メイちゃんはいつもお仕事が始まる少し前、太陽が空からもう少しで落ちる頃、与えられた部屋の窓を開けてお友達を待っています。メイちゃんのお友達は、建物から出ることのできないメイちゃんとちがって、空を自由に飛び回ることができます。そんな友達を迎え入れるために、メイちゃんは窓を開けるのです。
メイちゃんは、お友達のことが大好きです。なぜならお友達はメイちゃんに、きらきらとした石や瓶ジュースの王冠や、色々なものを持ってきてくれるからです。外の事をほとんど知らないメイちゃんにとって、それは大切な宝物になりました。メイちゃんはお友達からそれらをもらうたび、ぼろぼろの紙箱に大事に入れておきました。メイちゃんが「いつもありがとう」と言うと、お友達は誇らしげにカアと鳴きます。そうしてメイちゃんと少しだけお話をして、あたりが暗くなる前には飛び去っていきます。メイちゃんはお仕事の時間です。支配人さんに怒られてしまう前に、お客さんをお迎えする準備をしなければなりません。
メイちゃんとお友達が出会ったのは半年ほどの事でした。ひどく雨が降っていたその日、お店にお客さんがやってくることはなく、メイちゃんや、メイちゃんと働いている他の子ども達は早々に部屋に戻れと言われてしまいました。かと言ってメイちゃんは何もすることがありません。文字が読める子は、支配人さんに言って本を買ってもらっているのですが、メイちゃんはろくに字を読むことができなかったので、本を読んで時間を潰すこともできません。食堂にはテレビもありましたが、メイちゃんは大人数でなにかをすることが得意ではなかったですし、何より映る日と映らない日があるようなテレビだったので、あまり興味がありませんでした。メイちゃんは仕方なく窓を少しだけ開けて、外をぼんやりと眺めていました。
メイちゃんの住む部屋は、隣のビルとの距離がわりあい近く、そして丁度真上の部屋がせり出すような作りになっていたので、窓を開けすぎなければ雨が吹き込む心配はあまりありません。いつもカーテンがしまっている窓しか見えないその景色を、メイちゃんはあまり好きではありませんでした。けれど雨の日にこうして窓を開けられることは、案外悪くないのかもしれません。メイちゃんはトタンを叩くうるさい雨の音も、さらさらと流れるように降る雨の音も、それなりに好きでした。
何も変わり映えしない外をしばらく眺めていると、突然窓の縁に、黒いものが吸い込まれるように飛んできました。
「きゃっ」
メイちゃんは驚いて腰をついてしまいます。隣の部屋からドンドンと壁を叩く音がしました。うるさいと怒っているのでしょう。隣の部屋に聞こえるのかわかりませんが、メイちゃんはあわててごめんなさいと頭を下げ、それからおそるおそる窓のほうに目をやりました。
それはカラスでした。濡れた羽根を毛づくろいしては、メイちゃんの顔をしげしげと眺めることを繰り返しています。きっと雨宿りできるところを探していたのでしょう。メイちゃんがゆっくり近寄っても、逃げようともしませんでした。メイちゃんを威嚇することもありません。メイちゃんはしばらく、カラスと一緒に外を眺めることにしました。最初こそ驚いたメイちゃんでしたが、いつのまにか愛らしく思うようになりました。不思議なもので、カラスというのはゴミを荒らして支配人さんや掃除婦さんを怒らせる生き物なのだと思っていたというのに、よく見てみると目に愛嬌があることや、くちばしがむっくりとしていて可愛らしいことに気づきます。雨に濡れた羽根だって、格好の良いスーツを着ているようです。こんなにもすてきなのに、みんなに嫌われているのが気の毒に思えます。
「カラスさん、雨が止むまでならいてもいいですよ」
カラスはやはりメイちゃんの顔を見つめたあと、お礼を言うようにカアと鳴きました。メイちゃんとカラスは、それから友達になりました。
その日からお友達は週に何度かやってきて、メイちゃんにすてきなお土産を置いていくようになりました。いままでぼんやりと外を眺めてお仕事をするしかなかったメイちゃんに、楽しみができました。お客さんの相手をする部屋よりもうんと狭い、掃除用具入れのような部屋に押し込められてからずいぶん経ちましたが、お友達と出会うことより楽しいことはありません。
