さよならの体温「マーヴ」
心配の色が隠しきれないグースの声音に、自室のベッドへ腰を降ろしたマーヴェリックはプイと顔を逸らして応えた。子供に視線を合わせるようにベッドの前に座り込んだグースが、その瞳にマーヴェリックの表情を写すことはなかった。
静まり返った室内に、グースの咽喉から鳴った音が「んん」とくぐもって響いた。呆れのような哀しみのような嘆息を漏らして、長い腕がマーヴェリックの頬に伸びる。
パシン。
乾いた音と共に行き場を失ったグースの手のひらが空を掴んだ。
「なぁ、マーヴ。マーヴェリック」
応答のないコールサインを呼び続けて、今度こそはっきりとした長い溜息が、はぁぁとグースの声に併せて溢れた。じとりとした重さを含んで張り詰めた空気が淀む。呼び掛けられた当のマーヴェリックは、グースから顔を背けたまま微動だにしない。辛うじて唾を嚥下した咽喉が上下して、それに伴ってまるい頭が小さく動いた。
「ピート。機嫌直せよ」
試しに呼んでみたマーヴェリックのファーストネームも濁った空気に溶けていく。もう一度深い息を吐いたグースが立ち上がろうと前のめりに上半身を倒せば、マーヴェリックの体がビクリと震えた。
マーヴェリック、と再びコールサインに戻して呼び掛ける。これまで同様返事はなく、俯いた顔は影に覆われて表情を窺えない。
グースは空を掴んで以降他にしっくりと掴めるもののなかった手のひらをマーヴェリックの頭上に翳して、やはり質量のない透明な空間を掴むだけにした。頭の上で開いた掌形の闇が禍々しく全身を襲おうとした途端に縮こまったマーヴェリックの体は拒絶のサインを示していた。指先ひとつ触れることができずに、収まりの悪さを誤魔化して何度か左手を握り直す。違和感が拭えないまま、グースは握り拳を己の唇に押し当てた。
「……とりあえず、帰るけど。また明日な。何かあったら連絡寄越せよ」
いつもの癖でマーヴェリックの頭を撫でようとしたグースの挑戦は、今日一日で何度目になるかわからない失敗を迎えた。幸福のかけらすら残っていない深い呼吸を肺の奥から追い出し、感情のないドアへ向かう。
ドアノブに手を掛ける。振り返ろうかと一瞬の逡巡。行動に移すことはなく、開いたドアを後ろ手に閉めた。
ガチャリ。
鍵のかかる音がドアを閉めた直後に、もっと言えばドアが閉まりきるよりも早く鼓膜を揺らした気がして、グースは咄嗟に振り返った。その場にいるはずのマーヴェリックの姿を捉えることは叶わずに、無骨に閉ざされたドアが真一文字に口を結んでドアノブに手を掛けることすら拒絶する。拒絶、拒絶、拒絶。拒絶し続けられる厄日だった。
トン、と控えめに額をドアに押し付けることは許された。無機質な冷たさが拒絶の色を見せるけれど、安っぽい一枚の隔たりの向こうに鼻をすする音が零れ落ちた気がした。
「ごめん」
見えていないのに、触れていないのに、小さな体を丸めて肩を震わせている姿がそこにある気がした。嗚咽を漏らして、俺を待っているんじゃないのか。置いてくるんじゃなかった。拒絶されたって、傍にいてやるべきだったのに。
「ごめんな、マーヴ」
二人に拒絶を突き付ける一枚のドアが、ただひとつの拠り所だった。
ーーー
大人げない、なんて今更の話で、幾度同じことを繰り返してグースを困らせたか知らない。
「寒い……」
マーヴェリックの全身を震わせたのは床から立ち込める冷気だった。隙間から侵入する冷えた外気が肺を満たし、内側からも体を凍えさせていく。
いつの間にかドアに背を預けたまま眠っていた。すぐに傷ついてしまう弱い心を守るように、或いは手を差し伸べる外界を拒絶するように丸まっていた体は、いざ伸ばそうとしても上手く血が廻らずに冷え固まっていた。立ち上がるのも億劫で、汚れた床に頬をつけて横たわる。くぅと鳴る腹の音が場違いに滑稽で、今の自分にはお似合いだな、とマーヴェリックは自嘲的な笑みを浮かべた。大好きなグースを拒絶して、傷つけて、そうしてひとりで寂しがって――彼の優しさに手を伸ばしたかったと、後悔している。
「ぐー……す……」
張り付いた咽喉からグースのコールサインを構成する音を発することができて、少しだけ許された心地になる。単に肺と声帯と酸素と二酸化炭素と何らかの筋肉と人体の機能が発しただけの音声なのに、まだその名を呼んでもいいんだと安堵した。ばかみたいだった。
グースのことが好きで、彼の特別になりたくて、いつの間にか、特別な存在になったと錯覚していた。
マーヴ、と柔らかな声が応えてくれた気がして、呼び慣れたコールサインを掠れた声で何度も紡ぐ。
グース。グース。グース。グース、おれは、おれはね。
「……好きだ、グース」
君のことがどうしようもなく大好きで、伝えきれない、伝えてはいけない想いをずっと抱えているんだ。それでも大好きなグースの幸せがおれにとっては一番大事な関心事だから、キャロルやブラッドリーを恨むことなんてないんだ。そりゃ、羨ましいと思うことはあるけれど。君が愛する人にするみたいに、おれだって思い切り抱きしめてもらって、キスをされて、愛してるって言ってもらいたいけれど。だけど、そんなことは取るに足らないことなんだ。グースにとって“特別”なマーヴェリックでさえあれば、おれはそれでいい。それだけで、充分なんだよ。
グースの優しい手のひらと、暖かな包容に垣根を崩しそうになるたびに、そうやって堅牢堅固な塀を築き上げてきた。
「どうして、」
