉いさん×探偵の鶴杉

     〇一
    「君はどれが良いと思う?」
     男は微笑みを浮かべながら、ネクタイを杉元佐一の首元へと宛がった。暗い青地に黒のストライプがあしらわれたそれは、杉元に気に入るか否か、という点よりも、ただ単純に、目の前で目を細める男の好き好みの問題で選り好みされているようだった。
     いらない、と否定を込めて首を左右に振って見せると、男はしばしの間考え込むような仕草をしてから、ネクタイを控えていた販売員へと戻す。
     今度は光沢のある赤いものと、濃い灰色のものを並べた。それから、「……いや、これは少し違うな」と独り言のように呟く。実際、独り言であったようで、杉元へ見せるでもなくネクタイを再び販売員へと戻して、別のものを手に取る。
     それら一挙一動は芝居がかり、男の見目の良さも手伝って、杉元の目には、映画のワンシーンのように映った。
     こっそりと息を吐くと、あらためて己の場違いさをしみじみと感じてしまい、わずかに俯く。磨き上げられた床の上で、所在なさげにしている古ぼけたスニーカーが、なんだか滑稽だった。
    「あの、鶴見サン」
    「なにかな?」
    「……俺、別にネクタイ要らないんだけど」
     ようやく声に出せた一言にほんの刹那のみ安堵するが、鶴見は杉元の心情を知ってか知らずか、あっさりと、あるいはばっさりと言葉を制した。
    「まあまあ、これも仕事だと思ってくれよ」
     柔和な笑顔でそう言われてしまえば、決して安くはない依頼料を頂戴している身として、杉元はぐっと口を噤むことしか出来なくなった。
     そう。これは杉元佐一が生業としている、生粋とした仕事の一環であった。男の買い物に付き合うことが、ではない。誤解を恐れずに言えば――そう、まさに『なんでもする』こと。それそのものが、杉元の仕事であった。
     一向に終わる気配を見せない無限ループに、まるで女の買い物みたいだな、と他人事のような感想を抱く。これが仕事じゃなかったら、とっくに短気を起こして帰っているところだ。鶴見の着せ替え人形のようになっている現実から目を逸らしながら、そんな事をつらつらと考えた。
     付けたり外したりを何度か繰り返してから、鶴見は結局一番初めに出したネクタイを手に取り、「私はね、やはりこれが一番きみに似合うよ」と、にこにこしながらそう告げた。
     懐から使い込まれた本革のウォレットを取り出し、「これを包んでくれ」値段すら見ずに黒いカードを差し出す。店員は受け取りながら、こちらをちらりと見遣って、最高の営業スマイルを見せた。
    「ええ、杉元様にとてもよくお似合いです」
     だから、いらないって。
     生憎とブランドのことはさっぱりわからないが、この品や店が、至極上等な部類のそれだということは、流石の杉元にも理解出来た。
     部下でも息子でも、ましてや取引先でもなさそうな男に上機嫌でネクタイを見繕う、という一体どういう状況なのか傍目には、いや当事者たる杉元自身ですら受け入れられていない状況。それに完全に適応して申し分ない接客態度を見せている販売員の姿が、この店が如何にお金持ち向けの場所であるのかを物語っていた。
     鶴見は、施しのつもりなのか、はたまた頭がおかしいのか知れないが、杉元をいたく気に入ったようで事あるごとにものを買い与え、着飾らせたがった。
     あるときはオーダーメイドのスーツを仕立て(着ない)、またあるときはなんとかいうメーカーのえらく高級な腕時計を見繕い(全く欲しくないし、趣味じゃない)、またまたあるときは下着まで買い与えようとしてきた(流石にこれは強めに断った)。
     はじめの頃は、新手の押し売り詐欺なのではないかと疑う事もあったが、毎回毎回、自分が買い与えた服を着る俺をたいそう嬉しそうに見ているので、とりあえず疑問に蓋をすることに決めた。あるいは、考える事が面倒になったのかもしれない。
