小鳥の唄サンクレッドが室内に一歩踏み入れた途端、鼓膜をくすぐったのはご機嫌なソプラノだった。小鳥のように体を揺らし、桜色の唇で民謡を歌う少女。その姿を見つけた青年は微笑ましそうに目を細める。
お土産のお菓子を恭しく掲げながらアシリアの目の前に行くと、彼女はぴたっと歌を止め、まんまるい両目で神妙そうにサンクレッドを見上げた。数秒の沈黙の後、銀髪の青年はほんの少しだけ呆れたような、吐息紛れの笑みを零す。
「アシリア王女、本日お持ちしましたデザートはウルダハで大流行の逸品でございます」
端正な顔立ちをした青年はまるで執事のような恭しさで傅く。その振る舞いに、王女と呼ばれた少女は鈴を転がすような愛らしい笑い声を挙げた。
「嬉しいわ、ありがとう、サンクレッド!」
サンクレッドの手のひらより小さな両足をぱたぱたさせてから、アシリアは玄関に積まれていた木箱から軽やかに飛び降りる。幼い少女の背丈にも近い高さからだったが、ふんわりとスカートをはためかせながら軽い音をたてつつ着地する彼女の姿は雛のようだった。
アシリアが得意げに差し出した手を、サンクレッドが硝子細工に触れるよりも優しく取る。毎年一日限りの執事と王女は同時に破顔し、そして一緒にテーブルに着いた。
ごっこの主従だが、二人ともそれで構わないと思っていた。少女は兄のような青年を自由を束縛したいとは思っていなかったし、青年もまた、妹と呼ぶにはまだどこか遠くに感じる少女が、自分のような人間の主になるような残酷な事を願いたくはなかった。
*
そうだ、俺の願いはその程度のものだった。
俺は、アシリアにーーミンフィリアに、自由に、普遍に、ただ幸せでいて欲しかった。
この世界を、人々の営みを、すれ違う命のささやかな幸福を守るために、己の命を天秤に載せもしない。そんな逞しさと美しさを持った女性と知っていたのに、どこかでその事実から目を逸らしていた。
女の子のための祭日に取った手の温もりを今でも覚えている。大空に羽ばたくにはまだ頼りない、柔らかくて小さな羽。あどけなくていとけない純真な微笑み。それら全てが様変わりしていたことを、俺は終ぞ受け入れられなかった。
彼女は俺が守るべき女性だった。けれど、俺は彼女の庇護したい世界の一部でもあった。それだけの事。
俺の手は彼女に届かなかった。俺が追いかけるより先に、彼女の双翼は強く羽ばたき、大空へ浮き上がり、青に溶けた。……それだけの事。
幼い頃のように、大人になった君にも恭しく手を伸ばせていれば良かっただろうか。普通の女の子のように、君の幸せを願っていると、そう伝えられていれば何か変わっただろうか。
そう思う度に、俺はただ苦笑する。そんな訳が無い。これは、彼女にとってはきっとただ重いものでしか無かった。
ざわめく街の中を進み、かつての思い出が残る部屋を覗き込む。祭日が来る度に俺はただ、もう会えない人のことを想うだけ。
もう聞こえない小鳥の唄に想いを寄せるだけ。
end