「愛しく感じろ!!トキメケ!!オレに!!!」むつぼし
瞼を開けると太陽の光が目を焼き、潮風が吹き抜けた。デッキにはハートのクルーと麦わら一味と侍たちが外の空気と解放感に喜んでいる。
始まりの時から変わっていない。
戻ってきたのか?おれの世界に。ローは即座にゾロを確認した。
ゾロはハートのつなぎを着ていないし海軍の制服でもない。子供でもない。片目だ。死んでもいない。
あとはまたネジが外れた己が現れないかということか。
ペンギンとシャチがデッキに出てきてベポやウソップたちに声をかけていた。それから二人はローのもとに来て報告を始めた。近海の様子やカイドウの情報を報告する姿に、ああおれの世界だと実感することが出来た。
どっと疲れが体中を巡った。
ローは二人に情報が足りない箇所を指摘し、30分以内に集まらないようなら出発すると告げ、その間ローは仮眠を取ることを伝えた。「アイアイキャプテン!」と敬礼するペンギンとシャチの後方にゾロが見えた。侍たちと麦わら一味とハートクルーたちも何人か混じって話をしていた。どっしり構えた姿と合わない視線にローは安堵を覚えていた。
潜水艦が深水している。
泥の中を歩き続けるような目覚めだった。体中が休息と睡眠を求めていた。余計なものはないローの部屋だ。匂いも体温も自分のものだ。潜水艦の音以外の余計な音もない。これが正常だ。
ローはローの通常に戻ってきた。
結局ローが別の世界を渡った理由も原因もわからないままだ。そしてあれだけの日数を別世界で過ごす羽目になったにも関わらず、戻ってきた世界は数秒しか経っていなかった。光の速さで別世界を移動していたとでも言うのか。
映画は終わった。見終われば全てがゾロに関わっているのも偶然ではないのだろ。そしてラストシーンがないのだ。映画のラストが訪れる前にぶつりと映像が途切れて馴染み深い闇が画面を塗りつぶした。ローは昏い映画館の椅子に一人腰掛け、一人取り残された気分だった。
勿論映画館などこの世界にあるわけもないので全ての記憶と感情を海底に沈めてしまえばいいのかもしれない。白昼夢でも体験したと嗤えばいいのかもしれない。
しかし朽ちることなく、溶けることなく、様々な世界は存在し続けるので厄介この上ない。
ゾロが死んでいないだけましか、とローは頭を振って起き上がった。
何一つ足掻けない世界があった。何一つ気にくわない世界があった。もとの世界に戻り、ローはワノ国への航路を再開した。ゾロとは同盟相手でしかない。何度も確認して、勘違いを起こさないように自分に念を押し、薬品の瓶がしまってある棚を開き奥から酒瓶を取り出した。
潜水艦はワノ国への航路を再開した。
これからは海底に潜る日々が続いていく。
「おれがいない間に変わったことはなかったか」
「ん?ああお前が仮眠している時か?問題なかったぜ。」
ローの秘蔵の酒にゾロは大喜びした。にこにこと眦を下げてぽやぽや笑うゾロにローは胸が一杯になる心地がして頭を振った。
「変なヤツが来たりしなかったか?」
「問題ねえぜ。平和すぎて欠伸が出るっての」
「お前はいつも欠伸がでてるだろうが」
ローが探りを入れたのはローが別の世界を渡っていたように、この世界にも何処かのトラファルガー・ローが訪れているのではないかという猜疑ゆえだ。ベポにも確認してゾロと同じような反応だったのでその線はないのだろう。安心してしまう理由が、最後に渡った世界のペンギンの言葉が蟠っているからだということは分かっている。
ゾロは、当たり前だが変わりない。
変わってしまったのはローだった。ゾロと一緒に酒を飲むのは初めてでもないのに、気持ちが浮わつき取り繕うことさえ出来ない。此処に来てハートのクルーたちのプレゼンが功を奏し初め、ローには頭痛の種だ。いや死んだゾロの世界を見てきてしまったから生きているゾロを意識せざるを得ないのか。
恋人というゾロも、上司というゾロも、片思いを隠していた子供のゾロも、ハートのクルーだというゾロも、皆、ローを特別に思い優しさや愛しさを片目や両目に乗せてローを見ていた。愛なのか呪いなのか最早わからない。
そうして現実のゾロが、嬉しそうに笑うのは酒だ。今も上機嫌だがそれはローが居るからではない。酒があるからだ。いとしさの、いの字の部分もローに向けられることはない。微塵もない。「もう飲まねえのか?トラ男?」と伺っているように見えて「おれが全部飲んじまうぞ」という主旨が見えすぎていた。
あまりの温度差に、ローは混乱した。こんなに何もないのか?何もなかったか?現実は?!おかしくないか?平然としすぎだろ?おれが隣に居るんだぞ?片思いのゾロなんてワタワタして顔を赤くして可愛いもんだった。年上のゾロだって擽ったくなるほど優しい目だった。なのに!!!お前は!!!なんでそんなに何もないんだ?!
