明け方小町冥暗の奥より
カラコロと 木切れのぶつかる音がする
木下駄の音だろうか。朝方のまだ肌寒い中、それは近づいてきて、やがて止まる。
カラコロと 障子戸の開く音がして
引き戸にかけられた細く白い指先が浮かび上がる。
閉じた目ではなく、脳で見ているのだと直感した。そうか、では、これは夢なのだ。
スラリと開いた障子戸の奥。暗闇に、積み上げられた木切れが白い山影になって浮かび上がる。山の上で、二本の棒きれが踊っていた。
拍子木が楽しげにダンスする。カラコロと打ち合って、乾いた音が闇の中に響く。
不意に、山の上に球体が浮かんだ。沈んでいた木切れがバラバラと宙に浮き、触れ合ってカラカラと乾いた音を立てる。それらは次々と浮遊して、持ち上げられたマリオネットのように見る間に人の形を成した。
力無くだらりと下がる手足が風鈴のように打ち合わされて、乾いた空虚な音がする。
カラコロと 鳴る音の正体は
恐怖に耐えきれず、眠りから覚めた。心臓の音がうるさく響く。恐怖で整わない息を鎮めようと、少女は口許を左手で覆った。汗をかいてしまった体を抱きしめると、小さな息を吐き出して窓の外、薄明かりの空を見上げる。白い星が黎明の空に浮かんでいた。
「明様、お早うございます」
ようやく整った息で星を仰ぐと、そこにはいない誰かを呼んだ。
時刻はまだ午前四時を回った辺り。もうひと眠りと、少女が再び温かな微睡みに沈んでいく。穏やかな寝顔を、空の星が見つめていた。
ーーーーー
なぜ、彼らを見てしまうのか。小町にはわからない。考えうるに、小町の中にある『記憶』と大きく関わりがあるのだろう。
小町には自分自身の記憶とは別に、違う時代の記憶があった。
『前世の記憶』などと言えば、一笑に付される事くらいはわかっているので口にはしない。ましてや、神様との共同生活の記憶など、精神の異常を疑われても仕方ない。
それでも小町の中に残る記憶の断片は、過去に生きていた誰かのそれをそのまま引き継いだもののように思えた。
現代日本では考えも及ばない世界だ。それでも、記憶の中の少年の、友人と二柱の神様と過ごす日常の記憶は抗いようもなく少女の心を支配する。
おそらくは、自分は恋をしているのだ。
記憶の中の少年がそうであるように。
その記憶に引きずられて、感情移入して、物語の英雄に憧れるように明星様という神様に恋をしている。
不毛だ。
今生で会えるとも限らない相手に、ましてや神様に恋心を抱き続けるなんて、不条理に過ぎる。
だから、少女は決意した。
この恋を終わらせる。
神話を調べ、神社を参拝して、実感するのだ。相手は神様なのだと。
一線を画した存在だと認識できたなら、この恋は終わるはず。
恋心が、恋を終わらせるモチベーションになる。矛盾した定理に導かれて、少女は自主的に研究を始めていた。創世の神と豊穣の神、明星と夕星の物語を。
ーーーーー
午前6時15分。ここからは日常の始まりだ。はかったように目を覚まし、素早く髪に櫛をいれると、小町は高校の制服に袖を通した。襟を正し、すました顔で鏡に向かうと気合いとばかりに両手で頬をパチンと挟む。
階下へ降りると、既にスーツに着替えた母親がゴミ袋片手に慌ただしく動き回っていた。
「お早う、母さん。…ゴミなら、俺が集めて出しておくよ」
「え、でも。小町も朝は忙しいでしょ」
申し訳なさそうな表情を浮かべる母親に、少女は「大丈夫」を2回重ねて笑ってみせる。
「文字通り朝飯前だから。母さんは母さんの準備して」
さっさと洗顔を済ませると、ゴミ袋を受け取ってその作業を引き継いだ。母は昨夜も帰りが遅かった。父にいたっては職場から帰ってもいない。両親にとって、二人で立ち上げた『会社』は二人の夢であり、守るべき城なのだ。小町にとっても同様で、一緒に守る事が出来ないならば、せめて二人を支えたいのだ。
「ありがとう。ごめんね、小町」
「全然!いつもお疲れ様。いってらっしゃい、母さん」
詫びつつ靴を履く母親を玄関で見送った。ドアチャイムが金属音を奏でて扉が閉まると小町の笑顔は剥がれ落ちそうになる。
今さら寂しいなどと言うつもりはない。ゴミ出しが嫌なわけではもちろん無い。ただ、そう、つまらない、怖かった夢の話をどこかに吐き出したかっただけなのだ。
「…バカだな、子供みたい」
自嘲気味に少女がこぼした。
ーーーーー
見送りを終え、ゴミを出し、自分の朝食にありつこうと台所に立つ小町を呼ぶ声がした。
「なに?」
低い男の声に、反射的に父親だと思って返事をしたものの、玄関に続く廊下は暗く、人のいる気配はない。
父さんが帰ってきた?そんなはずはない。鍵はかけておいた。鍵を開ける音も、玄関が開くと必ず鳴るドアチャイムも、鳴らなかった。そんな声は、するはずがない。
