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    @HRNZMDY

    千藤

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    連休中だけ載せてる

    #ちーとど
    chitodo

    ちーとど ア、千早っておかしくなっちまったんだ。
     バカなところもあるが、賢い男であると思っていた。藤堂は後ろで繰り広げられる会話を他人事のように聞きながら、髪をほどき、ハーフアップに結びなおした。
     夏休みももうじき終わる、八月の終わり頃。外はようやく暗くなったが、かといって夜の涼しさが訪れるわけでもなく蝉は五月蠅い。部室の大型扇風機を消せば、拭いた汗も一気にぶり返すだろう。
     振り返れば、山田はもう帰りたそうな顔で窓の外を見ており、要は難しそうに眉の間を狭めていた。清峰は相変わらず何を考えているのか分からない顔でグリップを握り、千早だけが、にこにこと釣った目を細めている。
    「……ごめん、もう一回言ってもらっていい? ワンモア」
     要が人差し指を静かに持ち上げる。
    「はい、だから明日は藤堂くんと出掛けるんです」
    「何をしに?」
    「告白する場所を探しに」
    「誰に告白すんの?」
    「藤堂くん」
     バチリ、と要と目が合った。おかしくなっちまってるぜコイツ、と顔に書いてある。そうだ、おかしくなっちまったんだよコイツは。
    「熱中症かなんかでイかれたんだろ、オラ帰んぞ」
     部室の扇風機を消すと、それだけで一気に蒸し暑さが全身を襲った。途端にみんなの動きが速くなり、逃げるように部室から飛び出る。
    「葵っちに告白する場所を、葵っちと探しに行くんだ?」
    「もういーだろ要! やめとけ、バカが移る」
    「本人に聞いたほうが早いかと思いまして。ねえ、藤堂くん」
    「知らん。シューズ買いに行くんじゃねーの」
    「シューズも買いに行きます」
    「ヤマァ~」
     助けてくれ、と視線を送るが苦笑いだけを返された。
     その話題はそれきりで、もうすぐ夏休みが終わってしまう話や先輩方が練習に顔を出さなくなり寂しい話をしているうちに、それぞれの別れ道に着いてしまう。要と清峰と別れて、電車に乗って、山田が降りて、千早と藤堂だけが残った。
     先頭車両の隅に固まって、デカい荷物をなるだけコンパクトに収めるべく、千早のバッグの上に藤堂のバッグを鎮座させる。千早はスマホから視線を外さないまま「明日なんですけど」と切り出した。
    「十時に大泉学園駅で、どうですか。昼食とってから移動する流れで」
    「いいけど、シューズ買いに行くんだよな?」
    「シューズも買いに行きます」
     千早はスマホをスラックスにしまうと、眼鏡を指で押し上げる。ガラスの向こうの大きな目が、静かに藤堂を見上げた。
    「来てくださいね」
    「どうすっかなァ」
     電車がゆるやかに停車する。藤堂はバッグを引っ掴むと、「じゃあ」と短く残してホームに降りた。背中に「また明日」と飄々とした声が投げられる。冷房の恩恵を失った屋外の熱気が、大粒の汗を流させた。大股で歩けば少しは風を感じる。とはいえ別に、涼しくなりはしない。

     今度の休みに買い物に行かないか、と誘われたのは昨日の部活帰りのことだった。清峰や要や山田と別れたあとでわざわざ誘ってきたから、なにか話でもあるのかもしれない、とは思っていた。そうでなくても、たまには二人で出掛けるのもいいかと思って、深く考えずに了承した。そのときは、自主練で使っているランニングシューズがもうダメになりそうだから、新調したいのだと言っていた。
     事態が急展開を迎えたのは、つい先ほどのことである。一年はとっくに帰った頃、要が「明日夏休み最後の休みじゃん? みんなで吉祥寺行こうよ!」と言い出した。藤堂としては、誘って来た千早が良いのであれば、たまにはノッてやってもいいと思って、隣で着替える千早を一瞥した。お前に任せる、とアイコンタクトを送って、おそらくそれは正しく伝わった。問題は千早の回答だ。
     先約があるとかなんとか言えば、藤堂だって話を合わせたのに「すみません、先に藤堂くんと約束してまして。藤堂くんに告白する場所を一緒に探してもらおうと思ってるんですよ」とつらつら抜かしたのである。普通に寝耳に水だ。そんな予定は知らない。

     ただ、千早はおかしくなっちまったのだ。そうとしか言いようが無かった。

     *

     夏は好きだ。大会がある。でも大会が終わったあとの夏にはさほど興味も無く、こんなに蒸し暑い日を続けていないで、はやく秋になってくれやしないかと思う。
     部屋に差し込む日差しが暑い。藤堂の自室にはクーラーが無いから、扇風機が賢明に温風を送っている。
    「にーに、お出かけ?」
     風通しを良くするために開け広げていた襖から、可愛い頭が覗く。
    「おー、ちょっと、…………買い物、に」
    「遅くなる?」
    「どうだろ。飯は作ってあるけど、遅くなるときは姉貴に連絡するわ」
    「……わかったぁ」
     物分かり良い返事だが、眉尻が寂しさを隠せていない。きゅうんと胸が締め付けられる音がして、たまらずしゃがみ込んで両手を広げた。
    「にーにが遅くなるの寂しい?」
    「うん……」
    「じゃここでギューしようぜ」
    「暑いからそれはいい」
     さいですか。
     可愛い頭は容赦なく踵を返し、ぺたぺたと軽い足音が遠ざかっていく。残された藤堂は、床に並べた二セットの洋服を前に仁王立ちした。
     変に着飾って気合い入れてると思われるのも嫌だし、ラフすぎてもなんか、違うだろうか。いや、普通にダチと買い物に行くのだから、ラフであればあるだけいいだろ。本当にそうだろうか。千早ってファッションに気を遣っているし、ラフすぎてダサいと思われるのも悔しい。
     ふと時計を見れば、九時四十分を回ったところだった。団地から駅までの距離を考えたら、もう家を出ないと約束に遅れてしまう。結局黒シャツとデニムの、ラフな組み合わせを選んだ。首元が寂しい気がしてシルバーのネックレスも付けてみる。別におかしくはない、はずだ。
    「葵、足音うるさい」
    「なあこのカッコ変じゃねぇ?」
     気怠そうにスマホを弄っていた姉が、面倒そうな顔のまま藤堂を一瞥する。頭のてっぺんから爪先までを見て「いいんじゃね」と言った。
    「おし、じゃ行ってくるわ!」
    「ドタバタ歩くなって!」
     家を出た途端、熱気が全身を包んだ。階段を一気に駆け下りたところで、出会い頭から汗だくも嫌だと気づく。大股で、なるべく早足で、遅刻だけはしないよう駅に向かった。

