さやけき道程「旅行に行かないか。ふたりで」
グースがそう口にしたのは、マーヴェリックがグースを避け始めてから一週間程経った頃だった。
避けるとは言っても、無視をしているとか、邪険に扱っているとか、そういうことではない。普段ならば二人きりで飲みに行くところを他の誰かも誘ったり、昔なじみの友人が会いに来ているなんてよくわからない嘘を吐いて誘いを断ったりもしていた。
マーヴェリックの言動に、グースは最初こそ柔和な態度を見せた。元来、交友関係はグースのほうが広く――マーヴェリックがグースに限定している交友関係とは天と地の差だった――マーヴェリックが交友関係を広げることを、グースは快く「良かったな」と微笑んでいた。柔らかな態度が硬化したのは、常と変わらぬ調子でグースが誘ってきたある日に、バーで知り合った男と二人で飲みに行くだとかつまらない断りを告げた時だった。
「俺も一緒に」と譲らないグースに、マーヴェリックの脳裏に浮かんだのは「今日の嘘は失敗したな」ということだった。そもそも詳しい事情を伝えずに「用事がある」と言ってしまえばいいものを、敢えて誰とのどんな用事なのかを答えるのはすっかり定着した癖だ。以前ひとりで飲みに行った先で見知らぬ男に絡まれて以降、誰とどこに出掛けるかをグースに教えるのは暗黙のルールになっていた。
―――
その時は結局多少の乱闘騒ぎになったところで店主や他の客が双方をなだめる形で決着がついた。しかし、避けそこなった拳で唇の端が切れてしまっていることに、目端が利くグースが気づかないはずはなかった。
「マーヴ、その傷……」
「……ぶつけた」
「んなとこ器用にぶつけるのかよ。昨日はなかっただろ」
グースの親指が優しく触れた。けれど新しい傷には未だ刺激が強くて思わず目を閉じる。「悪い」と言いながらも離れないグースの指が嬉しくて、頬に添えられた手のひらに頬擦りを返した。
「なぁ、マーヴ。これ、どうしたんだ?」
いつもの快活な声音ではなかった。そうされているわけではないのに、まるで小さな子供に話しかける時に、しゃがんで目線を合わせてくれているような感覚を覚えた。柔らかくて、だけど芯の通った、信頼できる声。
「……怒らねぇ?」
「怒んねーよ。いや、まぁマーヴが悪いことしてたら叱るかもしんねーけど」
「悪いこと……」
「大丈夫だって。理由もなくこんなふうになったわけじゃねーだろ? 何か理由があったなら、それを話してくれればいいから」
穏やかな声に促されて話したのは、昨夜ひとりで飲みに行ったこと。見知らぬ男に下品で心無い言葉を投げかけられたこと。初めこそ無視を決め込んでいたが、ベタベタ触られるのに腹が立って二言三言文句を言ったこと。挙句の果てに「お前に近づく奴なんか、どうせその顔とよろしくヤりたいだけに決まってる」などと吐き捨てられ、自分にとって身近な人をぞんざいに扱われた気がして居ても立ってもいられなかったこと。そんなようなことをぽつりぽつりと言葉にした。
我慢ならなかったのだ。一番近くにいる存在を――グースを、馬鹿にされたようで。
ひと通り話し終えたところで、グースの指は口元から離れていった。額をくっつけられて、眼前にあるグースの唇から漏れた吐息が己のそれを掠めて擽ったかった。と思えば額も離れていって、次の瞬間には抱き竦められるようにして、全身がグースの腕の中にいた。
「飲みに行くなら誘ってくれれば良かったのに」
「でも、グース、用事あるかもしれねぇし」
「聞かなきゃわかんねーだろ。用事があっても行くし」
「なんだよそれ」
なんだよ、と笑いながらも喜びが込み上げてくる。実際には用事があれば一緒に飲むことは叶わないだろうが、その気持ちだけでもありがたかった。
「本当に。行けねーこともあるだろうけど、そういう時は家で大人しくしとけ」
「飲みに出るなってことか?」
「ひとりで勝手に出歩くのは危ないって話。誰とどこに出掛けてんのかわかんねぇと、何かあっても対処できねーし。俺も飲むときは声掛けてるだろ」
言われてみればそんなものかもしれない。人付き合いに難有りな自分にはそういった常識が足りないようだと常々思っていた。グースに出会ってから「普通」「常識」のカテゴリに知識が増えている。出掛ける時はグースに伝える、と情報をアップデートした。
―――
そんなこんなでプライベートの予定をグースと共有することが多くなったところで、しかしマーヴェリックがそれを煩わしく思ったことはなかった。結局プライベートな予定そのものが皆無だったし、あるとすればグースとの外出がほとんどだったのだ。ただ、何かしらの情報を互いに共有することは、自分が思いのほか大切にされているみたいにも感じた。グースは子煩悩な父親なんだろうな、などと考えたりもした。単に優しいグースの気遣いだとはわかっていても、内心で甘えた気持ちになってしまうほどに、グースの傍は居心地が良い。
