知らず知らず期待していた放浪者の話名前は人生で最初の贈り物。
馬鹿らしい。それは人間のためのものであり、人形に名前なんて本来不要だ。呼び名があれば呼びやすい、身分が分かる、ただそれだけのものじゃないか。
だから『散兵』という名を捨てさえできれば誰に名を付けられた所で気にすることもない。そのはずだ。仮に僕に名を与えると言うのなら草神だろうが白い浮遊物だろうが、異世界の旅人だろうが誰でも構わない。
旅人の命名を黙って待つ。
適当なものが思いつかずに相当悩んでいるようだ。僕の名前ひとつでそんなに頭を悩ませる理由が彼にあるのか?
敵対していた。僕は旅人の大切な人々を間接的あるいは直接的に貶めたし、旅人のことも本気で殺そうとした。世界樹への干渉によりそれらは“今”の歴史的に言えば僕の行いではなくなったけれど、罪は罪。過去は全て僕の中にある。旅人も僕を警戒し、決して心を許してなどいなければ仲間だとも考えていないだろう。当然だ。そうあるべきだ。ここで簡単に絆されるような人間なら、とっくの昔に他人に騙されて寝首を搔かれていただろう。
つらつらと思考している間も、旅人は憎いはずの僕のことを考えてうんうんと頭を捻り自分の中にある言葉を探している。
旅人の決めた名がどんな侮辱や軽蔑を含んでいるものだったとしても僕はそれを平気な顔で使ってやるつもりでいた。恩を仇で返すわけじゃないけれど、君がどんな顔をするだろうと考えると少し愉快だった。なのに旅人は僕に相応しい名前をと、まるで大切な友人を前にしたように懸命になっている。
君は僕のしたことを忘れたわけではないだろう?
傾奇者も国崩もスカラマシュも散兵も、世界から消えた僕を旅人は覚えている。君は僕に怒り、僕を憎み、僕を阻んだ。それら全てを覚えていながら、何者でもなくなった僕の在り方を見定めようとしている。ああ、そんな君から与えられる名を、僕は待っているのか。
旅人が顔を上げた。
真っ直ぐに僕を見つめている。瞳には憎悪も嫌悪もない。かといって親しみがあるわけも無い。
ほんの少しの惑いと決意。そこに"僕"という個を見つめる不可思議な光があった。
「決めたよ。君が気に入るかはわからないけど」
「ようやく決まったかい?こんなことに労力を消耗しても無駄なのに、随分考え込んでいたね」
「お前、自分の名前を決めてもらうって時にその言いぐさはないだろ!空がお前のために頑張って考えてくれたんだぞ!?」
「そうは言っても、僕はどんなに滑稽でも呪われた名前でも、なんだっていいんだよ。ほら、悩むだけ無駄に思えてきたんじゃない?まあ、あまりにもセンスがなかったら嘲笑くらいはするかもしれないね」
でも、なんでもいいのは本当さ。君が付けた名であればね。
そこまでは口には出さず、旅人を見つめる。
旅人は困ったように眉を顰めたものの、それじゃあ、と口を開いた。
「―――」
紡がれる、僕の新たな名。
罵倒でも識別記号でもない、いっそ笑えるほど人間らしい名前だった。
僕はなんでもいいって言っただろ、恨みを込めたって良かったんだ。なのにこれじゃあ、まるで祝福のような、
数瞬目を瞑る。名前を反芻して目を開く。
名前なんて何度も変わった。この名もそのひとつだ。すぐに自身に馴染ませる。だが、妙に喉が詰まる感覚が起こるのは…いや、考えても意味は無い。
「どう?」
「…そうだね、予想したよりは悪くないセンスだったよ」
「オイラはすっごく良い名前だと思うぞ!…こいつに付けるにはちょっと勿体ないくらいにな!」
「私も素敵な名前だと思うわ。―――、空からの贈り物、とても素晴らしいものになったわね」
「…………」
「おい!お礼くらい言ったらどうだ!」
「心配しなくともこの借りも返すさ」
「パイモンが言ってるのはそういうことじゃないけど…名前が嫌じゃなかったならいいよ」
旅人は僅かに表情を和らげた。僕への警戒を解いていない割に、僕が名前を否定しなかったことに安堵したらしかった。とんだお人好しだ。
白い奴に「名前の由来は気にならないのか?」と聞かれたが、全く興味はなかった。旅人が覚えているならなんだって構わない。旅人がどんな考えで付けていようと、僕にはこの名があればいいのだから。
「―――、行くの?」
立ち去ろうとしたところで旅人に名前を呼ばれた。旅人がその名前を口にすると、草原に風が吹き抜けたような心地がした。人形が感じるべくもないその感覚を無視して振り返ると、旅人は変わらず真っ向から僕を見ていた。
「なに、君はまだ僕を止めたいのかい?」
「……ナヒーダもいるから、今の君のことは止めないよ。行くなら、気を付けてねって言いたかっただけ」
「余計な心配だね。君こそ僕が恩を返すまでは野垂れ死にしないでくれよ」
「ああもう、お前はもっと他の言い方はできないのか…?」
「パイモン、彼はまだ自分自身を整理しきれていないのよ。空、あなたに対する感情もね。あなたも彼に関しては複雑でしょうけど、時間が経てばどちらもおのずと変わってくるわ」
「うん、分かってる。―――、気を付けて」
「………………またね」
僕は多くを失い、また新たに得た。旅人の瞳に宿る金色の光を背にする。存在しない心臓の辺りに湧き上がる何かにすかさず蓋をした。僕には必要ないものだ。
旅人と僕は敵だった。今も味方と言い切るには浅からぬ因縁を抱えている。
"僕"が消えたことによる過去の変化は未知の部分も多いけれど、今となってはこの場にいる者か、あるいは神くらいしか僕の業を知らない。彼らの口から誰かに伝えられても史実にすらならないのなら、旅人は尚更僕を許してはならない。
新たな名前、立場と目的、願いと神の目。
これだけあれば、旅立ちには十分だ。むしろ過分なくらいか。
その分価値がある働きはするつもりだ。
君が正義で光、それなら僕は悪で闇だ。空すらも見えない道なき道が僕の領分となる。
そうして名を得た放浪者は旅人の前から去った。
いずれ風とともに旅人の道行に訪れる日まで。