BSS少年モブバデ 昼下がりの教会は、ステンドグラスから差し込む淡い光で柔らかく照らされている。
村の子ども達はいつものようにクラボフスキを取り囲み、色んな話を聞かせてくれとせがんでいた。
「クラボフスキさ〜〜ん。怖い話して〜」
「お化けのお話して〜!」
友人達が興奮気味に司祭の腕を引っ張る姿を、少年は一歩下がって見つめていた。弱虫だと笑われてしまうから言わないけれど、少年は怖い話が苦手だった。
いやだなあ。できれば聞きたくないなあ。夜眠れなくなったらどうしよう。少年は浮かべた笑顔の裏でそう思う。
クラボフスキは眉根を下げて苦笑しながら、『こらこら』と子ども達を宥めた。
「困ったなあ。聖書の話ならいくらでもできるけれど、お化けの話は知らないよ」
「え〜! そんな〜!」
「つまんな〜い!」
友人達がぶーぶーと不満を口にする傍らで、少年は内心ほっと胸を撫で下ろした。
その時だった。
祭具室の扉が軋んだ音を立てて開く。扉の向こうから、硬い靴底が鋭い音を刻む。
現れたのは、最近村にやって来た副助祭だった。
顔には二つの深い傷跡が走り、黒い眼帯で右目を覆った、異様な姿の聖職者。
少年の全身に緊張が走る。両親や祖父母の言葉が、脳裏を過ぎった。
『あんな聖職者、見たことないよ。クラボフスキさんはとても心優しい方なのに、なんであんな奴が教会にいるんだい?』
『噂じゃ、都会の修道院でも問題ばかり起こしてたらしい』
『それでこの村に左遷されてきたんだ。まったく、うちの村はゴミ捨て場じゃないぞ!』
『クラボフスキさんが気の毒でならないわ!』
普段は穏やかな家族達が声を荒らげる姿を思い出して、少年の胸に小さな棘が刺さる。
しかし、クラボフスキは意外にも砕けた口調で彼に言葉を投げかけた。
「あ! バデーニさん」
「何ですか?」
そのまま通り過ぎようとしていたところを引き止められたからか、副助祭――バデーニの声は低く、どこか冷たい。物凄く不機嫌なのだろうかと少年は身構えたが、クラボフスキは特段気にしていないようだった。もしかしたらこれが副助祭のいつも通りかもしれない。
「子ども達が、お化けの話してくれって聞かなくて」
「お化けねえ……」
どこか呆れたような声音でそう言った後、彼は灰青の瞳で子ども達の顔を見渡した。そして、子ども達の顔に近付けるように少し背を丸めたかと思うと――白い手を眼帯に伸ばした。
「どうだ? 怖いだろう」
眼帯の下にあった右目は、白く濁っていた。焦点が合わず、まるで死者のように曇った瞳。光を反射しないその目には、この世のものとは思えない不気味さがあった。
子ども達の間に、ざわめきが広がる。
「お化けだあ!」
「目が〜! 目が〜!」
「逃げろ〜〜!」
一人が叫んだかと思うと、続けて他の子ども達も泣き叫びながら散り散りに逃げ出して行った。バデーニはそんな子ども達を見て、愉快そうにニヤニヤと口角を吊り上げていた。
少年は動けなかった。恐怖で足がすくんだわけではない。バデーニの白濁した瞳を見て、少年の心には感じたことのない何かが芽生えていた。それは、恐れでも嫌悪でもなかった。
胸が焼けるように熱く、心臓が痛いくらいに早鐘を打つ。酸素がどうにも薄く感じて、少年は呆けたように口をぽっかりと開いて胸元をぎゅっと握りしめた。
バデーニの脅かすような低い声、悪戯めいた笑み、そして眼帯の下に隠された瞳――全てが、少年の心に焼きついて離れない。
「ちょ、ちょっと……。さぁ、皆落ち着いて。バデーニさんはお化けなんかじゃないよ!」
クラボフスキの優しい声が響くが、少年の耳には届かなかった。彼の目は、教会の外へと去っていく副助祭の背中だけを追い続けていた。
◆
眼帯の下――あの白濁した瞳を見た日から、少年の頭の中は傲慢な副助祭のことでいっぱいだった。今までは両親や祖父母の言葉によって副助祭を『恐ろしいもの』だと認識していたけれど、一度意識してしまってからは何もかもが変わってしまった。
