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    Sak_i

    二次創作【腐】
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    Sak_i

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    一人暮らしの良太郎が家なき子リュウを拾うお話。
    ネコ×ネコCPで、強いて言うならリュウがタチ。
    義兄×良要素がありますが、義兄は最低男につき。
    あと恋愛感情抜きで牙良・浦良・その他リュウ受表現があります。

    ※未完です。

    ##テキスト

    猫と宇宙船。 ル・ララ。星の子守唄。
        ―おうちへ帰ろう、いっしょに帰ろう。


    [猫と宇宙船。] Act 01


     小雨がしとしと降り続いている。
     夜明け前の曇り空、薄い霧が視界を惑わす。
     森で迷ったヘンゼルのように、道なき道を歩いていく。
     太陽が昇った瞬間に『今日』は始まる。だからまだ、今は、昨日と明日の境目の、異世界のような時間。
     みぃ、と か細い声がした。 公園に入ってみれば、屑籠の傍に置き去りの子猫。ダンボールの中で震える小さな命に、良太郎は巻いていたマフラーを掛け、傘を差した。

     冬を目前にして雨は冷たく、冷淡に体温を奪う。アパートに帰ってきて、靴を脱ぐ前にポストに入れられていた葉書を訝しく取り上げてみたけれど、行きつけの美容室のイベントを告知するDMだった。誰か知り合いからの葉書かと期待してしまった自分が虚しく、良太郎は葉書をリビングのテーブルの上におざなりに置くと、濡れた髪をタオルで拭いた。―知り合いなんて、あるはずがないのに。自分を育んだ町の人達は誰も、自分の居場所を知らないのに。
     大雑把に髪の水気を飛ばしながら耳に半分かかるくらいの横髪を指先に摘まんで、少し切りすぎたかなと思う。襟足も軽くなって首元に隙間風が当たる。これからもっと寒い季節になると言うのに考え無しに切ってしまった。直接雨に打たれて凍てついた耳朶がじんじんと疼いてくる。ふと、公園の子猫の事を思った。先細りのいじらしい鳴き声。びしょ濡れの毛糸玉のような体で、助けてと必死で訴えていたのか、ただ母親を求めていたのか。―誰か優しい人が、見つけてくれるといい。


     *


    「これ、ありがとう」
     雨は終わらない哀しみのように降り続け、土曜の昼。コンビニからの帰り道、ビニール傘を差した良太郎はきょとんと立ち止まった。何処からともなく現れた少年が、そう言って畳まれた傘を差し出す。―三日前に公園に置いてきた良太郎の赤い傘だった。
     少年は良太郎より若干あどけない15~6歳くらいで、ストリート系。ぼろいキャップから薄暗く覗く瞳は猫のように笑っていた。
     彼自身は傘も持たずにずぶ濡れの状態だったが気にしていないようだ。戸惑って行動に迷った良太郎に、彼は小首を傾げる。
    「きみのでしょ?」
     彼の手に持たれた赤い傘は紛れもなく自分のものだったが、誰も居ない公園に置いてきたはずのそれを見知らぬ少年の手から返されたのが異様で、すぐには受け取れなかった。すると少年は公園の方角を指差して言った。
    「ねこさんに、貸してくれてありがとう。 じゃね!」
     良太郎の手に強引に赤い傘を押し付けると少年は、「バイバイ」と手を振り、去ってしまおうとする。
    「ま、待って…!」
     咄嗟に呼び止めてしまったが、「なに?」と振り向いた少年にまた困惑し、良太郎は適当に質問した。
    「えっと、何で僕の傘って…?」
    「こないだすれ違ったときに、おんなじ匂いがしたんだよ」
     少年は得意気に笑った。紫色に染められた長い前髪から、雨とずれたタイミングで雫が落ちる。
    「…あ、届けてくれて、ありがと。…それから―…」
     良太郎はビニール傘を肩と首に預け、赤い傘を広げて少年の頭上に差した。
    「―これ、使って」
     少年は瞳を丸めたけれど、すぐに破顔すると改めて良太郎に背を向けた。身軽に走り出すと途中で良太郎を振り返り、大きく手を振る。
    「じゃあまた今度、かえしにくるね!」
     ぴしゃぴしゃと水を跳ねさせて、踊るように赤い傘と一緒に消えてしまった。猫のような少年。―返すと言っても、家も何も知らなければまた会える保証もないのに。…だけど寒いだけの雨の中、柔らかな気持ちになって、良太郎はほんのりと口角を上げた。
     少年は良太郎より僅かに背が低く、165cm前後。痩せ身だったので身長よりも小さく見える。おそらく中・高校生くらいの年齢なのだろうが、仕種や口調は幼く感じられた。―あの子に、子猫は、拾われたのかもしれない。
     良太郎はふと買い物袋を提げた手を鼻に近付け眉を寄せた。それにしても『匂い』なんて、雨で殆ど消えていただろうに、動物並みに優れた嗅覚だ。一瞬、目の前に現れたあの子が子猫の化身かもなんて、…おかしな事を思った。