グースの帰宅を見送ってから、正確にはグースがおれに呆れてこのドアの向こうの明るい場所に足を踏み出してから、どれだけの時間が経ったのかはわからない。馬鹿馬鹿しい腹の虫と体の冷えから考えて、数時間はこのまま眠っていたような気がする。指先で触れた目尻がぺたぺたと不快にくっついてきて、涙が乾いたのだとわかった。それを自覚した途端に引き攣った皮膚を慰めるように新たな水分がぼろぼろと流れ出して、不快さが一層増した。泣き疲れて眠った体が睡眠によって回復し、その分だけまた涙を流させようとしているのかもしれない。
特別だと思っていた。頭を撫でる手のひらの優しさも、おれより少しだけ低い体温が熱を帯びてハグしてくれるのも。グースのパイロットだからこそ与えてもらえた、特別なものだと思っていたのに。
―――
長い艦艇勤務の合間。今日の基地での訓練は太陽の翳りに合わせて終わった。マーヴェリックはロッカールームで着替えを済ませながら、何とはなしに「人間らしい生活だな」と思う。海の上での生活が続くと陸が恋しくなるなんて言う奴もいるけれど、と考えてあまり意味のないことだと気が付く。海の上でも陸の上でも、自分がいるのは結局空の上だ。
仕様もない思考は隣で唸るグースの声に遮られた。開いたままのロッカーの扉から顔をひょいと覗かせてみせる。上からは覗けないので体を引く形で横から。チラと目線だけを寄越したグースが眉を八の字にして口元を不器用な笑みに変えた。
「ちょっと用事があるから先に帰ってていいぞ」
「……? わかった」
全然わからなかった。どうしてグースはそんな表情をするんだろう。
おざなりな「わかった」に「気をつけて帰れよ」なんて社交辞令を返したグースがそそくさとロッカールームを後にするのを見送って、マーヴェリックはどうしたものかと閉じたドアを見つめた。先に帰っていいとは言われたものの、荷物を持たずにロッカールームを出て行ったグースがこの場所に戻ってくるのは明白で、だとしたら長い時間の用事でもないはずだ。どうせなら、一緒に帰りたい。
10分。20分。30分。マーヴェリックが手持無沙汰にグースの帰りを待ってから既に半刻が経過していた。室内に置かれたあまり小綺麗でもないベンチの上でストレッチをしてみたり、腰掛けて無意味に足をぷらぷらさせてみたり。一向に姿を見せないグースに痺れを切らして立ち上がる。どうして戻ってこないんだ。身勝手な怒りがマーヴェリックの心に影を落とした。先に帰っていいと言ったグースの普段とは違うぎこちない笑みを思い出して不安が膨らんでいく。
トラブルに巻き込まれている? 原因はおれ? だから、言えなかった?
懸念が脳内を巡る度に恐れが実像を描いた。グースを探しに行かないと。逸る気持ちとは裏腹に、どこか冷静な頭がグースのロッカーへメモを残すことを促した。入れ違いになるかもしれない。閉ざされたロッカーの隙間から、「待ってて」とたった一言のメモを突っ込んだ。
空いた部屋をぴょこぴょこ覗きこみながらグースを捜し歩く。探す場所に当てはなかったが、人の気配を伺いながらマーヴェリックはパタパタと歩を進めた。グースの軽快な笑い声も何も聞こえない。あんな表情をしていたのだから愉快な話ではないのかもしれないけれど、それにしてもグースの残り香ひとつ見つからない。
グースに言われたとおり、本当にもう帰ってしまおうか。けれどグースの表情を思い返すとそれも憚られた。それとも入れ違いでロッカールームに戻ってしまったのか。
少し遠回りをしながらロッカールームを目指す。道すがら、建物と建物の隙間のひっそりとした暗がりに人の気配があった。ぼんやりとした闇の先で、誰かに話したくて仕方がないヒソヒソ声が耳障りに騒めく。グースのはずがなかった。卑怯者のようにコソコソと隠れて密談をするようなグースは知らない。明るくて、あたたかくて、優しい、あの。
トラブルの様子さえあればそれでもよかった。だのに話の内容も聞こえてこないのだから、マーヴェリックは己こそ卑怯者のようにそこにいる人物の様子を窺わねばならなかった。
「マーヴェリックが」
何故人は自分を表す記号には敏感なのだろう。それは生物として何ら不思議なことではなかったけれど、マーヴェリックにあってもそれは他と変わらなかった。
耳をそばだてて尚明瞭な答えが得られぬまま、いよいよロッカールームへ帰ろうとした途端だった。
聞き覚えのない声に己のコールサインで鼓膜を震わされ、当然密談を無視することができなくなる。嫌われ者のマーヴェリックが陰口を叩かれることなどいつものことだ。しかしこんな暗闇に紛れて話しているなんて余程面倒な計画でも立てているのかもしれない。それが実行される時を待つほどマーヴェリックは気長ではなかった。どうせならここで喧嘩を買った方が話は早い。
だとしたら、聞きたくもない内緒話に耳を傾ける理由くらいにはなるんじゃないか。
どうして。
声にはならなかった。きっと唇が「どうして」と形作っていた。夕日の傾きが角度を変え、見覚えのある後ろ姿が視界に映る。密やかにされていたはずの内緒の話は終わっていて、ひとつしかない影が、グースが独り言を話していたのでなければ前屈みのその先にいる誰かを抱きしめているのだった。グースの腹の横から生えた二本の腕が、醜い陰影をグースのシャツに描いて汚した。
「このことは、あいつに……、マーヴェリックには、言わないでくれ」