     藤堂が駅に着いたのと、千早が改札から出てきたのはほとんど同時だった。こちらを視認するなり、イヤホンをバッグにしまう。
    「おはようございます」
    「……はよ」
     ストライプ柄のシャツにパンツ。私服姿の千早は新鮮で、ついまじまじと見てしまう。センスが良いのか、着ているものが良いのか、着ているヤツが良いのか、藤堂には分からないが、ただ、似合っているなとは思った。
    「昼食、行きたい店ありますか?」
    「特に、なんでも。決めたほうが良けりゃ決めるけど」
    「それなら、前に藤堂くんが言ってたラーメン屋行ってみたいんですよね」
     そんなことを話しただろうか。記憶を辿る。しかし千早とはしょうもない話をした記憶が多すぎてイマイチ絞りきれない。
    「一昨年あたりに出来たっていう、塩ラーメンの」
    「ああ! よく覚えてンな! その話したのだいぶ前じゃね」
    「……まあ、そりゃあ」
     ふい、と千早の視線が逸れる。そうだった、コイツはおかしくなっちまったのだ。
     妙な空気が流れ始めた気がして、切り替えるべく身体を反転させた。
    「こっちだ、行くぞ」
    「ア、ハイ」
     藤堂が高校生になる直前くらいに出来た店は、駅から五分ほど歩いた場所にある。塩ラーメンにしては重たさのあるスープが美味しくて気に入っているが、なんせ少しお高いのだ。藤堂もまだ二回ほどしか訪れたことがない。
     気に入っている店があるが、高くて何度も行けない、と千早にぼやいたのはいつだったか。前回行ったのが冬の頃だった気がするから、そのあたりだろうか。
     胸が妙なそわつきを覚えるのに気づかないふりをして、久しぶりの暖簾をくぐる。昼時前だからか人はまばらで、藤堂が食券機の前に立つと、千早が「出しますよ」と言ってきた。
    「今日は付き合ってもらうので、お礼に」
    「いーよこんくらい」
    「でも」
    「じゃ告白成功したら奢れや」
     ピシャリと千早の動きが止まった気配がした。ざまあみろ、と思わず舌を出す。滅多に来ないから贅沢に煮卵とチャーシューをトッピングに選んだ。
     さっさと店員に食券を渡して空席を探す。いつもならカウンターに座るところを、なんとなく、座席にした。遅れて千早も正面に腰掛ける。
    「藤堂くん、俺のことからかってます?」
    「ハ? こっちの台詞だけど」
     千早の耳が赤い。赤い眼鏡と混じり合ってしまいそうだ。もう一回、ざまあみろ、と思う。
     数分と待たないうちに運ばれてきたラーメンに鼻孔を擽られる。容赦なく煙が千早の眼鏡を襲ったが、今日は珍しく曇らなかった。
    「曇り止め塗ってきたんですよ」
     なにを勝ち誇っているのか、ブリッジを抑えながら教えられる。
    「そんなに食いたかったんか」
    「滅多にこの辺来ませんからね」
     千早はパキ、とテーブルに備え付けの割り箸を綺麗に割る。藤堂は使い回しの箸を取った。割り箸は竹にスープの旨味が吸い込まれていく気がしてあんまり好きじゃない。
     割り箸が豪快にスープの絡んだ麺を持ち上げる。ずず、と綺麗に吸い上げた千早が「おいし」と零すから、なぜかこちらも嬉しくなった。