    「……楽しくないかね?」
     考え事のせいで無言になっていた俺を、不機嫌になっていると受け取ったのか、鶴見は気遣うような視線で問い掛けた。なんとなく、罪悪感のようなものを感じて、鶴見から視線を外した。
    「……あー、いや、だからそもそも要らないって言ってるだろ。スーツなんて滅多に着ないんだし……」
     言い訳のような、弁明のような言葉を重ねる。
    「そもそも、だけどさ。なんで友達契約なんてしたんだ?」
    「なんてことはない。ただ、きみの事を気に入ったのさ」
     あっけらかんとした答えに、思わず脱力する。
     いや、理由になってなくないか、それ。内心に浮かびはしたものの、散々着せ替え人形をさせられた杉元は。既に疲れ切っていて、鶴見のどこまで本気なのか分からない、とぼけたような言葉に反論しようという気は起きなかった。
     結局、その日は半ば押し付けられた革靴とネクタイを持って帰宅した。たいして儲かってもいない便利屋稼業の俺からしたら、これ一つ一つがひと月の生活費になりかねないくらい高価なもので、似合いもしなければ贅沢すぎるような代物だと思っているのだが、鶴見が「これは君の為に選び買ったものだからね。君が要らないというなら、適当に、店のエントランスにあったゴミ箱にでも放っていくよ」などと言い切ったので、仕方なく持ち帰ってきた。
     近場で急遽、仕事が入ってしまったという鶴見と駅前で別れ、ぐったりしながら電車を乗り継いだ杉元は、ようやく帰ってきた我が城――かなりガタがきている雑居ビルだが――の事務所兼、住居となっている一室の扉へと飛び込んだ。紙袋を乱雑に事務机の上に放ると、倒れ込むようにソファへと身体を沈める。
    「はあ……いったい何なんだ。あの人……」
     瞼を閉じると、どこまでも紳士然とした男の微笑みが浮かんでくる。顔も性格も悪くはないし、金払いの良さなんて文句なしだ。ただただ、男の得体の知れなさだけが、時折ほんのりと不安を煽ってくる。
     いろいろと詮無いことを考えてはみるが、生来、深く考えるのは苦手な質だということもあって、杉元の脳みそにはあっと言う間に限界が来た。
    「ああ、もう! こんな時は、酒だ、酒!」
     がばっと起き上がると、流し台の横に据え置いた年代ものの冷蔵庫まで大股で足を向ける。その中から発泡酒の缶をひとつ取りだし、プルトップを威勢よく引いた。ぷしゅっ、と小気味良い音が部屋に響く。ついでにメタルラックに雑に積まれた菓子類から適当につまみになりそうなものを引っ張り出し、再びソファへ腰かける。
     くたびれたクッションを抱えつつ、ごちゃごちゃしたローテーブルの上から、どうにかテレビのリモコンを探し出して電源ボタンを押した。ちょうど日ハムの選手がツーベースヒットを打った瞬間だった。
     特段応援しているわけではないのだが、なんとなくいい気分になって、ぐっとアルコールを呷る。その辺のディスカウントストアで買った安酒だが、味は悪くない。
     そうだ、久しぶりに白石と酒盛りでもするか、と友人の丸い坊主頭を思い浮かべてスマートフォンを着たままになっていたジャケットのポケットから取り出した。
     杉元がアプリを起動するより先、点灯したロック画面は、新着メッセージが来ていることを告げていた。スワイプ操作でメッセンジャーを開く。
    『やあ、そろそろ家に着いた頃かな? ありがとう、今日も楽しかったよ。きみはあまり楽しくなかったかもしれないけれど、また買い物に付き合ってくれると嬉しいな』
     文面だけ見れば、友人を慮る紳士的な男からのメッセージに見えなくもないが、続いて送られてきた、ファンシーな絵柄のブチ猫が投げキッスでハートを飛ばすスタンプで色々と台無しだった。あれほどの良い男なのに、行動の端々がどこか残念なのは、どうしてなのだろうか。