密着した二人の人影が離れたと同時に、己のコールサインが呼ばれて瞠目する。耳に馴染む声が、おれじゃない誰かに、おれのコールサインを告げた。
密談で交わされた自分のコールサインが今度はグースの声だったことで、先刻は確かにグースではない誰かが己のコールサインを口にしたのだと確信する。誰かが。醜く指を蠢かせる、二本の腕の持ち主が。
ぼそぼそと聞こえるくぐもった声が意味を成さずに耳を擦り抜けていく。何を言っているのか全くわからない。聞こえていないのかもしれない。聞きたくないのかもしれない。
「ごめんな。助かる。ありがとう」
どうしてグースの声だけは明確に捉えることができてしまうんだろう。
名も知らぬ誰かの頭に置かれた手のひらがおれ以外に優しさを与える姿を目にしたくなくて、踵を返し足早にその場を去った。
―――
ふらふらと覚束無い足取りでどうにか辿り着いたロッカールームが、いつもよりも広かったり狭かったり何故だか斜めになったりして、平衡感覚がおかしなことになっていると気づいたマーヴェリックはその場にへたり込んだ。今しがた目にした光景が、幾度となく脳内で繰り返されている。きつく目を瞑っても耳を塞いでも、消えるどころか強固な記憶となったそれは、まるで事実のようにマーヴェリックの現実を覆った。
「かえら、ない、と、」
バクバクと激しく打つ心臓を鷲掴みにするように真白なTシャツに皺を寄せる。情けなく息も絶え絶えな声がマーヴェリックの咽喉から苦しげな呼吸音と共に辛うじて絞り出された。
きっと馬鹿みたいにこのままおとなしくグースの帰りを待てば、いつもの笑顔で「いいこだ」なんて頭を撫でてもらえる。ぎゅーっと強いハグをして、「えらいえらい」って褒めてくれて、それで、それから。それから――
「ばーか」
グースに、ではなかった。己の愚かさに呆れたのだ。
父を失って、家族がバラバラになって、誰かに心を許すことなんてなかった。敬遠されて、疎ましがられて、他人との距離がどんどん開いていくたびに、関わり方さえもわからなくなっていく。悪循環のようにますます距離を置かれても構わなかった。ひとりで平気だった。アビエイターの仕事だって誰と組んだって変わらない。だって、おれはおれの操縦をするだけだから。それを傲慢と呼ぶなら好きにすればいい。そう、思っていたのに。
どういうわけかグースは、おれの操縦が好きだと言ってくれた。「一緒に空を飛びたい」「お前の後ろは俺の指定席だ」なんて言って、誰とも関係が続かないおれと「ずっと一緒にいたい」って。
「うそばっかり」
さっきグースが会っていた醜い相手が誰なのかはわからない。顔も見えなかったし、そもそもグースと自分では交友関係の広さが違いすぎる。とは言え相手はこちらのコールサインを口にしたのだから、少なくともおれのことを知っている……。
詮無い推理だった。マーヴェリックの名は良くも悪くも海軍の中で知れ渡っているし、そもそもグースの知り合いなら彼と組んでいる自分の存在を知っているのは何ら不思議なことではない。
帰ろう。マーヴェリックは力の入らない両足を叱咤して腰を上げた。そういえばいらないメモをグースのロッカーに差し込んだことに気づき、「待たなくていい。帰った」と乱暴な文字を下手くそに捻じ込んだ。こんな時まで無為にグースを待たせたくないと考える自分が女々しかった。だけど最初に入れてしまったメモを見たグースは、きっとこの場に戻らないおれの帰宅を確認しようと訪ねてくるかもしれない。会いたくなかった。
「無事だから会いに来るな――……って、これは……、いらない、か……」
ミミズが這ったみたいにクシャクシャな文字の羅列を一層クシャクシャにして、部屋の片隅で存在を主張する汚れたゴミ箱に投げつける。余計なことを書いたらそれこそ会いに来るんじゃないかと心配だった。おれはただ、グースに言われたとおり先に帰っただけなのに。
丸まったそれが放られた先を見届ける気にもならない。
―――
ロッカールームへ続くドアに手を伸ばしたグースが視界の端に捉えたのは、確かに見知った小さな頭だった。はずだった。己が来たのとは反対方向に愛おしい姿が消えた気がして、自他ともに定評のあるうるさく響く声で「マーヴ!」と叫ぶ。少し待ったところでウンともスンとも音沙汰はなくて、あれが本当にマーヴェリックだったならば尻尾を振りながらとてとてと駆け寄ってくるだろうから、実のところ全くの見間違いだったと気づく。
幻覚を見るほどにマーヴェリックに会いたかったのかもしれない。その通りだった。この腕に抱きしめて、今日もいいこだったなって褒めて、そうしたらマーヴェリックは隠しきれない嬉しさにくふくふと笑って抱きしめ返してきて、心なしか強くなった腕の力に、ぎゅう、と終わりの来ないような離れがたい抱擁をするのだ。
「……ま、もう帰ったよな」
帰っていいと言ったのだから、帰ってくれてよかった。咎めることじゃない。
先刻まで会っていた男のことを思い返す。マーヴェリックに想いを寄せる男、と思いきや珍しいことに自分に気のある男だった。正直男には全く興味がないのにどうして、というのは己がマーヴェリックに抱く感情すら言い訳ができなくなるのでどうでもいいとして、とにかく「二人きりで話がしたい」と呼び出してきた男は基地内でそれなりに話をしたことのある下士官だった。
