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    v_annno

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    v_annno

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    楽🐑
    怪物退治人パロ
    怪物5人衆(ハロウィンコラボカフェの姿)と退治人ふーちゃん

     人間は闇を制した──などというのは物を知らない人間の戯言たわごとである。
     確かに、人間は数々の発明をし、文明がそれを方々ほうぼうへと広めていった。暗がりは照らされ、不思議は解明され、毎日訪れる最大の闇である夜さえも、絶えぬ灯りに押し退けられる。人々が傲然ごうぜんと闇からの脱却を言祝ことほぐのも、無理なからんことかもしれない。
     けれど実際の所どうだろう? 人間は本当に、闇を消し去ることが出来たのだろうか。
     光に押し退けられた闇を見てみるがいい。文明の灯りに甘やかされた瞳は、その奥にひそむものを映せるだろうか。何も気付かない人間をニヤニヤと見つめる、怪物の眼光を見つけられるだろうか。
     人間は闇を制してなどいない。サイバネ化技術が進歩し、サイボーグが何ら特別でなく街を歩くこの現代においてさえ。光から逃れた闇はより濃く、より深く、より悪辣な深淵となって、間抜けな獲物の到来を待ち構えているのだ。
     ファルガー・オーヴィドは、それをよく知っていた。
     とてもよく、知っていた。



    「これはプロにしか頼めない仕事なんだ」
     その台詞は、アルバーン・ノックスの口癖のようなものだ。仕事の斡旋のたび、彼は「プロにしか頼めない」と口にする。それがどんなに簡単な仕事だろうが例外なく──左右で明暗の違う目を細め、意地悪く口元を笑ませて、「僕はお前をおだててるんだぜ」という本音を隠しもせずに、だ。例え皿洗いや空き缶拾いだろうが、アルバーンはプロの為の仕事だと言って紹介するのだろう。
     それを知っているファルガーは、銀の髪の下から胡乱うろんげに対面席を見遣った。しかし想定とは違い、ブラウンダイドの重たい前髪の下は真面目そのものだ。真っ赤なサイボーグアームで指を差し、古馴染みはそれを指摘してやった。
    「お前がそんな顔してるってことは、“おにぃ”から頼まれた仕事なんだろ、アルバニャン」
    「Fuck you ファルガー、その通りだよ」
     キャットボーイは年齢不詳の可愛い顔を歪めて頷く。“おにぃ”とは、アルバーンが渡りを付けている警察官である、サニー・ブリスコーのことだ。
     如何にもアンダーグラウンド臭いこの仕事だが、実は政府傘下の組織である。大きな声では言えない仕事なので、知るべき人間だけが知る秘密組織……という扱いなのだが。街中まちなかに違和感なく身を潜めるための補助も手厚く、ファルガーが拠点にしているこの斡旋所も表向きはミュージック・バーを名乗っていた。派手なネオンに彩られたバーカウンターの向こうで、音楽に合わせて愉し気にシェーカーを振る黒髪の青年も、アレで秘密組織の一員である。
    「それで、お前の“おにぃ”は何て?」
     グラスから立ち上るアーモンドリキュールの香りを嗅ぎながら、笑いを含めてファルガーは訊ねた。何があったか矢鱈やたらと公権力を敵視しているはずのアルバーンが、サニーにだけは妙にデレデレと甘えるのだからついつい突っついてしまう。こうして揶揄からかってやれば中指を立ててくるのも、面白くて仕方がないのだ。
     案の定膨れっ面を晒した猫ちゃんは、口をへの字に曲げながらガサゴソと書類を引っ張り出した。ホログラムディスプレイが主流のこの時代に、お偉方は未だ紙の権威を信奉している。その煽りを食らってこんな所までやって来た紙の地図を指差し、手配屋フィクサーは仕事の説明を始めた。
    「ここから北に行ったとこに、ドレイトンっていう町がある。暇を持て余してるけど碌に金も車も持ってないような、ティーンのお子ちゃまたちが夜中まで遊べる程度には発展してる……まあ田舎って感じの町だね」
    「察するに、今回の被害者は子どもが多いのか」
    「話が早くて助かるよ。そう、今回の被害者は大人ぶった子どもたちさ」
     えぇとどれだったかな、などとひとちながら、アルバーンは幾枚かの紙をテーブルに伸べる。ざっと目を通せばそれは、警察の調書のコピーらしき書類と、ドレイトンの行方不明者リストだった。赤い指先で名前の列をなぞり、ファルガーは眉をひそめる。
    「田舎町で行方不明になる人間が普通どれだけいるのかは知らんが、無視できる数には見えないな。これだけ被害者が膨れ上がるまで、こっちに情報が入って来なかったのか?」
    「ま、お役所仕事なんて大体そんなもんでしょ。『どうせ不良が家出した』くらいに考えて、放置に放置を重ねてこの有様ってワケ」
     だぼつく上着に隠された肩が、どうでも良さそうに上下する。そしてツートンカラーのグローブに隠されている手は、もう一つの書類をファルガーに向けて押し出した。
    「それが大間違いだってようやく分かったのが、今回の事件。恐らく初めての生き残りの、その証言のお陰だね」
     銀の目を、差し出された書類に落とす。調書に関わった警官の名前や、被害者の名前は黒く塗り潰されていた。これもお役所仕事の一環であろう。まあ、調べようと思えばすぐに調べられる。黒塗り部分に向けた興味をすぐにひるがえし、綴られた文字の塊に向き合った。生き残った被害者は、17歳の少女らしい。
     ……17歳。思わず、ファルガーは眉根に力を込めた。
    「ファルガー?」
    「……大したことじゃない」
     目敏めざとく気付いた猫の目に、淡々と首を横に振る。そう、大したことじゃない。意識を切り替え、書類を読み進めていく。
     事件としては、昔からよく聞くたぐいのものだ。成熟した大人を自任する……実際の所は知恵の足りない子どもたちが、同等に扱ってくれる大人の真意に気付かず逆上のぼせ上がって道を踏み外す。
     今回の少女の場合は、ドレイトンにたった一つだけあるクラブに年齢を偽って入店し、そこで出会った男たちと意気投合。誘われるがまま友人と共に彼らの家までついて行き、そこで暴行を受けた。……唯一「よくある事件」と違ったことは、その男たちが正真正銘の怪物──人食いのモンスターだったということだ。
    「……5人の、若い男の姿をした、怪物」
     機械の指で、証言の一文を辿たどる。アルバーンが頷く。ファルガーは、それを見ない。
    「酔っ払ったガキの妄言と一蹴するには、彼女の状態は尋常じゃなかった。体はズタボロ、自分以外の……友達2人分の血にまみれて。警察も怪物にやられたっていう話こそ鵜呑うのみにはしなかったけど、町にサイコ野郎が隠れてるって程度には危機感を持ったみたい。ここでようやく、サニーの方にまで話が伝わった。……オレたち専門のお仕事だ、ってね」
     ファルガーたちの仕事。決して制すことの出来ない暗闇から人間を付け狙う、怪物どもを殺すこと。
     科学の発展と共に淘汰されたと思われていた怪物どもは、その実器用に世界を生き抜いていたらしい。時代に合わせてスマートに、効率的に、……そしてより凶悪に。
     何十年と掛けて不可解な死体の山に気付いた国家は、ようやっと奴らに対抗するための組織を秘密裏に作り上げた。民主主義に背を向けて説明の口を閉ざしているのは……まあ馬鹿正直に「吸血鬼や狼男を退治する組織を作りました!」などと口にした際の反発を恐れたこともあるだろう、が。最も警戒されたのは、無辜むこの民衆同士の疑心暗鬼を煽ることだ──何しろ現代の怪物たちは、人と生活を共にしながら、魅力的な笑顔で獲物を探しているのだから……。
    「ま、オレたちには関係ないハナシだけど。ヤることヤって金をもらう、そんだけだよ。狭い敷地でバウバウやってる縄張り意識の強いお巡りさんの内情に一々かかずらってる暇はない。いつも通り、怪しまれる前にササッと獲物を片付けて──ファルガー?」
    「っ、あぁ、なんだ?」
     鋭く名を呼ばれ、下げていた顎を慌てて上げる。暗闇を見通すというライムイエローの瞳に貫かれながら、ファルガーは努めて何でもない風を装った。アマレットのグラスに口を付け、作り物の癖に本物と同じ動きをするまなこを逸らす。
     ごく自然に見えると自信を持って言える演技は、しかし長い付き合いの手配屋には通じなかったようだ。色違いの大きな目は、いよいよ疑り深く細められる。
    「やっぱり何かおかしいぞ、お前。悪いモンでも食った?」
    「まさか。絶好調だよ」
     お道化どけて返すが、手応えはない。アルバーンの両目は、変わらずファルガーへの不信を宿している──いや、そんなハードボイルドな感情ではない。もっとウェットな、友人に対する心配だ。きっと本人は必死で否定するだろうが。
     感傷に湿気しけた表情を形ばっかり皮肉気にして、猫ちゃんは大袈裟な溜息を吐いてみせた。
    「はぁ~……。こりゃ、浮奇に回した方がいいかも……」
    「いや俺が行く」
     同僚の名を出された瞬間、ファルガーは咄嗟にそれをさえぎった。言葉尻を喰い千切られたアルバーンが、目を丸くしてこちらを見る。しまったと内心ほぞを噛む。しかし外面では何でもない振りを続けながら、口車を回し続けた。
    「プロにしか頼めないって言ったのはお前だろうアルバニャン。ここいらじゃ俺が一番腕が立つ。だから真っ先に話を寄越してきたんだろうが」
    「……確かにそうだけど……」
    「なら決まりだ」
     グラスに残っていた酒を飲み干し、無理矢理に口の端を吊り上げて笑う。