     とりあえず、ヒグマがおじぎをしているスタンプ(最近買ったお気に入りで、ただリアルなだけじゃなく、音声付きでちゃんと吼えるところが気に入っている)を適当に返してから、今度は友人に向けて酒盛りのお誘いメッセージを送った。
     
     
     
     〇二
     杉元佐一。北の大地で、しがない便利屋を営む男だ。
     迷子のペット探しから買い物の手伝い、大型家具の設置、依頼料さえ払ってくれれば、用心棒の真似事や、ちょっとばかり人には言いづらいような内容も、喜んで受ける。あまりまっとうとは呼び難い稼業を生業としつつも、なんとかまっとうに働いているのには、理由があった。
     杉元には、とにかく金を稼ぎ、とある人物へ送らねばならないという、半ば強迫観念に染まった絶対的な使命があったからだ。
     この地で仕事を始めて三年ほど。段々と馴染みの客もでき、ボロ儲け、とまでは言えないものの経営も軌道に乗ってきた。
     そこそこ順風で平穏、と呼ぶに値する経過であったのだが、そんな日々に僅かな波を立てるようなとても珍しい依頼が杉元の事務所に舞い込んできたのは、つい数ヶ月前のことだった。
    『友人として共に過ごしてほしい。頻度はおおよそ一週間から二週間に一度。期限は依頼主から契約解除を申し出るまで』
     期間限定で友人や恋人のフリをしてくれ、なんて依頼であれば、実の所そう珍しくもないのだが、「友人になってくれ」というのは流石に初めてだった。
     怪しいとは思ったのだが、相手方が提示してきた依頼一回当たりの料金が思わず目を見張ってしまうような額面であったため、杉元は一も二もなく契約を結んだ。男が妙に事務的であったのは気になったが、金は必要だった故多少の不安は振り払って、男が依頼する奇妙な友達ごっこを受ける事にした。
     しかし、ある意味で当然と言えるかも知れないが、初回の契約履行日に杉元は再度、目を見張ることになった。
     待ち合わせの場所に現れたのは、先日契約に来た不愛想な男とは似ても似つかない、仕立ての良いスーツを身に着けた、上品な紳士だったからだ。
    「やあ。杉元佐一くん。私は今日から君のお友達になる男で、名を鶴見篤四郎と言う。よろしく頼むよ」
     にこやかに差し出された手に握手を返せないでいると、男の腕は更に伸びて来て杉元の手を掴み、ぶんぶんと強引に振った。名前、何で、いや契約した時に言ったし書いたな。混乱し通しの杉元の手を握ったまま、紳士――鶴見は「じゃあ、行こうか」と歩き出した。
    「行くってどこに」
    「そうだなあ……まずはお茶から始めよう。なんたって私たち、お友達一日目だからね」
     鶴見は今にも鼻歌を歌い出しそうな上機嫌でもって答えた。待ち合わせの街の一角からするすると歩き出した男は時折振り返り「今日は少し冷えるね」なんて世間話も良い所な適当な話題を捏ねながら、やがて到着した裏路地にある古い喫茶店の扉を潜った。時代から取り残されたようなその店は古いながらに上品さを湛えていて、ふんわりと香るコーヒーの重い匂いと、有線から流れるクラシック・ジャズが雰囲気を増していた。
    「コーヒーは好きかい?」
    「まあ、はい。缶コーヒーくらいですけど」
     革の滑らかなソファに腰を下ろしつつ向けられた問いに答えると、鶴見はちらりとカウンターでカップを磨いていた若い男に目配せした。ここはどうやら馴染みの店のようで、それだけで注文が通るらしい。
     しばらくすると、美しい褐色で満たされた染みひとつない真っ白い陶器がふたつ差し出される。杉元にとってコーヒーとは眠気を飛ばすための飲料に他ならなかった。好みもこだわりも、それ故に考えることすらしなかった。だというのに、これは、