そこまで親しくもない輩から呼び出されることにはすっかり慣れていた。マーヴェリックと組んで暫く経った頃からそれは始まった。大抵がマーヴェリックに不埒な感情を抱く男による悪事への誘惑だったり、そこそこに真剣な恋愛相談だったりする。誰とも関係が続かなかったマーヴェリックの、一番近くにいる人物。一匹狼だったマーヴェリックへの“取り付く島”になってしまったのだとグースが気づくのに時間はかからなかった。
毎度毎度面倒だ。マーヴェリックは俺のものなのに。
そうは思っても声を大にして主張することもできないのが歯痒い。
つい一時間程も前には、着替えを済ませたマーヴェリックがふにゃりとした笑顔を向けてきてくれたのに、上手く笑みを返せたかわからない。本当は思いきり抱きしめて、「今日も頑張ったな」って褒めてやりたかった。呼び出しなんか無視して、二人でゆっくりと夜を過ごしたかった。それでも、マーヴェリックに邪な感情を抱く奴を野放しにはできない。
そうして今日も今日とて件の男に会ってみれば、何のことはなく己に懸想している人物だった。それだって面倒なことに違いはないのだけれど。
「あーあ」
思いのほかはっきりとした声が嘆息と共に咽喉を通過して、グースの心を取り巻いているうんざりとした気持ちに拍車がかかった。
体力よりも気力を削られた状態でぼんやりと室内に視線を巡らす。男社会だけれど規律に則った軍のロッカールームはそれなりではあるが整頓されている。誰かが投げて入りそこなったくしゃくしゃの紙がゴミ箱のそばで存在を主張していて、どこかのアジア人のように他人のごみを拾うなどと殊勝なことをした。
そんな行いをしたところで気力が回復するわけでもない。さっさと帰ろう。
常と違って重い空気を纏ったグースがロッカーを開けるより先に、扉の隙間に捻じ込まれたクシャクシャのメモ用紙が目に留まった。
これがまた変な輩のラブコールだったら俺はブチギレてもいいんじゃないか。
むしゃくしゃした感情が収まらないままに隙間から抜き取ったのは、軍で支給されている何の変哲もないメモ用紙。罫線が引かれただけの無骨なそれは、自分が入れたものではないのだから当然他の誰かが入れたわけで――
「“待たなくていい。帰った”……?」
妙に機嫌の悪い文字で書き殴られてはいるが、見覚えのあるマーヴェリックの筆跡だった。律儀に帰ることを告げなくても俺が帰っていいと言ったのに、と疑問が残る。何にせよ帰ったということはわかった。それならば尚更この場所に長居する必要はない。
誰もいないのを良いことに、グースはロッカーを乱暴に開けた。扉を跳ね返すギィギィと軋んだ音色さえ煩わしい。しかしその弾みによってか、手にしているものと同じメモ用紙がひらりと足元に跳ねた。
もう一枚のメモより幾分か丁寧に折られた用紙には「待ってて」と焦りに走った文字があり、こっちが先か、と指先でなぞる。そこから「待たなくていい」に発展したのだろうが、どうやら随分ご機嫌斜めになった文字だった。待たされたことによっぽど腹が立ったのか。
「だから先に帰れって言っただろ」
ぽつりと口先でぼやいてみせて、拗ねるマーヴェリックを想像すれば自然と頬が緩んだ。ささくれ立った心が、愛おしい存在でどんなに癒されることか。
帰りにマーヴェリックのところに寄ろう。そうと思ったところで、ふと、入りそこなっていたメモの存在が気に掛かった。同じメモ用紙だった。とはいえ軍で流通しているものなのだから、マーヴェリックのものではないかもしれない。
ぞわりと嫌な胸騒ぎ。そうじゃないかもしれない。だったら、確信を持っていた方がいい。
しわくちゃな紙の上をぐちゃぐちゃに干からびたミミズのような文字が走っている。マーヴェリックが乱雑に書いた文字に違いない。
「“無事だから会いに来るな”?」
無事な人間がそんなことを書くか? そもそもそれを捨てた理由は? 俺を待つ間に何がどうして機嫌を損ねたのか。
わからないことだらけだった。
「会いに来るな、のメモは俺のロッカーには入ってなかったし……」
入っていても、会いに行っただろうけど。
お前はそれを危惧して捨てたんだろ?
―――
殊勝な態度で鳴らしていたチャイムとノックと相棒を呼ぶ声が侵略者のように蹂躙する響きになったところで、ドアの隙間から覗いたマーヴェリックの顔は見たこともない程に精気の抜けた亡霊だった。驚いたグースが何度目かわからないコールサインを叫べば、嫌そうに「開けるから、静かにしろよ」と二度と開くことがなさそうな無骨なドアを閉められ、心配をよそに数十秒後には部屋に招かれていた。疚しさを隠すようにくしゃくしゃになったベッドシーツの前に立ったマーヴェリックに不安が増す。
「……なんだよ、来るなって……。あ、いや、先に帰っていいって、お前が言ったんだろ」
「会いに来ただけだ。いるかなって」
「出てくるまで叫び続けるように見えたけど? いるかな、じゃねーじゃん」
「それは……悪い」
「まぁいいけど。なに?」
辛うじて室内に滑り込んだものの、勝手知ったるその場所で腰を下ろすことは許されなかった。初めて一緒にフライトした日を思い出す。不信感を露わにした鋭い目つき。警戒は怯えを孕んでいた。
怯え。
ドクンと心音に殴打される。マーヴェリックが残すはずだったくしゃくしゃのメモがグースの脳内に映し出された。「無事だから」と書いてあった。どうして「無事」と書いたんだ? 無事じゃない何かを心配されると思った? 俺がいない間に、何かあったから?
「マーヴ、」
確かめようと頬へ伸ばした手に身を引かれる。拒絶? 恐怖? 揺れる瞳にはまだ慰める余地がある?