……本当のところ、メイちゃんの意識がはっきりとしているのは、お友達と会っている時くらいなのです。お仕事をしている間は、甘くとろりとした感じの、頭がぼうっとしてくる不思議な匂いのするお部屋にいるものですから、記憶がはっきりしません。メイちゃんよりもずいぶんからだの大きなおじさんやお兄さんが、メイちゃんに色々なことをしたり、あるいはメイちゃんにするようにお願いしますが、それを嫌だとも好きだとも思わないのです。おじさんやお兄さんがすることは、痛いときも気持ちいいときもありましたが、それも夢のようなので、はっきりしません。ただあまりにも痛いことをするおじさんやお兄さんがいれば、支配人さんがどこからともなく飛んできてくれます。それとは逆に、メイちゃんのことを終わりの時間まで撫でてくれる人もいました。メイちゃんのからだを揺らしながら、泣いて誰かに謝っている人もいました。どんな人にしろ、メイちゃんはお客さんの相手をするたびにぼんやりとした頭で思うのです。「どんな男の人でも『でる』時には同じ顔をするんだ」と。
そんな生活をしているので、メイちゃんは今までの記憶があやふやです。ずいぶん長くお店で働いているとは思うのですが、実際のところは分からないのです。お店で働くようになる前のこともほとんど覚えていません。ただ、メイちゃんをお店に連れてきた女の人を、メイちゃんが「お母さん」と呼ぶと、女の人が「私はあんたの母親じゃない」「あんたを誘拐したのは失敗だった」と怒ったことだけは覚えています。
夢がようやく覚めても、メイちゃんのすることと言えば、食事をして自分の狭い部屋を掃除して、ぼんやりとすることです。たまにお店の先輩であるお姉さんとお話することもありますが、聞かされるのはお客さんへの愚痴がほとんどです。メイちゃんは、自分が本当にここにいるのかが分からなくなるときもあります。不安が湧いてくるわけではありません。ただぼんやりとそう思っているだけなのです。
メイちゃんに出来たお友達は、そんなメイちゃんに色々なことを教えてくれました。もちろん喋れるわけではありませんが、お友達が持ってくるものは外の世界を教えてくれます。見たこともないコインや石、ときにはチラシなんかも。メイちゃんは文字が読めませんが、きれいな青いドレスを着た女の人が印刷されたそのチラシを、とてもすてきだと思いました。すらりと背が高く、美しい黒髪を持ち、瞳には強い意志を感じる凛とした女性です。メイちゃんのお店にも、すてきな女の子はいます。けれどこんなにも美しい人はいません。
「カラスさん。わたし、こんな大人になりたいです」
お友達はチラシをつんつんとつつき、メイちゃんの顔をまじまじと眺めてから、いつものようにカアと鳴きました。きっとなれるよと言ってくれているようでした。
「素敵な大人になって、この人みたいに、きれいなドレスを着たいです」
お友達はじっとメイちゃんの目を覗き込みます。
「いつか、外に出られたら、……」
メイちゃんはお友達の首を撫でて、ぽつりと言いました。
「カラスさん、いつかわたしを外に連れて行ってくれますか?」
お友達はとぼけたように首をかしげて、それから飛び去って行きました。メイちゃんはあっという間に小さくなってゆくお友達の後ろ姿に、またねと呟きました。
お友達がくれるひと時を楽しみに生きる中、メイちゃんはその日も、お友達を待つために窓を開けていました。お友達は来てくれない日もあるけれど、それでもメイちゃんは、開けているだけでなんだか楽しい気持ちになるのです。
夕焼けが路地裏に差し込んでいく中、窓に頬杖をついて待っていたメイちゃんは、下の方から怒鳴り声が聞こえてくることに気づきました。それは支配人さんの声のようでしたが、メイちゃんの部屋は五階にありましたから、何を言っているのかは聞こえません。けれど支配人さんは何かを――メイちゃんにはよく見えませんでしたが――棒を持って、叩いているようでした。
「……あ」
