はじめてのおつかい 初めてグースにハグをされた日を覚えているみたいに、初めてグースに叱られた日のことも覚えている。
勿論それまでにも何度か注意をされたことはあって――それは例えばフライト中の命令無視からおれの偏食傾向まで程度は様々だったのだけど――冗談めかすこともなく本気で叱られたのはその日が初めてだった。
叱られているのに抱きしめられていて、それはとても不思議な感覚だった。汗ばんだグースの腕が湿って吸い付いてきて、押し付けられた胸板で思い切り息を吸えばグースの匂いが鼻腔に広がった。そんな時までおれは頭のどこかでグースに抱きしめられている事実にドキドキしてしまって、けれど叱られたのだからグースはおれのことを――他の奴がおれに抱く感情のように――嫌いになったのかもしれないなんて悲喜こもごもだった。だけどやっぱりグースの腕の中はおれに安心を届けるものだから、謝罪の言葉を口にしなければならないということにも思い至った。おれは「ごめんなさい」のタイミングを計っていたけれど、グースの体温がいつもより熱くて、鼓動が早くなっていることに気づいてしまい、いつもと違うグースの様子を観察するみたいにしておとなしく腕の中に収まってみたりした。
そうしている内に、ぎゅう、と一層腕の力が強くなって、頭の上から深呼吸のようにグースの大きな呼吸が髪の毛を擽った。併せて大きく上下した肺だとか心臓だとか胸腔だとかよくわからないけれどその動きと一緒におれの体も上下して、そんなこともグースとひとつになっているみたいで嬉しかった。馬鹿だなって思った。だって、グースは叱るためにおれを抱きしめているだけなのに。
もう二、三呼吸をしたグースが、「だからな」と言って言葉を区切る。いつもより低めの声音から表情を想像するのは難しかった。
この頃のおれが知っているグースの表情といえば圧倒的に笑顔が多くて――これはおれに向けられたものだけじゃなくて誰に対してもそうだった――他に知っているのは眠気を振り払おうとしているときの複雑な顔とか、腹が減って情けなく眉を八の字にしている顔だとか、時々は一緒に眠ってくれるグースの静かに閉じられた瞼の優しさだったりした。
それなのにこの日おれのほうに向かって走ってきたグースの表情は初めて見るような険しさで、眉間に皺を寄せた怒りとか焦りみたいな感情が綯交ぜになっているようなそれだった。結局そのまますぐに抱き竦められて、今この瞬間の表情がどうなのかはやっぱりわからない。他人の感情の機微に鈍感な脳で想像したって、グースにうまく当て嵌めることなんてできやしなかった。そんなことを考えながら強い力で胸元に押し付けられた額と両腕に挟まれた頬は恐らく少しへしゃげてしまっていて、おれは息苦しさに似た何かを感じていたのだけど、それすらもグースによって与えられていることが嬉しい気がして、続けて投げられる言葉を大事に鼓膜から全身へ巡らせていた。
五感をフルに使って“グース”を享受しているうちにふと腕の力が弱められ、肩に手を置かれて幾ばくかの距離を取られる。今度こそ表情が見える位置で、視線を絡ませるようにして正面から見つめ合った。
グースの目尻がいつもより湿っている気がして、心がざわざわする。
「とにかく」
ふにゃりと笑うグースの顔はいつもみたいに安心を与えてくれるもののはずなのに、どこか悲しげな気がした。
「お前が無事でよかった」
もう一度抱きしめられて、あぁ、これじゃなんだかグースに大切にされているみたいだ、なんて思った。おれはきっとグースに心配をかけてしまったんだ。グースはもしかしたら、そのことで胸を痛めたんじゃないのか。
「ぐーす」
「うん?」
「……えっと、ごめん、……なさい」
なれない謝罪を口の中で不明瞭に発音する。もごもごした音が意味を持って届いたか不安だったけれど、グースが軽く笑ったのがわかった。優しい吐息と甘い声が頭上から降り注ぐ。
「マーヴはさ、」
頭を撫でる手が心地いい。どうしてだろう。グースの手のひらは、いつも心のとげとげしたものをふわふわに変えてくれる。
「……マーヴは、いいこだな」
「いいこ?」
ハッとして顔を上げる。ばつが悪そうにするグースの表情が、うまく汲み取れない。どういう意図でおれに向けてる顔なんだろう。とんでもなく嬉しい言葉をくれたのに。
「あー……えっと、大人だから「いいこ」っつーか……」
「おれって、いいこなのか?」
だって、そんなふうに言われたことなんてなかった。いつだって怒られてばかりで、おれは悪くて駄目な――……
「いいこだろ。ちゃんと謝れるんだから」
「でも、おれ、グースに心配をかけたんだって、たぶん、えっと、だから、」
「うん」
いいこ、って単語が心の中にあたたかく広がって、グースにもそれを伝えたくて、だけどごめんって気持ちもあって、その全部を順序立てて説明できないおれの言葉を、グースは根気強く待ってくれた。どうやって話すのが正解かわからないまま、へたくそに続けていく。
「グースが、駆けつけてくれて、おれ、一人でも全然大丈夫って思ってたんだけど、でもやっぱりグースが来てくれたら妙に安心して、だけどグースがすごい表情で走ってくるから嫌われてるかもしれなくて、それなのにグースはぎゅって抱きしめてくれて、それから、」
グースがグースがと言う度にうんうんと頷いてくれるのが嬉しかった。おれがグースの言葉を全部聞き漏らさないように耳を傾けているみたいに、グースもそうしてくれているんじゃないか、なんてあるはずもないことを考える。そうだったらどんなに幸せなんだろう。
「だから、なんか、もしかして、」
もしかして、いやでも違うかも。そう思わないわけじゃなかった。だけど、そうかもしれないって思うから。
「その……おれ、グースに、大切って……思われてるのかも、って……」
「そりゃそうだろ」
頭を撫でていたはずのグースの手のひらが頬に滑っていた。親指で唇をフニフニされるのが気持ちよくて、くすぐったくて、ふふっと息が零れてしまう。
「……大事な、相棒……なんだから」
「お、おれも! グースのこと、大切な相棒って思ってる!!」
熱のこもった瞳と視線が絡まり、心臓が高鳴る。気のせいだって思いたいのに、おれのお気楽な脳はあるはずのないグースの感情をその表情に意味づけようとする。おれに似た感情を、抱くはずがないのに。
「おっ、そりゃ嬉しいな」
「おうっ! とーぜんだろ!」
相棒の大切さはグースからたくさん教えてもらった。グースはおれよりずっと物知りだから、これからももっといろんなことを教えてもらって、今日のことだけじゃなくて、その全部を、ちゃんと覚えていたい。
「なぁ、グース」
「うん?」
「……ありがと」
お礼の言葉だって言い慣れていなくて、不器用な発音になった気がした。それでも「どういたしまして」の返事と共に、とびきりの笑顔が眼前に現れて、おれは何だか誇らしい気さえした。
こうしてグースと過ごした日々を、ひとつ残らず、ずーっと記憶に刻んでおけたらいいのに。