ある文官の手記 ジェラール様が皇帝として即位されてからもうすぐ一年経つ。
ご本人にはお聞かせできないが、ジェラール様に皇帝が務まるのか心配していた者は少なくなかった。さすがに面と向かって口にした者は、あの傭兵──ヘクターくらいだったが。
しかし心配することはなかった。ジェラール様は皇帝として申し分ない、いや、期待以上のお方だった。思慮深く慎重でありながら、ときに思い切った決断を下される。臣下には優しく接してくださる一方で、対立する相手には毅然とした態度を崩さない。──ジェラール様のようなお方にお仕えできることを、私は誇りに思っている。
だが、近頃のジェラール様はぼんやりと考え事をなさっていることが増えたような気がする。
お疲れでしたらお休みくださいと申し上げても、大丈夫だと笑って返されるだけなのだが、何かに悩んでいらっしゃるのは明らかだった。
もしかしたら側近の方々ならばご存じかもしれない。私が知ったところでお役に立てるかどうかはわからないが、少し話を聞いてみようと思い立ち、私は彼らの姿を探しに向かった。
「ジェラール様の様子か……」
帝国重装歩兵のベア様に、何か気づいたことはないか尋ねてみたところ、彼は少し考えてからこう答えた。
「そうだな。このところ、ため息が多いように思う。お体の調子が悪いわけではなさそうだが……。
戦闘の際はできるだけジェラール様のご負担を減らせるように気を配っているつもりではある。他にできることがないか、戦い方を見直してみよう」
ベア様の言葉は頼もしい。戦闘に関しては我々文官にはわからないことも多いし、まかせたほうがよいだろう。その点は安心だが、しかしジェラール様が何に悩まれているのかは不明なままだった。
「私が気づいたのは三か月ほど前だろうか」
帝国軽装歩兵のジェイムズ様はそう言った。
「その頃から、ジェラール様の表情が沈んでいらっしゃるように見えることがあった。……無理もない。ヴィクトール様、そしてレオン様を突然亡くされ、即位直後は悲しみにひたる時間さえなかっただろう。身近な者を失ったとき、少し時が経ってから急に喪失感に襲われるという話は聞いたことがある。ジェラール様もきっとそうなのだろう……」
その可能性は高い。クジンシーの討伐、奴に荒らされたソーモンの街への支援、他にもレオン様とヴィクトール様の葬儀、伝承法に関わる法整備──ジェラール様は即位直後から常に忙しくなさっていて、それが比較的落ち着いてきた頃に、ようやくご自身の自然な感情が湧き出したのかもしれない。だとしたら、ジェラール様の悲しみを癒すために、我々にできることなど果たしてあるのだろうか……。
「ジェイムズはそう言っていたの?」
帝国猟兵のテレーズ様に相談したところ、テレーズ様は考え込む様子を見せた。
「確かに、ジェラール様がおっしゃっていたことがあったわ。『父上も兄上ももういないという事実を、今さら実感しているよ』──と」
ジェラール様は、兄君のヴィクトール様とお二人だけのご兄弟だった。母君を早くに亡くされていたこともあり、側近の中では数少ない女性であるテレーズ様を頼りになさっているように見えた。テレーズ様とお話しされることで、ジェラール様のお心が軽くなるならば良いことだ。──と私が考えていたとき、テレーズ様はふと首をかしげた。
「うーん……でも最近のジェラール様は、悲しいというより、なんというか、そわそわ……ふわふわしていらっしゃる感じがするのよね……」
どういうことだろう。いまだに皇帝陛下としてのお立場に慣れず、戸惑われているのだろうか。テレーズ様にもこれ以上のことはわからないとのことだった。
「ジェラール様が悩んでるって? そんなふうには見えないけどな」
宮廷にふさわしくない粗野な言葉遣いのこの男は、フリーファイターのヘクターだ。
「最近はよくオレのところに来てるぜ。レオン様やヴィクトール様の話を聞かせてくれと言うんで、オレの覚えてることをいろいろ話して……
ジェラール様はいつもそれをニコニコしながら聞いてくれてる」
ヘクターの言うことは、他の方々の話とはまったく違った。彼は以前、ジェラール様に対して失礼な態度をとっていた。そのせいでジェラール様は遠慮なさっているのではないか。……私の考えすぎだろうか。
結局のところ、ジェラール様が何を悩まれているのか、明確な答えにたどり着くことはできそうもなかった。
数日後、城内を歩いていると、ジェラール様の姿をお見かけした。廊下の隅でヘクターと立ち話をされているところだった。
「ヘクター。あとで君のところへ行っても構わないだろうか。相談したいことがあるんだ」
「いいですよ。オレなんかでお役に立てるかわかりませんがね」
また何かヘクターが失礼なことを言っていないか心配したが、最低限の礼儀はわきまえているようだ。そのことに安心したのと同時に、私はジェラール様の表情が気になった。
ヘクターと話をされているジェラール様の表情は、とても穏やかで幸せそうに見えた。──まさか、ジェラール様は……
いや、勝手な憶測はやめておこう。ただ、これだけは理解できた。ジェラール様にとって、ヘクターは必要な人間だ。彼の存在がジェラール様の救いになっているのならば、それでいい。
ジェラール様の軽やかな笑い声を聞きながら、私は足音を立てないように、そっとその場から立ち去った。
(END)