     腹ごしらえを済ませたら、まずは本命のランニングシューズ探しと思いきや。
    「海行っていいですか?」
    「海ィ」
     水着など持ってきていないと云えば、別に泳ぎに行くわけでは無いらしい。
    「電車で二時間くらいなんですけど、嫌ですか?」
    「まあ、いいけどよ……」
     安堵を含んだような顔で笑って息を吐くから、調子が乱されそうになる。千早とはいつも小憎たらしい軽口を叩く男だから、藤堂の言動で不安を覚えたりなんかしたら、らしくないではないか。
     駅まで五分の道を戻って、改札を通る。
     真昼前のホームは人もまばらだ。影が差す休憩椅子に腰をかける。
     それにしても千早が海とは、意外だ。
     あれはたしか、去年の夏の帝徳戦前の頃だったか。要が海に行こうとゴネたことがある。夏が終わったら計画立ててみるか、なんて話をしていたが、結局、要の人格が智将と入れ替わったり、練習に熱が入ったりで実現はしなかった。
     海行かなかったな、と話を振った藤堂に「正直、海あまり得意じゃなくて」と零したのは千早だ。すぐに「いろいろあって」と誤魔化されたから深入りしなかったが、その「いろいろ」はもう吹っ切れたのだろうか。
     しばらくすれば電車が着いて、千早の後を追う。車内も空いていて、端から一席空けた席に千早が座った。藤堂は一番端の席に腰を下ろす。一瞬汗ばんだ腕同士が触れたかと思うと、露骨に避けられたから、ちょっとムカついて身体ごと千早に傾ける。押しつぶされそうになった千早は、心底不愉快そうな顔でこちらを睨んできた。
    「暑い!」
    「そういや二組の佐倉さ」
    「シカト…… まあ、はい、佐倉くんが、なんです?」
    「春川さんと別れたらしい」
    「エッ」
     つい昨日、部活の合間に佐倉と話す機会があった。佐倉もサッカー部で練習のために登校していて、休憩中の藤堂を見かけて話しかけに来たのだ。
     佐倉と春川といえば、一年の五月から付き合い始めており、つまりは学年最速で誕生したカップルである。こんな短期間でよく好きになれるもんだとしみじみ思っていたが、仲良くやっているところもよく目にしていたから、純粋に相性が良かったのだろう。
    「広めていいっつぅから言うんだけど、上手いことやってそうだったのに別れるもんなんだなぁ」
    「ちなみに、別れるきっかけは……」
    「部活を優先したいからだと」
     小手指高校に強豪と云われる部は無い。強いて言えば、我らが野球部が今年西東京大会で良い成績を残せたくらいだ。では強豪ではない部が頑張っていないかと云われれば、そんなことは無いのだ。
    「佐倉がさ、野球部見てたらもっと頑張らないとって思った、って言っててよ」
     誰しもが頑張りたい場所で頑張れるわけではないし、過ごす場所を決めたあとで、ふと、頑張りたくなったりもするものだ、と思う。
    「春川さんはそれで納得したんですか?」
    「したんだとよ。私も部活頑張るって言ってくれたって」
    「そんなもん、なんですかね」
    「高校生の恋愛なんてそんなもんだろ」
     ジトリと重たい視線が飛んでくる。高校生の恋愛に挑もうとしてる男にする話では無いと言いたいのだろう。正直、話始めたタイミングではそこまで考えていなかった。ふと思い出した話題だっただけなのだ。
    「悪かったって」
    「ほんとに思ってます?」
    「思ってる思ってる」
     ここで幻滅してくれやしないだろうか。千早って、デリカシーの無い人間は好きじゃなさそうだし。でも、しないのだろうな。ここで幻滅する程度の感情を、きっと千早は恋と呼ばない。

     何度か電車を乗り換えて、大泉学園駅から二時間弱。海辺の道を、千早は慣れた足取りで進んだ。ぬるい潮風が頬を撫でる。さざ波の音だけが涼しげで、磯の香りと相まってなんとなく口の中がしょっぱさを思い出す。
     舗装された道を外れ、芝の上に踏み出した千早を追いかけた。歪で不揃いな石たちが並ぶ波打ち際まで進もうとするから、思わず肩を抱き寄せる。
     数秒、動きを止めた千早は、ゆっくりと藤堂を見上げてから、ぱち、と長い睫毛をはためかせた。
    「あぶねーだろ」
    「……そうですね」
     足場が悪い。千早ならそうそう転びはしないと分かっていても、リスクある場所に踏み込ませるべきではない。
     藤堂が後ろに下がるのに合わせて、千早も数歩下がる。「海、平気になったんか」
    「どうでしょう。ここで告白に成功したら、変わるかもしれないです」
    「ふーん」
    「よく覚えてましたね」
     太陽が水面を煌めかせる。きっといま、千早の大きな瞳は美しい夜空の風景画みたいにキラキラとしているのだろう。
    「藤堂くんは、海、好きですか?」
    「ガキん頃一回だけ行ったことあるけど、しょっぱいしそんな冷たくねぇし、フツーにプールのが好き」
    「アハハ、藤堂くんらしい」
     なにがおかしいのか、口に手を当て上品に笑ってらっしゃる。
     滅多に来ないし、妹の土産話に写真でも撮っておくかとスマホを取り出したところで、ふと思い出した。
    「おめェのアイコン、海じゃなかった? 得意じゃねぇのに?」
    「おや、よく覚えてますね」
    「ずっと変えてねーだろ」
     うーんと手を顎にあて、小首を傾げるのが随分と様になる。じ、と視線は水平線から動かないまま数秒、結局「言葉にすると難しいのですが」と教えてくれる。
    「風景としては好きですよ、海。でも得意じゃないのも本当です。厳密に言えば、海に来るという行為そのものに、少し抵抗感があるのかも」
    「昔いろいろあったから?」
    「はい」
    「いろいろ、って、聞いてもいいやつ?」
     聞いておいて、正直自分で驚いた。他人の過去なんかを知ってみたいと思ったのは初めてかもしれない。
    「嫌なら言わんでいい」
     慌てて付け足した言葉は、自分のためだった。
     どうにも、調子を崩されている気がする。なんてったってこんなに胸の内を騒がされているのだろう。隣の千早だって、驚いた顔で藤堂を見上げている。
    「気になるんですか?」
    「わざわざ連れてくるってこった、なんかあんだろ」
     千早が一歩前に出る。また足場の悪い石の上に立とうとしているのかと思ったが、宥めるような顔で藤堂を向いて、足を止めた。そして線の綺麗な腕が正面のあたりを指す。
    「ここで、グラブを捨てようとしました」
     千早が愛用する、形の良いグラブを思い出す。
    「うちから自転車でここまで走って、こんなもの捨てちまえって、振りかぶって、出来なかった、ダサい思い出がある場所です」
     大きな瞳が眩しそうに細まっている。珍しく八重歯は覗いていなかった。懐かしんでいる様子もなく、ただ、ここで起きた出来事を淡々と語る。
    「……自転車で来たのヤバ。やるじゃん」
     千早は不可解そうに眉を顰めながら藤堂を見上げた。なにか言いたげで、聞いてやろうと思ったのに、そのうち表情が緩んでカラカラと笑い始める。
    「アッハハ! こ、この話聞いてそれですか あはっ、ふふ……、藤堂くんと話してるって感じがします」
    「そんなにおもろい?」
     千早が笑うと、たまに幼い子を彷彿とさせられる。普段スかした薄ら笑いで憎まれ口を叩くくせに、存外大きな声でハキハキと笑うのだ。
     釣られて心が綻んで行く心地がしてしまう。
    「だってよ、俺、フツーに家のゴミ箱にぶち込んだもん。妹に見つかって姉貴に返されたわ」
     衝動でゴミ箱に押し込んだ気がするが、思えば見つけて欲しいと言っているようなものだったと思う。だから姉貴は藤堂に突き返したのだろう。
    「なんか小っ恥ずかしいエピソードあるんだろうなとは思ってましたが、なるほどなるほど、ゴミ箱に」
    「なるほど、海になぁ、ここまで漕いで来ちゃったんだなぁ」
     いつもの軽口と同じだ。なのに今は不思議と、馬鹿にされている気がしない。千早に開示したとて恥ずかしい記憶には変わりないのに、眼前に広がる大海のおおらかさが懐かしむことを許してくれているのかもしれない。
    「行きましょうか」
     千早が踵を返すから、藤堂も着いていく。
    「告白しねーの」
     千早は足を止めない。
    「成功したら変わるかもしれねぇんだろ」
     僅かに足取りを緩めると、波打つ海面を一瞥した。そしてすぐに前を向く。
    「藤堂くんと来たかっただけみたいです」
     前を行く赤茶の髪が揺れる。その表情は見えないが、足取りは軽そうだった。

