「…はあ」
何度目かもわからないため息をつく。口から出すたびに気持ちが軽くなるわけでもないがつかずにはいられない。テーブルの上に広げられたそれを手にとり、まだ心の準備ができていないと投げ捨てる。何度も繰り返した工程によって、新品だったそれにシワがつきだした。一人項垂れていても埒が明かない、もう一度だけため息を吐いてから腹をくくりベルトを緩めた。
最近、目に見えて拓也がやつれている。課題が終わらない上にバイト先からは人手不足だから出てくれと言われ、出たはいいが新人と反りが合わないからストレスが溜まっていく、帰ってからはまた課題と、顔を合わせる度にげっそりしている奴を心配しないほうがどうかしている。仮にも恋人なんだ、出来れば笑っていてほしいし元気になってもらいたい。調子の良い時にして欲しいことを尋ねたら「エロいこと♡」とかぬかしやがるから参考にはならない。どうしたものかと考えていたときふと思い出したのが、一緒に見ていた歌番組だった。二人共特別興味があるわけではないが、特に見たい番組もないしとただただ流していた。その時拓也が、アイドルグループを指さして「俺、最近この子たち聞いてんだよね」と口を開いた。その曲はCMソングにもなっていてさすがの俺でも知っていた。「この子かわいーよな」と教えてはくれるが、正直みんな同じ顔で区別がつかない。真剣に見入ってはみたが結果は変わらず、セーラー服をはためかせた事しか記憶に残らなかった。拓也自身も必死になるわけでもないようで、彼女たちが画面の中でキラキラ笑顔を浮かべながら歌っているのに、目線は手元のスマホへと戻されていた。へぇ拓也って、女子だとああいうのが好みなのか…。誰を指さしたか特定出来なかった俺の中で"拓也はセーラー服が好き"だけが残った。
通販って本当に便利だと思う。店に行き、品物を選び、店員に渡して会計。それら全てを指一本で解決できるのだから。中に何が入ってるかわからない状態で届けられるから、配送業者の人にもバレない。バレた所で「彼女にでも着せるのだろう、お盛んだな」とか目線を向けられて終わりだろうが、それは全くの勘違いだ。彼女なんかいないし着るのは俺だ。中身を知られていない事を祈りながら玄関先で受け取り、一人暮らしの男の部屋にそれは広げられた。はやまったかな、やっぱりやめておこう…。段ボールに仕舞いかけたが拓也の疲れ切った顔が頭をよぎり、持っていく荷物の中へと詰め込んだ。
「課題終わんねーから、ごめん」と言って部屋へと籠もってから2時間はたった。一緒に食べた夕食の片付けをして先に風呂をもらい、いざ勝負の時と鞄の底の方にいれた物を取り出しテーブルの上へと広げた。ここで日和ってしまったら2500円がただのゴミになってしまう。
姿見なんかある訳がないから、仕方なく歯ブラシが2本並んだ洗面台で確認する。襟元に白の斜線が入っていて、続いた先には真っ赤なスカーフがくくられている。あの日画面の中で数人が括っていたから真似してポニーテールにもした。我ながら、中々に上出来だと思う。他人から指摘されたら胸糞悪いが、他でもない拓也のためだ、アイツなら悪い反応を寄越したりはしないだろう。彼女たちのような健康的で肉付きが良いわけではないしと、用意した黒タイツに脚を通して、閉められた扉の前へと立った。
「…拓也、入ってもいいか?」
「んんー……ああ風呂ー?」
「えっと…いや、コーヒーでもと思って…」
ノックの後かけた声に、扉越しに返事が返ってくる。唾を飲み、扉をあけた。机に向かった拓也が背中を向けたまま「ありがとー」と間延びした声をだす。集中しているのかこちらを見ようともしない。俺がこんなに頑張ってるのに…、大分身勝手な不満を感じつつも、このまま無かった事にしてもいいんじゃないか…?とこの場に及んで怯んできた。
「…調子は、どうだ?」
「んー……そうだなぁ……ぼちぼち、かなあ……ごめんなぁ…せっかく来てくれたのになんにもしてやれなくて……」
「…いや、べつにそれは…いいんだけど…」
実際、一緒にいれるだけで特に問題はないし、そりゃ溜まるものは溜まるがさすがに言えないしな。
コーヒーなんか言い訳で、手元にはなにもない。歯切れの悪い事を言いながら、どうしたものか思案する俺に再び声がかけられた。
「もーちょっと…待っててな……一段落、つきそーなんだわ……」
教材のページを捲る音が聞こえた後、机の端に置いてあるパソコンの方に顔をむけた。
メガネだ。
心臓がどくんと大きくなった。視力が落ちてきた拓也は、たまにだがブルーカーットの物をかけるようになった。俺はその姿が大分気に入っている。真剣な眼差しで画面に向けられた横顔を見てゴクリと喉がなった。
「っ、たくや…ちょっといいか?」
「…んー……ごめん、ちょっと…もうちょーっと待ってて……」
「ぅッ……ふぅ……たっ!たくや!」
「…もぉー……なんだ、よ……」
振り返った、振り返ってしまった。メガネの奥の黒目が丸くなる。「っ、え」と変な声を発したっきり黙られ、いたたまれない。