愛しく感じろ!!
トキメケ!!オレに!!!
そこまで考えてはっと己を振り返った。あれだけただの同盟関係のゾロがいいと納得していたのに、それがロロノア・ゾロだと前の世界のゾロを拒絶までしたのに、今、何を考えた?トキメケ?どんなツッコミをいれてんだ。信じられねえ。支離滅裂だ、毒されているあいつらに。やはり呪いかもしれない。
何度も軌道を修正しようとするローに反して暴れまわるエゴは何なのか。
頭を抱え始めるローを横目に見ていたゾロはグラスを置いた。
「ごっそさん」
立ち上がろうとして着流しが衣擦れの音をさせた。酒はまだ半分は瓶に残っている。空の部分にあった液体は殆どがゾロの腹の中だ。しかし飲み干す前に席を立とうとするなんて腹でも痛いのか?不審な目つきをゾロに向けたローにゾロは「お前だろ」と呆れたような顔をした。
「なんか、調子でねえんだろ。酒でも飲んだら気が晴れると思ったが、やっぱ寝たほうがいいぞ、お前。ここいらの海は問題ないんだろう?戦力ならおれたちも侍たちもいんだし、任せろよ。とにかく寝て来い」
瞬間、ドレスローザの宴で肩を組んできたゾロを思い出した。その後のゾウでもローの傍を離れなかったゾロを。
『麦わら屋は仲間だろ?おれなら絶対、ローを放っておけないと思うぜ』
『お前が信じる道を行くならそれがおれと関係なくていいんだ。そこは勝手におれが行くさ。』
そう言った白いつなぎを着たゾロがローの背を押した。
あまりに自然体でゾロはローの傍にいたものだから、ローは勘違いしていたのかもしれない。そこには何もないのだと、ゾロに根差すのは野望とルフィとの絆だけだと。
『はあ?てめえ、人のこと散々コケにしやがったくせに、てめえが一番ふざけてんだろ!!!』
これまで渡ってきた世界のローたちがここぞとばかりに中指を立て罵声を浴びせる。『不能』『てめえがゾロを拐かしたヤロウか』『ヘタレ』『麦わら屋より馬鹿だろ』と聞き捨てならない言葉の数々にローもブチ切れた。何人ものローによる罵り合いを越えた地獄絵図が次元を飛び越えて開始されようとしてた。
「おい、トラ男?大丈夫か?」
額や腕、手の甲に血管が浮き出ているローの相貌にゾロは慌てたように近寄った。墨が充たすローの手の甲にゾロはそっと手を重ねた。あたたかさと皮膚の硬さが伝わる。ローより小さな手。ローは現実に意識を戻し息を詰めてゾロを見詰めれば、ゾロはきょときょと片目を瞬かせ、次に重なる両手に視線を下げると長い睫毛がくっきり浮かび、どっと朱を頬に走らせていた。
「わ、悪ぃ」
ばっと手を遠ざけ背後に隠すゾロはやっちまったと顔に書いてあった。は?こんなゾロ屋を今まで何処に隠してたんだ?