     その少年に会ってから、嬉しい事があった。良太郎のバイトをしている店とそのオーナーのインタビューが雑誌に掲載されたのだ。派手な記事ではなかったけれど客足は着実に増し、傾きかけていた経営がなんとか安定しそうだった。このまま不景気が続けば真っ先に切られるのは自分かもしれない危機感があったので、それだけで得した気分になった。何処の本屋に行っても在庫切れでずっと探していた児童書が数年ぶりに再版されたし、買おうかどうか迷っていたシャツが最後の一着で手に入った。晴天が続いて、気分がいい。―だから、あの子は、幸福を呼ぶ座敷童子だったのかもしれない。
     笑顔には幸福を呼び込む力があると言うけど、あの日、傘を差し出すあの子の『ありがとう』は、とても嬉しかった。礼を貰う目的でした行為ではなかったから不意打ちで余計に感動した。感謝される事は素直に、生き甲斐かもしれないと思う。自分ではなく他人の為に何かを出来ると言う事が、人間社会の中では、生きる事そのものなのだろうと思う。『ありがとう』の言葉に喜びを貰い、屈託のない笑みが零れる。―そうして自分に呼び込めた幸運ならば、それはやはり、あの子のお蔭だ。
     赤い傘は返ってくる気配が無かったけれど、それでも構わないと思っていた。それ以上のものをすでに返してもらったような気がしていた。しかしある夜、定休日で、遅くまで児童書を読み耽っていた良太郎のアパートの部屋に不自然なチャイムが鳴った。
     鳴らしかけて途中で止めたような半端な音と、物の崩れるような音がして、良太郎は玄関の方を振り向くと恐々様子を見に行った。
     息を飲んで聞き耳を立てたけれど何の音もしない。そこでようやくドアを開けてみると、横の壁に寄りかかるようにして、雨の日の少年がいた。
    「―どう…」
     どうしたの、と訊ねようとして声が出て来ない。どうしてこんな処に居るの? ―その格好はどうしたの?
     体力を使い果たし力尽きた少年はあの日と同じ服を泥だらけにしてそれから顔のあちこちに赤い擦り傷をつけていた。良太郎がしゃがみ込んで触れようとすると少年は顔を上げ、絶え絶えに呟く。
    「…ごめんね、傘、かえせない。折られちゃったよ…」
     ―そんな事はどうだっていい。良太郎は眉を寄せ、少年の腕を自分の首に回させて、なんとか立たせた。自力で支える力のない身体は細身とは言え重く圧し掛かり、良太郎も巻き込まれて崩れそうになる。
     少年は震える腕に精一杯の力を込め良太郎の首にしがみついた。
    「…泥だらけ、…だね? …歩けるだけ歩いて、中に…」
    「…ねこさん、しんじゃったよ」
    「―…入って、」
     消え入りそうに弱く沈んだ彼の声を、それでもはっきり聴いた。
     良太郎は彼を玄関の中へ引きずり込んで、苦々しく顔を歪めた。