メイちゃんは慌てて窓を締め、悲鳴を上げそうになる口を抑えながらうずくまりました。メイちゃんのからだは震えていました。支配人さんが何を叩いていたのかを、メイちゃんははっきり見てはいません。けれど地べたに広がった黒いつばさと、そのまわりで夕日を受けてきらきらと光るものを、メイちゃんが見間違うはずはありません。あれらはきっと、メイちゃんのくしゃくしゃの宝箱に、大事にしまわれるはずだったものです。
メイちゃんはなんとかベッドに潜り込んで、自分のからだを抱きしめました。メイちゃんは何に対してということもなく、「どうしよう、どうしよう」と呟きます。もしかしたら見間違いだったかもしれない。わたしのお友達のカラスさんじゃないかもしれない。けれど、じゃあ、お友達じゃなかったらよかったの?支配人さんは、カラスだったからあんなにひどいことをしたの?……
そのときメイちゃんは、あることを思い出しました。夢からまだ覚めきらない中、部屋に戻るメイちゃんと入れ違いに、ふたつ隣の部屋に住んでいた女の子が、支配人に引きずられながら別の部屋に連れて行かれていたことをです。「あの子逃げ出そうとしたのよ」「そんな馬鹿なことをしたら当たり前」と他の子たちが囁きあっていました。その子の部屋はいつのまにか空になり、新しい子の部屋となりました。メイちゃんはそのとき、自分が本当にここにいるのか分からないような心持ちでふわふわと歩いていましたから、今の今まで、記憶の隅に押しやられていた出来事でした。けれどもう、メイちゃんは思い出してしまったのです。
私が連れ出してほしいと願ったから、カラスさんは殺されてしまったのかもしれない。じゃあ私も、ここを出ることを願っていたら、カラスさんのように殺されてしまうのかもしれない。メイちゃんははじめてそのとき、支配人さんやお店の子たち、そして自分の住む建物を恐ろしく思いました。お友達と出会うまでは、こんなことを思いもしなかったのです。支配人さんは怖い人でしたが、仕事をしっかりとやれば褒めてくれたし、お店の子たちだって、意地の悪い子もいたけれど、「ひどい目に合うのは仕方のないことだ」などと普段は言いません。つまり、この建物とお店から逃げようとする者を、かれら彼女らは許さないのです。頭がくらくらとしました。こんなにも恐ろしいことに気づきたくなかったからです。じきにお客さんを迎える準備をしなければならないのに、メイちゃんはとてもそんな気にはなれません。
メイちゃんのお友達はやはり、その日から一切姿を見せることはありませんでした。メイちゃんはまた、ぼんやりとした日々を過ごすことになったのです。
お友達がメイちゃんの前からいなくなって、一月ほど過ぎた日のことです。もうお友達はやってこないのに、メイちゃんはいつもの時間、窓を開けることが習慣となっていました。もしかしたらという期待が最初の頃はありましたが、今ではもうそんな気持ちは少しもありません。ただ開けているだけです。
その日もメイちゃんは夕方、窓を開けて変わり映えのない外を眺めることにしました。けれどその日は違ったのです。反対側のビルの、いつもカーテンが閉まっていて空いたことのない窓に、人が佇んでいました。建物の陰になって、目元はよくわかりません。けれどそれは男性のようでした。カラスのような黒いスーツを身に着けた、黒髪の男性です。窓の縁に身を預け、たばこを吸っているようでした。メイちゃんは驚いて、しばし硬直してしまいます。彼はそんなメイちゃんに気づいたようでした。タバコを壁にすり付けもみ消して、メイちゃんに微笑みます。
「こんにちは」
優しい声でした。メイちゃんは少し遅れて、「こ、こんにちは」とおじぎをします。メイちゃんは、なんだか不思議な気持ちでした。はじめて出会ったはずなのに、そんな気がしないのです。メイちゃんはふと頭に、メイちゃん自身もばかばかしいと感じるような言葉が浮かびます。
「……あのう、もしかして、カラスさん?」
気がつくとメイちゃんは言葉を口にしていました。はっとして、顔が一気に赤くなったことが、自分でもよく分かります。男の人は少し面食らったようでした。表情はよくわかりませんが、メイちゃんの言葉にどう返事をするべきか悩んでいるようです。