    「うまい……」
     沁みるほどに美味かった。驚きに洩れてしまった言葉にはっとして視線を正面へ戻すと、鶴見は頬杖をつきながらまさしく『にこにこ』といった表情で杉元を見ていた。
     気恥ずかしさに顔が燃えるような感覚を覚えて、ごほん、と咳ばらいをする。が、相変わらず男は満足そうに目尻を下げていた。
    「気に入ってくれてよかった。私もここのを飲んで初めて美味いコーヒーというものを知ったんだ。……まあ、どちらかと言えば今でも甘味のほうが好きなんだがね」
     男が付け足すと、それを待っていたかのようなタイミングで「お待たせしました」と餡団子が乗った皿が届いた。
     この見るからに洋風の拵えです、みたいな純喫茶で? 柔らかく緩んだ頬で皿を受け取る男の姿がなんだか面白くなってしまって噴き出すと、鶴見も更に頬を柔和に緩めた。
     そんな穏やかさと朗らかさでもって、この数ヶ月にも渡る奇妙な友人契約は始まったのだった。
     
     
     その日、杉元は疲れ切っていた。
     バイト勤めをしている飲み屋に、白石に金を貸したという金貸し屋が訪ねてきたのだ。訪ねてきた、というよりは債務者をどうにか探し出そうと躍起になり、法律のぎりぎりアウトの部分を掠めてゆくような無作法者だった。
     杉元佐一はあくまで債務者である白石の友人であって、債務者でもなければ、連帯保証人でもない。白石が行方をくらませたからと言ってそれがなんだというのか。
     白石の借金癖も逃亡癖も、今に始まったことでは無いのだ。――白石由竹は、その筋では充分なほど名の通った、超有名人のはずだ。
     あまりにも金を返さないうえトビが上手すぎることから、奴にカネを貸して取り立てる事が出来たならば、その金貸し屋は看板を掲げる限り、二度と債権回収に困らなくなるなんていう、あまりにも眉唾なジンクスまで生まれる始末だ。挙句に付いた綽名は《借金王》。
     そして不運な事に、金貸しの男は、白石が借金王と知らずに金を貸してしまったようで、ボスに知られる前に回収しなくては、とひどく焦っている様子だった。
     同情してやりたい気持ちはないでもないが、そもそも、違法金利に非合法取り立ての闇金であるし、同情心で折角の高給バイトをクビになっては堪らないので、お帰りいただいた。アテが外れた男は、大分悲壮な顔つきをしていたが、まあ頑張れ、と手を振りながら適当にあしらった。
     気の弱い店長は、若干迷惑そうな顔でこちらを窺っていたがなにぶん気が弱いので、杉元の「解決しました」の圧力を込めた一言で、あっさり引き下がった。
     ありがたい限りだ。わかったから、事を大きくするなよ、とだけ囁き、店長は近頃じわじわと後退し始めている広めの額をおしぼりで拭う。この不毛の一因に杉元が含まれていることは明白だった。別に謝ろうとは思わないが。
     うす、と気の無い返事をしながら、もし事が大きくなったなら、その時はあの坊主頭の借金王を全力でひっぱたいてやろう。そう心に決めたあたりで、表に吊り下ろされたツリーチャイムがからころと鳴り、木戸が僅かに軋みながら開いた。
    「よう、杉元。今日はいつにもまして、死んだ魚じみたツラしてるじゃねえか」
     地を這うような声を伴い一歩踏み入れてきた客の姿を一瞥して、杉元は声の主へ鋭い睨みを浴びせた。嫌味を軽やかに放ちながら颯爽と店へ入ってきたのは、杉元の天敵――尾形百之助だった。くたびれたコートを脇に抱えながら、小雨に降られて僅かに濡れた髪を、纏った水滴を払うようにしてざっと搔き上げる。
     皮肉めいた口ぶりを隠そうともしないこの男は、いつも大局を見透かしたような顔で、暗い瞳を猫のようににんまりと細めた。嫌な予感がする。尾形がわざわざ杉元のもとを訪れるのは、大抵の場合で関わったことを後悔するような、ろくでもない話を持ってくるときのみだからだ。