     *


     本の続きを読もうとして、まるで集中できず良太郎は、ページを開いたまま本を逆さに置き時計を見遣った。深夜の一時を回っている。
     幾らなんでもあんな少年が自由に徘徊出来る時間じゃない。―そりゃあ、学校や家からエスケープして夜遊びに繰り出す学生も少なからずいるけれど。良太郎の中学・高校時代はあまり夜更かしなんかはしないタイプだったので、夜に現れた少年は奇妙に思えた。
     それに、あの傷。
     ―泥の汚れの理由は想像がつく。猫が死んだと言った。おそらく良太郎が公園で見かけたあの子猫。…埋めたのだろう。
     しかし顔やら腕やらに付いた擦り傷は他人から危害を加えられたような、虐待でもされたような印象を受ける。自分の関わっていい範囲の事ではないかもしれないが、かと言って保護した以上、ただ帰す事も出来ない。
     疑問は沢山ある。何を訊ねればいいのか考えているとシャワーの音が止み、少年がリビングに戻ってきた。―その姿に良太郎はぎょっと目を剥き、慌てて駆け寄った。
    「―服、洗濯機の上に用意しといたじゃない…!」
     全身濡れたまま裸の姿で現れた少年は「だってー」とぐずる。
     良太郎は洗面所からバスタオルを持ってくると少年の身体を拭き始めた。されるがまま、母親に面倒を見てもらわなければ何も出来ない子供のように突っ立っている少年の、腕から脚から、尻と股間まで拭いてやりながら、何でこんな事…と落胆しつつ、―彼の裸に星のように散らばっている打ち身のような痣や、顔と同じ擦り傷を見て誰にともない怒りのようなものを覚える。
    「足の裏と頭は自分で拭けるでしょ? ―服持ってくるから ちゃんと着て」
     良太郎からバスタオルを渡され、それを手に持った少年は一瞬考える表情をしたけれど、すぐに無邪気な顔で言う。
    「だって、どうせ脱ぐんなら着なくていいでしょ?」
    「え…?」
    「ねぇ、早くしようよ。寒くなっちゃうよ」
    「ちょ、…ちょっと待って…!」
     少年に腕を引っ張られ、良太郎はまた慌てた。
    「何言ってるの…。…―何をするって言うの…」
    「痛いことするんでしょ? ぼくのこと おうちに入れてくれるひとはみんなするよ?」
     見上げてくる瞳はただ不思議そうで。子供が純粋に『どうして?』と、尋ねるのと同じだ。目的語の抜けた会話だが、彼の言っている内容は解った。セクシャルな意味で誘っているのだ。厳密に言えば誘っているのではなく、良太郎の意に応えようとしている。勿論それは良太郎の意なんかではなく完全に勘違いなのだけれど。
     良太郎は腕を奪い返すと洗面所から替えの服を持ってきて、彼の頭に強引にロングTシャツを被せた。少年はもぞもぞと袖を通す。
    「―そんな事が目的で君を部屋に上げたんじゃない」
     へんなの、と怪訝にする少年に下着とスウェットパンツも穿かせ、リビングに座らせる。インスタントの珈琲を淹れようとしてふと甘いココアに切り替え、良太郎は湯が沸くまでコンロの前で待っていた。
    「…君の家は?」
    「ないよ?」
     身体を温め元気になった少年はココアを出すと甘い香りに顔を綻ばせた。良太郎の質問に答え、一口啜ると熱さに驚いて舌を出す。
    「…名前は?」
    「しらない」
    「…年齢は? 学校は? ―どうして僕のアパート…」
    「学校なんて行ってない。いい匂い辿ってきたから、えっと、…りょーたろーのおうち、すぐわかったよ」
     少年はテーブルの隅に置かれたDMの宛名を見て、良太郎の名を呼んだ。尋問に対する回答の不毛さに良太郎は『犬のおまわりさん』になった気分で困り果てた。
    「…―君に『痛いこと』をする人は、誰なの? 知り合い?」
    「んーん、全然しらないひとたちだよ。ぼくが公園にいると、あったかいおうちで、おいしいごはん食べさせてくれるって。お金もいっぱいくれるけど、ぶたれるし、きもちわるいし、やだな」
     家がない。名前がない。学校にも行っていない。
     ―…警察に、……いや、でも、そんなところに行けば誰かから彼の受けた性虐待も暴かれるのだ。
     …―そんな事を気にしている場合か。寧ろ暴かれて警察や施設に保護された方が、きっといいのかもしれない。…でも、彼に、訴えるつもりがないのなら―…
    「―ねこさんにね、ほかほかのごはん、届けてあげようと思ってたんだ。そのあとりょーたろーに傘かえそうって思ってたのに、ヘンなやつが邪魔して。…終わったあとで急いで公園いったけど、ねこさんお腹すいて死んでたよ。…あいつ許さない」
     ココアから立つ湯気を眺めていた少年はマグカップを握る手に力を込めると、ぞっとするほど冷たく瞳を細めて、人が変わったように低く呟いた。
     言いたいことは胸の中に山ほど渦巻くけれど、どれも言葉にならない。彼の子猫を失った悲しみを感じ、それに同調も覚えるけれど、それより罪悪感が芽生えてくる。自分は子猫に救いの手を差し伸べられなかった。『ありがとう』なんて、本当は言ってもらう価値もない。
    「とりあえず遅いから、もう。…寝よう」
     良太郎は誤魔化すように、何の解決もないまま話を中断させた。
    「今日は僕の部屋に泊めてあげるから」
     少年は「これ全部飲んでからね!」と笑い、少し温くなったココアに再び口をつけた。