     電車に乗り込んだ。少し混んでいて、座れそうな場所は見当たらない。まだ立ちっぱなしの乗客はまばらだったから、入り口当たりに留まることにする。奥に詰めたって良いが、どうにも藤堂が正面に立つと怖がらせてしまいがちだ。
    「次はどこ行くん」
    「一旦シューズ買って、カラオケで休憩とかどうですか」
    「カラオケぇ? 良いけど、勝率低いぞ」
    「勝率教えてくれるんだ……」
    「てかシューズ、あたり付けてんの?」
     握っていたスマホの画面を見せられる。覗き込めば、スクリーンショットをスクロールしているところだった。
    「ある程度気に入っているデザインや、気になったものはピックアップしてます。ただ最近同じブランドでばかり買っていたので、たまには冒険してみようかな、と」
    「慣れたとこのが走りやすくね?」
    「それはそうなんですけど、もっと走りやすいのがあるかもじゃないですか」
    「まあ、そうか……」
     藤堂自身はわりと気に入ったブランドの気に入ったデザインを買い続けてしまうタチだ。不満が出てくれば選び直すだろうが、そうでないのなら面倒だと思ってしまう。
    「どんなの探してんの」
    「えっと……」
     ゆっくりと千早の口が回り出す。
     印象より低い声は、声量を抑えてもハキハキと聞き取りやすい。よくこんなにペラペラと口が動くものだと思う。薄い唇は軽快に形を変える。
     たとえば──、とかなんとか言ってアルバムをスクロールする。上の方に一瞬、覚えのある金色が見えたが、全容が分かる前にスクロールで戻されて、見えなくなった。
    「──みたいな、感じですかね。希望としては」
    「ちゃんと調べてんじゃん、俺要る?」
    「いります」
    「あ、そぉ……」
     思ったよりパッキリ答えが返ってきてむず痒い。ふと停車に気づいた場所は乗り換えに使う駅で、慌ててホームに降りた。

     姉から暴力的に降りかかる「どっちが良いと思う?」の二択は、必ず外す藤堂である。千早の「どっちが良いですかねぇ」も普通に外した。かの男は「なるほど、こういうのが好みなんですね」とか言いながら、藤堂が選んでいないほうをお買い上げなされた。
     ある程度買うものが決まっていたのもあって、今日の名目であるランニングシューズ購入は、店に入って三十分もかからずに終わった。今は場所を移して、賑やかしいカラオケに来ている。
    「カラオケひさびさだわ」
    「俺も、冬に五人で来たきりです」
    「俺は四月に姉貴に付き合わされたぶり」
     五時間たっぷり、歌と元カレの愚痴を聞かされた。思い出すだけでげんなりする。
     照明の光はそこそこにあげて、冷房を入れる。身体を冷風が包んで心地良い。びっしょりかいた汗が急激に乾いていく気がした。
     千早はJPOPを聞くと耳が腐るらしいが、冬に五人で来たときには普通にJPOPを歌っていたのを思い出す。無難に上手くてなぜかムカついた。
     しかし今日は、どちらもデンモクに手を伸ばさない。L字のソファに腰掛けて膝を付き合わせる。
    「勝率低いのに連れてくるんだ?」
    「嫌でした?」
    「別に。歌わねーの?」
     二時間。火照った熱を冷ますにはちょうど良い頃合いだ。千早は部屋の奥の方に藤堂を座らせた。狭い個室で、部屋から出るには千早の膝を跨いで行かなければならない。
     捕まっているようだ、と思う。
    「藤堂くんは歌わないんですか」
    「じゃデンモクくれ」
     千早がそろそろと液晶前に置かれたデンモクを取り、テーブルに置く。話がしたいならそういえば良いのに。目的もなくランキングを開いて、聞き覚えのあるタイトルたちをただ眺めた。
    「正直、来てくれるとは思いませんでした」
     ぽつりと千早が呟く。部屋に響くアーティストの宣伝が五月蠅いなと思った。歌う曲を探すフリをして、二つだけ、ボリュームを下げる。
    「部室で、宣言してしまったので」
    「おかしくなっちまったんだとは思ったけどな」
    「後を無くしたくて」
    「巻き込むなよ俺を」
    「嫌でした?」
    「ちょっと」
    「それはすみません」
     軽々言われる。あまり思ってなさそうだ。
     個室のドアをノックされた。コーラが二杯、テーブルに置かれる。個室から出て行く店員を見送ってから、コップに手を伸ばした。
    「そういや、外じゃあんまり紅茶飲まねえよな。好きなのに」
    「こういうところのって、紅茶風味の水じゃないです? どうしても記憶の中の本物の比べてしまって残された旨味も感じきれないというか、ならいっそジュースでいいやとなってしまって」
    「あー、はいはい」
     気に入っているタイトルを見つけて入れてしまう。千早がマイクを渡してきたが、受け取ったまま電源は入れなかった。ネオン街が映って、雨に濡れるアーティストが夜の路地に佇んでいる。公式映像付きだったらしい。
     軽快なギターソロから曲は始まる。
    「もう忘れたのかと思ってたわ」
     空気が硬くなるのが分かった。ストローをコップの中で一周させて、カラリとぶつかり合う氷を眺める。
    「忘れてるくせに買い物になんか誘いやがって、ヤなやつになっちまったもんだと」
    「忘れるわけ、ないじゃないですか」
     千早がそう思っていたとして、藤堂には知る由の無いことだ。
    「へえ? 俺はもう次行っちまおうかと」
     瞬間、千早は勢いよく立ち上がる。