    「何しにきやがった、尾形」
     店員という立場も半ば忘れて、心底迷惑そうな顔を向ける。無論、尾形にそんなポージングが有効であるはずもなく、挑発はあっさりと躱された。
    「おいおい、俺は客だぞ。もっと丁重に持て成せ」
    「……イラッサイマセー」
    「ふん。誠意は見えないが、まあいい。今日は別件があって来たんでな」
    「別件だァ?」
     ほら見ろ、そんな事だろうと思った。
     生憎、店長は定期的にやってきては店に相応の金を落としていく尾形を憎からず思っているようで、奥からやりとりをちらりと覗き見ていたがそれだけで、残念ながら退店命令を出してはくれなかった。
     バーカウンターの最奥、左端(尾形の定位置だ)にどっかりと腰を下ろすと、「ドライ・マンハッタン」と一言。
    「おい、別件ってなんだよ」
    「いいからとっとと作れ、店員。それと、今日はまだ休憩入ってないだろ? 今取れ」
     俺の休憩時間を把握するな。
     思わず突っ込みを入れたくなったが、茶々を入れる雰囲気でもなければ、有無を言わせるつもりもなさそうな強い語調だった。渋々、注文通り酒を出してやってから、バックヤードに下がって、ロッカーにサロンエプロンと蝶ネクタイを突っ込んだ。
     足早にホールに戻ってきたころには、ショートグラスはとうにカウンターの中で縮こまっている店長に洗われ、尾形は別の小タンブラーを傾けている。おい、ショートだからって早過ぎだろ。もっと味わって飲め。そんな不満もそこそこに、尾形の隣へ腰かける。
    「おい、これでつまんねえ話だったらお前も殴るぞ」
    「……お前も?」
     不思議そうに目を丸くする尾形を見て、ほんの少しだけ溜飲が下がったような気がした。早くしろ、と顎先をしゃくると、尾形はふうと息を吐いてようやく話を始めた。
    「この間、真昼のススキノで乱闘事件があった。片方はコレもんで、」
     尾形は右頬に指でバツを作って見せる。口でヤクザだっていえばいいだろ。無駄に恰好つけんな。
    「といっても、しょうもない半端者らしいが。で、もう片方は、カタギらしい。乱闘の原因になったっていう、アイヌの子供を連れて逃げた。お前、知ってるか」
    「し、」
    「し?」
     黒髪を靡かせる聡明な少女を思い出し、杉元はブリキの玩具めいて動きが鈍くした。この男が、わざわざこんな話をしに来るということは、その件を指す男と子供が、俺と少女――アシㇼパさんのことであるという裏付けをキッチリ取ってきているということだ。とはいえ、この男に向かって素直に参りましたと言うのも癪だった。
    「……し、知らねえ」
     しらばっくれようとしたが、半分声が裏返った。
     恥じ入りつつも思い切り視線を泳がせて答える杉元に、尾形はこれ見よがしに溜息を吐いた。
    「そうか。お前がサスペンスドラマの犯人役に、これっぽっちも向かないことがよく分かった。……ここからは独り言だ」
     傾けたショート・タンブラーの中で、ウィスキーベースのカクテルに溺れる氷がくるりと回る。
    「その半端者のオヤが、逃げた男を探している」
    「乱闘と言っても、実際のところはそのバカどもがほとんど一方的にボコボコにされたそうでね。テメェのとこのカンバンに泥が付いたことが我慢ならないらしい」
     知らない風を装ったことを忘れ、思わず頭を抱えた。
     尾形の言う通り、俺は一週間ほど前、その筋の男達と諍いを起こしている。その日は土曜で、快晴だった。買い物に付き合ってほしいというアシㇼパさんからのお誘いを快諾し、楽しくショッピングをしていた。