    -------------

     ―孤独になるのは、世界中から嫌われて一人ぼっちになった時でも宇宙の涯ての闇より暗い暗闇に放り出された時でもない。優しさを忘れた瞬間だ。自分以外のすべてを忘れてしまった瞬間だ。だから誰もが光を探す。愛すべき隣人を照らしてくれる清らかな光を。…だから誰もが唄を歌う。愛すべき誰かが自分を見つけてくれるように、と。
     夜が明けたら、乱れた毛布とシーツの皺を残してベッドはもぬけのカラだった。虫籠に捕えたはずの蝶がいつの間にか消えていた、子供の頃。―でもあの頃のように、不思議に思ったりはしない。
     洗濯機の中に濡れたまま取り残された衣服と、紙幣の屑が、無惨に引き千切られた羽のように底に貼り付いていた。



    [猫と宇宙船。]Act 02


     今しがた客の去ったテーブルを片付けていた良太郎は、新しくオーダーする声に、急ぎ汚れたグラスを銀のトレイに載せた。テーブルを拭き、洗い物を奥のシンクに隠すと注文を取りに行く。
     彼の居城とばかりカウンターの席に陣取ってウェイターを待っているのは、少し前から単身店によく来る壮年の男だった。良太郎はすでに幾度か彼からオーダーを受け取った事があったし、彼からの呼びかけに応酬して会話を交わした事もある。浅黒い肌とぎょろりとした野心的な眼が印象深く、そして彼のオーダーの仕方も奇想的に大胆で、人覚えのいい良太郎にしても中々、容易に忘れ難い人物だった。
     彼はメニューの一番上を指差し、次に適当な場所を指し示すと『ここからここまで持って来い』と横柄な態度で言う。漫画のような注文の仕方に最初は店中で訝しがったが、彼は出されたメニューを片っ端から呑み尽くし、喰い尽くした。底なしの胃袋を持っているようだ。―と言っても此処は本来、飲むのを目的としたバーで、(…真の意味で言えばそれも目的からは少々外れるけれども、)軽食やつまみはとりあえず揃えていてもレストランや食堂のように食事的に充実しているわけではない。単純に腹を満たすのが目当てなら、言うなればこの店は不相応ではないか。…訊ねると男はブラックライトの下で皮肉的に哂い、何処へ行っても、どれだけ喰っても結局彼の空腹を満たす場所はなく、この店の薄暗い証明が気に入っているのだと言ってラムの刺身を豪快に頬張った。
     この店に訪れるのは彼のような、ある種特殊な男性しかいない。それぞれ目的を持っていたり、ふらりと迷い込んだり、冒険がてら様子見に訪れたりと様々だけれど、大体が性癖的マイノリティーだ。意欲的にパートナーを探しに来る人、理解者のいない寂しさを紛らわせにやって来る人、自分に合った空気を求めて安心したがるだけの人。
     テーブルが一斉に埋まるという繁盛をするような店ではなく、時々バイトのウェイターである良太郎と一人の客だけという寂々とした空間になる事がある。人によっては気さくに話しかけてくるので良太郎は相槌を打つ程度に相手の話を聞くし、逆に、場に慣れず萎縮しきった気弱な客には良太郎の方から声をかける事もあった。
     浅黒い男は不意に喰うのを中断すると、終わった食器を片付けようとする良太郎に相手をするよう呼びかけてきた。良太郎は素直に隣に座ると彼の差し出してきたジントニックを見下ろし、飲むかどうか迷いながらいつものように独白的な彼の話を聞いた。
     男は牙王という名の、時計メーカーの社長だった。彼が数年前に美しい妻と、遅くに授かった幼い息子を亡くしたというのは前回までに聞いた話だ。牙王は息子と妻を愛しており、彼女らとの思い出もまた愛していた。彼の会社で有名な『ルパン』というブランドは、怪盗ルパンにさえ盗むことの出来ない宝石のような時間、という意味が込められているらしい。牙王は神を嘲るように口角を上げて言った。
    「時間なんて、時々無性に喰い潰してやりたくなるよ」
     ―人は自分に不足を感じた時、或いは腹が減るものなのかもしれない。餓えて、渇望して、何を喰らっても、埋まる筈のない空腹に苦しみ続ける。時はそれでも心無く未来を紡ぎ、過去に囚われた人を置き去りにする。
     牙王は、愛する妻以外の女を抱く気にならないと言う。愛する息子以外の自分の子が、成される可能性のある行為が、殺人や強盗などよりも業の深い不徳を覚えると言う。
     良太郎は牙王に何処か、―全然似てはいないと思うのに、写真でしか見覚えのない自分の父親の姿を投影させると口元だけで微笑した。
    「…僕の父さんも生きてたら、同じくらい想ってくれたかな」
     この店に訪れるのは、彼のような男性しかいない。そして、…自分のような人間しかいない。奇妙に安っぽい仲間意識が築かれる場所。
     牙王の視線にやられたようにグラスの中の氷が音を立て、良太郎はぎょろりとした彼の瞳を見詰め返すと薄く口唇を動かした。
    「―抱きたくないのは、女の人だけ?」