     *

     その日の千早は朝からずっと眠たげであった。整った眉を不機嫌そうに顰めて、唇がもにょもにょと動く。最近発売された野球技術の本がおもしろく、つい読み耽ってしまったのだそう。
     欠伸をこらえきれず、両手で顔を覆っては、大きな瞳に涙を滲ませる。
     濡れたビー玉みたいな赤茶が綺麗だな、と思った。
     八月の頭のほう。夏休み中二回だけある登校日で、今日は朝練も無いのにいつもと変わらない時間の電車に乗ってしまった。早朝の教室には千早と藤堂の二人きり。
    「いっそ早くに登校してギリギリまで寝ていようと思いまして。それじゃ、朝礼前によろしくお願いしますね」
     そう言った千早は、席に着くや否や机に突っ伏してしまう。藤堂の返事など聞いちゃいない。
     ちなみに藤堂は、電車に乗った後に朝練が無いことを思い出しただけである。ただの偶然ではあるが、忘れていた間抜けな自分に感謝した。
     誰が見ているわけでもないのにスマホを弄るふりして、隣を盗み見る。背中が穏やかに上下していた。肩と腕の隙間から、さらりとした頬が覗く。形の良い耳すら、藤堂の視線を釘付けにさせた。
     静かな部屋に、寝息が零れ始める。手元のスマホは、無闇にSNSを更新させ続けていた。タイムラインを引っ張って、たまに新しいツイートが出てきて。しかしの一文字も藤堂の頭には入ってこない。
     このまま、誰も来てくれないでほしい。
     僅かに千早が身じろぐ。机の端に置かれた眼鏡に指があたりかけた。落ちたら音で起きてしまう気がして、そっと眼鏡に手を伸ばす。
    「ん……」
     零れた小さい音に耳を灼かれた。
     心臓がバクバクと早鐘を打ち始める。
     眼鏡を取った指は震えていて、音を立てないように自分の机に置くことにすら緊張した。
     例えば二人きりの相手が藤堂でなくても、千早はこんな風に無防備に眠って見せたのだろうか。
     気高い猫科の生き物が油断するのは、自分の前だけがいい。そんな欲を、きっと誰もが抱く。誰もが手を伸ばしたくなる。そうでなければ、藤堂がおかしくなった説明がつかない。
     赤茶が揺れる。耳が天井を向いた。長い睫毛が大きな瞳を隠している。薄く開いた唇が、ダメだった。
     席を立ったのは、そうだ、トイレ、トイレに行きたかった。その道中に寝ている千早がいて、なんとなく、このまま行ってしまって良いのか、迷った。きっとそう。別に、足が床に縫い付けられたわけではない。
     起こしてはならない。
     信頼を裏切ってはならない。
     正常な理性は確かに脳で叫んでいるのに、きっと自分ならば良いのではないかという傲慢が、膝を曲げさせる。
     名前を呼びたかった。どうとなるわけでもないのに、「ちはや」と口を動かすのが好きだ。
     ぱち、と星が瞬くみたいに赤茶の瞳が起きる。
     慌てて背筋を伸ばした藤堂を見上げながら、欠伸した。
    「……ガチで寝てました」
    「あ、そぉ、ま、まだ、時間、あるけど」
    「夢も見た気がするんですけど、ほんとだ、全然時間経ってない」
     いそいそと自分の席に戻る。それから後悔した。トイレに逃げればよかった。
    「あれ、眼鏡……」
    「こ、こっち、落としそうだったからよ」
    「ああ、ありがとうございます」
     藤堂の机から眼鏡を取って、鞄から眼鏡ケースを取り出す。
    「まだ寝るんか」
    「はい。午後の練習に支障きたしたくないので」
    「ふーん」
     スマホの画面を付けて、閉じて、付けて。意味も無くラインを開いて、ツイッターを見た。
     ふと、すぐそばに気配を感じる。
    「ところで」
     印象より低い声が降ってくる。スマホの前を手が覆って、そのまま画面を机に伏せられた。揺れたネクタイが肩にあたる。
    「あんなに近くで、なにしてたんですか」
     冷房が効いた教室で、とっくに身体の熱も引いたはずのに、じんわりと全身に熱が籠もっていく気がする。熱いのに、背中は冷えた。
    「め、眼鏡を」
    「自分の席から届きますよね」
     寝込みを襲うなんて、と囁かれた言葉に汗が止まらなくなる。
    「藤堂くんらしくない」
     咄嗟に顔をあげる。想像よりずっと近い場所に千早はいて、線の綺麗な二重が力強く開いている。眼鏡を介さない力強さに、吸い込まれて行きそうだった。黒目の中で藤堂は唖然と間抜け面を晒している。
     熱さのせいか千早の頬は紅潮していて、八重歯が下唇を押し込んでいる。
    「わり、その、そういう、つもりじゃ」
    「……どういうつもりですか」
     机に置かれていた指が、藤堂の首筋を撫でる。喉仏を辿って、顎を緩く持ち上げられた。
    「期待しますよ」
    「き、期待」
    「ええ」
     唇を親指に撫でられる。犯行予告のようだった。
    「千早」
    「はい」
     とっくに藤堂はおかしくなっちまったのだ。
     手を伸ばすことが許された。高揚だけが心臓を覆っている。
    「俺っ──」
    「ダメです」
     優しく手で口を覆われた。
    「寝込みを襲った罰です。俺から言わせてください」
     ふてくされた子どもみたいに言い残して、千早は藤堂から離れていく。
    「……部室で寝ます」
    「熱中症になるぞ」
    「扇風機付ければ大丈夫でしょ」
    「千早」
    「それじゃあ」
     何事もなかったように教室から出て行く千早を、追いかけられなかった。冷房などとっくに切れてしまったように全身が燃えている。
    「……今じゃないんかい」
     静かな教室に、その声はやけに響いた。