「なに、か、あったんじゃ、」
嫌な想像が頭を駆け巡り、信じたくない真実を導き出そうとする。そんなことはないと否定したいのに、それに足る程の証左もない。
「別に。なにもない」
「でも」
「用がないなら帰れよ。疲れてるんだ」
「……ハグ、してもいいか? 俺も、疲れてて、」
「いやだ」
拒絶されるとは思っていなくて、抱きしめようと広げた腕の行き場がなくなる。嫌だ。確かにそう言った。はっきりと。嫌、と。
マーヴェリックが、俺を、拒絶した。
「おれがハグしなくても、グースには、」
震える声は尻窄みになり、そのままマーヴェリックの咥内へ飲み込まれていく。俯く瞬間に見えた大きな瞳は薄い膜を張っていた。今すぐ抱き寄せたい。それなのにマーヴェリックから発された拒絶の言葉が、怯えたように震える体が、足元に落ちて染みを作る涙が、グースの体を雁字搦めにしていた。
「もう、いいだろ。他に、何か用でもあんのかよ」
「用って言うか、心配で」
「心配? 何が?」
「だって、いつもと違うだろ。急にそんな態度取られたら、何かあったのかなって、心配になる」
何もなかったと言ってくれ。神に祈る心境というのはこんなものなのか。己の首元にぶら下がる敬虔さのない十字を思う。或いは何かあったのなら、それを慰めさせてほしかった。ひとりで抱え込んで、俺を、拒絶しないでくれ。
「おれは今までと何も変わってねーよ。だから誰と組んでも長続きしないんだ。グースもわかっただろ。そういうことなんだよ」
「は? 急に何言って……」
どうも話が噛み合っていない気がする。それでもマーヴェリックの様子がいつもと違うのは明らかで、だとしたらその原因を突き止めなければならない。
「お人好しなお前は、まだおれの手綱を引けると思ってんのか? ばかにすんなよ」
「馬鹿になんて」
「おれのことなんか、どうだっていいくせに」
「んなことあるわけ……っ」
「触んなっ!!」
マーヴェリックの自暴自棄な言葉を受けて思わず伸ばしたグースの手は、短い音を放って振り払われた。鋭い視線を装う瞳が、深い絶望と恐怖を色濃く滲ませて頬を伝う。漸く絡んだ視線の先にあるのは、怯えに揺れる瞳だった。止まらない大粒の涙。場違いな美しさに囚われる。
「汚い手で、おれに、さわるな、」
あぁ、もしかして。
マーヴェリックが恐れているのは、俺の手なのか。
―――
堰を切ったようにぼろぼろと溢れ続ける涙を止めようと苦心するマーヴェリックの試みは、幾度にわたって失敗した。
歪んだ視界に見開かれたグースの瞳が見えた気がする。グースを傷つけた。最低だ。グースは心配して来てくれたのに。おれが一人で勝手にグースを好きで、勝手に裏切られたと思って、勝手に怒って、一番大切で絶対に傷つけたくない存在を、傷つけている。
さわるな、と自分が発した言葉に絶望する。大好きなグースの手のひらを振り払った。抱きしめてほしかった。それなのに、さわるな、と拒絶した。
「……、っふ、あ、も、いやだ、」
「マーヴ」
「ごめん、ごめんなさい。ごめ、なさ……、」
ぐしゃぐしゃな頭の中でグースへの想いが止められない。嫌いにならないで。ごめんなさい。グース、大好き。ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい。おれを、捨てないで。ひとりに、しないで。
「も、……っ、や、だ、……帰れ、よ」
帰らないで。だけど、ここにいたらグースをもっと傷つけてしまうから。だから、おれの前から、いなくなって。いなく、ならないで。たすけて。たすけて、グース。
「帰れるかよ」
「帰れ。頼む……もう、……っ帰って、くれ、……ふ、……ひぅ、」
「泣き止むまで傍にいる。それくらいいいだろ」
「……っ、よく、ない。グースがいたら、涙なんて、止まらない」
「でも、こんなお前を放って帰れるわけ」
「……帰って、」
お願い、と懇願した声がグースの耳に届いたのかはわからなかった。尻餅をつくみたいにベッドに座って、涙と鼻水と涎で汚れた顔を隠すように俯いた。グースの表情から逃げたかった。水溜まりができそうなくらいに滲んでいく床を睨んでいるだけで精一杯だった。
それでよかった。グースの傷ついた顔も、おれに向ける嫌悪の顔も、何も、見たくない。
何度も呼ばれたコールサインに返事ひとつ返さなかったのは、どうせ嗚咽しか返せないからだ。とりわけ思い入れのあるコールサインではないけれど、グースの声で呼ばれるそれは特別だった。マーヴェリック。マーヴ。グースの耳馴染みの良い声が堪らない。
それなのにおれは何もグースに返せないまま、ずっと床を睨んでいた。視線を合わせようと蹲んでくれたのにそっぽを向いて応えた。ふいに呼ばれたファーストネームに盛り上がった涙が、一際酷い嗚咽に変わる。そんなおれにさえ「機嫌直せよ」と気を遣ってくれるグースが好きで、大好きで、その優しい声色に縋りたかった。だけど、縋れない。グースに縋る腕は、おれじゃなかった。
ギシ、と床が軋む音に合わせてグースの溜息が降ってくる。こんなやり取りを繰り返していれば嫌われたことなど明白なのに、最後通牒はやはり恐ろしくて大袈裟に体が揺れた。こんな時まで臆病で意気地なしだった。
「……とりあえず、帰るけど。また明日な。何かあったら連絡寄越せよ」
グースは、こんな俺をどんな色の瞳に写しているんだろう。想像することなんてできるはずがなかった。
おれが知っているグースの瞳は、優しい色しか湛えたことがない。
―――
玄関のドアに凭れた状態で目を覚ましたマーヴェリックは、冷え切った体を起き上がらせることを諦めて横たわることにした。汚れた床で頬を慰めながら、断ち切れるはずのないグースへの想いを反芻し続ける。きっともうこのドアをグースが開けることはない。その事実がなんだか信じられなくて、未だにグースに縋ろうとしているのかと自嘲する。
グースの腕が、手のひらが、匂いが、声が、瞳が、体温が。もう二度と触れることのないグースに関する全てが、どうしてほんの数時間前まで自分のものだと信じていられたのかわからない。滑稽な錯覚だった。そのくせついさっきまでグースがいたこの空間さえ愛おしく感じてしまうのだからどうしようもなかった。不器用な想いのひとかけらだって、胸の内に持ち続けることは許されないのに。
グースの残したほんの一握りの香りまで探してしまいそうで、マーヴェリックは仕方がなしに外の空気に助けを求めなければならなかった。そっくりそのまま室内の香りを消さなくては。力の抜けた足で崩れそうになりながら、どうにか起き上がって玄関ドアに手を掛ける。ノブを回したところで勢いよく開いたドアと、ドゴンッという重量のある音。
耳に馴染む「痛っ」と叫ばれた声に、動きが止まる。
どうして、グースが。
「グース!? えっ、ちょ、おい、大丈夫か!? 怪我は!?」
不格好な形で背中から転がってきたグースに思わず手を伸ばす。状況を把握することよりも、マーヴェリックの心を一瞬にして独占したのはグースに怪我がないかの心配だった。頭を打っていないか。背中は? 腕は?