     生活の中で。麝香と煙草の匂いのする男の腕の中で、雨の日の少年の事などすぐに忘れてしまいそうだった。辛くない記憶ばかり、昔から、簡単に忘れてしまえる。―太陽が南の天上に移動する少し前に欠伸を噛み殺しながら良太郎はアパート近くの公園まで帰ってきた。空は晴れ間が広がっていたがたまに吹き抜ける風は肌寒い。もう少し歩けば、自分の部屋でゆっくり休める。
     眠気を感じるまま虚ろに公園を通り過ぎようとすると、中から諍い合うような声が聴こえてきて。間もなくロングTシャツにスウェットパンツというだらしのない格好をした少年が、中年の警官に引きずられるようにして公園から出てきた。
    「―少し話を聞くだけだと言ってるだろう」
    「やだってば、ぼく行かない! やだ!!」
     少年は腰を引いて抵抗するが警官は聞く耳を持たず、少年を競りに出されるのを怯えて抗う家畜か何かのように力尽くで連行しようとする。―最初は『また会った』くらいのぼやけた認識しかなかったがやがて、慌てる少年の瞳が劇的に変化し、暗く耀く光で警官を睨めつけるのを見ると、良太郎はハッとし直感的に駆け出していた。
    「あのっ…―それ僕の弟なんですけど…!」
     左手を構え何らか攻撃しかけた少年と警官の間に入って、良太郎は少年を後ろに庇い隠すような格好で警官を見上げた。警官は驚いたようだったが、「このコが何かしたんですか?」と訊ねればすぐに少年の腕を解放し、少年が公園に積まれた土管の中で眠っており身元を訊いても不明、格好も怪しかったので補導しようとしたのだと教えてくれた。―この弟は昨夜両親と喧嘩したきり家を飛び出したままで、探していたのだと。良太郎は咄嗟に嘘を口にしていた。
     良太郎と少年を並べて見遣って納得したのか、警官が去った後で良太郎はホッと肩を下げた。―それをきょとんと眺めていた少年はすっかり無邪気に、小首を傾げた。