「あ、あの、えっと、ご、ごめんなさい、わた、わたし」
「そうだよ」
はっきりとした言葉でした。それから、男の人はメイちゃんを宥めるような優しい声色で言いました。
「君に会いたくて来ちゃったんだ。人間の姿になって」
男の人が本当のことを言っているかはわかりません。メイちゃんには知りようがないからです。でもきっと、本当の事ではないでしょう。けれどメイちゃんは、ああ、よかったと心の底から思いました。メイちゃんの心の中に住み着いていた罪悪感が、少しは晴れてくれたからです。そして、メイちゃんの瞳から涙がぼろぼろ零れ落ちました。鼻をすすりながら、メイちゃんはカラスさんに色々な事を話します。支配人さんがしていることを見てしまい、それからカラスさんが会いに来てくれなくなって、ずっと寂しかったこと。カラスさんがくれたものを眺めては、カラスさんのことを思い出していたこと。そして、はじめてこの場所を、恐ろしいと思ってしまったこと……。カラスさんは、黙ってメイちゃんの話を聞いてくれました。お土産を持ってやってきてくれたころのように、メイちゃんに静かに寄り添ってくれているようです。
「カラスさん。わたし、あなたにまた会えてよかった」
メイちゃんは今までにこれほど泣いたことはありません。お客さんにひどい乱暴をされたときも、隣の部屋の子にいじわるなことを言われたときも、こんなに泣くことはありませんでした。今までメイちゃんが抱えていたすべてが溢れているようです。隣の部屋からドンドンと壁を叩く音がしましたが、メイちゃんは気にしません。カラスさんが見守ってくれるからです。メイちゃんは思いました。こんなにも涙が出るんだから、きっとわたしはここにいるんだと。もう、メイちゃんは迷わずに済むでしょう。カラスさんは、いつものようにカアと鳴いてはくれませんが、そのかわりに「僕も、君と会えてよかった」と微笑んでくれました。
メイちゃんがうんと泣いて、ようやく泣き止んだちょうどその頃、太陽も地平線へと消えようとしていました。カラスさんの姿は、建物の影が覆い隠してしまいほとんど見えません。
「今日はそろそろ行かないと。君もお仕事があるよね」
「……はい、です」
「また来るよ。だから、いつもの時間に窓を開けて待ってて」
またね、と揺れる掌が暗がりに浮かび、メイちゃんは手を振り返します。名残惜しいですが、仕方がありません。カラスさんは無事だったのだし、また来てくれるのだから、もう寂しくはありません。メイちゃんは窓枠に手をかけます。その時でした。
「ねえ、メイ。僕は君のことが好きだよ」
カラスさんの言葉に、メイちゃんは「待って!」とあわてて返します。けれどもう、カラスさんは窓の向こうの真っ暗闇にすがたを消していました。メイちゃんは突然ぽつんと一人取り残されたような気持ちになってしまいます。けれど、不思議と嫌な気持ちではありません。ただ、心臓が少しだけ強く鳴っていることに違和感があるくらいです。
メイちゃんはきっと気づかないことでしょう。自分の頬に恥ずかしさとは違う朱色が差していること。そして、カラスさんに自分の名前を教えたことは、一度もないということを。
カラスさんは以前のように、週に何度も会いに来てくれるようになりました。カラスさんは飛べなくなってしまったので、お土産を持ってきてくれることはありませんでしたが、メイちゃんはそんなことを気にしません。そのかわりに、色々なお話をしてくれるからです。
カラスさんはいろんな場所を飛び回っていて、この街の外どころか、他の国にも行ったことがあるそうなのです。メイちゃんとカラスさんの住むこの国よりもっと北の国では、干した洗濯物が凍ってしまうだとか、吐いた息が凍ってきらきらするのだとか、メイちゃんには想像することもできないような話を、時には身振りを交えながらカラスさんはしてくれます。他にも海を越えた先の島国や、飛行機で何時間もかけて行くような大陸の国。都市がまるごと入るほどの大きな湖、海のような大きさの川……。メイちゃんは世界の広さに胸をときめかせます。
「でも、僕が行った国よりも、まだ行っていない国のほうが多いんだよ」