     そんな折、なにか些細なきっかけで因縁を付けた挙句、男達はアシㇼパさんを中傷するような言葉を次々に吐いた。暴力も振おうとした。だから殴った。それも強かに。平たくいえばボコボコにしてやった。
    「めんどくせえ奴ら……」
     本当に、面倒臭いことになってしまった。
     尾形はそんな俺を見て大いに満足したのか、口端を釣り上げながら「全く、可哀そうにな」と言う。あからさまに、全く同情していない声色だ。杉元にも、そのバカどもにも。
    「で、本題はここからだ。その組は規模が小さく、上納金だってたいした額じゃない。上からはとうに見捨てられ、既に潰れかけてるようなトコだ。ちょっかい出して、オヤのオヤが出張ってくる確率は、相当低い」
    「で、どうしろって」
    「分かるだろ? いい機会だから隠居してもらえ」
     尾形は懐から写真を二枚取り出して広げた。陰気な顔をした長身と、丸々と太った熊のような男。見るからに隠し撮りの画角だが人相は明瞭だ。
    「こいつらが頭とその補佐。サル山のボス以下だがな。お前がブッ叩けば、それで終わりだ。不本意だがその間、アレの事は見ていてやる。さっさと片付けろ」
     要は、この件にアシㇼパさんが巻き込まれかねないから、彼女に知られる前に早々にカタを付けろと、そういう話だ。こいつは、アシㇼパさんが構いに行くと面倒臭そうな顔で距離を取るが、その実、彼女を大切に思っているのがバレバレだった。めんどくさい奴。野良猫かよ。
    「お前、アシㇼパさんのストーカーになったら即ブッ殺すからな」
    「お前こそ、アレがこの件で怪我でもしてみろ。社会的に殺してやる」
     傍から見るとあまりにも殺伐とした剣呑な会話だが、これが二人の常であったので、敢えて藪を突こうとする猛者はこの場には居なかった。店長も、見て見ぬ振りを徹底していた。
     
     
     尾形が話を持ってきた夜から二日後。杉元は静まり返った裏小路にひっそりと建つとある雑居ビルの前にいた。
     悔しいが、尾形の持ってきた情報は完璧そのものだった。強襲するのに最適な時間とタイミングの指示、人員配置の予定図。頭に入れてきたそれらの情報は、どれ一つとして無駄になることがなかった。
     一応、表向きには善良な一般市民であるはずの俺だが、この日ばかりはそうはいかない。大凡、人を殺傷するのに必要と思われるものは一通り小型リュックに詰め込んできた。最悪、無くともどうにかなるのだが、素手で人を殺すというのは意外と手間や時間が掛かる。今回は最低二人。ついでに目撃した人間も口を聞けないようにしなければならないので、時間との勝負だ。効率的に終える必要がある。 
     彼女の安寧を脅かすものは、何で在れ、すべて排除しなければならない。そのような存在はあってはならないのだ。
     雑居ビルの階段前に到着すると、フッ、と短く呼気を吐き出す。奴らが事務所にしている部屋は二階。建物の裏手は深さのある用水路になっているので、他に出入り口は無い。正々堂々、正面から攻めるのがベストだ。
     皮手袋を着けた拳をゆっくりと握り込んだ。
     脳内でシミュレーションを終えると、ゆっくりと階段を上がる。事務所の安っぽい扉の前には見張り番なのだろうか、派手なシャツを着た男が退屈そうに立っていた。
    「おい、なんだお前」
     止まれ、と男が声を出すのとほぼ同時に、杉元は身を屈めて走り出し、距離を詰めた。左足を突き出して踏み締め、右腕に力を込める。勢いのまま、男のあごへと思いっきり掌底を突き上げた。
     ごっ、と上下の歯が重い噛み合い方をする音が響く。男の両目がぐるりと上を向いた。上手く脳震盪を起こせたようで、男はあっさりと気を失い、身を冷たい床に沈める。
     倒れた男を大した感慨も抱かすにまたぎ、次いで事務所の扉を開く。見るからに年代物のそれは立て付けが悪いのか、ぎぎ、と軋むような音を立てた。