     *


     …何故助けてしまったんだろう、―いや、助けたと言えるのかどうか。あのまま流れに任せた方がこの少年の為だったかもしれない。けれども、あのままだったら少年が警官を攻撃し、取り返しのつかない事態になりそうな予感がした。
     良太郎は温度の停まりかけた公園を眺め、眉を顰めた。少年の衣服は数日前に良太郎が貸した部屋着のままだ。
    「…公園に泊まってるの?」
    「うん、でも、見つかっちゃったから場所変えなきゃ」
    「もう冬だよ?」
     コートも毛布も持たずに冷たい土管の中、屈葬されるように身を折り曲げて眠る少年の姿が不意に脳裏に浮かんだ。その姿が想像の中でだんだんと白く縮まって行き、最後には手のひら二つ分ほどの猫に変わる。―寒さと空腹で身動きしない。
     危ないし、こんなところで野宿するのは賛成出来ないと、少し感情的に詰め寄れば少年は「だって」と呟き、「行く場所ないもん」と続けた。ない袖は振れない。ない家には、帰れない。―彼に性虐待を働くような人間の部屋を渡り歩けとも、まさか言えない。帰る家のないこの少年は何処へ行っても同じような生活を強いられるのだろうか。
     それが傲慢な決断かどうかは判然としない。けれどもこのまま少年を見捨てれば自分が酷く冷徹で孤独な人間に成ってしまうような気がした。…助けられなかった子猫への贖罪をどこかで払わなければならない気がした。
     良太郎は迷いの末に、自身の腕を抱いて寒さを凌ごうとする痩せっぽちの猫のような少年に、「僕の部屋においで」と手を差し伸べた。

     春になるまで部屋のスペースを一部貸すだけで、少年の生活に深く干渉はしない。見返りも求めたりしない。勝手なタイミングで出て行くのは自由だ、ただし出て行くのなら必ず告げて行く事。
     あとの細やかなルールは都度決めていけばいいかと、軽く注意した良太郎は少年にシャワーを勧め、自分は一足先にベッドに入った。自棄や混乱ではなく、どうにでもなれ、という気分だった。
     不用意に少年を保護して結果後悔したとしても、それを言うなら少年を見捨てた時点で自分は別の後悔をしたはずだ。
     布団の中は中々暖まらず手足が冷え込む。眠気はねっとり張った薄い膜のように全身に覆い被さってくるのだけれど決定的な睡魔は訪れず、良太郎はずるずると思考と夢の狭間を行ったり来たりしていた。
     10分ほど微睡んでいただろうか、隣のリビングに足音が戻ってきたかと思うと良太郎の私室のドアが開き、肩にバスタオルをかけた裸の少年が乱入してきた。―またか、と小さく失意したものの身体の水気は拭いているようなのでまだマシか。髪は濡れたままだった。少年は良太郎に伺う事のないまま布団の中に潜り込んできて、「いっしょに寝ていーよね?」と笑う。
     擦り寄ってきた身体は女性的な柔らかさとは程遠かったけれど、シャワーを浴びたばかりで湯たんぽのように温かく、『まぁいいか』と良太郎は無意識のうちに彼の背に腕を回した。いい匂いがする。
     ふわふわと大きな、泡を抱いているみたい。
     少年は四肢を縮めて良太郎の胸にうずくまる。
     だんだんと意識が遠のいていく。

     ―どうして、やさしくしてくれるの?

      …ふと静かに聴こえた声に夢現で良太郎は答えた。

     ―僕も、…君と同じだから。

     いつからかひらひらと辺りを、蝶が舞っていた。現か、夢か。貝殻のような羽で優雅に空を扇ぎ、眩しい虹色の鱗粉を散らしながら室内を漂う。煌くような羽音で唄いながら、踊りながら、還る場所を探して漂う。
     …そうだ、君の名前は。
     …名前がないと、呼びづらい。
     思っていると、『名前を付けて』と胎児が笑った。良太郎は瞼の裏の無限に広がる暗闇の中に浮かぶ白い胎児と会話していた。
     ―それじゃあ、…リュウ。
    『リュウ? ぼく、リュウって言うの?』
     ―…弟が生まれるはずだったんだ、僕が3つの頃。お腹が大きくなる前に父さんと母さんと姉さんと、揃って行った家族旅行で…事故に遭って、両親はどっちも死んじゃったけど。
    『りょーたろーには、お姉ちゃんがいるんだね』
     ―でももう、帰れない。姉さんはいるけど、…帰れないよ。帰りたい場所なんて何処にもない。…死んじゃった母さんのお腹にいた子供は、…きっと、龍太郎って名前だったかもしれない。きっと、元気なコだったんだ。君みたいに手の焼けるいい子だったんだ。だから、…リュウ。
    『ぼく、りょーたろーの弟なの?』
     ―気に入らなかったら、変えるけど。
    『ううん、いい。ぼく、リュウでいいよ!』