    「サニーからの仕事なら報酬も高い。金欠だったからありがたいよ、この間ついついプレミアの付いた“趣味の本”を買っちまったもんでね」
    「Fuck! この腐男子め」
     可愛らしい顔を苦々しく歪めて、キャットボーイは炭酸の抜け始めたコークハイをあおった。空になったグラスの底をテーブルに叩きつけ、そしてアルバーンは、吊り目を思わしげに細くしながら言う。
    「……分かったよ、お前に任せる。だけどマズそうならすぐに浮奇と交代させるからな」
    「あぁ、ありがとな、アルバーン」
     礼を言えば、ぺっ、と唾を吐く真似をされる。不本意でしかないのだろう。本当ならば、言いたいことも聞きたいこともあったはずだ──例えば、何か因縁のある相手なのか、とか。
     けれど、彼はそれを仕舞い込む。過去だのなんだのに口を出すのはマナー違反だ。サイボーグが奇異の目に晒されなくなって久しいこの時代に、バケモノ退治に身をやつす──そんな訳あり者の集まるこの業界においては。
     ファルガーはテーブル席を立ち、カウンターへと足を進めた。
    「ユーゴ、注文してもいいか?」
     声を描ければ、黒髪のバーテンダーが嬉しそうにシアンの目を瞠った。
    「ふーちゃん! もちろんいいよ、何にする? ゴッドファーザー? アヴィエーション?」
    「いや……ブラッディメアリーを」
     珍しい注文に、ユーゴはキョトンと瞬きをする。けれどすぐに破顔して、いいじゃん、と言った。
    「ふーちゃんの色だもんな」
     愛用のジャケットの差し色とサイバネティックスを指差され、曖昧に笑い返す。ファルガーの個人的な決意表明を、わざわざ言って聞かせる気もない。
     材料を入れて混ぜるだけのビルドはすぐにサーヴされる。愛飲している透き通った琥珀色とは違い、赤く濁ったカクテルを赤い義手で取り上げた。
     ……今回の標的があいつら・・・・であるならば、浮奇を向かわせる訳にはいかない。いいや誰であってもだ。決意と共に、ブラッディメアリーを呷る。濃厚な味の中で弾けるペッパーの辛味が心に火を付ける。
     断固として勝つ。奴らを殺し、あの日の悪夢を打ち倒すのだ。



     ドレイトンは、ファルガーの拠点である街からオートパイロットで4時間ほど掛けた場所にある町だった。広い道路の両脇こそ立派な店を構えているが、少し道を逸れれば古びた街並みが続いている。太陽に照らされ白く粉を吹くようなそれらを、ファルガーは一瞥すらしなかった。目指すべきは、僻地の中でも最も寂れた場所なのだ。
     出立前に設定された通り、車は自動で道を進む。舗装されたのは一体何十年前なのか、ひび割れ歪んだ道路にタイヤが弾む。その振動に尻を叩かれながらも、銀瞳は窓の外をじっと警戒し続けていた。
     やがて、車が道の傍らに停止する。センターラインがないのか、剥がれて見えなくなったのかも判然としない狭い道路だが、ファルガーの車を通行の邪魔だと感じる者もいるまい。周囲にあるのは草生くさむすばかりの平地と、廃屋ばかりだ。
     警戒心も露わに、しばし窓の外を睨む。動くものの無い視界を確認してからドアを開け、そろりと機械の足をアスファルトに下ろした。密閉された箱の中から出てまず感じるのは、獰猛なばかりの植物の匂い。そして、薄っすらと漂う腐敗臭。
     ファルガーは開いたドアの内側に佇んだまま、注意深く辺りを見回した。昨日の内に入手した、今回の事件の聴取を記録した音声データによれば……被害者たちが連れて来られたのはこの辺りだ。当然、警察も証言に従いここを調査したはずだが、彼らの縄張りを示すバリケードテープは見当たらない。理由は分かっている。被害者の証言に合致する、犯行現場を発見できなかったためだ。
     小さく息を吐き、助手席に投げ込んでおいたドラムバッグを掴み出した。それを肩に引っかけながらドアの外側へと回り込む。自動でゆっくりと閉まっていく駆動音に耳をそばだてながら、この地に取り残された標識へと近付いた。
     錆びを浮かせた鉄の柱を握れば、劣化した塗装がパラパラと零れ落ちる。気にせず、機械の指で柱を爪弾つまびいた。コォーーーン……見た目に依らず、澄んだ音が響く。同時にファルガーは、己の腕の機能を開放する。
     音の広がり、跳ね返りを、サイボーグアームが検知する。そのデータはIIsアイズへ伝わり、バイオケミカルの視界にホライゾンブルーの立体映像を浮かび上がらせた。粗くざらつく虚像は、一点を除いてエコーロケーションを介さない視界と合致している。そしてその一点こそが、ファルガーの探していたものだ。
     草生した平地の奥。ただただ緑の広がるそこには、ホライゾンブルーの邸宅がそびえ立っていた。
     慎重に歩みを進め、赤い義足を草叢くさむらに挿し入れる。ぼうぼうと育っているのは見た目だけで、分け入ってみれば踏み固められた通り道を足裏に感じ取ることが出来た。生き残りの少女の証言を思い出す──アプローチは綺麗なタイル張りだったのに、草で足を切られるような感じがした。
     ファルガーたちの標的である怪物の中には、まるで拡張現実ARのように現実の風景を書き換えられる者がいる。察するに、被害者たちには美しく立派な邸宅を、捜査に訪れた警察官にはこうして何もない草地を見せていたのだろう。これを打破するためにはソナーのような専門装備や、浮奇の持つような超能力、そして何より奴らに対する知識が必要だ。そのいずれも持たない警察官では、尻尾どころか影すら掴めやしないだろう。
     「視界」に注意しながら、敵の本拠地に足を進める。近付くにつれソナー画像は滑らかになり、隠されたものをはっきりと映し出した。どうやら、立派なのは大きさだけらしい。現れたのは割れ窓も放置された、薄汚れた廃屋だった。腐敗臭が、段々と濃くなっていく。
     足を止め、ファルガーは周囲を見渡す。南中高度の陽に照らされた平地は明るく、影になっている場所は少ない。……奴らの潜める場所はない。深く、深く息をつき、歩みを再開させた。
     IIsにのみ映る低い階段を昇り、玄関ドアの前に立つ。扉に手を当て、ソナーで中を探る……荒廃した屋内が、ホライゾンブルーの虚像となって現れた。その中には、横たわる5体の人影もある。
     赤い指先が一瞬、懐に収めた銃に向かう。舌打ちをして引っ込めた。確かに奴らの活動力は日中いちじるしく減退するが、そんなことは本人どもだって理解している。無防備になっている所を狩られないよう、巣には罠を仕掛けておくのがバケモノどものスタンダードな暮らし方だ。わざわざ敵陣の只中で身動きが取れなくなるような愚を犯すべきではない。
     ──狩るなら夕方。奴らが万能感の中で目を覚まし、勇ましく出陣するその瞬間だ。
     ファルガーはドラムバッグの中に手を突っ込み、金属製のスキットルを取り出した。中身は酒ではない。聖水である。
     この時代に馬鹿々々しい話だとも思うが、怪物にはこの手の古典的なものがとにかく効く。聖水、聖灰、銀に塩、大蒜にんにく、玉葱、匂いの強い魚──ブラム・ストーカーの時代から連綿と続くこれらの魔除けは、現代のハンターたちにも重用されていた。
     機械の手に聖水を垂らし、玄関に素早く印を書きつける。次いで側面に回り、窓や勝手口にも同様に。聖別された出入口を、奴らが通ることは難しい。本当なら2階の窓だって封じたいところだが、手段がないので仕方がない。代わりに着地点になりそうな場所へ、残りの聖水を撒いておいた。
     空のスキットルを、バッグに戻す。これで不意を突かれて家の中に引きずり込まれる危険はなくなった──ファルガーは己に言い聞かせる。大丈夫だ、大丈夫……。
     膝を折って屈み込み、ドラムバッグを地面に下ろす。ジッパーを引き下ろせば、中から現れたのは小型のドローンだ。プロペラを畳んでコンパクトになったそれは、腹に大きな包みを抱えている。ファルガーは片手で機械を掴み上げ、再び廃屋へと近寄って行った。
     南に面した窓は、リビングルームとして使われていただろう部屋に繋がっている。雨に白く汚れ修理される事無く割れたままの窓に、ドローンごと手を差し入れた。脊髄からの信号を受け取った小さな無人機は畳まれていた腕を広げ、プロペラを回し始める。静音モーターが機体を浮き上がらせ、サイボーグの指示に従い飛行を始めた。既に、怪物の巣の中は把握している。引っ掛かることなくドローンは闇の奥へと進み、エントランスの天井付近、シュークロークらしき棚の上に着陸した。
     ごみごみした部屋の中は、小さな機械が身を潜めるのに適している。取り付けてある集音マイクからは、もう静かなモーター音さえ聞こえない。この廃屋を勝手に寝床にしている奴らは、きっとハンターが訪れたことにも気付いていないだろう。
     それでも、何か……何か起きるんじゃないか。何か恐ろしいことがこの身を襲うんじゃないかと、ファルガーは立ち竦んだまま周囲を警戒し続ける。そして15分ほど無為に待ち続け、やっと馬鹿らしさに気付いてきびすを返した。
     まだ幾つか商売道具を収めたドラムバッグを拾い上げ、怪物たちの踏み荒らした草叢を越えて、車の中に戻る。自分のテリトリーに戻れたことに酷い安堵感を覚え、大きく溜息を吐いた。作業を終えた後は、予約を入れていたモーテルで一度休む手筈になっていたが……どうにも動く気がしない。ファルガーはそのまま座席にもたれ、太陽が傾いていくのをぼんやりと眺め続けた。

     まんじりともせず待ち続け、血のような夕陽が山の陰に隠れた頃。ドローンの集音マイクが音を拾った。
     はっと座席から背中を離し、息を潜めて耳を澄ませる。身動みじろぎ、呻き声、床を踏む音、ドアを開く音。若い男の声がちらほらと上がり、会話を始める。胸糞悪くなる“食事”談義と卑しい笑い声。それらが5人分折り重なって、ドローンの潜むエントランスへと近付いて来る。