心臓がけたたましく騒ぐのでローの血行もよくなっていた。
『不能』『どこが男前だ』『ヘタレ』『麦わら屋より馬鹿だろ』『おれのくせにヘタレとかありえねえ』『コラさんとゾロは目が悪すぎだ』『あれだけ人をヘタレ呼ばわりしてこのおっさん』『馬鹿でヘタレとか、トラファルガー・ローの名を捨てろ。一緒にされたくねえ』『こいつが一番勝手じゃねえか』『こんなのと比べられて腹が立つんだが?』『こんなおっさんを相手にするゾロ屋が不憫だろ』『八つ当たりのクソ拗ね野郎とか終わってんな』
うるせーーーーー!!!!!
別世界のトラファルガー・ローを切り刻み、ローはゾロに集中した。
「ゾロ屋」
「くそっ。てめえに迷惑はかけねえよ。ってか自分でもよくわかってねえんだ。こういうのは苦手だ。」
「お前、おれの傍にいたのか?」
「自分でも理由はわからねえが、おれがそうしたかった。だからお前は気にすんな。同盟相手としての分別はつけられる。」
片腕で赤くなっているだろう部分を覆いながらもゾロは真っ直な瞳でローに答えた。反射的にローはゾロの腰を抱き丸い後頭部を引き付けた。至近距離で見つめ合っても平然としているくせに先程の手が触れあったときには赤くなるのだから、ゾロの恥ずかしがる基準がよく分からない。こんなところも普通とはズレた感覚を持っているのだ、恋心がこんなに分かりづらい男もいないだろう。
などと自分を棚上げしてローは思っているが、ルフィとゾロの絆を眩しく思っていた自分から目を逸らしていただけだということも認めていた。そしてコラさんの本懐と遂げるために生きてきたローは自分自身の感情と深く向き合ったこともなかった。そんな余裕もなく、今まではそれでよかった。しかし自由になった今、ローはようやく自分の心と向き合った。その時間が別世界を旅する時間だったのだろ。
もうとっくに愛していた。ロロノア・ゾロという男を、その生きざまを。ローの中で暴れていたエゴが静まり、止まっていた映画が一点の光から徐々に集まりだし形を結ぶ。
『愛したんだ、その愛も呪いも苦しさも可愛さも全て奪って喰らってやる。』
はたしてどの世界のトラファルガーローの台詞であったのか。
『ロー、お前はお前が決めた道を信じて進めばいい!』
ありがとう、コラさん。
「ゾロ屋、おれはお前が特別だ。おれが初めて惚れたのはお前だ、お前が麦わら屋の仲間でも関係ねえ。おれはお前しか欲しくねえ。お前が好きだ。」
どれだけ固まっていたかゾロ自身にもわからない。
つまりゾロは惚れた腫れたという感情を言葉として理解できない。体験したことも学んだ事も興味を持ったことも無いので自分に落とし込めない。これまでずっと愛とか恋とか惚れたとかは自分とはかけ離れた遠い処で起こるものだと思っていた。すべて人事だった。他人から向けられる好意もゾロには届かない。
しかしゾロは鈍いとよく言われてしまうが、人の心や真意は察することに長けた男なのだ。
ローがゾロを好きだという、それは理解できない。
しかしローがゾロを特別だと言うことは、ゾロに注ぐ瞳の真っ直ぐさや瞳の奥に灯る炎でわかった。ドレスローザから見ていたいと求めたローの瞳の炎だった。
「好き、ってのが、おれにはわかんねえ」
「なら何処までならおれに許せる?」
「ゆるす?」
「ああ。おれはてめえをおれの船に乗せたい、おれのものだけにしたい、ああ、そうだよ、出来るならおれの刺青だっていれてやりてえよ。全部奪ってやりたい。けどな、お前がお前らしく生きる姿も好きだ、お前には笑っていて欲しいしな。だからその辺りは許してやる。他は譲らねえ」