     *

     一年前の話である。
     そのときはまさか、独り身のまま一年の二学期を迎えるとは思っていなかった。
     藤堂の足の間に片膝を置いて、頬を包む両手は僅かに震えている。薄暗い室内で、影を落とした千早の顔には、白目だけがぎらぎらと浮かんで見えた。
    「次?」
     地を這うような声に心臓を掴まれた。
    「引きずっても仕方ねぇだろ」
    「次の、当てがあるんですか」
    「さあ?」
     当然あるわけがない。とっくに千早におかしくされちまったのだ。千早に手をくだしてもらわなければ、きっともう戻れない。
    「もう『次』じゃねーかもな」
     藤堂に下された罰は、その権利の剥奪である。どうせこんなに待たせるなら、拒否権まで奪ってくれたら良かったのに。
     賢い男が瞳を揺らしているのは気分が良い。
    「それで、テメーはなんでカラオケなんかに入ったわけ」
     頬を掴んで離してくれない千早の手を包む。
    「待たせたくせに不安になった? 二人きりのとこで、やらしー空気にして、イけるか試したかった?」
     千早はなにも言わない。言えない。よく回る口を黙らせるのは気分が良い。物言わぬ代わりに、顔に添う指には力が入る。
    「ほらよ」
     目を瞑ってやる。口の端を指が撫でた。
     なにかを堪えるみたいに吐き出された息の音がよく聞こえる。気配が近づいたのを見計らって、また目を開く。獰猛な肉食獣の瞳がすぐそばにあった。咄嗟に逃げないように堪えながら、無理やり口元で笑う。
    「俺には罰くれたのに、しちゃうんだ?」
     千早の腰を撫でる。ぐ、と眉間に皺を寄せるのすら、様になる男だ。
    「どうぞ? 好きにしろよ、流されてやる」
     顎を少し持ち上げる。鼻先が触れた。
     瞬間、千早は大仰な舌打ちを部屋に響かせ、藤堂から飛び退くように離れたかと思うと、どかっとソファに腰を下ろした。らしくない荒々しい振る舞いが、まあ、良い。
    「わははっ、なに怒ってんだよ」
    「怒ってません!」
     膝に肘をついて、指の甲で頬を凹ませる。
     それから深く長い息を吐いた。
    「……キミの歌を聴きたかったからです、本当に」
    「ふーん?」
    「二人きりになりたかったのも、嘘じゃないですし、ちょっとだけ、……そういう、雰囲気になればいいとは、思いましたけど」
    「スケベめ」
     ぐう、なんて可愛らしい呻き声をあげてらっしゃる。
    「……もしかして、俺ってもう、とっくに、ずっと勝率ゼロだったりしますか」
    「さあ? そりゃ言えねえよ。そういう罰だもん」
     さて千早は藤堂の歌が聴きたかったらしい。そう言われると嫌な気はしないので、さっそく十八番を入れてやる。 千早といえば、もの言いたげな顔で藤堂をジッと見ていた。やはり賢い男を転がすのは気分が良い。

     二時間たっぷり歌って、店を出る頃には空も陽の光を落ち着かせ始めていた。
    「今日って、遅くまで時間大丈夫ですか?」
    「何時まででも」
     ぐう、と伸びをする。空気が籠もった個室に居たから、体内の酸素を入れ替えると気持ちよかった。
    「このあと、うちに寄りたいです」
    「……」
    「連れ込むわけじゃないです!」
    「なんも言ってねーよ」
     別に連れ込まれてやってもよかったのだが、そうではないらしい。
     ぷりぷり肩をいからせながら歩く千早に付いていく。
     夕方ともなれば働き人や学生の帰宅ラッシュと重なって、電車の中はすし詰め状態だった。千早を壁側に押しやって、人混みの盾になる。こうすると千早はいつも難しい顔をするのだ。あからさまに藤堂が壁になるから、嫌なのだろう。藤堂だって逆の立場なら嫌だ。惚れた相手に守られるより守りたい。嫌なのだろうな、と思いながらこうすることをやめられない。
     特に会話を交わすこともなく、富士見台駅に着くなり人混みから押し出されるようにホームを降りた。
    「多かったですね」
    「な。でも中のが涼しかったわ」
     千早が済むマンションは、駅から十分も離れていない。
     相変わらずどでかいマンションである。帰宅するのにエレベーターを使うのがまずスゴい。こちらの団地は四階までしっかり階段だ。
     玄関に通される。ただいまも言わないあたり、家族はまだ誰も帰っていないのだろう。
    「荷物入れ替えてきます」
    「おお」
    「上がって少し休みます? 次の場所、すぐそこではあるんですけど」
    「待ってる」
     小走りで家の奥に向かう。すう、と息を吸えば、当たり前だが慣れない香りがした。胸がざわつきそうになって、慌てて呼吸して、千早の家の匂いを感じてしまって、悪循環に陥る。外で待たせてもらえばよかった。
     藤堂の心境など知らぬ千早は、何食わぬ顔で戻ってくる。買ったばかりのランニングシューズの代わりに、手にはバケツが握られている。
    「……バケツ?」
    「花火、いかがです?」
     悪戯が成功した子どもみたいに八重歯を覗かせた。

