ピンポンとインターホンを押す。何度鳴らしたか覚えていない。それだけここに来ているのだと、慣れてしまった指の感触からそれを悟った。ポケットにねじ込んだ端末がブブッと震えだし、開いてみれば、家主である輝ニからのメッセージが届いていた。
『鍵、開いてるぞ』
「…無用心」
呆れからため息を吐き出してドアノブを引き下げた。メッセージ通り施錠はされておらず、男の一人暮らしだとしてもさすがに危ないだろうと、苦笑いを漏らした。
「おじゃましまーす」
と、一応声はかけるものの、返事を貰えないまま廊下を進み居室への扉を開ける。開けられた遮光カーテンの向こう、ベランダに佇む輝ニが手をひらつかせた。約束を取り付けたのは俺だけど、出迎えが無かったことにムッとしながら手招かれるままベランダへと足を向ける。
「うーす」
「よぉ」
一度吹いた風が輝ニの黒髪を舞い上がらせ、重力にしたがって定位置へと戻っていった。瞬間鼻をかすめた輝ニの匂いと、その手元、火種が灯った細長い筒のにおいに思わず顔を顰めた。よほど怪訝な顔つきだったのか「悪いな」と、特に悪びた感じもださずに口先だけで謝られる。
「…タバコ吸うっけ」
「いや、吸わないな」
知ってるよ、一応聞いただけだ。
ベランダの柵に背中を預けたまま、ただ手元から立ち込める煙を燻らせていた。時間の経過とともにジジジ…と短くなっていく先端に灰が溜まる。水が張られた空き缶へトンと落とし、再び身体の脇へと降ろされた。
「吸いたいなら吸ってもいいぞ?そこにある」
「…俺も吸わねーっての」
「だなぁ…身体が資本だもんな、さすがだぜ」
「お〜?馬鹿にしてんのかぁ?」
あいた右手が俺の腹をなでつけてくすりと笑うもんだから、この嫌なにおいで低浮上ぎみだった心持ちが若干だが浮いてきた。単純だよなホントに。
「センシュセーメーに関わる事は致しませんことよ?神原選手は」
「ふっ…なんだよそれ」
おちゃらける俺に笑顔を見せてくれてはいるが、どうしてもその向こう側を見てしまう。それが俺が時間を割いて足繁く通う理由のひとつ。
「このにおいにも慣れたもんだ」
「…俺もだわ」
「悪いな。タバコ、嫌いなのに」
「……別に」
正直そこまでではないんだよ。街中で喫煙所の横を通ってもなんにも思わないし、友達にも喫煙者はいる。
けど、俺はこのにおいが嫌いだ。大嫌いだ。
だってこれは、アイツのにおいなんだから。
「やめればいいのに」
「俺に言ってるのか?それとも、輝一?」
「…お前だよ」
「……ー…まあ、そのうち…な」
子供の頃たまに見せてくれた屈託のない笑い顔をみる回数が減っていた。この話題になれば必ず、その端正な顔立ちの裏に闇を抱えたような笑い方をする。
「これ点けてたらさぁ、アイツを感じられてな…寂しさが薄れるんだよ」
「こんなこと言えるのは拓也だけだな」そんな嬉しい言葉を言う唇で、火種を一口吸い上げる。ジジ…と、燃え進めた紙筒の中身を空へふぅっと吐き出した。
「アイツって、おっちょこちょいなとこあるだろ?この部屋に来るたびに忘れて帰るんだぜ。…先週来たときさ、灰皿用意しようかって聞いたら『お前は吸わないだろ?』って言うんだ…笑っちまったよ」
「……」
「…遠回しに、ここに居着く気はないって言われた気がして……笑っちゃった…」
それも、知ってる。お前の言う通り、おっちょこちょいで、たまに殴りたくなるお前の兄貴がその後俺に連絡してきたから。『あいつ、元気ないように見えたんだけど…何か知ってる?』って。お前が原因だってことを教えてやるほど、俺は出来た人間ではない。
「……たくやあ」
「…ん、なに?」
「……」
瞼を手のひらで覆ったまま、絞り出すような声で言葉が続いた。
「……しんどいよ……助けてくれ、たくや…」
隠された瞳の色は伺えないけど、どんな表情をしているかなんて手に取るようにわかる。
脇に降ろされたままの手首を握り、俺の方へと引き寄せる。されるがまま、フィルターを咥え一息吸い込んだ。むせ返りそうになりながら紫煙を吐き出して、一本に結ばれたままの輝ニのそこへと押し当てた。
今日も俺はコイツを抱く。
やっぱりこの味は大嫌いだ。