     その胎児の無邪気な声は、いつの間にか自分の身体から分裂して何処かへ旅立ってしまった幼心が裸足のまま戻ってきたような愛おしさを感じさせた。胸にくり貫かれた『純粋』という型をした隙間に温かく入り込んで、少し胸を切なくさせる。…おかえり、家のない君。

     おかえり、家のない、―もうひとりの僕。





    -------------

     リュウを居候させて3日目、19時。
     居るだろうかと案じながら良太郎は隣のチャイムを押した。
     辺りはすでに闇色に呑まれ、アパートを囲う大気は涼しいと言うにはあまりに涼しい。電灯に群がる虫も無く、―それらは今頃、蟻の家を捜しているのだろうか。
    「ねぇりょーたろー、何が出てくるの?」
     ドアが開くのを待つ間、背後からひょっこり顔を出し大きな声で尋ねてくるリュウに、良太郎は唇に人差し指を当て、「しっ」と沈黙を促した。小気味良い電子音に遅れて中から足音が聴こえてくる。
    「リョータロー? 何か用?」
     やがて現れた部屋の住人は、冬の空気に良く合った澄んだ軽い調子の声。いつもしっかり撥ねさせている後ろ髪も少し崩れて、ラフな格好。見知った良太郎の後ろに見知らぬ少年の姿を見留めると、ドアノブを掴んだままハタと停止し、メガネの奥の青い瞳を丸くした。
    「よかった、居てくれて」
     ―まだ若い隣人の男は「ちょっとお願いがあるんだけど」と切り出された良太郎の用件を聞きながらスマートに姿勢を正し、腕を組み、良太郎の後ろに控える貧相な少年を思わしげに眺めた。良太郎を覗き込むように見て「ねぇねぇこれ誰?」と外見年齢に相応しくない無邪気な動きで小首を傾げる少年、リュウは、熱っぽい顔をしている。
    「―とりあえず、中へどうぞ?」
     疑問はあるようだったが一先ず、隣人の男は右側に一筋垂れ下がった青いメッシュの髪を耳に掛け直し、二人を部屋の中へと上げた。