いてて、と口先で痛がりながらくしゃりと笑ったグースが転がったまま手を伸ばしてきたって、避けることまで気が回らない。
頬をなぞる指に体が震える。愛する人に触れられた歓びだった。頬が熱い。冷気を纏っているはずのグースの指先から、全身にじわりと熱が駆ける。
「やっと触れた」
「ぐー、す、」
瞳が隠れる程に破顔したグースの笑みに胸が詰まる。一度でも触れられてしまえば、グースを拒絶することなどできるはずがない。そのことはマーヴェリック自身が一番よくわかっていた。脳裏で警告を続ける臆病な理性の声が搔き消される。グースの心配に脳のリソースが使われすぎて何も考えられなくなったという理由だけでは、きっと説明ができない。
「なぁマーヴ。俺、お前に何かした?」
柔らかく頬を撫でる感触が心地いい。あぁ、グースの指だ。グースの手のひらだ。
再三再四止まったり零れたりを繰り返していた涙が、もう一度勢いを増してマーヴェリックの頬を濡らしていく。止まらない。止まってくれない。
「した、ん、だよな、……悪い。その、お前を傷つけた原因が、思い出せなく、て、」
「……して、ない。ぐーすは、なにも、」
「してなくはないだろ。俺のせいで、お前をこんなに泣かせてるんだろ」
そうは言われても、とマーヴェリックは思い惑った。“傷つけた原因”じゃない。
「グースが、傷つけたんじゃ、ない」
グースは何も悪くないのに、おれが勝手に傷ついて、被害者ぶっている。
「おれが、ひとりで、傷ついたんだ」
ハッハッと過呼吸のように呼吸が荒くなる。グースの大きな手が背中を撫でてくれて、こんな時なのに嬉しさが胸を満たした。あんなにも酷い態度をとったおれにさえ、グースは変わらない優しさを与えてくれる。これで満足するべきなのに、この優しさこそが、おれをもっと貪欲で、わがままな存在にさせる。
優しさのかけらをグースがおれ以外に渡してしまうのが、嫌、なんて。
「ひとりじゃ、傷つくこともできないだろ」
「だ、って、」
泣きすぎて傷んだ咽喉をこじ開ける引き攣った声が格好悪い。グースの耳にはどんな風に聞こえているんだろう。おれの声は、グースに届くのだろうか。届けても、いいのだろうか。
マーヴェリックの胸に次々と湧き起こる不安が、グースの手のぬくもりに溶かされていく。
「わかん、ねぇ」
背中をたたくリズミカルな手の動きに励まされてマーヴェリックがどうにかグースに伝えることができた言葉は、答えと呼ぶには随分頼りないものだった。
ひくひくと嗚咽が止まらない。気の長いグースの手のひらが、終わらない優しさをマーヴェリックに与えていた。
「そっか。わかんねーか……。じゃあ、ちょっと聞いてみてもいいか?」
歌うように紡がれる声が好きだ。優しく響いて、柔らかく包まれる。
「、ぅ……?」
「先に帰っていいって言ってから、俺のこと、探しに来てくれた?」
ヒュッと嫌な音がマーヴェリックの咽喉を鳴らした。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
「知ら、ない、」
「知らない? すぐ帰った? 俺のロッカーに、」
嫌だ。
あの出来事を、事実にしないで。
「入れてない。おれじゃない」
「なぁ、マーヴ」
「おれじゃ、ない」
それは罪の告白だった。おれはグースを探しに行って、それで――
「ぐーす、おれのこと、きらいになった?」
抱きしめられる体が軋む。グースの体の上に倒れこんで、
どうしてそれがこんなにも心を満たしてくれるんだろう。
「嫌いになるわけないだろ」
「おれが、ぐーすの言いつけ、守らなかったから、」
「違う……。そんなこと、ない」
これ以上抱きしめられたら折れちまうんじゃないかって、
それでも良かった。消えない傷痕をつけてもらえるなら。
「ぐーすは、おれに、秘密にしてくれようと、したんだ。ほんとうの、気持ち。おれたちが、ちゃんと、仕事が、できる、ように。アビエイターと、RIOで、いられるように」
「そうじゃない。お前に秘密にすることなんて、ひとつもない」
「うそ、は、似合わねーぞ」
マーヴェリックには言わないでくれ。
グースの言葉なら、何度だって再生できる。あれは間違いなくグースの声だったとマーヴェリックは自信を持って答えることができた。
こうして抱きしめてくれる、腕が、手のひらが、おれの、知らない――
「……っ」
「マーヴ!?」
途端もがこうとしたマーヴェリックの体は、固く抱きしめてくるグースの腕に阻まれた。
おれの、大好きな、この、腕が、
「ぐー、す、ごめん、なさい、」
ゼーゼーと喉から鳴る耳障りな音。どこが鳴っているのか、もうわからなかった。苦しい。
「ひみつを、しるつもりなんて、なかった」
おれは、知ってるんだ。グースはおれのことを仕事の相棒としてちゃんと扱ってくれて、おれたちの関係はそれでよくて、おれが、グースに、求めすぎていて、それが、きっと、グースには、負担で、
「おれのこと、抱きしめなくて、いい」
「は?」
「頭も、撫でなくていいし」
「マーヴ」
「おれは、」
「お前に、言わなくて、ごめん」
さようなら、グース。