「ほんとう……?じゃあ、カラスさんでも、知らないことが……いっぱい、あるんですか」
「もちろん。外の世界は広いからね」
この煙草だって、実は僕が行ったことのない国のものなんだ。そう言って、カラスさんは胸ポケットから紙箱を取り出してメイちゃんに見せてくれました。少し離れているので、はっきりとは見えませんが、青空の中に岩のようなものが写っています。支配人さんが吸っている煙草のパッケージよりも、ずいぶんと地味なものに見えます。
「観光地だそうだよ。いつか行ってみたいものだね」
私も、と言葉が出そうになるのを、メイちゃんはこらえました。口にしてしまうと、その気持ちが我慢できなくなるような気がしたからです。よぎるのは、『逃げ出そうとした女の子』のことです。いつか自分が我慢できなくなったとき、きっとああなってしまうのです。それを思うと、とても口にはできませんでした。
カラスさんとメイちゃんの逢瀬は、それからひと月ほど続きました。メイちゃんはお客さんの相手をしている間、まどろみのような意識の中で「早くカラスさんに会いたいな」と思う生活を送っています。カラスさんはいつも面白い話をしてくれます。メイちゃんが文字を読めないと言えば、メイちゃんの知らないおとぎ話をしてくれることもありました。メイちゃんは中でもとりわけ、お姫様が出てくるお話が好きです。幸せになれないお姫様も、幸せになったお姫様も、みんなみんな好きでした。カラスさんが、お姫様がどんなドレスを着ているのか丁寧に話してくれるからです。
あるときメイちゃんはカラスさんに言いました。
「ねえ、カラスさん。わたしにも、ドレスが似合いますか」
たとえばこんなドレス。メイちゃんは宝箱から出したチラシをカラスさんに掲げて見せます。相変わらず建物の影になっているので、表情はよくわかりませんが、カラスさんは目を凝らしているようでした。メイちゃんは少しどきどきしています。カラスさんの口元がにやりと笑います。
「……それどころか、君の方がもっと似合うね」
「ほ、ほんと……?」
「本当さ。カラスは嘘をつかないんだよ」
君がそんなドレスを着ているところが見たいなあ。メイちゃんはカラスさんの言葉を素直に喜びました。けれど、それはきっと無理なことです。メイちゃんは、曖昧に笑うことしかできません。
その日の晩、お仕事前の時間に、メイちゃんはお水を飲むために食堂へ行きました。お姉さんたちやおませな子たちが、一冊の雑誌に夢中になっています。それはファッション誌のようでした。支配人さんはそんな子たちをほほえましそうに眺めています。
「ねえ、支配人。このドレス買ってよ」
「それいくらすると思ってんだ。だいたい、お前みたいなガキンチョがそんなもん着ても似合わねえよ」
「そんなことないもん。あーあ、お客さんにおねだりしよっかな」
「お前がおねだりして買ってもらえるとは思えねえけどなあ」
「うざー。……あ、メイ。ねえ、見てよ。メイもこれ、欲しいよね?」
お姉さんの一人が雑誌を指さして、メイちゃんに見せてくれました。ほどよく肉付きのある美しい女性が、たっぷりとしたプリーツの黒いドレスを身にまとっています。胸元できらきら光るストーンがぜいたくで、見るからに高そうです。欲しくなる気持ちもわかります。
「はい、とってもすてきです」
「でしょ?だからさ、」
「 ここを出られたらわたしも……」
メイちゃんはとうとう、うっかりと言葉を漏らしてしまいました。
ハッと気づいたときには手遅れでした。支配人さん、それから他の子たちが、あの日の――脱走しようとした女の子に向けたようなまなざしを、今、一斉にメイちゃんに向けているのです。食堂の空気はナイフの刃先のようでした。メイちゃんは咄嗟に走り出します。自分の部屋に逃げ込むためです。そんなことをしたって意味はないのです。けれどメイちゃんにとって、あのまなざしは耐えられるものではありませんでした。なんとか部屋に駆け込んで、鍵をかけ、カラスさんからもらった宝物を入れた紙箱を抱えて、ベッドのうえで震えました。どうしよう、どうしよう。カラスさん、助けて……。そんな祈りが届くことはありません。部屋の外では支配人さんがドアを破ろうとしています。古い建物の扉ですから、たいして長くは持ちません。頭の中で、髪を掴まれ引き摺られていった女の子が、メイちゃん自身にすり替わっていきます。それでもメイちゃんには、ぎゅっと目を瞑ることしかできませんでした。