     部屋の中央には向かい合うようにソファが二客。そこで六人の男が、書類を広げながら酒を煽っていた。
    「よう、来てやったぜ」
     ゴン、と手荒にドアを叩くと、男たちはそこで来訪者にようやく気付いたらしく、部下らしきスーツ男のうちの一人が武器を収めているのだろう懐に手を差し込んだ。しかし杉元はそれより先に軽く助走を付け跳躍し、男に向かって体重を載せた回し蹴りをお見舞いしてやった。
     右足は文句を付けようの無いモーションで、きれいに男の脇腹を捕らえた。相手の骨の砕けるような感覚が、ブーツ越しに伝わってくる。無遠慮に足を振り抜くと、男の身体は左のソファに投げ出された。これで二人目。
     零れ落ちた拳銃は、着地してすぐそのまま後ろへ蹴り捨てる。拳銃を取りだされたら迷惑だ。騒ぎが大きくなる。五人の男たちは、そこでようやく自分たちが狩られる側に回ったことに思い至ったようで、バットや鉄パイプなど、思い思いの武装をした。もう遅いが。
     杉元の頭めがけて、あちこち凹んだバットが振り下ろされた。いなしつつ、腕の筋肉で受ける。相手の腕を持ち上げながら、足払いの要領で左足を払って身体を引き倒す。右側から迫ってくる鉄パイプを避け、肘鉄を食らわせる。くぐもった声がして腹を抱えた男がうずくまる。足払いで倒れた男の方の顔面に蹴りを入れてやる。鼻が折れたのか、鼻血が噴き出した。これで四人。
     残った鉄砲玉らしき若い男は、がたがたと震えながら鉄パイプを握っている。後ろからボスに急かされながらも、あっさりと三人を伸してみせた杉元を、心底恐れているようだった。こちらから一歩近づき、首を掴んで引き寄せる。
    「おい、怪我したくなきゃあ、今見たことを忘れろ。そんでこの街を出ろ。未来永劫、今日の事を何処の誰にも話すな。――出来るんなら、見逃してやる」
     小声でそう伝えると、若い男は滂沱の涙を流しながら、こくこくと首を縦に振った。
    「いいか、見逃すのはこれ一度っきりだ。もし、横紙破りなんてしやがったら」
     鼻が触れるほどに顔を近づけて、にや、とくちびるを歪める。
    「お前をどこまででも追いかけて、見つけ出して、絶対に殺してやる。……いいな? 分かったら、行け」
     首に食い込ませていた指を離し、背中を押してやると、若い男は情けない悲鳴を上げながら、走って事務所を出ていった。見るからに組に入りたてです、という子供まで手に掛ける趣味はない。これで、五人。
     そうして残された二人の幹部のうち、肥え太った男──おそらくこちらが組長だろう──が、おそるおそるといった風に声を発した。
    「お前、ウチの若いのと争った奴か?」
    「おう、お前たち、俺を探してたんだろ? だからこっちから来てやった。で、ご用件は?」
     どうせ話など聞く心算はなかったが、そう問いかける。すると、組長の後ろに控えていた長背の男が、怒りに拳をぶるぶると震わせていた。こちらもすぐに反撃出来るよう、軽く拳を握る。
    「お前が……」
     ゆらり。長躯が杉元の前に躍り出る。隙だらけだ。だが、それが誘いで狙いかもしれない、と慎重に構えだけを続ける杉元に、男が顔を近付ける。そして、叫んだ。
    「お前が! 親分に色目を使ったからだろうが!」
    「…………はァ?」
     たっぷり十秒間の間をおいて、杉元はようやく、疑問符だけを絞り出した。
     男は陰気な顔に似合わず、強く声を荒げていたし、それはひょっとしたらビル全体に聞こえるのではないかと思ってしまうほどの声量だった。だから言葉自体は間違いなく耳に入ったはずなのだが、しかし杉元は、その意味の一割すら理解することが出来なかった。
    「……えっと、すまん、色目? 何だって?」