     銀の瞳に宿るIIsは、過たず奴らの姿を捉えている。ホライゾンブルーの人影が玄関ドアに手をかけ、開かないことに首を傾げているのが見えた。
     どうした、開かない、何だ? 困惑と呼ぶには緊張感のない会話の最中。ファルガーはドローンに信号を飛ばした。
     物陰に隠れていた無人機が、プロペラを回して躍り出る。聴覚の鋭いバケモノどもが驚きに声を上げ、ようやく警戒心を見せたがもう遅い。奴らの頭上に展開したドローンへ、即座にもう一つの信号を飛ばす。パン、と乾いた破裂音がマイクに届いた次の瞬間。
     身の毛もよだつ絶叫が、ファルガー自身の耳にも届いた。
     最後に送った信号は、ドローンが腹に抱えた包みを起動させるためのもの。内蔵された炸薬に電流を流し、包みを破裂させ内容物を飛散させる。その中身とは、銀の粉末、聖灰、塩。化け物どもの為にこしらえた、特製のカクテルだ。
     廃屋の壁を貫く叫喚、じゅうじゅうと肉の焼ける音。何とか逃げ出そうと床をのたうち回るみじめな騒音。窓に取り縋った手が聖水の守りに弾かれ、絶望の悲叫がほとばる。だがどんなに悲鳴を上げ、助けを乞うたところで、それを聞いているのは彼らを甚振いたぶる者だけだ。捕らえた獲物を死ぬまでもてあそぶ怪物たちの殺戮の遊技場は、今や怪物たちの処刑場へと豹変していた。
     ────やがて、断末魔がぱったりと止んだ。
     集音マイクに届く物音はない。IIsの視界に、動くものはない。
     それでもファルガーは、車からすぐに出ることはしなかった。
     10分……20分……30分待って、ようやく車内に隠しておいた武器をとる。ポンプアクションの散弾銃だ。銀でコーティングされた聖灰と塩入りの弾丸を至近距離からぶち込んで、殺せなかった怪物はいない。銃床にも銀の装飾を施してあるから、いざという時は近接武器としてだって使える。彼の長年の相棒だった。
     ドラムバッグの中からもう一つ道具を掴み出し、意を決してドアを開ける。夕陽はとうに沈みきっていた。太陽の恩恵を失った屋外は冷え、文明から置き去りにされた世界は酷く暗い。
     ファルガーはバッグから取り出しておいたものを片手に乗せ、信号を送る。するとそれは縮こまっていた体を伸ばし、小さな羽音を立てて飛び上がった。そして一定の高さまで飛翔すると、音もなく前方に光を照射する。サーチライト付きのドローンだ。
     IIsによるソナー映像は確かに有用だが、一部の怪物が使う罠──呪印と呼ばれるトラップを感知しにくいという欠点がある。ああいった罠を見破るには、ファルガーの場合は己自身の目で確認するより他にない。このサーチライト付きドローンは手を塞がず、持ち主の思考に応じて自動で照射方向を変え、更には瞬時にブラックライトへ切り替えることも出来る。夜間の狩りには必須の、有能な猟犬だった。
     愛銃と愛犬を供に、ハンターは夜を進む。草を踏み潰す青い匂い、昼には臭っていた腐敗臭を掻き消すものが鼻先をくすぐった。銀の前髪の下で強く眉根を寄せ、怪物の巣の前に立つ。術が解けて丸裸になった廃屋は、不気味な静寂に満たされている。
     これまでの躊躇ためらいが嘘のように。ファルガーは赤い足を振り上げ、勢いよく玄関ドアを蹴り破った。
     電動式の重い扉がサッカーボールのように吹き飛び、廊下の奥に叩き付けられる。見送ることなく散弾銃を構えたファルガーにまず襲い掛かったのは、卵の腐ったような臭い。硫黄の臭いだ。
     サーチライトが墨色の灰の山を照らす。ドア・ブリーチングの衝撃にも飛び散り切らない大量の灰。それが臭気の元だった。怪物どもは死んだ後、硫黄臭のする灰を体積の分だけ遺す。ライトに照らされたエントランス、その手前と奥に二つの死灰の山が確認できた。ここで5匹の内、2匹が死んだ──そのはずである。
     ファルガーは用心深く、構えた銃の先を廃墟の中に挿し入れた。その瞬間、闇から突如伸びた生白い腕に散弾銃を奪われる──という妄想は、現実にならなかった。悪臭以外の障害もなく、敵地は狩人を迎え入れる。ざりりと、己が撒き散らした聖灰が足の下で鳴いた。
     エントランスに繋がる廊下に灰の山がもう一つ、昼にドローンを入れた部屋に灰の山がもう二つ。……五つの怪物の死骸が、簡単に見つかった。赤い義手が愕然として銃口を下げ──慌てて喉の高さにまで掲げ直す。死ぬ瞬間を見た訳じゃない。死体を偽造して隠れている可能性だってあるのだ。
     1階、2階、IIsのソナー映像とドローンの集音マイク、サーチライトの灯りを頼りに廃屋の中を探し回る。三つの機材を取り回す機械の脊髄が疼いた。その不快感を無視して、ほこりに塗れながら有るはずのものを求め続ける。平然と生き延びている怪物ども、隠し部屋、昼間に見逃していた逃走経路……けれど。窓の外が青い朝陽に明らむ頃まで粘っても、何も見つけられはしなかった。
     ファルガーは、とうとう銃口を床に落とした。認めざるを得なかった。奴らは、確かに死んだのだ──自分が直接手を下すまでもなく、呆気なく死んだ。
     これまでの仕事と比べても、余りに弱い連中だった。自分たちの前に敵が現れるなんて思ってもみなかったのだろう、廃墟の中には罠の一つも仕掛けられていなかった。数ばかり集めただけの、浅はかで容易たやすい相手だった。
     銀の瞳は呆然と、床の上の灰の山を見下ろしている。呆気ない、弱い、浅はかで、容易い──こんなものが。
     こんなものが、己を苦しめ続けた悪夢だったのかと。



     ファルガーの悪夢は、17歳のホリデーに始まった。
    「ねえ、何を読んでいるのか訊いてもいい?」
     傍らから聞こえた甘い声に、ハッとして紙面から目を引き剥がす。半ば仰け反りながら隣を見れば、レモンイエローと目が合った。ファルガーの急な動きに丸められた瞳を見返しながら、誰だこいつ、と警戒心が首をもたげる。
     品の良い猫みたいな顔をした男だった。大人しそうな顔をして、けれどまとっているのは金のスタッズが矢鱈やたらと付いた黒いドレスシャツ。アッシュグレイの柔らかそうな跳ね髪に隠れて、両耳も金の飾りにまみれていた。これまでの人生、こんな男は視界にだって入って来なかったと思うが。
     あからさまな疑いの視線に、知的なウェリントン眼鏡の奥が悲し気に睫毛まつげを下げる。その仕草がどうにも罪悪感を刺激して、ファルガーは目を泳がせてしまった。
    「ごめん、こんなところで若い人を見るなんて思わなかったから……つい迷惑も考えずに話し掛けてちゃって」
    「あぁ、いや……俺もその、すまなかった」
     どう言ったものかと苦心しながら、謝罪を返す。相手が年下か、年上かさえも判然としないのだ。外見は可愛らしくさえ見えるのに、態度からは若者らしからぬ落ち着いたものが感じ取れる。困惑したまま口を噤むと、目の前の男は控え目な笑顔を浮かべた。
    「ううん、僕が馴れ馴れしく話し掛けちゃった所為だし……。君も、紙の本が好きなのかな?」
     未だ警戒は解けないが、あまり無礼な態度も取りたくない。小さく顎を引いて肯定を示せば、レモンイエローの大きな目を細めた嬉しそうな笑顔が返ってきた。
    「そうなんだね! まあ、そうでもなきゃこんなお店にわざわざ来たりしないだろうけど……」
     見回す仕草に釣られて、ファルガーも店の中に視線を彷徨さまよわせる。
     彼らの周囲は、書籍の壁で覆われている。決して広くはない店舗の中に背の高い書架が只管ひたすらに詰め込まれ、そしてその中に大量の本が仕舞い込まれているのだ。ここは、現代では絶滅危惧種に指定された紙本販売店──その中でもレッドリストに入れられた、古本屋だ。
     サブスクリプションに販売経路を奪われ、漫画や小説の電子化がメインストリームとなって随分経つ。だがそれでも、紙の書籍を求める人間は一定数存在していた。懐古主義やマニア志向、或いはすぐに作品を消したり内容を書き換えたりするサブスク業界に対する反抗心から。ファルガーの場合は、父からの影響だった。
     しばらく泳がせていた視線を、男に戻す。バチリと視線が合った。彼の方は、とっくにファルガーを見つめていたらしい。気まずさに、少し目を逸らす。気にした様子もなく、嬉しそうな甘い声が続けられる。
    「僕も紙の本、大好き! サブスクが悪いとは言わないけど、手に持って読み進める時の感覚はやっぱり本の方が落ち着くんだよね。だからどうしても紙の方を集めちゃう。もうすぐ図書室が出来そうだよ」
    「……そんなに?」
     驚き、思わず訊ね返してしまう。現代において紙の書籍は最早もはや、高所得者向けのインテリアかマニア向けの蒐集物コレクションだ。ファルガーが粗筋を読んでいた古本でさえ、破損や盗難を防ぐプロテクトが厳重にかけられ、そしてその費用を回収できるだけの値札が付けられている。そんな高価なものを、部屋がひとつ必要なほど集められるなんて……すごい情熱だ。
     にわかに尊敬の念を覚えて男の顔を見返すと、金縁眼鏡の奥でパッと笑顔が花開いた。その勢いで詰め寄られ、つい身を退くがその距離は最初に比べて随分と短い。
    「興味ある? あるよね!」
     熱量を込めて問われ、つい頷いてしまう。男の歓びようといったらなかった。
    「やった、嬉しいなあ! 僕の友達なんて全然紙の本に興味なくてさ、サブスクで十分だろ、なんて言うもんだから……」
     あぁ、とファルガーも同意の声を漏らす。語る相手のいないつまらなさはよく知っていた。家と学校を往復するだけの交友関係の中では、書籍どころか小説の話題さえ上げられない。唯一父だけは別だったが……ゆっくり話が出来たのは、一体いつのことだっただろう……。