その日メイちゃんは、窓を開けてカラスさんを待つことはできませんでした。支配人さんの部屋のロッカーに閉じ込められてしまったからです。メイちゃんはお店の商売道具なので、直接叩かれたり蹴られたりすることはありません。ただ、メイちゃんが閉じ込められたロッカーを、支配人さんがいままで聞いたこともないような怒声を上げながら、ずっと蹴り続けているだけです。頭の中にまで響くような声と金属音と衝撃が、きゅうきゅうとメイちゃんの心臓をきつく締め上げました。
「ごめんなさい、ごめんなさい、支配人さん、ゆるして」
「逃げる気なのか!誰がお前に飯を食わせてやってると思ってる!」
「ごめんなさい、行きません、わたし、どこにも行きませんから」
「お前みたいなガキが!たいして稼いでない奴が!自由になろうなんてなあ!」
メイちゃんの声は支配人さんに届いていないようでした。いえ、聞こえていたとしても、メイちゃんがどれだけ謝ったところで、支配人さんが許してくれるとは思えません。支配人さんは言いました。親にも見捨てられたようなお前たちに住む場所と食事をやって、仕事をやっているのは俺なのだ。だから俺は感謝こそされても、逃げ出そうだなんて思わないはずだ。お前たち女には感謝が足りない。ろくにやって来ないオーナーに変わって店をここまで盛り立ててきたのは俺なのだ。……メイちゃんはただ、細い声でごめんなさいと謝ることしかできませんでした。
メイちゃんがようやく外に出られたのは翌日の夜でした。気が付くと支配人さんに部屋に放り込まれ、指名が来ているから早く準備をしろと言われたのです。メイちゃんはそれまで、意識を失っていたようでした。ふと自分の腕を見遣ると、爪が深く食い込んだ跡が残っています。ロッカーに押し込められていた間、強く握りしめていたものがまだ残っているのです。こんなものをお客さんに見せると怒られてしまいますから、お姉さんにファンデーションを借りなければなりません。メイちゃんはふらふらと立ち上がります。そうしてメイちゃんは、あることに気づきました。大事にしていた宝箱が、部屋のどこにも見当たらなかったのです。
「ああ、そういえばお前が持ってたゴミなあ、捨てておいたぞ。どう集めたのかは知らんが、二度とあんなゴミを集めるなよ」
支配人さんはそう言って去っていきました。メイちゃんにはもう、泣く元気もありませんでした。
「メイ、昨日は部屋にいなかったね。どうしたの?」
カラスさんの優しい声が、メイちゃんの心を少しだけ楽にしてくれます。けれどメイちゃんは、カラスさんの言葉にどうお返事すればよいのかわかりません。
宝物を捨てられてしまった日の晩、運が悪いことに、メイちゃんのお客さんは少し機嫌が悪かったのです。メイちゃんに怒りをぶつけるように、メイちゃんのからだを乱暴に扱いました。支配人さんは商品が傷つくのを嫌がるので、いつもならすぐに来てくれるはずでした。けれどその日は結局、メイちゃんのからだに痣や跡が出来ても、時間になるまで来てはくれませんでした。甘い匂いが痛みを和らげてくれたことだけが救いでした。
カラスさんは、メイちゃんのようすがおかしいことに気づいてくれたようでした。口を真一文字に結び、悲しそうにしています。カラスさん、悲しまないで。きっとわたしが全部わるいのです。そんな言葉すら言う事ができません。いえ、言いたくないのです。メイちゃんは、自分の心が悲鳴を上げて、これ以上耐えられないことをわかっています。『カラスさん、いつかわたしを外に連れて行ってくれますか?』いつかのお願いを、叶えてほしいと願っているのです。けれど、どうやってそんなことができるのでしょう?メイちゃんにはわかりません。メイちゃんが逃げ出したいと願い、それをしたとき、次はもっとひどい思いをするでしょう。カラスさんは、今度こそ殺されてしまうかもしれません。
