初項 尊大な夏の死ぬ頃に 焼香の香りと雨天によるしけった匂いとが混ざり合い、式場の空気は刻一刻と重苦しく沈んでいった。
鯨幕の引かれた大広間の最奥に、白い供花で埋められた祭壇が佇んでいた。そのすぐ面前に、男と女、そして十歳そこそこの白い髪の子供が大人しく座っている。そしてその後ろには、数多の人々が一定のまとまりを形成して座している。その数は祭壇の前に座る三人を含めて、九つあった。
かつて、病に喘ぐ多くの人を救うため、医学を修める九つの家を束ねて結ばれた盟約があった。その昔は山に潜んだ神仙の系譜であったとか……迷信じみた伝承が薄れるほどの歳月、細々と存続してきた一族は現在、それぞれの家の特色に合わせた医療分野を修める伝統を持つに至った。
人体の中核を見つめる、一十印(いじゅういん)
感染り変わり続ける真相を求めた、二十二(にそじ)
自然と薬に秘められた力を信じる、三十乃(さとの)
歴史と伝統に奉じることを是とした、四十万(しじま)
精神と心理に向き合う、五十儀(ごとぎ)
死までもを愛した、六十宮(むつとみや)
人の内部すら守ろうとした、七十里(なとり)
科学の進展に活路を見出した、八十上(やそのかみ)
医学こそ真実の眼であるとした、九十九(つくも)
後に『十文字の盟約』と称される一族には、一代毎に頂点に立つ盟主を受け持つ家を代えていく風習があった。
そして、つい数週間前。
今代の盟主を担う九十九家の大当主、九十九夏住(かずみ)が殺害された。
突如として発生した一大事により、盟約の地盤が大きく揺るがされるのはこの後の話である。今はまだ、盟主が何者かに殺された事実を飲み込むために、葬儀に参列した一族たちは遺影を見つめることしか出来なかったのだから。
葬儀屋を兼ねる六十宮家の大人たちが仕切る一連の儀式は粛々と進む。必要以上の言葉が交わされることもなく、葬儀は実に沈静なものであった。
やがて盟主の棺が火葬場に運び出される頃、気疲れした様子を見せた子供たちを見かねて、大人たちは彼らを別の部屋で待たせることにした。後のことは大人たちがやるから、子供たちはここで御爺様のご無事の旅立ちをお祈りしなさいと言いつけて、お茶と少しのお菓子を残して去っていった。
「……ぷはぁ、やっと足が伸ばせるー!」
大人の目がなくなるなり、若竹色の髪の少女が畳に座り込み、大きく伸びをする。それを皮切りに、集まった人数に対して少し手狭な部屋の空気が一気に緩み、先程までの緊張とは打って変わって怠惰な空気が流れ始めた。少女の隣に座っていた同じ背丈の少年は、釣られてほんの少しだけ伸びをした後、気ままに声を上げている少女の背を軽く叩く。
「瑠親(るちか)ちゃん、あんまり大きな声出したらお兄さまたちに怒られちゃうよ……」
「亥親(いちか)は硬いなぁ〜だって私たちはもう休憩してて良いんでしょ?おじいさまのことだってちゃんとお見送りしてさしあげたもの!」
既に姿勢を正すことすら放棄している瑠親を見て苦い顔をしている亥親を見かねて、二人の間にまた一人子供が割って入る。よく似た亥親と瑠親と同じ若竹色の髪を低い位置で束ねている少年は、二人と比べて大人びている。
「じっとしていて疲れましたね、瑠親ちゃん。お父様方は休んでいて良いと仰ったけれど、悲しんでいる子もいらっしゃるから、お喋りは静かな声で、しましょうね」
「……はぁい、橘(たちばな)兄様」
それだけ返事をして大人しく口を閉じた瑠親の頭を、兄の橘が優しく撫でる。何か期待する目で彼を見上げる亥親の視線を察して、橘は開いた片手を亥親の頭に伸ばして撫でてやった。
「……そう大層に悲しんでいるやつがいるとは思えないが」
呟いた声は冷たかった。橘が反射的に声のした方向を見ると、柔らかな桜色の髪とは対照的に鋭い赤い眼光が飛び込んできた。
「……琳胆(りんどう)兄さん、せめてお言葉を慎まれると良いわ。怖いお顔をされていたら瑛ちゃんが驚いちゃうでしょうに」
ね、と膝下に抱く幼子をあやしながら、同じく桜色の髪を持つ少女が言う。
「由希郷(ゆきさと)……結局お前も気にしていないだろう。俺たちは御爺様と特別関わりがあったわけじゃない。一族のこととは言え、ほとんど他人事だ」
琳胆はどっかりと縁側に座って悪態をついた。朝から降り続く雨は止む気配が無い。