     物思いに沈み掛けた頭を、鋭い空咳が叩き起こす。ギョッとして視線を上げれば、アッシュグレイのふわふわ頭の向こう側にこちらを横目に睨む客の姿があった。そしてその奥にも、忌々しそうにファルガーたちを睨むいくつかの目が……。
     レモンイエローが恐る恐る背後を振り返り、「ご、ごめんなさ~い……」とか細い声で謝罪を漏らした。どんなに抑えた声量だろうと、BGMすら流れていない静かな店では随分と響いたことだろう。冷や汗を流しながら、携えたままだった本を棚にそっと戻す。その手をネットグローブに包まれた指に引かれても、抵抗する気なんてとてもじゃないが持てやしなかった。元凶と一緒でもいいから、早くこの背筋の凍る空間から抜け出したい。
     そそくさと古本屋から逃げ出す。入った時には暮れかけだった空は、今では漆黒に染まっていた。古い形をそのまま遺している街が、ふるいLEDの灯りにまばゆく照らされている。薄暗い店舗からの落差に目を瞬かせていると、アッシュグレイの頭が勢いよく振り返った。
    「ごめん! お店から追い出されるようなことしちゃって……本当にごめんなさい!」
    「いや……いいよ」
     目にちらつく光から逃れるように首を振る。この男の話に興味を示してしまったファルガーも同罪だ。それに、もう会うこともない人間に一々食って掛かるほど血気盛んにもなれない。本の物色は諦めて、それじゃあ、と挨拶のなりそこないみたいな台詞を呟き踵を返した。ところが、
    「ま、待って!」
     と手を掴まれてしまった。その躊躇いの無さに、掴まれた方がギョッとする。ファルガーはサイボーグだ。そしてその両腕は人間の見た目に近付けていない、明らかに機械のそれだった。義手を見て差別発言をする輩は流石にいないが、人間よりも強い力を発揮できる機械式の腕を恐れる者は少なからずいる。それを躊躇なく掴めるなんて、見た目によらず豪胆なんだなと目の前にいる華奢な男の評価を改めた。
    「あの、お詫びをさせてくれないかな⁉」
    「い、いや、いいって……」
    「せっかく見つけた本好きの仲間と、こんな無礼を働いたままお別れしたくないんだよ! ね、お願い!」
     ウェリントンの奥からレモンイエローに嘆願され、思わず言葉を失った。恐らくファルガーより年上の、十分な財力のある大人がしているはずの上目遣いは、どうしてか酷く罪悪感を刺激する。別に俺がお人よしだからじゃないぞ……と自分自身に言い訳しながら、不承不承の顔を見せつつ訊ね返した。
    「……お詫びって?」
    「あ、えーっと……食事、とか?」
     どうかな? と小首を傾げられ、少し考える。父は仕事が忙しく、今日も帰って来ないだろう。契約している食事宅配サービスは、わざわざ受け取らなくとも部屋に届けられる仕様だ。問題は無い。
     それでいいよと投げやりに頷く。ここで断ったら、連絡先くらい強請ねだられかねない勢いがあった。ファルガーの懸念など全く知らない男は、晴れ晴れとした表情で笑う。
    「よかった~! それじゃあ行こうか……って、まだ名乗ってすらいなかったね。僕はアイク・イーヴラント。アイクって呼んでくれて構わないよ!」
    「……ファルガー」
     名乗りと共に差し出された手に、名前だけ返してお座成ざなりな握手をする──と、思いの外しっかりと握り返された。力の強さにドキリとしている間に、アイクはまるで猫のようにするり身を翻している。
    「さ、行こうかファルガー!」
     振り返ってこちらを呼ぶ、いっそ幼気いたいけな人懐こさ。今まで出会ったことのないタイプに困惑しながら、ファルガーは夜の更け行く街を進んだ。
     案内されて辿り着いたのは、入り組んだ道の更に奥。外観からして非常に古風な喫茶店だった。こんな店、今日日きょうび昔の映画の中にしかないだろうと思っていたのに。
     ドキドキしながらアイクの後をついてドアを潜れば、思わず息が止まった。街の表側で人気を誇るカフェの、清潔が取り柄の無機質な内装とはまるで違う。外観と同じく、映画からそのまま現れでたような内装だった。
     エスコートされていることにすら気付かぬまま、真紅の革張りのソファに掛ける。その間ずっと、店内をキョロキョロと見回していた。壁に掛けられた絵画と重厚な額縁、天井から下げられた色鮮やかなガラスの照明。艶々とした分厚いテーブルすら、現実にあるものかと疑ってしまう。まるで夢の中──いや、映画の中にいるようだった。
    「この街に、こんな店があったなんて……」
     ぽかんと開いた口の中から、嘘偽りのない言葉が漏れる。産まれた時からここに住んでいたのに、全然知らなかった。ぽうっとなっている子どもの対面席に掛けたアイクは、得意げというには上品な顔つきで微笑んだ。
    「素敵なお店でしょう? 僕の大好きな場所なんだ──いや、このお店だけじゃないな」
     語り掛ける口調に、ふらふらと揺蕩たゆたっていた銀の視線が引き戻される。キャラメリゼされたように艶光るテーブルの上、ゆったりと腕を組んで、アイクは軽く頭を傾げてみせた。
    「この街自体が、大好きなんだ。大昔に置いて行かれてしまった、懐かしいものがたくさんある。古臭くて嫌いだって言う人もいるだろうけど……僕は本当に、この街が魅力的だって思うよ」
    「……!」
     思う間もなく息を呑み、目をみはる。目の前の男に対する警戒心が、不意に溶けてなくなった。
     ──思うに。この頃のファルガーは、ファザーコンプレックスをわずらっていた。
     元々父のことは大好きだった。小さな棚を占める紙の本の匂いも、義手の訓練にとわざわざ買ってくれた絵本も、義足の訓練のため一緒に歩いた古い街並みも大好きだった。ただ、母だった女はそうじゃなかったらしい。彼女は古いものが嫌いだった。古い街も、古い家も、古いものを愛する夫も、古いものを貰って喜ぶ息子も、ただただ憎らしかったのだろう。
     夫と子どもを捨てて逃げた女の分まで、息子を愛して育ててくれた父。体の半分以上を機械化しなければ生き延びられなかったファルガーのために、仕事尽くめで長期休暇をとるだけの余裕もない。息子のホリデーにも一緒にいられないと、己の不甲斐なさを嘆いていたひと。未だ庇護下から抜け出せない子どもの出来ることは、何の心配もないのだと父の背中を押してやることくらいだ。そんなガキじゃないよ、好き勝手にやるよと笑って、遠のく背中に手を振ってやることくらい。……その内心が、どうであろうとも。
     平気なつもりだった。衣食住は揃っている。暇つぶしの手段は揃えてある。機械の手足は頑丈だし、親の姿を探して泣く頃はとっくに過ぎた。だから大丈夫なのだと──思い込んでいた。
     実際そんなことはなかったのだ。親のいない寂しさは確かにファルガーの中に巣食っていた。父の話を聞きたい、父に話を聞いて欲しい、父と一緒にいたい。子どもは父性と愛情に飢え切っていた。
     だから、目の前の男に気持ちを傾かせてしまった。父と同じように紙の本を愛し、古い街を魅力的だと語る、知らないことを教えてくれる年上の男。会って1時間と経っていない相手だというのに、僅かな父親との共通点だけを見てシンパシーを感じてしまった。得体の知れない男を、信じてしまった。
     ──すべて、今思えばの話なのだけれど。
     食事の時間は、ファルガーのペースに合わせて緩慢に進んでいった。随分ゆっくり食べるんだね、あぁ急かしている訳じゃないよ、小鳥みたいで可愛いなって思っただけ。そんな甘ったるい言葉の羅列を、幼子のように素直に聞く穏やかな……我に返ってみれば、薄気味の悪い時間。やがて食事を終え、店を出た後も、握られた手を離すという選択肢すら思い付けないでいた。
    「君ともっと仲良くなりたいな、ファルガー」
     灯りが控え目になり、人や車の通りが少なくなった街を背景に据えてアイクが囁く。
    「僕の友達に、ホラー映画が大好きな奴がいるんだ。きっと君とも話が合う。紹介したいな」
     あんたがそう言うなら。深く考えもせず、こっくりと頷いてしまう。返される嬉しそうな笑顔に、正解を選べた安堵と誇らしさが胸に満ちる。そうしてそのまま、ネットグローブの手に連れられ無防備に足を踏み出した。
     アッシュグレイのふわふわした髪をご機嫌に揺らしながら、アイクは一緒に住んでいるという4人の友達の話をし続ける。どんなに愉快で、一緒に居て楽しいか。ファルガーは相槌すら打てず、夢見心地でただただ耳を傾けた。この人が褒めるのなら良い人たちに違いないと、会ったこともない相手に信頼を寄せる。とろとろと微睡まどろむような、幸せな道行き。
     それが不意に途切れたのは、漆黒の邸宅が目前に現れた瞬間だった。
    「さあ、ここが僕らの家だよ。みんなに挨拶しに行こう……ファルガー?」
    「あ、」
     考えなしに踏み出していた足が、ぎくりと止まった。
     ──何をやっているんだ、俺は。
     半ば閉じていた目を見開いて、己の手を握る男を見る。ほんの数時間前に会ったばかりの、得体の知れない男を。
     知っているのは名前くらいで、それだって本名かどうかも知れたものではない。そんな奴を信用して、夜も夜中にこいつの仲間が住んでいるという家の前までノコノコついて来てしまった。何をやっているんだ、ファルガー・オーヴィド。いくらホリデーだからって、これは外していい羽目じゃあないぞ!
    「ファルガー? どうしたの、早く行こう?」
     アイクが小首を傾げて急かす。外灯に照らされるその横顔は、本当に無害で人懐っこいだけに見えた。だけど本当にそうなのか? 無害な人間が、ついさっき会ったばかりの人間を、友達に紹介したいと言って家に連れ込んだりするものなのか?