メイちゃんの瞳に涙がにじみました。カラスさんの姿がぼやけます。目を服の裾でこすっても、涙は止まってくれません。
「……ねえ、メイ。もし君が悲しかったり、つらい思いをしてるなら、僕は、……僕に、それを分けてほしいんだ。僕にできることを、君にしてあげたいんだよ」
カラスさんは言葉を選んでいるようでした。メイちゃんの乾いた唇が震えます。どうして、そんなにも優しくしてくれるの?わたしはカラスさんに何もしてあげられていないのに。カラスさんは、そんなメイちゃんの心を読んだかのように言葉を続けます。
「君が好きなんだ」
カラスさんは窓から身を乗り出して、メイちゃんをまっすぐに見ました。その時はじめてメイちゃんは、カラスさんの顔を知りました。夕焼けに暗闇を一滴落としたような、赤く暗い瞳です。少しだけ不気味で、そして美しい色だとメイちゃんは思いました。そんな色の瞳が、細めたまぶたのすきまからメイちゃんを見つめています。心臓が高鳴りました。メイちゃんはこの意味を、もう知っています。ですからメイちゃんは、カラスさんの言葉に答えなければなりません。
「カラスさん、もし、わたしをここから連れ出してほしいって、お願いしたら、連れ出して、くれますか?」
カラスさんは一瞬口をぽかんと開けた後、それからメイちゃんに微笑みました。
「……もしそこから出られたとしても、君はもっとつらい目に合うかもしれないよ。今だってひどい生活かもしれないけれど、少なくともそこに居れば安全だし、ご飯だって食べられる。それでも出たいかな?」
メイちゃんは迷わず頷きます。
「カラスさん、わたし、ここで、しにたくない、です。外の世界で、きれいなドレスを着て、しにたいんです」
気だるいからだをベッドから起こし、メイちゃんは時計を見遣りました。そろそろ夕暮れの時間です。メイちゃんは昨日のカラスさんとの逢瀬を夢のように思っていました。なぜならその後のお仕事が、また乱暴なお客さんだったからです。もしかしたら、あれは自分の願望で、本当はあんな会話はしなかったのかもしれません。そう思ってしまうほどに、メイちゃんは疲れ切っていました。窓を開けてみましたが、カラスさんが来ているようすはありません。反対側のビルは、カーテンが閉まった窓があるだけです。
今日のお仕事も、乱暴なお客さんを相手にしなければいけないのでしょうか。メイちゃんは窓から離れ、またベッドに横たわりました。本当はもう、シャワーを浴びて髪を整えて、準備をしなければなりません。けれど少しでも多く眠りたかったのです。
そんなメイちゃんの部屋の扉を、だれかが叩きました。
「……メイ?いる?」
普段、メイちゃんによくしてくれていたお姉さんの声でした。メイちゃんは重いからだをふたたび起こして立ち上がります。
「はい。います」
「ちょっと、ホールに降りてくれない。オーナーと支配人が呼んでる」
メイちゃんのからだが強張ります。支配人さんだけじゃなく、オーナーまでメイちゃんのことを呼ぶなんて、めったにあることはありません。
「あの、どうして……」
「何か、あんたにお客さんが来てるんだって。よく知らないけど」
指名ということでしょうか。それにしても、お店はまだ開いていないはずですから、普段と様子が違います。戸惑うメイちゃんを、お姉さんが急かします。不安な気持ちをどうにもできないまま、メイちゃんはホールへ降りることになりました。
ホールの隅で、お姉さんたちやお店の子達が何やらひそひそと話をしています。メイちゃんはその横をおずおずとすり抜け、ホールの中心で誰かと話すオーナーと支配人を見つけました。
「あ、あのう……」
メイちゃんの呼びかけに、支配人とオーナーが振り向きます。そして、二人と話している男の人も。
カラスのような真っ黒なスーツの上に、たっぷりとファーのついた黒いコートを羽織っている男性でした。男性の赤い瞳がメイちゃんを捉えた瞬間、彼の目は優しく微笑みました。メイちゃんはその男性を、よく知っています。メイちゃんを好きだと言ってくれた、カラスさんに間違いありません。
「そう、あの子だ。あの子を買いたい」
「ですが、お客様……」
「もちろん君たちが満足できる金額は用意してるよ」