甘美に広がる心地好さは、禁断の果実だ。
その時分、マーヴェリックは自身がグースに抱く感情が純粋な「友情」でないことに気づかざるを得なくなっていた。初めて心を通わせることが出来た友人に心酔しているだけだと己に言い聞かせていたけれど、もう目を背け続けることは出来そうになかった。グースに抱く感情が、薄汚れていく。
恐ろしかった。グースに軽蔑されることが。それ以上に、グースの優しさが。おれの浅ましい想いを知って、万が一にもその情の深さを以てグース自身が手にしている幸せを壊してしまったら。
初めは本当に、グース以外の交友関係を築こうと思っていた。そうすることで今までグースだけに傾いていた感情を、様々なところに分散できるはずだと考えた。だけど気持ちなんて計算通りに動くはずもなくて、結局は机上の空論に過ぎなかった。広げることの出来ない交友関係。次に打てる手段として、マーヴェリックは嘘で乗り切ることにした。
有りもしない予定をでっちあげて、けれど下手に誰かの名前を言えば交友関係の広いグースには簡単に嘘がバレてしまう。そこで現れた架空の登場人物が「バーで知り合った名も知らぬ男」だ。女だと言えばその後の進展に興味を持つだろうが、適当に出会ったそこいらの男と気が合ったくらいのことなら興味を引かないだろうと踏んだ。
そうして吐いた嘘が「バーで知り合った男と二人で飲みに行く」だった。
予想を裏切って「俺も一緒に行く」と食い下がるグースに、「二人きりで相談があるから」とかなんとか言い訳をしたのを覚えている。
グースを避けているくせにグースとの約束をしっかりと守っているおれは、実のところグース以外の男と「二人きりで飲む」なんて選択肢は端から持ち合わせていない。そんなことはグースも承知のはずだった。それでも裏切るようなくだらない嘘を吐いてしまったのは、やはりグースを避けるために他ならなかった。
「ふぅん。じゃあ、一緒に飲まなくてもいいや。俺も飲みに行こうっと」
マーヴェリックの嘘を知ってか知らずか、グースはあっけらかんと言った。
「で、でも、だから、二人きりの、秘密の、えっと、」
「わかってるって。秘密なんだろ? 俺はお前たちの話を聞くつもりも、一緒に飲むつもりもねーよ。ひとりで飲みに行くだけ」
同じ店に来るなと言ってしまえばいいのに、グースに嫌われたくない感情が未だ渦巻いていて、上手い弁明を紡がせてくれない。自分から避けているくせに嫌われたくはなかった。グースを思えばこそ遠ざかろうとしているのだ。これで嫌悪されては元も子もない。
「だって、その、おれ、飲みに行かねぇかも、だし……」
「約束してるんじゃねぇの?」
「そ、なん、だけ、ど……」
口の中にある言葉をもごもごと噛んで飲み込んだ。どうしたらいいのかわからなかった。
誰かとふたりきりで飲みになんか行かない。おれにはグースしかいない。だけどグースとこれからも一緒にいるためには、おれの心から溢れてしまう想いを隠しきってしまわなければならない。
グースのことが好きだ。
罪深い胸懐だった。友人や家族に近しい親愛を感じているだけならばどんなに良かったろう。グースが示してくれる深い慈愛に純粋に応えていられたら良かった。どうしておれは、それで満足しきれないんだろう。どうして、グースからも同じような愛が貰える可能性を、万に一つも考えてしまうんだろう。
「で、どう?」
脳内がぐるぐる回っていて何がどうなのかわからない。おれはグースとどこまで話したんだっけ。不安に駆られて見上げた先にあるグースの口元は、いつもと同じような弧を描いているような気がした。
「だぁから、休暇の話」
「休暇……?」
「来週からの。なんだよ、聞いてなかったのか?」
「わ、悪い……」
いつの間に休暇の話になったのか。今日飲みに行くとかいう話はどんな結論になったのか。わからないことだらけだった。
どこから解決するべきか迷っているマーヴェリックの頭の中を、続くグースの一言が殊更に混乱させた。
「だからさ、マーヴ。旅行に行かないか。ふたりで」
グースに柔らかく微笑まれると、透き通った瞳に吸い込まれていきそうだった。陽の光を受けて明るく煌めくブラウンの光彩は小さな太陽みたいで、マーヴェリックは自身がこの瞳に映っているのを見るのが好きだった。グースの世界に閉じ込められているみたいだ。
「旅行、って……。で、でも、せっかくの長期休暇なんだし、家族で過ごしたほうがいいんじゃねーの?」