     じりり、踵が無意識に下がる。こんな所にいるべきじゃない。
    「あ……わ、悪い……もう、帰らないと……」
     みっともなく掠れた声が喉を擦る。アイクが、ゆっくりと顔をこちらに向ける。影のかかった眼鏡の奥で、瞼が緩慢に上下するのが見えた。義手を握る手は、未だ離れない。背筋が冷えて、汗が伝った。
    「い、言ってなかったかもしれないが、俺はまだ17なんだ。こんな時間に出歩いてたら法律に引っ掛かる。あんたにも迷惑を掛けてしまうから……」
     言い訳がましく舌を回す。そんなことをせずとも、サイボーグの力をふるえばこんな細腕の拘束から簡単に逃げられるはずだ。けれど、感情が強硬手段を躊躇わせていた。一度確かに抱いてしまった親愛の情と──恐怖心。
     ファルガーは、この人懐こい猫のような青年を恐れていた。戦闘用ではないとはいえ、本気になれば生身より遥かに強いサイバネティクスを持っているというのに。ウェリントンの奥の影の中、ぼうっと光るような黄色が怖い。目を逸らした瞬間に、取り返しのつかないことが起こりそうで──
    「……そっか。それじゃあ仕方ないよね」
    「え、」
     けれどアイクは、にこりと笑ってファルガーの手を離した。
    「ごめんね、こんな時間まで連れ回しちゃって。初めて同好の士に会えたから、テンションが上がっちゃってたみたいだ」
     取られていた手を体に引き寄せながら、男の表情を伺う。ふわふわしたアッシュグレイの下で、眉が申し訳なさそうに垂れていた。呆気ないほど容易く取り戻せた自由に、安堵よりも先に罪悪感を感じる。やっぱり、ちょっと強引なだけで悪い人ではなかったのか?
     きまり悪さに瞬きを繰り返しながら、ファルガーは銀の頭を軽く下げた。
    「……いや、こっちこそ。それじゃあ、おやすみ……」
    「あ、ちょっと待って」
     けれど振り返りかけた肩を、ネットグローブの手に阻まれる。ギョッと身を竦めている内に、アイクが顔を覗き込んできた。手を繋がれていた時よりも余程近い距離に肩がすくむ。素知らぬ振りで、上品な顔が優し気に笑った。
    「こんな街外れから歩いて帰らせる訳にはいかないよ。家に車があるんだ、送っていってあげる」
    「いや、でも」
    「未成年に真っ暗な道を帰らせる方が問題でしょう? 僕だって、君がどこかで事故にあったりしてないかって心配になっちゃうよ」
     言っていることは常識的だ。それに、親切心に満ち溢れた提案のように感じられる──だが。
     体に触れかねない程に狭められた距離感に、心が警鐘を鳴らしている。まるで逃がさぬように囲い込まれているような体勢だ。決定的でない、それでも確かに心を騒がす恐怖が背筋を粟立たせる。それに先程からずっと、酷い違和感を覚えているのだ。何か、とんでもない異常を見逃している。そんな焦燥感に追い立てられているというのに。
    「ね、お詫びをさせて? 家の前まで送るなんて無作法は言わないよ。君が降りるって言った場所で降ろしてあげる。それじゃあ駄目かな、ファルガー?」
     申し訳なさそうに目尻を垂らして乞われると、逃げ出す決心が鈍ってしまう。古本屋を追い出された詫びだと言って、案内された喫茶店を思い出す。そうだ、あの時だって変なことはされなかった。それならきっと、今回だって大丈夫なはず。
     おずおずと、顎を引く。華やぐ笑顔が返されたけれど、正解を選べた気がしなかった。むしろ、不可逆の過ちを犯してしまったような──。
    「それじゃあ、少しだけ家の中で待っていてくれる? 僕の車は結構な年代物でね、ご機嫌を取ってあげないと中々動いてくれないんだ……」
     歌うように話しながら、アイクはファルガーの歩みを再開させる。肩に触れていた手は、いつの間にか腰に回されていた。門を通り抜け、敷地に足を踏み入れる。激しい運動をした訳でもないのに、心臓が早鐘のように脈打っている。呼吸も早くなって、ひゅうひゅうと音を立てていた。
     導かれるまま足を前に出しながら、銀瞳は必死に辺りを見回している。何かおかしな所がある。それを見つけさえすれば、走って逃げる理由が出来るとでも言うかのように。そんなファルガーとは対照的に、男はもう何の心配もないのだと言わんばかりに笑っていた。
    「さあどうぞ、ファルガー。短い間だけど、ゆっくりしていってね?」
     微かな金属音を立てて、玄関のドアが押し開かれる。
     その瞬間、ようやく愚かな子どもは違和感に気が付いた。──真っ暗だった。友人が家に居ると言っていたのに、星明りも見えない夜なのに、灯り一つもない暗闇がドアの向こうに広がっている。
     ぱちんと火花が散るように、この家に対する第一印象が思い出された。漆黒の邸宅。そうだ、外灯に僅か照らされて輪郭を浮かす窓の、そのいずれもが真っ暗だった。まるで最初から人間・・が暮らしていないかのように。
     ヒッ、と怖気おぞけに喉が鳴る。許して貰えたのはそれだけだった。きびすを返すよりも先に、闇から突如伸びた生白い腕に掴まれる。悲鳴を上げる間すらなく家の中に引きずり込まれた。夜よりなお暗い、纏いつく闇に視界を閉ざされる。
    「ふふふ……」
     笑いの吐息が耳を舐める。それでようやく、纏い付いているのが闇だけでないと知れた。錆びたように動きの悪いおとがいを持ち上げる。目と鼻の先に、金色がふたつ浮かんでいた。低く、深く、艶やかな声が、その下から流れ出した。
    「あぁ、これはいい、上玉だ。利発そうだし顔立ちにも品がある。アイクは本当に趣味がいいな。こんなのどこで見つけてきたんだ?」
    「街の古本屋だよ~。一目見た時から欲しく・・・なって、頑張っちゃった」
     初めて話し掛けてきた時のような甘い声で、アイクがそれに返事をした。次いでドアの閉じる音と、鍵を掛ける音。必死で身を捻ってそちらを見た。助けを、説明を求めようとした訳ではない。騙されていたことなど一々聞かされるまでもなく分かり切っている。とにかく逃れたい一心だったのだ。
     機械の四肢を振り回して脱出を試みようとする。けれどその必死の抵抗も、尖った指先に顎を取られただけで終わった。
    「ヴォックスってば、見た目のことばっかり。この子の魅力はそこだけじゃないでしょう?」
     無理矢理上げさせられた視界に、濃い紫色が二つ瞬く。それを目にした瞬間、全身にゾッと鳥肌が立った。恐怖や嫌悪感からのものではない。理解しがたいことに……それは、快感による反応だった。
     薄い皮膚の下をざわめかせ、機械の背骨を疼きと共に駆け上がるもの。秘めた部分がぬるく熱を上げ、じわりと汗が、涙が、唾液が溢れ出してくる。異様でしかないのに、何もかも捨てて身を委ねたくなるその感覚から逃れるために、ファルガーは必死で紫色から顔を背けた。あれと目を合わせ続けていたらおかしくなる。決して論理的な判断ではなかったが、それが正解だった。嘘のように引いて行く性的な興奮に、今度こそ恐怖と嫌悪の鳥肌が立った。
    「ほら! アイクの暗示を跳ねけた時に分かったけど、とても心が強いんだよ。んはは、久しぶりに噛み応えのある人間に会えた」
    「でもシュウ、いくら心が強くたって、体が弱くちゃ話にならないだろ?」
     声と共に、背後から腰に両手を回される。我が物顔のやり方に怒りを覚え、その手をサイボーグアームで握り潰そうとして……逆に悲鳴を上げて腕を引っ込めてしまった。センサーが感じ取ったのは、人間のそれではなかった。酷く大きく、ふさふさと毛を纏った獣の手。
     獲物の僅かな抵抗など気にした風もなく、器用に動くバケモノの手はファルガーの腹から尻までを丹念に撫で回した。
    「お腹はぺたんこだし、腰は細いし、お尻も小さいし。こんなの、おれのを入れたら簡単に壊れちゃうよ」
     傍で聞くだけなら気の良さそうな声は、困惑に揺れながらファルガーを物扱いする。気付けば歯がガチガチと音を立てていた。体が絶え間なく震え、体が勝手に縮こまる。俯き下がっていた頭を、急に乱雑な手に撫で回された。
    「大丈夫だってルカ! さっき言ってたじゃん、17歳なんだろ? 若い人間は色々柔らかくて覚えがいいからさあ、オレらが相手してやってる内にお前のだって入るようになるって、なあ?」
     少し訛を感じる問いかけと同時に、頭を掴んで顔を上げさせられる。真昼の空と夕焼けが入り混じったような、不思議な色の目がファルガーを見下ろしてニンマリと笑っていた。
    「ミスタ、意地の悪いことを言ってファルガーを怖がらせないでよ」
     この中では一番聞き覚えのある声にたしなめられて、頭を掴んでいた手が離れる。必死に背けた顔は、しかしネットグローブの感触にあっさりと引き戻されてしまった。仰ぐ暗闇の中、光るレモンイエローが優し気にたわめられる。
    「大丈夫だよ、泣かないで。痛いことなんて何もしないから……ね?」
     こいつらが何について喋っているのか分からない。これから自分に何をしようとしているのかも。分かっているのは、「大丈夫」という言葉が大嘘でしかないことくらいだった。

     その後のことを、順序立てて思い起こすことは今でも出来ない。思い出したらきっと壊れてしまうから、脳が思い出せないようにしているのだろう。それくらいの、悪夢だった。
     身を守っていた服は、持ち主を厭うようにするりと脱げていった。露わになった体の多くを占めるサイバネティクスに、「開発できる場所が少ない」と不満の溜息が四方から漏らされたのをよく覚えている。もしかしたら興味が失せて解放して貰えるんじゃないかと淡い期待を覚えたからだ。機械の付け根の皮膚が敏感だと知られた所為で、余計に絶望を煽るだけだったけれど。