確かに、琳胆が言うように盟主の死を心から悲しんでいる子供はいなかった。ただ大人たちの悲痛な空気に飲まれている者や居心地の悪さを感じている者ばかりで、盟主の死そのものを悲しむ理由は、子供たちには無かったのだ。しかし、図星ではあってもいざ言葉にされるとばつが悪くなるというもので、由希郷をはじめとして多くの子供たちが黙り込んでしまった。
「まぁ、ぼくたちの大半にとってはそうですよね。九十九さま……雨竜(うりゅう)さんのところがどうであったかは知りませんけど!」
重くなった空気を裂くように、黒髪の子供がお茶を啜りながらそう言った。彼の目線の先には、人数分の湯呑みにお茶を注ぐ白髪の子供の顔がある。
「……与都(よづ)さん。お気遣いなら不要です。ボクも……あまり、変わらないので」
それだけ言って、雨竜は再びお茶汲みに戻る。近親が死んでいる当事者としては無感動すぎるように見えたが、子供たちの空気においてはそんなことを大して気にするものはいなかった。雨竜にとってもまた、九十九夏住の存在は遠いものであったのだ。
雨竜がお茶を注いだ湯呑みを手に取って、くいと中身を飲み下す少女がいた。黒と赤の特徴的な髪は丁寧に切り揃えられていて美しい。他の子供に比べると、そこはかとなく佇まいに威厳を感じさせる雰囲気がある。
「本人がこう言うのだから、気になさらなくてもよろしいでしょう。私たちは私たちなりに、御爺様のことを思って差し上げればよろしいはずよ」
そう言い切った少女に子供たちの視線が集中する。期待するような、煩わしく思うような、様々な目線を受け止めてもなお、少女は顔色を変えることなくお茶を啜っている。堂々としすぎている程の態度に誰もが口を閉じる中、のんびりと声を上げたのは与都だった。
「天子(てんこ)さまはお変わりないんですねぇ。この調子ですと、九十九さまの後代になられるのは一十印さまでしょう?そうなるとしたら……」
微かに不気味さを感じさせる笑みを浮かべて、与都は天子とその周囲を順繰りに見渡した。微かに眉を寄せたのは琳胆だった。
「……今の一族の状況を考えても、次の盟主に近いのは一十印の……ご当主とお前だろうな、天子」
琳胆の口調にはあからさまな棘があったが、一方の天子は動じる気配がない。さも当然であるかのように表情一つ変えないものだから、寧ろ琳胆の方がばつが悪くなったように目を逸らした。
「それが、一族の歴史であり、伝統、そして既に決まっていることであるとは知っているでしょう。琳胆さん、何か仰りたいことでもおありですか」
天子は変わらない表情のまま琳胆の方を見た。琳胆はやはり目を合わせない。
「そこまでにしないか天子、琳胆。今ここで僕たちが勝手に争っても仕様がない。それに、もうすぐ戻られる方もいるだろう……大人しくしていろ」
二人の間に割って入ったのは青い髪をした年長らしい少年だった。眉間に皺を寄せた厳しい顔で、場の空気を完全に支配してしまう。
「……黎(れい)さん。失礼しました」
天子は大人しく頭を下げ、引き下がる。黎に睨まれた琳胆は結局彼を横目に見るだけに留め、やはり不遜な態度を崩すことは無かった。黎は浅いため息を吐いた後、改めてこの部屋に集まった子供たちを見回した。
再び近くの座布団に座り直した天子と彼女の側に駆け寄る同じ髪色の少年。縁側で雨の降る庭に目を向け直した琳胆と大して状況を気にしていないように赤子の頭を撫でる由希郷。顔を強張らせる亥親と瑠親を護るように肩を抱く橘。ただ押し黙って座卓の横に控える雨竜。場の空気に似合わず口角を上げてやりとりを眺めている与都。一連の会話に入る隙を失ったのか、こちらを見ている四人と、特に不安げな視線を向ける黎の二人の弟たち。
ここに集まる彼らは、最年長者でもまだ十五歳に満たないような子供たちだった。しかし、そんな彼らも幼いながらに気が付いていた。
一族を束ねる盟約の主がなんの引き継ぎも終えないまま、あろうことか殺害される形でこの世を去ったこと。それが自分たちの未来に少なからず影響を及ぼすのであろうことも、この先それぞれの行く末が決して穏やかなものにならないことも、彼らは敏感に感じ取っている。
そして、未来とは残酷にも、彼らの恐れた通りになる。ある一家は離散を余儀なくされ、別のきょうだいは仲違いを起こし、また嫡子は運命への反発を選び混沌をもたらす。
歯車が狂い、秩序だった機構が破綻していくその最中。次世代を押し付けられた者たちが、一体何を選んだのか。
白檀の庭の主だけが、その末路を知っていた。