瞼の裏で君が死ぬ バデーニの身体は、冷たい枷に縛られていた。
ぼやけた視界に映る石床には赤黒い染みが広がっている。
遠くで何かが引きずられる音が響く。
ずる、
ずる、ずる、
ずる、ずる、ずる、
どさり。
足元に何かが投げ捨てられた。暗い石畳に鈍い音が響き、バデーニの心臓が一瞬止まる。目を細めてよく見れば、それはオクジーの頭部だった。
長い黒髪が無惨にほどけ、毟られた鴉の羽根のように石床に散らばっている。彼の美しい瞳は、まるで硝子玉のように虚ろで、かつての強い光を失っていた。血と泥にまみれたその顔は、しかし、どこか穏やかで――まるでバデーニのことを、静かに案じているかのようだった。
「――ッ、クソッ!!」
バデーニは汗と動悸にまみれて飛び起きた。ベッドのシーツはぐしゃりと絡まり、冷や汗で湿っていた。窓の外はまだ暗く、遠くで夜の礼拝を告げる鐘が低く響く。冷たい空気が部屋に満ち、バデーニの震える身体を容赦なく包む。
今日もまた、オクジーが死ぬ夢を見た。
いくら夢とはいえ、胸を締め付ける恐怖と絶望、そしてオクジーの痛ましい姿はあまりにも生々しく、全身に焼き付いていた。
バデーニは唇から血が滲むほど強く噛み締め、ガチガチと歯を震わせながら己の身体を己の腕で抱きしめた。そうでもしないと、正気を保てそうになかった。
――地動説が完成してからほどなくして、この悪夢が始まった。
最初に見た夢は、オクジーがバデーニを庇って刺殺されるものだった。暗い路地裏、鋭い刃がオクジーの腹部を貫き、鮮血が石畳を染める。
バデーニは彼に抱きすくめられながら、ただ呆然とその光景を見つめていた。オクジーは苦痛に顔を歪めながらも、震える声で何度も何度も『大丈夫ですか』『無事ですか』と繰り返した。
自分の腹部から流れ出る血の熱さも、命が失われていく感覚も省みず、ただバデーニの安否だけを案じていた。
最初は力強くバデーニを支えていた太い腕が、徐々に冷たくなり、力を失っていく。
バデーニはその冷たさに耐えきれず、叫びながら目を覚ました。
次に見たのは、オクジーが殴殺される夢だった。
無数の拳と棍棒が彼の身体を叩き潰し、骨の砕ける音が響く。オクジーは倒れながらもバデーニを庇うように立ち塞がり、『逃げてください』と叫んだ。
だが、バデーニは動けなかった。恐怖に足が竦み、ただオクジーが血に塗れて倒れていくのを見ているしかなかった。
またある夜は、オクジーが絞殺される夢だった。
太い縄が彼の首を締め上げ、顔が紫色に変色していく。オクジーはもがきながらも、バデーニの手を握り、『バデーニさん、どうか生きてください』と目で訴えた。その瞳は、死の淵にあってもバデーニへの気遣いに満ちていた。
さらに別の夜、オクジーが焼殺される夢を見た。
炎に包まれた彼の身体は、まるで生きた松明のように燃え上がり、絶叫が夜を切り裂いた。それでも彼は、バデーニが安全な場所にいることを確認するまで、炎の中で目を見開き続けていた。
殺され方は毎夜異なり、どんどん惨く、残酷になっていった。鋭い刃で切り刻まれる夜もあれば、毒でゆっくりと悶え苦しむ夜もあった。あるいは、群衆に石を投げつけられ、血と嘲笑の中で息絶える姿も見た。
だが、どんな夢の中でも、オクジーは決して恨み言を口にしなかった。どれほど痛み、どれほど苦しもうとも、彼の口から出るのはバデーニの無事を願う言葉だけだった。
「なぜ、いつも君が死ぬんだ……」
バデーニは呟き、拳をシーツに叩きつけた。夢の中のオクジーの死に方はあまりにも多様で、あまりにも残酷だったが、最も耐え難いのは、オクジーがどんな状況でもバデーニを優先することだった。
夢の中ではいつもバデーニが守られる側だった。
『夢は神からの啓示である』と唱える者たちもいるが、バデーニにとって、そんな説は『クソ喰らえ』と一蹴するほかないものだった。
神がこんな悪趣味で残酷な光景を啓示として見せるほど低俗であるはずがない。血と絶望に塗れた夢が、神の意志だなんて、信じるに値しない。
夢の原因は、きっと自分の中にある。