     キスどころか恋の歓びすら知らなかった唇は、僅かな時間で5人もの男の味を覚えさせられた。舌の、歯の、喉の使い方を教え込まされた。誰が舐められるのがいいのか、誰が吸われるのが好きなのか、誰のを奥まで入れないと駄目なのか、5人分の好みを徹底的に教授された。間違ったらお仕置きだ。何度も意識を飛ばされて、馬鹿になった舌と喉で連中の気が済むまで謝罪させられた。
     男の味を覚えさせられたのは、口だけじゃない。肛門も同じように教育された。口と違っていたのは、入れられるまで随分長く時間を使われたことだ……どうせ、レイプの恐怖に泣き喚くファルガーの醜態が面白かっただけだろう。最後には「いつか犯される」という恐怖に耐えきれなくなって、逆に自ら足を開いてしまった。化け物どもは大喜びして、何度も何度もおねだりをさせられた。
     義肢の外し方を教えろ、と言われたことも覚えている。手足がなくなったら、もしもの時に逃げられなくなる。だからどんなに責められても口は割らなかった──その所為で「手足を壊されたくなかったら……」と脅され、男の上での踊り方まで躾けられてしまったけれど。尻の振り方、腰の送り方、絞め付けのタイミング、搾り取る方法……何度失敗して、尻を叩かれただろう。何度上手くやり遂げて、好き者めと嘲笑われただろう。
     何度も犯された。何度も失神して、何度も快楽に叩き起こされた。真っ暗闇の中、昼も夜もなく蹂躙される。最初に言われた通り、痛みで泣くようなことは何一つされなかったがそれだけだ。ファルガーが正気を失わなかったのは、偶々たまたま運が良かっただけでしかない。偶々日中、奴らがいない時間に意識を取り戻して、偶々傍に落ちていた服を盗んで、闇の邸宅から逃げ延びられただけ。
     何とか家まで辿り着き、食事宅配サービスの置いて行った何食分ものトレーを見た瞬間、再び意識を失って玄関先でぶっ倒れた。奴らの匂いを感じ取り、悲鳴を上げて飛び起きたのは5時間近く経った後だったと思う。家にまで上がり込まれたのかと半狂乱になり、その匂いが着ている服から漂っているのだと気付いて即座に脱ぎ捨てダストシュートに叩き込んだ。
     ようやく息をついて窓の外を見、空が真っ赤に染まっているのを見て再度悲鳴を上げた。夜になれば奴らが来る。恐怖に支配されたファルガーの行動は、殆ど狂人のそれだった。殆ど使ったことのないオンラインスーパーマーケットで葱と大蒜をありったけ買い、それらが届くなり玄関や窓に吊り下げた。小さい頃に父に読み聞かせて貰った、吸血鬼退治の物語を思い出してのことだった。
     藁にも縋る思いのおまじないだったが、結果としてファルガーは今度こそ正解を選ぶことが出来た。扉を、窓を叩く音が夜の間中聞こえたけれど、奴らは入っては来れなかったのだ。
     以降、奴らの巣食う街から逃げ出すまでの間、ファルガーは一切外へ出ることを止めた。学校はリモートで卒業し、仕事も同じく家で出来るものを探して資金を溜めた。父のことだけが心配だったが、異様な行動を取るようになった息子を気味悪く思ったのだろう。特に何を訊かれることもなく、ファルガーは独り故郷の街を出た。
     けれど悪夢の地を離れても、体中から奴らの付けた痕が消えて無くなっても、穏やかな夜は戻らなかった。微かな足音に、窓桟のがたつきに浅い眠りは容易く破られた。眠ることを諦めようとカフェイン剤に頼ったためか、アレルギーを発症した。
     怪物から身を守るすべを探す内に怪物を殺す術に出会い、その道を進むことになってようやく、ファルガーは不眠から脱することが出来たのだ。

     ──出来たはずだったのだ。



    「ひっ──!」
     話し掛けられたような気がして飛び起きる。握りっ放しの銃を目の高さに上げて、そこでようやく夢を見ていたことに気付いた。ドレイトン郊外にあるモーテルの内装が、バイオケミカルの視界で焦点を結ぶ。続いて、強い匂いに嗅覚をくすぐられた。怪物除けの香の匂いだ。これが満ちている空間に、奴らは決して入り込めない。
     銃口をベッドに落として、ファルガーは詰めていた息をゆっくりと吐き出した。二度、三度、繰り返しの呼吸に乾いた喉へと唾を送り込む。乾いた粘膜が擦れるばかりで、気持ち悪さは一向に拭い去れなかった。
     気持ち悪さは喉だけに留まらない。頭痛と倦怠感は、ここ数日まったく癒えなかった。睡眠時間が不足している所為だ。あの5匹の怪物を殺してから、ファルガーは眠ることが出来なくなってしまった──意識が途切れた瞬間に、夢を見るのだ。
     「迎えに来たよ」と叩かれた扉が開く夢。「不用心だね」と窓を開かれる夢。「あれで死んだと思った?」とわらわれる夢。「逃げられたとでも思ったのか?」と頭を撫でられる夢。「やぁおかえり」と言われて、見知らぬ部屋で目覚める夢……。
     機械の指で髪を掻き毟る。葱を吊るし、大蒜を吊るし、香を立てて聖水を撒いても、ここが安全圏だと信じきれない。奴らは殺すことが出来るのだと知ってから忘れていたはずの恐怖が、再び脳にへばりついている。
     報告は送った。奴らは滅され、二度と起き上がることはないと太鼓判を押された。アルバーンからは戻って来いと再三連絡を受けている。けれどどうしても、ドレイトンから離れることが出来ない。実はまだ生きていて、潜伏しているんじゃないか。何か兆候を見逃しているんじゃないか。そんな恐れがずっと消えず、もう一週間もこんな田舎町に滞在している。ファルガーは、奴らが死んだとまだ信じられないでいるのだ。
     奴らを殺した現場は何度も検めた。航空写真を睨み、似たような廃墟を探しては足を運んだ。ドレイトン在住者のSNSを張って、新たな行方不明者がいないか探し続けた。今の所そのどれもが、無駄足に終わっている。
     ファルガーは焦っていた。次は、次こそはと執念深く探り続けても何も見つからない。時間が経てば経つほど、住民と警察の警戒心は強くなっていく。こんなツラじゃあ仕方がないかと、窓ガラスに映った自分を嘲笑った。顔は青白く血の気を失い、目の下には濃い隈が浮き上がっていた。
    「はは、……はぁ……」
     乾き、掠れた息を漏らす。考えなければならないことは山ほどあるのに、身を休める時間が取れない。痛む頭を抱えてベッドから足を下した。床を踏み締めるだけで、体中に違和感と疲労感が吹き荒れる。だがそれでも行かねばならないのだ。無理矢理に、立ち上がる。
     椅子の背に引っかけておいたジャケットを取り上げて袖を通す。そうしながらもテーブルの上に手を伸ばし、食べかけのカロリーバーを掴んで口の中に詰め込んだ。ただでさえ乾いた口内の水分を奪う粉の塊を水で流し込み、次いで鎮痛剤を飲み下す。胃のむかつきは増したが、そのうち気にならなくなるだろう。
     濡れた口元を拭い、銃をジャケットの懐に仕舞い込む。床に置いていたドラムバッグを持ち上げ、肩に引っかける。そしてそのままモーテルの出口へ向かい──ピタリと足を止めて、振り返った。
     部屋の中は暗い。照明も点けておらず、窓の外も夕陽の赤ばかりが眩しかった。あちこちに飾り付けた臭いの強い商売道具が、不気味な黒影になっている。きっとファルガーからドレイトンから離れた後も、染みついた匂いは中々消えないだろう。それ程までに守りを固めた砦から、奴らの活性化する世界へ踏み出して行かねばならない。
    「……っ!」
     怯懦を振り払い、握り潰さん勢いで掴んだドアノブを引く。そして真っ赤な世界に踏み出したファルガーは、瞬間ぎくりと足を止めた。
     駐車場に停めた愛車の傍らに、誰かがいる。車に凭れ掛かって地べたに座り込んでいるそいつは、不意に顔を上げ。
    「KON INNIT~」
     無防備に笑いながら、ひらりと軽快に片腕を掲げてみせた。思わず眉根が寄る。
    「……ヘイ、それは俺の車だ。退いてくれないか」
     挨拶か何かを無視して要求を突きつける。けれど相手も、こっちの話を聞いちゃいなかった。
    「なあアンタだろ、ハンター! みんなが噂してるぜ、奴らをブッ殺してくれたってさ!」
    「……何の話だ? 俺はただの旅行者だ。獣狩りをした覚えはない」
     睨み、吐き捨て、苛立ちを伝える。しかしそいつはのんびり立ち上がり、尻についた土埃つちぼこりを呑気に払うばかりだ。ファルガーは更に目に険を含め、じろじろと不審者を眺め回した。
     派手な男だ。狐らしき大きな飾り耳をつけたキャスケットに茜色のレンズを嵌めた丸眼鏡、胸元まで開けた柄物の赤いカラーシャツに、真っ白いボトム。くるくると跳ねる灰色掛かった茶髪と緩んだ口元が、陽気で放埓ほうらつな雰囲気をかもし出していた。
     恐らく、この町に住んでいる暇を持て余した若者だろう。面倒なのに会ったと舌打ちをする。子どもの相手は仕事の範囲外だ。
     目の隈もあって相当悪い人相になっている自覚があるが、狐男は怯えた様子など微塵も見せない。それどころか、退けと言われた車に堂々寄りかかってケラケラ笑うのだ。
    「けもの? 何の話だよ、オレが言ってんのはバケモン退治の話だって! アンタが来てからあいつらも出て来なくなって、消えちまう奴もいなくなった! アンタがやっつけてくれたんだろ、なあ?」
    「……」
     口を噤む。話の転がる先が分からない。若造はファルガーの様子など知ったことじゃないらしく、上機嫌に舌を回し続ける。
    「でもアンタ、あいつらが出て来なくなった後もここいらをずぅっと探してるだろ? オレたちみたく、まだバケモンどもが生きてるって疑ってるんじゃないかなって」
    オレたち・・・・?」
    「そう! 最初の何人かが消えてからずっと、オレたちは今回の事件の裏にバケモンがいるんじゃないかって疑ってたんだ!」
     撃てば響くようなお返事に、ファルガーは溜息を吐いた。なるほど、良くいるオカルトかぶれのガキだ。自分は大人も気付かぬ世界の真実を知っているという、世間にありふれた病気の罹患者である。とっとと追い払おうと一歩踏み出した大人に、子どもはまったく気付かず華やいだ声を上げていた。
