I Don’t Want To. だから、と男は言った。噛んで含めるような声音だ。
半分以上脱げたシャツの胸元をさりげなく掻き合わせて、器用に尻でソファの上をずりあがる。半ば茫然とそれを見つめていた侵入者は立ち上がり、男の内腿のあいだに膝頭をすべりこませた。傍若無人な脚に男はため息をついて、だめだって言ってるだろ、ともう一度言う。
「なんでだよ」
「なんでもだ」
意味がわからない。存外拗ねた声が出た。ひとまず膝をひいたルースターの巻毛を、ハングマンはさらりとなでた。子供をあやすような手だ。むっとした雄鶏はもういちど立ち上がり、男の膝へと乗り上げた。そうして唇をちらりと舐めた。
「……なあ、いいだろ、ここでしようぜ」
「……だめだって言ってるだろ、降りろ」
たのむから。優しく囁かれて、ルースターは泣きたくなった。突然手に入った僅かな休暇に、すべての予定を変更して西海岸の地に降り立ったのは四時間前だ。煩瑣な手続きなどほとんどなく、するりと抜けだした到着ロビーの先でタクシーを拾ったのが三時間前のことだった。
空港からの途はうすぐもりに包まれ、あわいいろの雲の隙間からは昼の光がしらじらとこぼれおちていた。固い座席に疲れた体を凭れかけさせて、見慣れたルートをひた走る。一時間ののち、ありきたりな外階段のつめたい手摺を人差し指で撫でながら、ルースターはこごえで歌をくちずさんでいた。たった数段のステップを踏む足取りは自分でもわかるほどにうかれ、あわいいろをした幸福が長閑な雄鶏の胸をひたひたと満たす。はやく! はやく!!
りん、と転がされたドアベルの音に促されて重いドアをあけた家主の胸をフラットの中に押し戻して、後ろ手にドアを閉てきり、有無を言わさずにソファまで押しやってつきとばす。ジェイク、……俺の救世主。
目を白黒させていた男が我にかえったような顔をしてルースターのくちびるに左手のひとさしゆびを押しつけてきたのは、ルースターが荷物を投げ出し、ジャケットを放り出してハングマンのシャツのボタンをみっつとはんぶん外した瞬間だった。どうした雄鶏君、いやにせっかちだな?
ぽかんとした侵入者は、みるみるうちに不機嫌になった。なにしろすっかりその気だったし、よもやこの段階で駄目だしをされるとは思っていなかったのだ。だいたい最速を気取る癖に生意気である。なにがだよ、ハングマン。いつになく居丈高に訊くルースターに、なにがだも何もないだろ、と可愛い男は眉尻を下げて鹿爪らしく言う。お前、どうしたんだ? 連絡もなしに来るなんて珍しいな。まずはコーヒーでも淹れてやる。
こうして話はようやく冒頭へと立ち戻る。
いごこちのいいラブソファの上でルースターはむっつりと座り込み、お気に入りのクッションを力任せに拉げては引き延ばしてを繰り返していた。しあわせなきぶんはどこかに行ってしまった。頭も心もすっかりさめてしまったが、やりばのない慾だけが音をたてて燻っている。悶々とする雄鶏のもとに、キッチンでなにやらごそごそしていた男が、まっしろいポットとペアでそろえたカップとをもって帰ってきた。なあ、ルースター、何があったか話してみろよ。
「なんもないけど」
拗ねた声のままうけとったカップにていねいに落とされたコーヒーからは、アーモンドのかおりがふんわりとたちのぼる。ふとゆるんだ頬をひき締めようとして失敗し、ルースターは忌々しい男の淹れたカフェクレームをひとくち飲んだ。美味い。
とげの抜け落ちた胸がじわじわと高鳴りをはらむのを隠してちらりとうかがった男の横顔が、二ヶ月前に会ったときとおなじようにうつくしいことを知って、黄金の闘士はこっそり溜飲を下げた。
……なにか、厭なことでもあったのか?
時間をかけたわりに陳腐ないいまわしで男は訊き、それから変な顔をした。みずからの失言におもしろいほどに慌てているのがわかって、ルースターは思わず噴き出す。今日は急にやすみになった。だからそのままここに来た。お前に会いたかった。それなのに、この男は!
「俺の優秀な執行人様、念のためにきくけど」
「は? なんだよ」
おまえ、俺がなんかの当てつけにお前と寝ようとしてるとおもってないか? 地を這うような声での難詰に、ハングマンはぐっと息を詰めた。そんなわけ、
……いや、そうなんのか? とにかく、そういうのは良くないし俺はそういうのは厭なんだよ。
「わかるだろ、わかってくれよ」
「だったら聞いてもらうぞ、ジェイク・ハングマン・セレシン大尉」
今度はルースターが噛んで含めるような声を出す番だった。貴官は小官がどれほど聞き分けのないガキだと思ってるんだよ。小官は大人です。それも分別のある、いい歳をした大人です。地上でも、空でも任務を全うしているつもりでいます。そんな男がどうして不機嫌ごかしに愛する男を使い捨てにできると思ってるんだ? 興味深いな。聞かせてくれ。
貴石のような瞳を瞬かせて、くちびるをかすかにうごかすハングマンにルースターは手をさしのべる。立てよ、というと綺麗な男はゆっくりとたちあがり、たいせつな鶏をそっと腕の中にとじこめた。よくみがかれた靴先にこつりと爪先をあててするりと脚をひくと、優雅な足取りはすぐにそれを追って、導かれるままなめらかに動く。ワルツだ。
やさしい三拍子にのせて、たいして広くもない部屋の中をくるりくるりと二人はうごく。絶妙のタイミングでくりだされるターンは数少ない家具のあいだを瀟洒にすりぬけるのをたすけ、二人のくちびるに笑みをのぼせる。何度目かのターンをした相手がさりげなくステップをかえたので、ルースターもちいさく微笑んで互いの役割を入れ替えた。女性パートを踊るのは、それこそ初めてワルツを学ばされた時以来のことだろう。なあ、ジェイク、俺の死神。今日の俺はすごくしあわせなきぶんだったんだぜ。だからお前に逢いたくてしかたがなかったんだよ。それなのにお前はかってに俺のことを心配して、俺のやる気をないことにした。おまえはばかだ。ばか。……この、ばか。
脚を止めて、なおも遠ざかるハングマンの腕を引き寄せる。おい! と叫んで胸のなかに倒れ込んできた男の背を抱き止めて、ルースターはうしろに倒れこむ。運よくそこにあったソファが、二人分の体重をうけて批難の声をあげている。
ながくあまいくちづけのあと、ジェイク・セレシンは愛する男の耳に唇をつけて囁いた。なあ、俺のことり、俺もそのきになった。……いいか?
誘う男の鼻先をするりと舐めて、ブラッドリー・ブラッドショーはくちびるをつりあげた。お気の毒だな、可愛いジェイク。俺のほうは、もうどうでもいいや。
「はあ? なんでだよ!」
「うーん、なんでだろ?」
情けなく眉尻を下げるエースの肩にかみついて、可愛い男はあでやかにわらった。