心のどこかで、彼自身がその地動説を『異端』と感じ、恐れている部分があるのではないか。だからこそ、こんな夢を見るのだ。オクジーが異端審問に引きずり出され、拷問され、殺される――そんな最悪の想像が深層意識に根付いているから、夜ごと彼が死ぬ夢を見るのだ。
「……何も問題は無いはずだ」
バデーニは自分に言い聞かせるように呟いた。
地動説の研究は全て自分一人で行ったことだと説明できるように、やれることは全てやった。
そのために――オクジーの本も自らの手で燃やしたのだ。
炎が紙を飲み込むとき、バデーニの心は引き裂かれる思いだった。あの文章が、オクジーの魂そのもののように美しく思えたからだ。
しかし、証拠に繋がるものを燃やすことで、オクジーを異端審問の魔手から遠ざけた。少なくとも、それを信じたかった。
だが、これだけでは足りないのだろうか。
心の奥底で囁く声が鳴り止まない。
あの程度のことで、本当に彼を守れるのだろうか。
オクジーを傷付ける言動すら、ただバデーニ自身の恐怖を鎮めるための自己満足になっていたのではないか。
夢の中のオクジーは、どんなに苦しもうとも、バデーニを気遣う言葉しか口にしなかった。その優しさが、かえってバデーニの心を深く抉る。
これ以上オクジー君と一緒にいてはならない。
自然と、そんな結論に至った。
オクジーと共にいること自体が、彼を危険に晒すかもしれない。
もう地動説の証明は完成している。星の観測資料も十分すぎるくらいに充実している。これ以上、オクジーを雑用係として手元に置いておく必要など何も無い。
そうと決まれば、なるべく早くこの村を出るべきだ。
バデーニは机に向かうと、今後の計画を立て始めた。
何故か心が痛んだ。
彼の困ったような顔、彼の声、彼の匂いが脳裏に浮かぶ。オクジーと離れることなど、本当は考えたくもなかった。
やがて夜が明け、薄暗い部屋に朝の光が差し込む。
バデーニは立ち上がる。そろそろ朝食の配給の時間だ。
オクジーに会わなければ。あの夢がただの悪夢であることを確かめるために、彼の無事を確かめなければ。
パンの配給を受け取りに来たオクジーの姿を見て、バデーニは内心安堵の息を吐いた。
よかった、今日も生きている。
だがそんな様子は少しも見せず、バデーニは用は済んだとばかりに素っ気なくその場から立ち去ろうとした。
「あの、バデーニさん」
しかし、オクジーに声をかけられて、バデーニは顔を上げた。いつもはどこかおどおどとしている彼の声が今日は妙に深みがあるように感じる。
「何だ」
「最近、眠れていますか」
その言葉に、バデーニの胸が締め付けられた。
眠れているかだと? ふざけるな。君が私の夢の中で死ぬせいじゃないか。
オクジーにぶつけるにはあまりにも理不尽な怒りが一瞬心をよぎったが、彼はそれを押し殺した。
「まぁ、最近やることが多くてな。多少寝不足ではある」
平静を装うバデーニの顔を、オクジーの瞳が、じっと射抜いた。
「それ、本当ですか」
何故彼はこんな時に限ってやけに聡いのだろうか。オクジーの声は穏やかだったが、その視線にはどこか探るような鋭さがあった。バデーニは目を逸らし、足元に視線を落とした。風が吹き、修道服の裾がふわりと舞い上がる。
「……こんなこというのは、烏滸がましいですが」
オクジーが一歩近づき、ためらいがちに言葉を続けた。
「最近のバデーニさんは、昔の俺みたいな目をしています。まるでこの世に絶望して、眠るのが怖いって思っているかのような……」
「それは君の気のせいだ」
バデーニはそう呟くと、唐突に話題を変えて、『近いうちにこの村を出てV共和国に行く』計画を立てている旨を一方的に捲し立てた。オクジーは虚をつかれたような顔をしていたが、彼の反応など待たずにバデーニはその場を離れた。
あの夢と同じように、オクジーに案じられる自分でいるのが嫌だった。
◆
その日の夜も、バデーニは眠ることを恐れていた。
眠りたくない。
何か考え事をして、意識を現実に繋ぎ止めねば。そんな想いが、研究室として使っていた納屋へと彼を導いた。
そしてバデーニはV共和国への逃亡計画を練るため、机に向かい、散らばった紙と羽根ペンを手に取った。