    「あっちこっちに声かけて回ってさ、誰がどこで消えたかとか、全部調べてあるんだ! 警察サツの連中がはなから家出だと思い込んで無視してた事件も、オレらしっかり調査済みってワケ! この情報があれば、隠れてるバケモンどもの居所もきっと推理できる!」
    「…………」
     追い払うための一歩を止める。はっきり言って、オカルトかぶれの素人調査なんて当てには出来ない。主観と妄想が入りまくって、事実とかけ離れたストーリーが構築されているのが落ちだからだ。……だが、子どものネットワークから取り出された事件の詳細には、多少の興味がある。
     狐男の言う通り警察が把握している被害者は、今回の17歳の少女のみである。彼女の友人とて、致死量の血液が検出されただけで死体も発見されていない。これ以前ともなれば、誰が、いつ、どこで消えたかなんて殆ど判らないのだ。
     まあ、それが判明したからといって何がどうなるとも思えないが……現状、奴らを見つけ出すための目当てが全くない。目先を変える必要があるのかもしれなかった。
    「……それ、見せて貰うことは出来るか?」
     もう一歩、踏み出す。背後で砦のドアが閉まった。
     精々下手したてに出てやれば、オカルトマニアは「もちろん!」と嬉しそうにはしゃぐ。
    「アンタになら喜んで見せるよ! あ、オレはミスタ・リアス。ミスタでいいぜ!」
    「どうも。で? どこに行けばいい」
     喧しい名乗りに頭痛が激しくなる。共に差し出される手を無視して、ファルガーは話を進めた。狐男あらためミスタは気にした風もなく、上機嫌に笑っていた。
    「う~ん、そうだなあ。ここからだとちょっと遠いかな!」
     言いながら、チラチラと背後の車に顔を傾ける。解り易いおねだりに失笑が漏れた。
    「ここまでは歩きで来たんじゃないのか?」
    「そうだけどぉ! ハンターの車に乗れる機会なんてそうそうないじゃん! 乗りたい乗りたいー!」
     ボンネットに張り付いて駄々を捏ねるクソガキに、鼻を鳴らして呆れ返る。これも無視してやったっていいが、下手に機嫌を損ねてこれからの邪魔をされても困る。ファルガーは早々に白旗を上げた。
    「分かったよ。乗っていいぞ」
    「やったっ!」
     ボンネットから飛び起き、ミスタは大喜びで鍵の開いた助手席に飛び乗る。アシスタント気取りの行動には溜息が漏れるが、下手に後ろを取られるよりは対処がしやすい。後部座席にドラムバッグを乗せ、運転席に乗り込む。
    「それで? どこへ向かえばいい?」
    「右」
     オートパイロット画面を開きながら問えば、方向だけを返された。ちらと横目で睨めば、派手なシャツの肩が芝居がかって上下する。
    「田舎の道のこんがらがり方、知ってる? オートパイロットなんかに任せたら、おんなじ道をぐるぐるぐるぐる回る羽目になるぜ。オレが案内するからその通りに走らせてよ、ハンター」
     そこまで馬鹿なAIを積んでいない、と返そうとも思ったが、これもアシスタントごっこのひとつだろう。ご機嫌を取ってやるつもりで、ファルガーはマニュアル・コントローラーに切り替えた。せり出して来たハンドルを手に取れば、ミスタは満足そうに同じ言葉を繰り返す。
    「右」
    「……」
     言われた通り、発進させた車を右に曲がらせる。先程までのお喋りが嘘のように、車内のミスタは静かだった。口を開くのは、道順を示すときだけ。それも余計な言葉を付けない、淡々とした指示のみだった。
    「そこ右」
    「まっすぐ」
    「次を左」
    「道なり」
    「右」
    「左」
     横からの指示と、久しぶりの手動運転に緊張を覚えながらファルガーは車を進めた。段々と陽が落ち、赤々としていた空はどんどん暗くなっていく。やがて自動でヘッドライトが灯り、白い光が暗闇を切り取った。車内はメーターパネルやキーバックライトの些細な光だけに照らされ、余計に暗がりが強調される。狭まっていく視界にミスタの指示だけが響き、サイバネティクスの手は只々それに従い続けた。
    「──停まれ」
     操られるようにブレーキを踏む。考える間もなく、左手はギアをニュートラルに押し込んでいた。エンジンが止まり、ライトが消える。真っ暗闇の先に、温かな光を灯した邸宅が見えた。
    「降りて」
     言われるがままにドアを開き、両足を下す。乾いた落ち葉の踏み潰される、ざくりとした小気味よい音がした。
     ざくざくと落ち葉を踏み荒らす足音が近づき、ファルガーの機械の手が握られる。手を引かれて数歩踏み出せば、背後からドアが自動で閉まる音が聞こえた。それを掻き消すように、耳元でミスタの声がする。
    「じゃあ、行こうかファルガー。みんな待ってるよ」
     こくんと、眠気に舟を漕ぐようにして頷く。この声に従っていると気が楽だった。頭痛も、寝不足の倦怠感も忘れてしまう。今なら、悪夢も見ないで眠れそう──
     悪夢?
     バチンと響く鋭い痛みと共に正気を取り戻す。今、奴は己を何と呼んだ? なぜ自分の名前を知っている? 教えてなんていないのに!
     ミスタの手を振り払って飛び退り、ジャケットの懐に手を突っ込む。銃把を握り、引っ張り出そうとしたところで──
    「わあ、やっぱりファルガーは勘がいいなあ!」
    「なっ、あ⁉」
     脚から素早く這い上がった何かに、全身を強く拘束された。咄嗟にフルパワーで起動させたサイボーグパーツが、ただ無力な軋みを上げる。それ程までに強い力と嫌な磯臭さに喘いでいると、不意に灯りが眼前を過った。
     内側に蝋燭を立てた、瀟洒で古めかしい外観のランタン。そしてそれを掲げるのは。
    「……アイク……ッ!」
    「やほー。久しぶりだね、ファルガー。何年振り?」
     柔らかいアッシュグレイの髪、金縁のウェリントン眼鏡の奥で撓められるレモンイエローの目。それは17歳のファルガーを騙し、仲間と共に蹂躙した怪物、アイク・イーヴラントだった。
    「うわー、ビビった。まさかオレの催眠破られるとは思わなかったわ。サンキュな~、アイク」
    「M-y-s-t-a-R-i-a-s! シュウにも注意されただろ、この子はそういうのに強いんだって!」
    「悪かったって~」
     叱られても気にした様子もなく、ミスタは笑いながらキャスケットを脱ぐ。その下から現れたのは、髪と同色の猫のような耳だ。それを見てファルガーは歯噛みする。分かってはいたが、二度も騙されたことを突きつけられると怒りしか湧かない。
     必死に身を捩り、体を縛り上げるものを見る。気色の悪いことに、それはイカのような青白い触手だった。己の腰ほどもある太さがある上、吸盤が服やサイバネティクスにしっかり吸いついていた。
     懐の銃の引き金に指は掛かっている。上手く触手に弾を当てれば、あるいは脱出の目があるか。不自由な中で銃口を上げるが、その身動ぎはアイクに見咎められてしまった。
    「駄目だよファルガー。逃げようとしないで」
    「っ! ぁぶ⁉」
     声と同時に、青白い触手の先端が口の中に突き込まれる。嫌な臭いと気味の悪い舌触り、死に物狂いで顔を背けようとした瞬間。細かな吸盤が、ビタリと上顎に張り付いた。
    「君はここが好きだったよね、ファルガー?」
     硬く、つるりとした口の中の一部。吸盤に噛まれては離されると、痒いような、寒気のするような感触が喉の奥まで伝わっていく。覚えのある感覚。17歳の頃に、舐められて、擦られて、覚えさせられた──
    「ぅ、うぅっ、う、! ぁ!」
    「あ~ぁ、アイクずりぃの」
    「君が失敗した所為でしょ! ほら行くよ、みんな待ってるんだから」
     二人の会話を、ファルガーは聞かない。聞こえているが理解できない。ただ触手に弄ばれ、成す術なく仰け反り、のたうち回るだけ。
     そしてようやく解放され、地面に投げ出された時。そこは枯葉の積もる屋外ではなかった。冷たく滑らかな、恐らく大理石の床。壁やチェストの上に灯された三又の燭台。それだけでは払いきれず、天井から垂れ落ちる闇に色付けされた空間……そしてそこで待ち構える三つの影に、荒らされた口が弱い息を吐いた。
    「あらら、やっぱり正気に戻っちゃいました?」
     最初に近寄って来たのは、クラヴァットにベスト、コルセットを付けた男だった。シャツの袖と襟をフリルで飾ったその出で立ちに奇異の目を向け──奇抜な差し色をした黒髪の下に、濃い紫色の双眸を見つけてハッと顔を背ける。ただの一瞥だけで、全身に冷や汗が伝っていた。あの目がファルガーに、どんなことをさせたか……思い出すだけで足が萎える。
    「途中までは上手く行ってたんだけどな~。やっぱシュウの魅了くらいじゃないと、完全に決まんないっぽいな」
     背後から、軽薄な足取りでミスタが現れた。色鮮やかだったシャツは褪せたように色を変え、白いボトムからにょろりと猫の尾が垂れ下がる。その上に黒いケープをばさりと被った怪物の頭に、純白のマントを翻したアイクが手刀を入れた。
    「名前さえ呼ばなければ問題なかったんだよ! 危うく逃げられちゃうところだった」
     漫才じみた言葉に、接続不良を起こしたように力のない機械の手を握り締める。あの時、ファルガーはミスタを殺すつもりで動いていた。それを間近で見ていた筈のアイクは、逃げられることだけを案じている……。
     彼我の力量差に打ちひしがれ、項垂れていた顔を不意にグイと上げさせられた。驚きみはった目に映る、目尻に朱を刷いた金色の目。赤く艶光る黒髪に飾られたそれが、ぎりぎり品性を感じられる形に笑み歪む。
    「やあファルガー、何年振りかな? 私たちは寂しくて寂しくて昼も・・眠れなかったよ」