「グースが謝ることじゃないだろ。おれみたいな相棒、困るもんな」
己の感情をごまかそうとマーヴェリックは口早に言い募った。冷静さで感情をごまかそうと躍起になる。全く冷静じゃないと自覚していた。
「そうじゃない。違う。いいから、聞けよ」
「いいって。大丈夫。おれがこんなだから、優しいグースは大変だったよな。なんか、悪かった」
「やめろ」
「しばらくは一緒だろうけど、上に言えばどうにか――」
「マーヴ!! 俺はそんなつもりはない。お前とフライトしたい」
「……じゃあ、おれが、言う。無理だって。グースとは、飛べないって」
「それなら俺は、このままお前を離さない。お前の自由を奪って、そんなこと言いに行けなくする」
殊更強められた腕の力がグースの本気を示す。不自由な痛みにすら安堵していると気づいたマーヴェリックは、形骸化した抵抗の意思表示など疾うに意味をなさないと理解していた。力を抜いて、体を預ける。
「ははっ、監禁でもするつもりか?」
「それでいいよ」
「は? 何ばかなこと……」
「馬鹿でいい。お前のこと攫って、閉じ込めて、俺から放してやんねぇ」
「酷ェ奴」
くだらない言い争いに馬鹿馬鹿しくなって、涙腺まで馬鹿になってしまう。軽口を叩くのも、抱きしめられるのも、おれにはグースだけで充分なのに。
それなのにグースがくれた「放さない」の言葉が嬉しくて、一層ばかばかしい。
「グースには、おれじゃない奴がいるのに」
「お前しかいない。他の奴なんて、知らない」
その言葉に縋りたくなる。本当にグースがおれだけを見てくれたらいいのに、なんてありもしない夢物語。たとえ自分だけでなくたって、グースが大切にしている家族の次くらいに、特別な居場所を作ってほしかった。そうだと、信じていた。
「ばーか。キャロルに言いつけるぞ」
「そうじゃないだろ。お前、見たんだろ。俺が、」
「お前の浮気現場? どうやってキャロルにチクってやろうかって考えてた」
乾いた笑い声が精一杯だった。掠れた音が、上手い具合に「はは、」と鳴った。
「もう、強がんなくていい。ごめん。最初からお前に話しておくべきだった」
「違う。だって、おれは、」
「マーヴ」
真剣な声色に体が硬直する。
密着した体から、ふたり分の心臓の音がうるさい。
冗談にして笑うことも最早出来ずに、マーヴェリックはグースが発する次の言葉を待った。
「俺が、話したいんだ。お前に、聞いてほしい。ちゃんと」
ーーー
お前が見たものは何だったのか。どうか俺に弁明させてくれ。
「で、俺のことが好きだって言うから」
「それでなんで、おれに秘密なんだよ」
あらましを話しながら湯気の立つマグをふたつ持って戻ってきた俺に気づいたマーヴェリックは、座っていたソファに人ひとり分以上の空間を作って端に寄った。マーヴ、と強めにコールサインを口にしてローテーブルにマグを置く。いつものように腰掛けて股を少し開きソファを叩けば、マーヴェリックがおずおずと近づいてきた。足の間に座らせて、ココアの入ったマグを持たせてやり、後ろから抱きしめる。腕の中にすっぽりと収まる愛おしい存在を、放したくない。
「なんでって……」
男同士とかお前嫌いだろ。それに、何となくこういうのって気恥ずかしいとかあるだろ。
意味のない言い訳が頭を巡る。いつも必要以上に上手く回ってくれる舌はすっかり固まって、ひとつずつ言葉を紡ぐだけで精一杯だった。マーヴェリックを煙に巻くことなんて普段は造作もないことのはずなのに、今はそれができそうにない。
お前が、俺のことを好きだから。
誤解させたくなかったんだ。本当は。
伝えたい言葉と、伝えられる言葉を、天秤にかける。
「お前に、誤解、されたくなくて」
「誤解?」
「最後に、抱きしめて、諦めてもらった、ん、だけど、」
「抱いてくれ、とかじゃねーんだ? いい奴じゃん。知らねーけど」
ぽんぽんと飛んでくるマーヴェリックの軽口は、感情の見えないマネキンだった。そうさせているのは自分なのだと思えば、どれだけ深くマーヴェリックを傷つけてしまったのか否が応でも自覚せざるを得ない。
乾いた笑いが耳に痛い。ざらついた痛みが胸を覆う。
「それも、言われた。……けど、できねーだろ。キスも、断ったし」
苦肉の策が、最後の抱擁だった。感情なんてひとつもない、別れの挨拶だ。
「ふぅん……かわいそう」
「は?」
「……そいつ。おれ、なんとなくそいつの気持ち、わかるから」
「わかんなくていいよ、そんなの」
「わかりたくねーけど、わかっちまうんだよ」
知ってる。だから、嫌だったんだ。
俺がそいつを拒絶したことは、イコールお前を傷つけることになるんだろ。
断る理由なんていくらでもある。そのどれもを、お前はきっと自分のこととして受け止めてしまう。
「おれも、似たようなもんだし」
「お前は違うだろ」
「同じなんだよ。グースは知らないだろうけど」
「じゃあ教えろよ」
「やだよ。教えない」
「なんで」
「なんでも」
誤解、されたくなかった。
あんなおざなりなハグは、お前にするのとは何もかも違う。
今感じている愛おしさも、喜びも、充足も、何もかも。腕の中にいる存在がマーヴェリックだから、こんなにも満たされる。