右目を閉じ込めるように覆う眼帯、二つの傷跡が目立つ白い顔、陽光に輝く金髪、尊大な口調、知性の奔流のような佇まい。何もかもが少年の心を惹き付け、少年の胸を甘く締め付けた。
だが、バデーニは少年の熱い視線をまるで気にも止めなかった。少年が勇気を振り絞って話しかけても『用件はそれだけか』と冷たくかわされるだけ。
礼拝の後にそっと差し出した野花の束も『こんなものを私にどうしろと?』と一瞥されただけで終わった。それでも少年は、バデーニの近くにいるだけで心が震えるのを止められなかった。
そんなある日、異変が訪れた。
いつからか、村に黒髪の大男が現れるようになったのだ。オクジーと名乗るその男は、バデーニと何らかの関係があるのか、共に居る姿を度々目にした。
『凄い身体付きね、傭兵かしら?』
『よそ者がこんな村に一体何の用だ』
村人たちがそう噂する傍らで、少年もまた、オクジーの存在に心をかき乱されていた。それはバデーニへの想いとは異なる、野性的で危険な何かだった。
少年は意を決して彼に尋ねた。
「副助祭様! あの……オクジーって人は、誰なんですか?」
少年の声は震えていた。なぜそんな質問をしたのか、自分でもわからなかった。ただ、バデーニとオクジーの間に何かがある――そんな予感が少年を突き動かした。
バデーニは少年を一瞥した。灰青の瞳は冷たく凪いでいる。
「彼は私の雑用係だ。それ以上でもそれ以下でもない」
淡々と放たれた一言に、少年は何故かとても安心した。心臓を締め付けていた鎖が解かれたような感覚に、少年はほっと胸を撫で下ろす。
雑用係。バデーニとオクジーは決して深い仲ではない。そう、信じることにした。
だが、月日は少年の希望を静かに裏切っていった。
バデーニの左目がオクジーを映すとき、いつしか少年の知らない熱を宿し始めたのだ。彼が教会を出てパン袋をどこかに運ぶ時、傷跡の目立つ唇は穏やかな弧を描いていた。
そんな姿を見る度に、少年はまるで内臓を握り潰されているような気持ちになった。
ある日の夕暮れ、少年は教会でバデーニに尋ねた。夕陽に照らされた副助祭の横顔は、まるで聖画のようだった。
少年の胸は高鳴り、同時に恐怖に震えた。だが、その衝動を止めることはできなかった。
「修道士、さま」
自分でも笑えてくるくらい掠れた声だった。少年は己を鼓舞するようにぎゅっと胸の前で手を握り、頑張って声を振り絞る。
「修道士さまは、あの大男をどう思っているのですか」
悲痛さすら感じられる甲高い声が、礼拝堂に響き渡る。バデーニは少年の問いを聞いて、しばしの時間おし黙った。
彼の瞳は、少年を見てはいなかった。まるで夢を見るように、どこかを見ていた。
「――そんなの、」
少年は息を呑んだ。バデーニの瞳には、見たこともないほど切なく、深い光が宿っていたからだ。
傷跡の目立つ唇がわずかに動き、ためらいがちに言葉を紡ぐ。
「とてもひと言で言い表せられない……」
その瞬間、少年は息を止めた。
いつもは傲慢で冷たい顔が、言い知れぬ美しさを帯びていた。痛みと愛おしさ、秘密と情熱が混じり合ったような、少年が初めて見る表情だった。
少年の心は燃え上がる。渦巻いていた想いがこれまで以上に激しく脈打った。
だが同時に、冷たい刃が胸を刺した。バデーニの声、言葉、表情――その全てが、少年の決して届かぬ場所にオクジーが居ることを、暗に告げていた。少年はバデーニの心に絶対に触れられないのだと、改めて思い知らされた。
◆
夕暮れに照らされた夢見るような表情。柔らかく、どこか遠くを思わせる声。それらは少年の想いを激しく燃え上がらせ、同時に粉々に打ち砕いた。
それでも、少年の心はバデーニの影に縛られていた。絶対に自分の手の届かない場所にあるとわかっていても、決して心の中から出て行ってはくれなかった。
副助祭は決して少年の想いに応えることはない。
それでも、せめて想いは伝えたい。
この想いを伝えなければ、決してこの呪いは解けない。そんな気がしていた。