「そりゃキャロルやブラッドリーとも過ごすけどさ。相棒と親睦を深めたっていいだろ? 休暇のうちの一週間でもいいからさ」
「一週間……」
そんなに長い時間をふたりきりで。
第一に湧き上がったのは歓喜だった。その事実に絶望する。
結局のところグースと過ごせることはマーヴェリックにとって喜び以外の何物でもなかった。この一週間グースを避けてきたのに、気持ちに蓋をするどころか旅行の誘いひとつで溢れんばかりになっている。
二つ返事でイエスと告げそうになるところをぐっとこらえる。来週から始まる休暇のうちの、どこかの一週間。グースは家族でまとまった時間を取るだろうし、仕事が始まるギリギリまで一緒に過ごしたいだろう。だとしたら、旅行に行くのは恐らく最初の一週間ということになる。
ふたりきりで過ごすまでにはもう少し時間が欲しかった。グースを諦める時間。グースへの想いを押し込める時間。断る口実を考えないと。長期休暇なんだから適当に予定があることにすればいい。けれどそんな付け焼刃で躱せる自信はなかった。
グースはいつも、おれのことなんて何もかもわかってしまうから。
「それに」
まとまらない脳内に眩暈がする。ふらつく身体を支えるようにグースの長い腕がおれの背中を抱きとめた。手のひらから伝わるぬくもりは、いやに懐かしい温度だった。
「最近、ふたりでゆっくり話せてなかったから」
グースには全部お見通しなんだ。ゆっくり話せていなかったのは、おれがグースとふたりきりになるのを避けていたからだって、全部、知ってるんだ。
「だからって、旅行に行かなくても……。あっ、それか、キャロルやブラッドリーも一緒に」
「マーヴ」
グースはいつだってそうだ。おれがやっとのことで断ち切ろうとしたぐちゃぐちゃにこんがらがった想いを、いとも容易くほどいてしまう。おれは擦り切れそうな気持ちを「もしかしたら」なんてありもしない希望で上塗りしようとして、一本の蜘蛛の糸に雁字搦めになっている。そうして暗闇の中を手探りで進むことにも疲れて、その場にしゃがみこむしかなくなる。
目の前に、一本のロープがぶら下がっている。
「ふたりで、って言っただろ」
あぁ、これはおれの心を終わらせるロープだ。
「一週間。お前の時間を俺にくれないか」
手を掛けると揺れたそれは、命綱だった。輪のように絡まった先がするりと解け落ちる。
見上げた先には広い手のひら。伸ばされた腕を視線で辿る。後光が差した髪の毛が眩く光る。おれがどんな態度を取ったって太陽が翳ることなどないように、グースの瞳はおれを裏切らない。ライトブラウンに映るおれは、鮮やかな輝きの中にいる。
「それって、どういう、」
意味だ、と問おうとしたけれど、友人を旅行に誘うことに特別な意味なんてないのかもしれない。おれはそんなことの「普通」もわからない。そもそもおれはグースにとって友人のひとりというだけなのだから、やっぱり特別な意味なんてあってはいけないのだろう。
交わった視線の先でグースの瞳が見たことのない色になったような気がした。かすかな期待をしてみたりして、そうじゃないと頭を振る。
「男同士、ふたりだけの旅行。な?」
ほら。気の置けない旅行なんだ。おれはきっと隠し損なった気持ちを抱えたまま、一週間を過ごすことになる。この一週間で、おれは今度こそこの想いを捨てるんだ。グースにも秘密の、おれだけの最後の思い出。そのつもりで臨もう。誰も知らない、ふたりきりの思い出。
一週間が過ぎれば、おれはひとりでそれを抱えて、きっとグースの幸せを心から願うことができるようになる。大丈夫。大丈夫。大丈夫。
「だいじょうぶ」
「あぁ、旅行? 大丈夫だった?」
「えっと、うん……」
「んじゃその計画は今日の夜にでも話し合うとして」
「へっ!?」
素っ頓狂な声が出る。今夜の話がどこに落ち着いたのか、そういえばわからずじまいだった。
「いや、結局今夜の予定はないって話だったよな?」
「そんなこと言ったっけ……」
「言った言った」
話の途中でぼんやりしてしまった時に口走ってしまったのかもしれない。「そっか、言ったのかも」と自信無げに口にするとグースが目を細めてクスクス笑った。
グースの笑顔はやっぱりいいな、なんて諦める努力を無に帰すようなことが頭を過った。
「それに、今日はマーヴと過ごしたいし。駄目か?」
「……だめじゃない」
「そっか、よかった」
ほっとした色がグースの瞳に宿り、マーヴェリックも「うん、よかった」と返した。
良かったんだ、これで。
今夜、最後の二人旅行の計画を立てれば、それでいいんだ。
決行の日にグースの左手薬指の違和感に気が付いたのは、おれがいつも無意識に、その場所を視線でなぞっていたからだった。