     問答無用で殴りかかっても良かった筈なのだが、完全に毒気を抜かれた。これが作戦だとしたらとんだ知将だ。本気で憤慨している様子の男を見ると、どうやらそういう事でもなさそうだったが。
    「ボコボコにされた下っ端たちから話を聞いて、親分はお前の事を褒めたんだ! 親分ほど魅力的な男に称賛されたら、誰だって惚れちゃうだろ! だから直接会う前に消えてもらおうと思ったんだ!」
     男が話している言葉が、はたして日本国の母国語なのかと疑ってしまう程度には、話の内容が理解できなかった。惚れる? この髭面の冴えないオッサンにか? そもこもこいつは地球人なのか? ひょっとして侵略を企む宇宙人の類なのではないか? など詮無い思考が未だに理解を拒み続ける杉元の思考回路をぐるぐると回った。
    「姫! 何かおかしいと思ったら、お前が若いのを動かしていたのか!?」
    「だって……親分に惚れていいのは、この世界で俺だけなんだよお……!」
    「私が愛しているのはお前ただ一人だけだと言っただろうが! この若者の事は、今時ホネのある、見どころのあるやつだと言っただけだ!」
    「親分はそうでも、こいつが親分に惚れないとは限らないだろ! それで親分だって若い男にフラフラと浮気しちゃうかもしれないじゃないか!」
    「馬鹿野郎! 俺はもう、お前以外を愛すことなんてできやしない!」
    「お、親分……ッ!」
     二人は、恋愛映画のラストシーンさながらに涙を流しながら熱く抱擁しあい、唇を交わして愛を囁いた。それはとても美しい、愛が形を成した感動の一シーンなのだろうが、状況にいまひとつ着いていけていない杉元は、ただただ一人取り残され、謎のいたたまれなさに苛まれていた。なんだこれは。
     こちとらそれなりの覚悟を決めた上でこいつらの命を取りに来たというのに、その覚悟をしてきたというのに、何だ? 結局俺は、バカップルのゲイの痴話喧嘩に巻き込まれただけなのか? ひょっとして俺は、尾形に良いようにハメられたのか?
    「……あー、なあ、俺、帰っていいか?」
    「「良いわけあるか!」」
     ですよね。
     
    「はあ……なんか、どっと疲れたな……」
     まさに骨折り損だ。今回は特に、一円の得にもならないときている。本当に最悪だ。
     痴話喧嘩に巻き込まれた俺は、当然のごとくあっさり帰してはもらえず、さりとて暴力的手段や法的措置を取られることもなく、何故か三人で宅飲み(?)をする羽目になった。
     昏倒していた下っ端が目覚めるたびにひと悶着が起こり、しかし最終的には、全員で大笑いしながら酒を酌み交わし、肩を組みながら歌を歌うという混沌を極める有様だった。親が親なら、子も子だった。
     潰すはずだったやくざ者たちと、メッセージアプリのフレンドIDを交換し、熱心な組入りの勧誘を断固として断り、それらを嫌気がさすほど繰り返してようやく解放された杉元が事務所に辿り付いたのは、もう日も上り始めた朝六時だった。
     ぐったりと疲れ切った身体を寝室まで運ぶ元気などとうになく、靴さえも履いたまま、事務所スペースのソファに倒れ込む。安物の偽革とスプリングがぎちぎちと抗議の声を上げるかのように軋んだが、それらを慮ってやる余裕などなかった。
    「あー、もう寝てえ……でも鶴見サンと会うしな……風呂……」
     いやしかし待ち合わせは駅前に十時。今から少し仮眠を取ってそれからシャワーを浴びて出かける。それなら間に合うのではないか? いける。よし完璧だ。確実に絶対に間に合う。何の問題も無い。寝よう。
     眠気と酔いでほとんど回っていない脳味噌が適当な計算結果をはじきだすと、杉元はスマートフォンのアラームすらセットしないまま、泥に沈み込むように眠りについた。


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