そんなある日の夜、少年は家族が寝静まった後にそっと家を抜け出した。クラボフスキから、この時間にバデーニが教会を出ると聞いたのだ。
逸る胸を抑えて教会に向かうと、丁度教会から出てくるバデーニの姿を見かけた。金髪が月光に揺れ、修道服が闇に溶け込んでいく。バデーニは誰とも話さず、足早に村外れの小道へと消えた。歩幅の違いから距離が空いてしまったけれど、少年はただバデーニと二人きりになりたいという一心で、その後を必死に追った。胸の鼓動が耳元で響き、足元のかすかな草の音さえも大きく感じられた。
やがて、村外れの古い納屋にたどり着いた。とても古い納屋で、木は所々に朽ち果てており、月光がその隙間から漏れている。
バデーニはここにいる。
意を決して戸を叩こうとしたその刹那、納屋の中から声が聞こえた。
――低く、甘い、まるで蜜のように絡みつく声だった。
「……バデーニさん、これも外していいですか」
それは、オクジーの声だった。続いて、バデーニの声が聞こえる。いつもは尊大で冷たい声が、今はどこか不安げな熱を帯びているように思えた。
「よせ。こんなの見たって気分を害するだけだろう」
「いえ、見たいです。……バデーニさんの全部、見せてください」
「………………、物好きだな」
少年の心臓が凍りついた。納屋の奥から漏れる二人の声は、親密で、秘密めいていて、少年の知らない世界を覗かせた。
少年の頭が真っ白に染まる。衝撃が胸を突き刺し、同時に、説明のつかない興奮が全身を駆け巡った。
「は……っ」
少年は小さな声を漏らし、慌てて口を押さえた。納屋の闇に自分の存在がばれてしまう恐怖と、もっと聞いてみたいという禁断の衝動がせめぎ合う。だが、少年の足は無意識に後ずさりしていた。もうこれ以上、耐えられない。
少年は踵を返し、納屋を後にした。月明かりの下、村への道を走りながら、涙が頬を伝った。
バデーニの甘い声が耳にこびりつき、少年の心を焼き続けた。
家にたどり着いたとき、少年は膝から崩れ落ちた。息を切らし、胸を押さえた。バデーニへの想いはまだ燃えていたが、それはもはや少年の身を焦がす炎だった。
納屋で聞いたあの声は、その夜、少年を大人にした。
それから程なくして、彼は衝撃的な話を聞いた。
バデーニが異端の罪で処刑されたというのだ。オクジーと共に、深夜、絞首刑に処されたと。
噂は風のように村を駆け巡り、あらゆる場所で人々の口に上った。
『やっぱり、あの副助祭は最初から怪しいと思っていた』
『クラボフスキさんは大丈夫かしら』
『神の名を汚した報いだ』
村人たちは口々にバデーニを罵った。
両親も、祖父母も、夕食の卓で同じように言った。
『異端者め、当然の末路だ』
『ああ、恐ろしい。でも居なくなってくれて安心したわ』
彼は黙ってスープをかき混ぜ、唇を噛んだ。村人たちの言葉は、彼の心に突き刺さる刃だった。副助祭は確かに尊大で傲慢だった。高圧的な態度で村人たちを遠ざけた。だが、彼には関係なかった。
バデーニは、彼にとって、初めての特別な存在だった。
その日の夜、彼は毛布をかぶり、家族の寝息が響く部屋でそっと目を閉じた。
瞼の裏にバデーニの姿が浮かぶ。
眼帯をずらした時の、白濁した瞳。悪戯めいた笑み。礼拝時に伏せられた長い睫毛。
そして彼は想像する。
星空に抱かれて永遠に眠る、その顔を。
闇に染まる納屋での、二人の姿を。
金色の髪が乱れ、白濁した目が月光に濡れている様を。
あの二人が『異端』と呼ばれた理由は、あの場面と関係があったのだろうか。彼にはわからない。
ただ、バデーニはもうこの世にいないことだけが確かな事実だ。
彼の目から、熱い涙がこぼれた。枕に顔を押し付け、声を殺して泣いた。村人たちがバデーニを罵る声が、頭の中で響く。だが、彼の心には、バデーニへの想いだけが残っていた。
少年の恋心は、幼く、純粋で、決して汚されることのないものだった。
「修道士さま……」
彼は心の中で囁いた。孤独な闇の中で、彼は愛しい人のことを想い続けた。
零れ落ちる涙は静かに、しかし確かに、バデーニの記憶を刻んでいた。
(了)