得体の知れないモノに名を呼ばれ、返事をした。その行為に気付いた小町から血の気が引いた。
呼応はそれだけで意味を成す。存在を認識すること、認識していると相手に知らしめることは、それと同じ土俵に立つことを意味するからだ。
カラコロと木切れの打ち合う音が鳴り渡る。
違う。これは木ぎれの音じゃない。これは、子供達のはしゃぐ声。違う。既に人間ではない "何か" だ。
夢の中で出会った白骨の、触れ合う音。
木の板を踏みしめるようなきしみ音が部屋に響く。
「ひっ」
"何か"が、近付いてくる。クーラーの冷気よりも湿度を帯びた、底冷えのする空気。見えるはずのないその動きを、小町は感じ取っていた。廊下を渡り、リビングの扉を抜け、床を流れて、今、小町のいる台所へ。
「…ぁ、あ明星様!」
恐怖に閉じていた喉をこじ開けて、少女が助けを求めた。
刹那、二箇所で小窓が音を立てて開いた。同時に突風が小町の背後から吹き荒れる。吊られていた玉じゃくしや菜箸が落ち、布巾は散らされた。
狂風とも呼べるそれは冷気を押し流す濁流となって荒れ狂い、やがて反対の小窓からスポンと流れ出ていった。
荒れ果てた部屋に、ポツンと少女は取り残された。脅威は去ったのだと気付き、ノロノロと床に散らばった生活用具を拾い集める。
開け放たれた窓に近づき、少女の指先が止まった。
開かれた窓は外開きの小窓で、通常はロックをかけているため突風で開くことはない。
「いらっしゃるのですか」
窓を閉め、ロックをかけながら少女は口にした。ややあって、首を軽く振り、言い直す。
「いらっしゃるのですね」
およそ物理的には不可能な現象を目の当たりにして、少女は超常現象だと結論を出した。
なぜ、姿を見せてはくださらないのか。問いかけは胸の内に沈めて、素直な想いが昇っていく。
「会いたいです」
ボロボロと涙がこぼれた。
「会って、お話がしたいです」
思うばかりの恋は嫌だった。辛かった。
己の思いから逃れるために、神々の研究を始めた。なのに、執着ばかりが強くなった。知れば知るほどに、記憶の端が少女に語りかける。のめり込んだ。たとえ分不相応な想いとわかっていても、止めることが出来ないほどに。
「…好きです」
ーーーーー
「姿を見せてやれば良いのに」
呆れたと言わんばかりの夕星の声に、ベンチに座っていた青年が不貞腐れた表情で振り返った。膝を抱くように三角座りをする青年は、機嫌を損ねたのだろう、唇を子供のように尖らせるとほっとけよとそっぽを向いた。
「あそこまで言われておいて返事を返さないのは、不実極まりないね」
苛立ちを含んだ言葉に再び青年が振り返る。
「ゴウの記憶が、強すぎるんだ。あの子…」
記憶に捕らわれて、ゴウの記憶と自分の思いを混同している。そんな中で出会ったら、小町の思いとは無関係に、ゴウの記憶に引っぱられて二人の関係が進んでいきそうな気がした。それは、本当に小町を大事にしている事になるのだろうか。
「俺、あの子を縛りたくない」
記憶に捕らわれず、自由に生きて欲しい。自由に恋をして、幸せに笑っていて欲しい。
「ふんふん、成る程。つまり、小町君には自由でいて欲しいから姿は見せずに一生ついて回って加護だけ与える。とそういうわけだ」
頷きつつカラリと明るく言い放つと、夕星が青年の背を足裏で蹴り倒した。
三角座りをしていた明星が、ろくに抵抗も出来ず前につんのめってベンチから転がりおちる。
「新手のストーカーか君は!」
文句を言おうと顔をあげた明星に夕星の怒号が響く。
「冷静に考えろよ。元彼が気配だけ見せて、近寄らない。何も言わずにただじっと見守っている。女性側から見て、こんな気持ち悪い状態、あるかい」
ゴウの魂を持つ彼女に、振られるのが怖いだけだろう。夕星が息もつかせず追い打ちをかける。
「少なくとも今、彼女が泣いているのは、君が愛情だけ示して存在を遠くしているせいだろう!彼女は言霊の重さを知っている。その上で君に伝えた心を、君は自分勝手な防御本能から無視しようと、そういうわけか」
まぁ、神だから許すも許されるもないけどねと夕星は吐き捨てる。
「僕なら、トキオの魂を持つ子を泣かせたままになんて出来ないけどね」
地面に這いつくばっていた明星の表情が曇り、唇を引き結ぶと立ち上がり、走り出した。
「さっさと行って、振られてこい。一緒に酒ぐらいは飲んでやる」
相方の憎まれ口も届かない速度でひた走る。
ごめん、小町。俺に、恋をして。
情けない自分を振りほどいて、青年神は駆けた。
俺が、全力で惚れさせるから!
小町の家にたどり着き、ドアホンを押したところでさて何と切り出したものかと明星が我に返るのと、泣きはらした小町がドアを開けたのは、ほぼ同時のことだった。