男性――カラスさんは、持っていた銀色の四角い鞄を開けて見せます。メイちゃんからはよく見えませんが、お金がたくさん入っているようでした。
「……百万ドル程度でしょうか?申し訳ありませんが、その程度ではお譲りできませんね。少なくともあと五十万ドルは用意していただかないと」
オーナーの言葉に支配人はニヤニヤと笑っています。一体なにが面白いのでしょう。メイちゃんにはわかりません。けれどいやに腹が立ちます。メイちゃんの大好きなカラスさんをバカにされているような気持ちになったからです。
けれどカラスさんは少しも表情を変えません。鞄を閉じ、変わらず微笑んだままです。お店の重厚な扉が開いたのは、その時でした。性別がよくわからない細身の人、切れ長の目を持つ長身の女性、それから体格の良い男性。それぞれスーツを着こんだ三人が、カラスさんの持つ鞄と同じものを持って、お店へと足を踏み入れました。
「……ああ!たった百万程度で済むなんてもちろん思ってないよ。勘違いさせて悪いね」
三人はてきぱきとカラスさんの前に鞄を並べ、それを開いていきます。すべての鞄に、メイちゃんが見た事もないような量のお金がぎっしり詰まっていました。
「全部で八百万華香ドル。どう?悪くないはずだよ」
オーナーと支配人は呆気に取られているようです。お姉さんやお店の子たちがざわめきだちました。「どうしてメイが?」「絶対におかしい」などという声も聞こえてきます。支配人はそんな彼女たちを叱責し、先ほどまでのカラスさんへの態度を忘れたように、様子をうかがうようなへらへらとした笑みを浮かべてカラスさんに腰低く近寄りました。
「お客様。これだけいただけるのであれば、もっと上等なやつがうちにはいくらでもいますよ。好みを教えていただけたら調達だってしますが」
「他の女はいらない。メイが欲しいんだ」
「ですがお客様、あれはあまりお勧めしませんよ。ああ見えて最近反抗的でして、いえ、お客様がそういうのを好きだと仰」
ゴン、という鈍い音がしました。一瞬のことで、その場の誰もが、何が起きたのかを瞬時に理解できません。ただカラスさんの持っていた銀色の鞄が赤く汚れていたことと、支配人さんが顔から血の泡をふいて倒れていたことが、すべてを物語っていました。お店の子の中から小さく悲鳴が上がります。
「君さあ、うるさいよ。僕に媚を売るな」
カラスさんは、メイちゃんが聞いたこともないような冷たい声で言いました。それから鞄を支配人の上に投げ捨てて、カラスさんはオーナーに向けてにっこりと笑いました。それはメイちゃんに向けるような優しい微笑みではありません。張り付いたような奇妙な笑顔でした。
「で、これで足りるかな?足りるよね」
「え、ええ……」
「よし、じゃあ行こうか、メイ!外の世界だよ!」
カラスさんは歌うように言いました。そしてその手をメイちゃんに差出します。メイちゃんは、お姉さんやお店の子たち、脂汗をたれ流しながら佇むオーナー、痙攣し倒れている支配人をそれぞれ見ました。みんなみんな、カラスさんに怯えています。そして、どうやらメイちゃんに対してもその気持ちは向いているようでした。不思議です。メイちゃん自身はなにも変わっていないはずなのに、みんなはなぜメイちゃんにまで怯えているのでしょう?
そんな空気の中、カラスさんの手を、メイちゃんは、
……メイちゃんは、晴れやかな気持ちで取りました。
「……メイ、君に謝らなくちゃいけない。一つ、僕は君のお友達のカラスさんじゃないってこと。もう一つ、僕は君が出会ってきたどんな男よりもひどい人間かもしれないってこと」
流れていく景色をガラス越しにぼんやりと眺めながら、自身に身体を預けるメイに、男は呟くように告げる。
「それでも君を手放すつもりはないよ。ごめんね」
メイは男の言葉に首を振った。彼女の口元に浮かぶのは、すべてから開放されたような安堵の微笑み。
「ひどい人でもいい……です」
男にすり寄って、メイは囁くように呟いた。
「わたし、あなたのことが好き」
メイは、青いドレスを着て、彼に見せたいと思った。あの店に居る限り着られなかったはずの、美しいドレスを。