     マンションの裏手には公園があった。住宅街の真ん中で火気厳禁じゃ無いとは珍しいのではないか。
     水飲み場でバケツになみなみ水を注ぐ。手持ち花火なんて、まだ母が生きていた頃以来だ。バケツの隣に置かれた花火にはでかでか「ファミリーセット」と書いてある。袋を破って、適当に二本取り出した。
     一本を千早に渡す。
    「おし来い」
     ライターを取り出した千早に花火を向けると、呆れた顔で眼鏡をかけ直された。
    「蝋燭とか線香を介すんですよ」
    「ア、そうだっけ?」
    「危ないでしょ、ここから直で火ぃ付けたら」
    「たしかに」
     付属のキャンドルに点火する。幸い風が少なくて、すぐに消える心配もない。
     今度こそだ。千早に先に促されて火薬部分を炎に寄せる。数秒後、バチバチと音を立てて勢いよく火花が飛び出した。
    「おおー!」
     続けて千早も火を付ける。
    「あは、すごい勢い!」
     これが童心が疼くというやつか。両手に持って駆け出したくなる。火花はまたたく間に色を変えた。煙たい香りが鼻を擽る。しかしすぐに、光は小さくなり、弾ける音も消えた。戻ってきた暗がりと静寂の中で、顔を見合わせる。
    「……全部の指に挟んで良い?」
    「俺はソレ両手で行きます」
    「アツすぎる……!」
     わいのわいのと袋に群がる。ぱっと見勢いがありそうな花火を適当に選んで、点火しては指の間に挟んで持つ。
    「やばいやばい間に合わん」
    「アてか片手完成したらもう片方の指に挟めない」
    「そうじゃん、ばか、あっ、千早見ろこれかっけえ!」
    「強そう……!」
    「これエグくね! めっちゃ長いんだけど。ライトセーバーだろこんなん」
    「こっちのすごいですよ花火ってか火すぎる!」
    「すっげえ火じゃん!」
    「高速で動かしてなんか描きましょうよ」
    「ボール描こうぜ」
    「ただの丸じゃないですか……!」
    「ボール以外うんこしか描けそうにねえ」
    「文字とかあるでしょ」
    「AOI行くわ」
     千早が構えたスマホに向けて腕を大きく動かす。二画目が意外と鬼門で結局一本では到底成功しなかった。
     人のいない公園で、たまに声が大きくなりすぎて慌ててシィと人差し指を口元にあてる。シン、と静寂が訪れることすら、なんだかおかしくて仕方がない。
     千早の手元で、線香花火によく似た火花が、色を変えながら燃えている。火の明るさが眼鏡に反射していた。そのうち、火は燃え尽きて、炭が落ちる。容赦なくバケツに放られる様がやけに儚い。
    「あら、あと線香花火だけですね」
    「どっちが長いか勝負しようぜ」
    「いいですよ」
     一本ずつ取り出す。キャンドルを囲んで、せーので火を点けた。一瞬だけ藤堂の線香花火のほうが早く点いただろうか。微々たる差である。
    「藤堂くん」
     静かに弾ける火花みたいに、か細く名前を呼ばれた。しかし藤堂の耳をそれを聞き逃せない。
    「おう」
     忘れていた夏の熱さがじんわりと背中を覆う。線香花火を持つ手が震えないよう抑えるのに必死だった。
    「好きです」
     千早はもう、線香花火を見ていない。まっすぐと藤堂を見ているから、藤堂も顔をあげなければならなくなる。
    「付き合ってください」
     大きな瞳が真剣に藤堂を射貫いている。この目が、好きだ。一等好きだ。
    「……どうしようかな」
    「どうしようかな」
     跳ねるように千早が立ち上がるから、線香花火は勢いに振り落とされ、儚く地面に散ってしまう。
    「おっ。俺の勝ち」
    「俺の勝ち、じゃなくて!」
     間もなくして藤堂の線香花火も落ちた。
     少し強い風が吹いて、長らく灯り続けていた蝋燭の火が消える。公園の灯りは届ききらず、暗がりに蝉の声が聞こえ始めた。
     藤堂は花火が入っていた袋を覗く。線香花火はまだ二本、残っていた。
    「本当は、あの日の帰りに、告白しようと思っていました」
     ぽつりと千早が零す。バケツとキャンドルを持って近くのベンチに向かう藤堂に、千早は黙って着いてきた。
    「せっかく伝えるならプレゼント用意した方がいいかな、とか、もう少し、良い場所で伝えたいとか、いろいろ、考えているうちに」
    「一年もかかったわけだ」
    「時間が経つにつれて、当然藤堂くんと過ごす時間も増えるわけで」
     足の間に投げ出された指を絡めては解いて、なにかを言い淀んでいる。言い訳をしたくないのだろう。しかし理由は話したほうがいいと思っている。悩める猫科の瞳は、地面を走る蟻を追いかけていた。
    「言えよ、ぜんぶ」
    「……、もっと、藤堂くんのことを好きになって、見合う男になってから告白したいとか、欲が出てきてしまって、そのうち一年も待たせてしまって」
     乱暴に頭をかきむしる珍しい仕草をして、それから深く息を吐いた。
    「もう、待たせられないと思って、勢いで買い物に誘って、勢いで部室で宣言しました」
    「わははっ、結局勢い任せになってんじゃねーか」
     普段は凜と伸びる背中が丸っこくなってしまっている。両膝に肘をついて組んだ手に額を押し付けながら、また大きな息を吐いた。
    「今日、いろいろ付き合わせてすみません。本当は海で告白するつもりだったんです……、景色、綺麗だし……」