月明かりが壊れた木の板の隙間から差し込み、埃っぽい空気を淡く照らしていた。
眠りたくない。
バデーニは必死で目をこすり、意識を保とうとした。だが、連日の寝不足と心労が彼の身体を裏切り、瞼は重く垂れ下がる。
机に突っ伏し、羽根ペンがカタリと落ちた瞬間、彼の意識は微睡みへと落ちていった。
そして今日も、夢を見た。
冷たい石に囲まれた部屋。湿った空気が肺にまとわりつき、鉄の匂いが鼻をつく。バデーニは椅子に縛り付けられ、身動き一つできない。縄が手首に食い込み、皮膚が擦れて痛む。だが、その痛みさえも、彼の目の前の光景に比べれば取るに足らなかった。
オクジーがそこにいた。彼もまた、バデーニと同じように椅子に縛り付けられ、動けない。
だが、彼の顔には恐怖ではなく、静かな決意が宿っていた。バデーニの心臓が激しく鼓動する。見知らぬ男が手に持つ鋭いナイフが、蝋燭の光を受けて不気味に輝く。その刃先が、ゆっくりと、だが確実に、オクジーの目に近づいていく。
「オクジー君! オクジー君!!」
バデーニは叫んだが、声は石壁に吸い込まれ、虚しく響くだけだった。
そして、ナイフの刃先が、オクジーの瞳に――。
「――バデーニさん、バデーニさん!」
肩を強く揺さぶられ、バデーニはハッと目を覚ました。息が荒く、額には冷や汗が滲んでいる。
気付けば、そこにはオクジーが立っていた。手に持つ蝋燭の柔らかな光が、彼の心配そうな顔を照らしていた。長い黒髪が肩に落ち、不安げな目がバデーニを見つめている。
「……お、オクジー、くん、」
バデーニは掠れた声で呟いた。
こんな時間にどうしたんだ。 そう尋ねたかったのに、喉が詰まって言葉が出てこなかった。
夢の中のナイフの輝きが、まだ瞼の裏にちらついている。胸が締め付けられるように苦しかった。
オクジーは少しの間驚いたようにバデーニの顔を見つめていたが、何も言わず、そっと近づいてきた。そして、遠慮がちに、だが確かな力強さで、バデーニの身体を抱きしめた。
彼の広い胸板がバデーニの顔にふわりと押し付けられる。温かい。夢の中の冷たい腕とはまるで違う熱がそこにあった。
「すいません、……少しだけ、俺の自己満足に付き合ってもらってもいいですか」
オクジーの声は少し震えていた。
バデーニの耳に、彼の胸の鼓動が響く。
どくどく。どきどき。
少し早くて、力強い。
――あぁ、君はこんな音色を奏でて生きているんだな。
大きな手がそっとバデーニの額に触れ、湿った金髪を優しくかき分けた。その感触は、バデーニの心を静かに温めた。
オクジーがここにいる――その事実が、恐怖と罪悪感で張り詰めていた何かをゆっくりと解きほぐしていく。
「バデーニさん、俺はここにいますから」
オクジーの声は囁くように柔らかかった。その言葉が、バデーニの心に深く染み入り、凍てついた胸を溶かした。
そうして悪夢の影は遠ざかり、彼の意識は次第に深い眠りへと沈んでいった。
その夜、バデーニは久しぶりに何の夢も見なかった。オクジーの血まみれの姿も、虚ろな瞳も、冷たい腕も現れず、ただ静かで深い眠りが彼を包んだ。まるでオクジーの体温と鼓動が、悪夢の影を全て追い払ってくれたかのようだった。
朝、目覚めたとき、納屋にオクジーの姿はなかった。だが、バデーニの身体にかけられた彼の上着が、かすかに残る温もりとともに、彼が確かにそこにいたことを物語っていた。
バデーニは上着を手に取り、そっと胸に押し当てた。
何故か、もう二度と悪夢を見ることはないような気がした。オクジーがくれた温もりが、バデーニの心を巣食っていた闇を全て溶かしてくれたのだ。
「ありがとう、オクジー君」
バデーニは呟き、立ち上がった。
そこでふと、今日がヨレンタとの飲み会の日だと気づく。
飲み会の場所はなんでも食事に定評のある店だそうだ。もうじきオクジーとは袂を分かつことになるのだから、最後に彼を労って、美味しいものを沢山沢山食べさせてやろう。
バデーニは小さく微笑んで、納屋の扉を開けた。
朝の光が差し込み、納屋の空気を黄金色に染めた。
地動説の発表はまだまだ道半ばだが、きっとどんな困難も乗り越えられる――そんな確信が、バデーニの胸に宿っていた。