    「……! やっぱり死んだふりをしてやがったな……っ!」
     昼の工作の時にも目を覚ましていたのなら、裏を掻くことも容易かったはずだ。必死にまなじりを上げて睨むファルガーに、金眼の男は空気を揺らすような音を立てて笑った。
    「ははは! いいや、死んだよ。お前の検分した通り、あいつら・・・・は惨めに死んでいった!」
     あいつら・・・・? 瞠目する銀瞳に触れそうな近さで、怪物の金瞳が覗き込む。
    「そうだ。私たちの真似をして、徒党を組んで獲物を漁っていたクソガキども。御頭おつむりの悪い、浅はかで容易い相手だったろう?」
     かくんと、肩に込めていた力が抜けた。──あの時殺したのは、こいつらじゃなかった。呆然と怪物を見上げる。頬を擽る黒髪や、口元を舐める吐息から逃れもせずに甘受する。恐れも対抗心も失くして弛緩するファルガーを、今度は慈しみ深く怪物は笑った。
    「安堵したか?」
    「は……?」
     意味の分からない質問に、意味もなく声を漏らす。力なく開いた唇を、指の腹が撫でていく。
    「ほっとしたんだろう? 私たちが、たったあれだけで死ぬような軟弱者ではなくて。惨めったらしく喚き散らして死んでいく腰抜けではなくて……。あぁ可哀想に、こんな隈を作るまで必死に私たちを探してくれたんだね? 安心しろよファルガー、お前の怪物たち・・・・・・・はこれこの通り、強く美しいままだとも」
     低く、深く、艶やかな声がぐらぐらと脳を揺らす。やっと拾い上げられた言葉を、思索する間もなく唇からこぼした。
    「俺の……怪物……?」
    「あぁそうだとも!」
     黒く凛々しい眉が、鋭く上がった赤い目尻が視線の先で嬉し気に垂れ下がる。妙に愛らしい表情だと、ファルガーはぼんやりと思った。
    「あの時からずっと、私たちはお前の虜だよ。何度突き放されようともついていく、哀れな虜囚なんだとも……」
     顎を支えていた手が離される。力のない体がそのまま仰向けに倒れかけ──ずしりと柔らかなものに支えられた。ぼうっとしたままおとがいを上げる。見上げた先では、けぶるような金髪の美丈夫が開けっ広げに笑っていた。
    「歳をとって不味そうになってるんじゃないかと心配したけど、良かった、前と同じで美味しそうなままだ。あぁ、良い匂い……」
     首元に顔を伏せるその頭に、大きな犬のような耳が揺れている。腹に回って抱き締めてくるのは、大きく黒い獣の手だ。柔い肉球は何度も何度も、ファルガーの腰回りを往復していた。
    「ここも前と同じ、薄くて細くて小さいまま……ごめんファルガー、また泣かせちゃうかな……」
    「大丈夫だよルカ。痛くて泣いてた訳じゃないもの。ねえ?」
     シュウと呼ばれていた魔眼の男が、投げ出していた足の上に跨った。鋭く尖った指先が、羽根のようにしずやかにファルガーの顎を掬い上げる。濃い紫色の誘惑を跳ね除ける気力は、既に枯れ果てていた。視覚からもたらされる人外の快楽を、銀瞳は力なく受け入れていく。
    「さあ、危ないものの入った服は、全部脱いじゃおうか。そうしたら、またみんなであの気持ち良いことをしてあげる。楽しみでしょう? ねえ、ファルガー……?」
     言われるがまま、サイバネティクスの腕にジャケットを滑らせる。涎を垂らす怪物たちの前に肌を晒すファルガーは、微睡むように、幸せそうに、かすかな笑みを浮かべていた──。



    「ふーふーちゃんがあの田舎に行ってから、もう10日も経つ」
     カタカタと微細な音が絶え間なく続く。椅子の足が、テーブルの足が、グラスがボトルが店全体が、微かに震えている所為だ。
     アルバーンは怒れるサイキックに顔を向けつつ、視線はカウンター奥の黒い背中に向けていた。共に斡旋所を経営する仲間であるユーゴはしかし、必死にシンク磨きに精を出している。ンな汚れてる訳ないだろうがとアルバーンはブラウンダイドの下で青筋を立てた。ミュージックバーはここ数日、ここいらではファルガーに次いで腕の立つハンターの所為で閑古鳥が鳴いているのだ。
    「アルバーン。どうなってるの」
     その2番目に腕の立つ男に呼びつけられ、キャットボーイはぴゃっと視線を顔と同じ方向に向けなおした。流星を受け入れたという輝く瞳に睨みつけられ、産毛という産毛が逆立っている。
    「い、いや、あの、浮奇、あのね、し、心配はないよ。仕事自体は終わってるはずだし……」
    「はず?」
    「いや、終わってるよ。終わってる。ちゃんと向こうの署にも確認した。ふーちゃんの連絡以降、行方不明者は出なくなってるよ」
     ビビリ散らした弟分に代わり、サニーが援護射撃をしてくれる。ありがとうおにぃ。愛してるよ! しかし麗しい義兄弟愛にも、浮奇の怒りは鎮まらない。とうとう3人が掛けているバーカウンターすらガタガタと震え始めた。
    「なら何で、ふーふーちゃんは帰って来ないの」
     ひぃん。アルバーンは涙目になった。そんなの僕が知りたいよ。
     ファルガー、あの馬鹿野郎は、任務地であるドレイトンに発った翌日にはもう5体もの化け物を殺しおおせた。五つの死灰の山の画像を確認し、手配屋フィクサーはホッと胸を撫で下ろしたものである。仕事の話をした時の奴の様子は、まあ普通のそれじゃあなかったからだ。なんでアイツに任せちゃったんだろと、随分気を揉んでしまった。
     もう少し町を見て回ると言われた時も、だから快く頷いてやった。なんにもないとこだろうけど、精々ゆっくりしてきなよと返してやった。
     それが3日経ち、4日経ち、5日経っても戻って来やがらない。そろそろ帰れと連絡を入れても、いやまだもう少しと何にこだわっているのか煮え切らない返事ばかりが寄越される。そして遂には、7日目の夜から連絡すらつかなくなってしまったのだ。以来、馬鹿サイボーグは音信不通。
    「明日の朝になったらおれが出る。ふーふーちゃんを連れ戻す」
    「いやあの、事件の収束してる場所にハンター続けて投入するのは、上があのちょっとうるさくてですね……」
    「?」
    「いえなんもないっす」
     ただ付き合いが長いだけのアルバーンですら心配になるのだ。あのボケの直弟子を名乗り、ふーふーちゃんに対する愛を全く隠さぬ浮奇などは心配を通り越していた。化け物狩りに明け暮れる荒くれ者たちが、可憐なサイキックの怒りに怯えてもう何日も顔を出していない。このままでは斡旋所が潰れてしまう……物理的に。
     涙目になって次の就職先を考えるアルバーンの耳に、ふとドアベルの音が飛び込んで来た。いいぞ生贄がやってきた! と首をそちらに巡らせ……瞬時に反対方向を向く。
     ヤバい奴がいた。ぼさぼさに乱れた銀髪、ぐちゃぐちゃに型の崩れた黒いジャケット、握り潰したドアノブを掴んだままの真っ赤なサイボーグアーム。
     只今話題沸騰中のクソボケサイボーグ、ファルガー・オーヴィドである……ただし、ブチ切れ中の。
     バーを襲い続けていた振動は、いつの間にか止まっていた。普段は朗らかにジョークを飛ばしている男のマジ切れには、怒れるサイキックもそっと矛を引っ込めざるを得なかったらしい。
     しんと静まり返った酒場に、重く荒い足音だけがこだまする。やがて浮奇の隣に辿り着いたファルガーは、低すぎて小さく聞こえる声でバーテンダーを呼んだ。
    「……ユーゴ」
    「は、は、はぁい……ご注文は……?」
     震え声で応答するシアンの眼に助けを求められたが、アルバーンは思い切り無視してやった。そりゃな、関わり合いになんかなりたくないよな。
     経営者同士の無言の応酬を知ってか知らずか、怒れるサイボーグはぼそりと一言注文を返す。
    「葱」
    「ね、ねぎ……焼く? 煮る?」
    「生」
    「なま……」
     片言同士の会話を笑うことも出来ず、カウンター席は全員黙ってユーゴの活躍を見守った。
     長葱好きの警察官のため、アルバーンは職権乱用して冷蔵庫に彼の好物の居場所をいつも作ってやっている。そこから取り出された、鮮やかな緑と雪のような白さを誇る野菜を、バーテンダーは「ねぎ……ねぎ……」と呟きながら根っこをストンと切り落とす。
    「あの……どぞ……」
     明らかに長さの見合っていない皿に乗せられたご注文の品を、恐る恐るカウンターにきょうする。真っ赤なサイバネティクスはむんずとそれをつかみ取り、口元にそれを持っていった。
     じゃくり。
     繊維質を噛み潰す音が響いた瞬間。
    「ピギャア!」
     と悲鳴を上げて、ファルガーの背中から何かがすっ飛び出して行った。ギョッと見送ればそれは、どうも蝙蝠のようだった。もちろん、ただの動物ではない。恐らく何か、超常的な方法でファルガーに取り付かせた使い魔のようなものだろうが……。
    「ふ……ふーふーちゃん……」
     意を決して、浮奇が震え声を上げる。ふーふーちゃんは答えない。葱を噛み潰す音だけが聞こえてくる。流石の甘え上手も及び腰になったが、それでも愛の力は偉大である。
    「あの……何があったか、聞いても……いい?」
    「何も」
     愛の力はハラハラ散った。凄まじく眉間に皺を寄せたファルガーには、まったく通用しなかった。
    「何もなかった」
    「そ……そう……」
     浮奇が白旗を上げた。となればもう、アルバーンにもサニーにもユーゴにも、何ら打つ手なしという訳である。出来ることと言えば、精々祈りを捧げることくらい。
     葱を食む音と青い匂いが広がるばかりのミュージックバーは、恐怖と疑問を内包しながら、しずしずと夜を過ごし続けるのであった。
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