「なぁ、マーヴ」
あいつを断ったのは、あれが、お前じゃなかったからだ。
お前だったら、俺は――
「もう、お互いに、秘密は無しにしよう」
俺たちは、秘密ばっかりだ。
お前の気持ちに気づかないふりをして、お前が俺の幸福を優先しようとしてくれることに甘えて、俺自身の気持ちにも蓋をしている。伝えたいと思わなかったわけじゃない。それでも、俺の気持ちを知ってしまえば、お前が俺から離れようとするのは明白だった。俺の幸せのために、お前がとる行動だからだ。そんなことは許せない。受け入れられない。だから、どうしても伝えられなかった。本当は、お前が口にしたココアみたいに、とろとろに甘やかして、一ミリの不安も残さないようにしてやりたい。
好きだ。
愛してる。
俺は、お前がいれば、それでいいんだ。
「……だめ、だ。グース。おれは、ひみつに、しなきゃ、いけない、から、」
「教えてくれねーの?」
「グースが、しあわせじゃなきゃ、いやだ」
「お前の秘密は、俺が不幸になる?」
「うん」
「なんねーよ、ばか」
「……でも、言えない。言わない」
頑なに口を閉ざすマーヴェリックを前に、それなら俺も伝えることなんてできなかった。お前が秘密を守りたいなら――
そうしてマーヴェリックの責任にして、本当は俺自身の保身なのかもしれなかった。頑ななお前に愛を囁いてしまったら、今度こそお前は俺の腕の中に戻ってこないかもしれない。
「わかった。じゃあ、ひとつ。お願いしてもいいか?」
「おねがい、?」
「お前といっぱい、ハグしたい」
「して、る、だろ」
「お前からもしてほしいの」
こんな風に一方的に閉じ込めるだけじゃなくて、マーヴェリックからもハグを返してほしい。これまでみたいに、ぎゅっと。永遠の幸福が訪れる抱擁に浸りたい。
「俺が汚れてるから、嫌だ?」
「そ、れは、」
「こうやって抱きしめられるのも、本当は、嫌?」
腕の力を弛める。不安げに視線を寄越すマーヴェリックに眉を下げて応えた。
「お前さっき、俺が幸せじゃなきゃ嫌だって言っただろ」
狡い、なんてわかっていた。マーヴェリックが断れないと知りながら、少しずつ外堀を埋めていく。
「お前とハグしないと、幸せになれない」
「……んなこと、あるわけ」
「あるんだよ」
深呼吸に似た深い息をひとつ吐いたマーヴェリックが、観念したようにローテーブルにマグを置いた。ソファに乗って向き合う形でグースに体を預ける。マーヴェリックの背中にグースの長い腕が回された。
ぬくもりに勇気をもらったマーヴェリックの腕が遠慮がちにグースの背中を抱きしめた。小さめの手のひらが背を彷徨う感触が堪らずに、グースは小さな体が軋むのもお構いなしに腕の力を強くした。マーヴェリックの手が何度もグースのシャツを握り、しわくちゃにしていく。
ほんの数刻の拒絶。それは永久に続く絶望のようだった。
その絶望が、掻き消されていく。
「お前に拒絶されたら、俺は、幸せになんて、なれない」
「なんだよ、それ」
「お前のこと、いっぱい抱きしめて、頭撫でて、」
「そんなの、おれじゃ、なくても、」
「お前じゃなきゃ、幸せになれねーっつってんの」
リップ音をさせながらマーヴェリックの髪の毛にキスを落としていく。むず痒そうに体を捩るのが可愛い。だけど腕の中からは逃してやらずに、涙で濡れた目尻を、頬を、やわらかく拭っていく。
「ん……、ぐー、す」
「いっぱい泣かせちまったな」
「おれが、かってに、」
「ごめんな」
唇に触れるか触れないかの位置にキスを落とす。真っ赤な顔を俯かせたマーヴェリックがぎゅうと腕に力を込めた。その行動がどれだけ俺の心を満たしてくれるのか、お前はまだ、知らないんだろう。
「おれも、ごめん。酷いこと、言った」
額が押し付けられた胸元から、もごもごと謝罪が聞こえる。
「いいよ。それよりも、こうやってまた、お前が腕の中にいてくれて、嬉しい」
「……ん、ぐーす」
「うん」
ぐーす、ぐーす、と子供みたいに呼び続けるマーヴェリックの顔をもう一度上向かせ、額に、瞼に、頬にと口付ける。決定的な事実を恐れるお前の唇は奪えないけれど、それ以外余すところのないほど全てに、マーキングしてしまいたい。
ちゅう、とマーヴェリックの首筋に吸いつき、赤い痕を残す。舌足らずに「どうして」と口走るマーヴェリックの頭を撫でた。
「俺にもつけといて。そうすりゃ面倒な奴に声かけられないだろ」
首筋をたたいて示す。マーヴェリックの小さな指先が、確かめるようにその場所をなぞった。
「いい、の、か?」
おれがつけても、と小さくなっていく声がいじらしい。
「お前以外の誰につけてもらうんだよ。……なぁ、今日みたいなのには巻き込まれたくねーの。助けてくれるだろ、相棒?」
「……うん。相棒、だから、」
柔らかく押し当てられた唇が、かすかな所有の痕を残した。
好きだとは言えない。愛してるとは伝えられない。伝えない。
俺もお前も、互いの気持ちなんて知らない。
その事実が、俺たちには何よりも重要だった。
甘美な秘密を抱えたまま、俺たちは互いのものだと主張する。