    「え、そうなん」
    「でも自分の思い出の場所を藤堂くんに押し付けるのは違うかなとか、そもそもこういうのって一日の最後に言うもので序盤の中途半端なタイミングはおかしいんじゃって思ったら今日の計画総崩れで……! そもそも組んでたプランがもう付き合ったあとの前提だったんですよ……!」
    「おもろすぎる」
    「お、おもろ……」
    「何パターンか用意して「不測の事態にも備えてます」とか言いそうじゃん」
    「俺の真似ですか? に、似てなさすぎる……。今朝は完璧だと思ってたんです。その、深夜テンションってやつで……。でも、海へ行く途中の電車で、急に、絶対違うって気づいて」
    「俺は楽しかったけどな」
     そろそろとこちらを見て、ぐっと唇を閉める。
    「ああ、きっと俺は、お前とならなにやっても楽しいんだろうなって、思ったよ」
     例えば海で告白されたとしても、あのラーメン屋で告白されたとしても、嬉しかっただろう。なんと言ったって、こちとらもう、おかしくされちまっているのだ。
    「……それなら、よかったです」
     千早は立ち上がると、藤堂の前に跪く。漫画みたいなシチュエーションがつくづく似合う。ポケットから取り出した小箱を差し出された。暗がりの中で耳まで赤いのが分かってしまう。
     ゆっくりと開いた小箱の中には、シルバーのリングが二つ。サイズを見るに指輪ではなさそうだが、このシチュエーションにまっとうにときめいてしまっている自分がいて、つい顔を緩ませてしまう。
    「藤堂くん、好きです。付き合ってください」
     無意識のうちに手を伸ばしていた。小箱を支える手を包んで、握る。
    「俺も、好き」
     ずっと言いたかった。あふれ出して、言葉が止まらなくなる。
    「好きだ、千早」
     ベンチから立ち上がって、藤堂も膝をついた。揺れる瞳をもっと近くで見たくて顔を寄せた。柔く額が触れあって、熱がじんわりと広がった。熱帯夜だというのに熱さに不愉快さはなくて、握った手を離したくない。
    「やっと言えたんだけど」
    「面目ないです……」
    「わはは」
     差し出されたリングは、フープピアスだろうか。
    「私服で会うときも着けているのを見たことがないので迷ったんですけど、似合うと思って」
    「確かに全然着けねえわ」
     ベンチに戻る。シンプルなシルバーだが、よく見ると細かいレースのような意匠が彫られていた。目が利くわけではないが、上等な物のように見えた。
     ピアスを着けないのは、昔着けたまま寝てしまって少々グロテスクなことになってしまったからだ。それ以来面倒で、よほど気が向かないと付けていない。
     もともと勢いで自傷のように開けた穴だから、ここを飾る意識もあまりなかった。安全ピンで適当に開けたピアスホールに、随分と上品なものが贈られてしまったものだ。
    「てか、よく気づいたな、開いてんの」
    「……そりゃ気づきますよ」
     千早の手がゆっくり伸びてくる。髪を耳にかけられて、そのままピアスホールを親指が撫でた。
    「あの、俺が付けてみてもいいですか」
    「どうぞ」
     骨張った指がフープピアスを開く。
    「い、いきますよ」
     ごく、と大仰に喉を慣らすから、釣られて藤堂も緊張してしまう。そんなに肩を張らなくてもいいのに。見ていたら胸が跳ねているのがバレそうで、つい目を瞑った。
     千早の指が耳たぶを柔く摘まむ。先端がゆっくりホールを通った。
    「痛くないですか?」
    「大丈夫」
     カチ、と閉まる音がする。そのまま千早の気配が反対隣に移動する。吐息が首にかかって、思わず肩を揺らしそうになった。どれだけ近くで見ているのか、完全に千早の緊張が移されてしまったらしい。
    「……できました」
    「ん、似合う?」
    「はい」
     自分で耳に触れる。見た目の割に重さはない。
    「ありがとな」
     お返しも考えなければならない。癪だが、外したくないし姉に相談でもしてみようか。
    「なあ、キスしていい?」
    「き、きす」
    「嫌?」
    「ヤ、じゃない、です」
     けど、と続けた千早は、ポケットにしまい込んでいたスマホを取り出す。ちらりと時間を確認すると、藤堂から表情を隠すように眼鏡フレームを押し上げた。
    「まだ、両親帰ってなくて」
    「……おお」
    「線香花火、最後のが終わったら、……うちに……」
     最後のほうは消え入りそうな音で、その意味を理解するのに数秒かかってしまう。長い沈黙のあと、突然気づいてしまって、バカみたいに顔が熱くなった。
    「ッ……! ぁ、……、わ、……わかった……」
    「ありがとう、ございます……、……」
     千早がいそいそとキャンドルに火を付け直す。
     しゃがみ込んだ二人の間で弾ける線香花火は儚くて、震える手を嘲笑うみたいにあっけなく地面に落ちた。風情を感じる隙もない。
    「あ、も、もう、終わっちゃいましたね」
     自分から誘っておいて、困ったように笑う男に胸を締め付けられる。もうしばらくのおあずけがもどかくて仕方がなかった。
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