「がっ……がんばれっ」
ああもう、なんて気が利かないんだ。他に言うことがあるだろ。予行練習だとまだまともなことが言えていたのに、口からでたのは味気ない一言だけ。"お前を元気付けようと思ってな"、"こういうの好きだろ?感謝しろよ"、余裕をもって言うはずだった言葉は何一つ出てこない。血が登ってきた頭じゃ声も続けられず沈黙が流れた。
バキッ
何かが折れる音が響いた。拓也の手元からだ。
握りしめた拳から真っ二つになったシャーペンが転がり落ちた。
「ッ、はあ?!おまっ、手ッ!え…ペン!」
「待って待って、ちょっと待てって…」
フレームをカチャリと動かしながら額を抑え、拓也が深い息を吹き出した。
なにか、まずかったのか…?そりゃ集中してるとこ邪魔したのは悪いが…なにか言ってもいいんじゃないか…
眉間にシワがよる。やめだ、やめやめ。こんな格好するんじゃなかった。緊張で乾いた唇を舐め、邪魔したことを詫てさっさと退散しよう。
そう考えた俺へ拓也が手招きする。机に片肘を起き、そこに寄せた頬を膨らませている。なんだよ…文句でもあるのか?聞いてやろうじゃないか…、意気込んだ俺はスカートをひらつかせながら側へと寄った。
拓也が椅子を回して向き直る。両腕が伸びてきて各々が俺の手首を掴んだ。何がしたいのかわからず困惑しながら目線をやると、困ったように眉尻を下げながら引き寄せられる。抵抗する必要もないし、手をひかれたまま拓也の脚の間に挟まれた。
「…風呂、入ったん?」
「へ?…あ、ああ…」
「そっか……」
手首からにぎにぎと、腕の感触を確かめるように握りながら登ってきた手が、ついに二の腕までたどり着いた。袖口に滑り込んだ手のひらに息を詰め、這わせ続けられる感覚に黙って耐える。
「すべすべだし、めちゃくちゃいい匂い……」
「お前が使ってるやつと一緒のものじゃないか…」
「や〜輝ニが使うとなんか違って感じるんだって……」
拓也と違い薄い筋肉しかついてないそこに力が込められ思わず顔をしかめた。なんだコイツは、何がしたいんだ。意図を読み取ろうとガラスを隔てて目線を合わせる。
あ、食われる。
そう思った。
青みがかったレンズのせいではない、いつも見てる目とは違うそれに期待が顔を覗かせる。ざわつく胸の内を見透かされてしまいそうだ。「冷えてるよ」と形だけ心配そうな声がかかるが頭に入ってこない。口を開いたら情けない声をついてしまいそうで固く引き結ぶしかなかった。
「こーじ」
「…なに」
袖口が開いてるせいで簡単に到達した肩をなぞったあと、するりと抜かれた。指先でなぞりながら抜くのはズルい。
そのまま背中へと手を回され、ゆるりと抱きしめられた。胸元のリボンを潰しながらつむじが見える。撫でてやりたくなって、手を上げたところで拓也が口を開いた。
「………あーくそ、早く触りてぇ」
掠れた声音に肩がびくつく。
「さわっ、てる…だろ」
「……言わせたいの?やーらしぃ」
見上げながら言われ顔がカァッと熱くなった。仕方ないだろ、お前のそんな声聞かされて、もしかしたらって考えてしまっても。
拓也が椅子から立ち上がった。手をひかれるままベッドへと連れて行かれ、縁に腰掛けた上へとまたがる。タイツに裾が擦れてこそばゆい。再び背中へ回った熱い腕に身を任せ距離をつめ、バランスを取るように両肩へと腕を回した。合図のように目を細め、後頭部へと移動した手によって更に距離が縮まり、どちらともなく口付ける。2度3度重ねたあと引き剥がされたから、軽く睨んでしまった。
「……おい」
「いや俺だってしたいけど、これ以上したらさすがに止められねぇから」
ズレた眼鏡を押し上げながら困ったように笑われて、何も言えなくなった。なにも邪魔をしたくてここにいるわけじゃないし、これだけ一緒にいるわけだから今日出来ないとしても別に問題はない。…少しばかり不服だがな。
そんな俺の表情を読み取ったのか、子供がイタズラを思いついたかのようにニヤリと笑みを浮かべたのが見え、次の瞬間視界が反転していた。背中にはシーツの感触、目の前には邪魔そうにフレームを外す拓也。その仕草に胸がざわつく。
「もう少しで一段落つくからさ、いい子で待ってて?」
「………うん」
小さい頷きに満足げに笑い、額にキスを落とした口を耳元に寄せて俺が弱い声音で流し込まれた。
「最っ高にかわいー。俺のためにありがとう」
離れ際にリボンの先に口づけて再び机へと戻っていった。詰まった息を吐き出せた頃には、すでに集中してパソコンへとむかった横顔が見えた。
……ここはお前、おいしくいただいとけよ。
そう口にしまえたらどれだけ良いか。何度も言うが、邪魔をしたいわけじゃないし、そんな昔みたいに時も場所も考えずにヤるわけじゃない。お互い大人になったなと、どこか他人事のように感心した。
一段落が何分後か何時間後かはわからない。このあと抱かれるんだ、レンズ越しに目をギラつかせたコイツに。疼く腹の奥を抑えながら、天井を見上げ熱くなった息を吐き出した。もう後戻りはできない。