突然顕わになるローの激情。ゾロは誰より気配に聡いのでローが視線をゾロに向けていない時に、ローが何かに集中している時にローのことを眺めていた、それはゾロの無意識でもあったし気に懸けていた時もあった。だからゾロはローがクールぶった外面に反して激情を抱えたヤツだと知っていて、しかしそれが自分に向くなど考えたこともなかった。心臓が兎のように跳ねて冷静ではいられなかったがゾロは律儀に考えた。
「おれは剣士だ。何も残せねえし、何かをしてやることもできねえ。ましてや一緒にいることもできねえ。」
言葉を句切りゾロは目蓋を閉じた。目蓋の裏は闇で染まる。剣を構えて一人立っている姿を思い浮かべる。自分を真っ直ぐに立たせるのは親友との約束で在りルフィとの約束だ。そして仲間たちの存在だ。眼前にはミホークを見据える。そこにはローは勿論いない。それならローには何が許せるのだろうか。
「おれにはおれの野望がある。誰にも寄りかかる気はねえ。お前でもな。」
「そこはわかってる。おれだってそうだ」
「ああ、立派だった。お前は格好いいよ」
ゾロのドレスローザにおけるローの評価を初めて聞いたローは狼狽えていた。ゾロもまだ理解していないだけでローへの深い情を持ち合わせていた。
「おれはおれだから、おれの生き方は誰にも触れさせねえし干渉も許さねえが、おれの中に、深いところに、お前の椅子くらいは用意できる。一つだけだ。お前の分だけおれの中を空けられる。・・・、言っててよくわかんねえけど。そんな感じだ」
最後は投げやりになってゾロは腕を組んでふんぞり返った。片目は風が吹き抜けた後の清さを称える。ローはゾロを抱き締めて腕の中のぬくさを堪能し、目蓋に唇を落とした。ゾロは気まずげに腕を持ち上げて背中に回した。互いの決意をどちらも感じていた。ゾロの瞳に、ローの背中に。
「そこにおれをいれろ」
「わかった」
「おれだけだぞ」
「おれの中はお前をいれるだけで精一杯だっての。もう死ぬまでお前だけだ」
灰と血痕になったゾロが不意に蘇りしかしこのゾロは最後までローの居場所を抱えて生きていくと言うのなら、ローは最後まで歯を食いしばって足掻き続けるだけだ。この世界で、この海で何一つ諦める必要はないのだ。
ローはベッドのある枕と二人を入れ替えて、寝物語にローが渡ってきた別世界の話をゾロに聞かせた。不思議なことがあるもんだなとあっさりした感想がいかにもゾロらしかった。
「しかしおれが海軍やらお前のクルーねえ。考えられねえな」
「まあどこのお前も大体お前だった。ああ、海軍のお前が煎れた茶の飲めるもんじゃなかった」
「!!もしかして飲めないくらい濃かったか?」
「身に覚えがあんのか?」
「おれが世話になっていた道場で出るお茶は、飲めないくらい濃くてなあ。普通に煎れると薄いですねえって先生まで言ってくるから。くいな、おれの親友もめちゃくちゃ濃いお茶をいれてなあ。なんかそれが関係しているのかもな」
困ったやつを助ける、と笑っていた海軍大将のゾロも様々なものを背負っていたのか。ローは懐かしく思い出しながら、一個前の世界のゾロを思い出し顔を歪めた。
「あっちのお前には完全に八つ当たりした。おれにはないものばかりがあって、我を失っちまった。」
「おれなんだろ?なら安心しろ、気にしてねえから。お前がふてぇ面しててくれたらそれでいいんだよ」
嬉しそうに笑うゾロはどの世界も変わらない。
しかしローはこのゾロがずっと欲しかったのだ。
トラファルガー・ローはロロノア・ゾロがいなくても生きていける。ロロノア・ゾロもトラファルガー・ローがいなくても生きていける。だから、互いを愛していくことを、ローも、ゾロも選んで決めた。この先に何が待ち受けていても、絶望でも世界改編でも、二人は生きて、そして愛していく。最後の最後まで、ローは思いのまま足掻き続けることができるのだ、この世界で。
旅の終わりの始まりだった。