    [猫と宇宙船。]Act 03


     ―こぽこぽと音を立てている。
     水槽には尾ひれを優雅にたなびかせ、金魚が三匹泳いでいる。
     冷たい硝子ケースに張り付いて、ともすれば食べてしまいそうな勢いでそれを眺めるリュウから視線を戻すと、良太郎は改めてテーブルを挟んで向かいに座る男、ウラに頼み込んだ。
    「―あずかって欲しいって? このコを?」
    「…熱があるみたいなんだ。ほんの微熱だから大丈夫とは思うんだけど、僕は今夜も仕事で看れないから、念の為に」
     ウラは黒いシャツの袖から覗く良太郎の細い腕と拘束具のように填められた金の時計を注視し、『仕事ね』とさりげなく呟く。
    「一晩だけでいいんだ、泊めてくれるだけでいい。―もし夜中に熱が上がったりしたら、…その時は悪いけど、世話してくれると助かる。僕も帰ってきたら朝一で迎えに来るから…」
     良太郎は、いつの間にか部屋に干されたジャージやトレーナーをからかって遊び始めたリュウを、窘める意味も込めて傍に呼んだ。
     リュウは大人しく良太郎の隣に正座し、良太郎を真似て背筋を伸ばす。
     ―このリュウを保護する意味で部屋に連れて来てからまだ日も浅く良太郎は自分こそリュウの事を何も心得ていないと言うのに他人に預けるのは無責任のようで気が引けたけれども、リュウは今朝から微熱を出してしまっていて、(今まで寒空の下で野宿をしていた上に急に環境が変わったのだから、無理もない。)―本格的な風邪にはなっていないとは言えリュウの精神の幼さゆえに、夜に一人で放って置くのは心許なかった。
     良太郎はもう一度だけ「駄目かな?」とウラに促した。
    「―キミは、『リュウ』って言うの?」
     ウラが話しかけるとリュウは誇らしげに答える。
    「りょーたろーの弟のりゅーたろーで、リュウだよ」
    「ふーん… ―弟?」
     良太郎の家族構成を既に把握しているウラはそれでも何も言わず、少し考えるような素振りを見せる。一時的にリュウを部屋に住まわせている経緯を粗く説明し、良太郎が返答を待っていると、ウラは良太郎の縋るような目を裏切る理由も無く頷いた。
    「ま、手の掛かる赤ん坊ってわけでもないし、それくらいなら構わないけど。明日は休みだしね」
     アロマの焚かれたばかりの部屋はウルトラマリンの香りが充満し、片隅には電子ピアノが置かれている。ウラが了承すると良太郎は若干引き攣った笑い方をし、申し訳なくウラを見詰めた。
    「…赤ん坊の方が、まだ手は掛からなかったかも…」
    「え? 何か言った? リョータロー」
    「ううん、なんでも…」
     言葉を濁した良太郎にウラは小首を傾げた。
    「あっ、これ何?!」
     ―と、突然リュウがカーペットの上に落ちたものを拾い上げ、歓声を上げる。まるで宝石でも拾ったような楽しげな声だ。
     リュウが不思議そうに天井に翳したものは、折り紙で作られた『かめ』だった。かめの落ちていた辺りに折りかけの朝顔と、大きな画用紙と、クレヨンも転がっている。
    「ウラは保育園の、かめ組の先生なんだよ」
    「へ~、すご~い。すごいね、かめちゃん!」
     良太郎が説明するとリュウは歓喜してウラを指差し、彼におかしな仇名を付けた。ウラは一瞬、その整った容貌を引き攣らせた。
    「ねぇ、かめの他には何が作れるの? ねこは? ぞうさんは?!」
     熱の所為か興奮した赤い顔で。受け持つクラスの幼児と同じレベルではしゃぐリュウに迫られ、その騒々しさに圧倒されたウラは、仕事外で仕事するなんて御免だと、早々リュウを寝室へ押し込めた。
    「はいはいはい、大体事情はわかったから、熱がある子は大人しく寝て早く良く治しましょうね…!」
    「えっ? りょーたろーは?! ぼく、りょーたろーと寝る…!」
    「残念、リョータローと寝るにはお金がかかるんだよ」
    「えー? なんでーー??」
    「大人になればわかるよ。でも、一人で寝れるようにならないと、いつまで経っても大人にはなれないねぇ?」

     髪や服を乱されながらもやっとで暴れるリュウを寝かしつけると、ウラはひどく草臥れてリビングへ戻ってきた。初っ端からこんな調子で大丈夫だろうかとリュウを、…もとい、ウラを心配に思いつつ、良太郎は控え目にウラを見上げた。


     *


    「―なんか随分とヘンなの拾ったねぇ、リョータロー」
     リュウが眠ってしまってから、ウラは珈琲を淹れてキッチンから戻ってきた。彼の手に持たれたカップから不規則に揺らぐ白い煙はいい香りを立てながら天井に昇っていく。
    「…ごめんね、ウラしか頼れる人がいなくて」
     ミルクを入れて撹拌の済んだ方を良太郎の前に置くと、ウラはもう一つのカップに口付けながら腰を降ろした。黒光りする液体の表面がウラの顔を映し出す。
    「困った時はお互い様。―と言っても、信用出来る相手としか貸し借りしないけどね、ボクは。それにしても少し会わないうちに男の子を囲ってるだなんて、リョータローも大胆な事するなぁ」
    「…そんなんじゃないってば」
    「冗談だよ。―ホームレスの子供を放っておけないなんて、ホント、人が良いんだから」
    「…それは、ウラの方でしょ」
     良太郎が返すとウラは空惚けて視線を上方に投げ、それから形のいい唇を自嘲的に吊り上げた。
     ―ウラは、良太郎の恩人だ。一年ほど前、手荷物すらも持たず路頭に迷っていた良太郎に今のバイト先を紹介してくれたのも、今暮らすアパートの部屋を都合つけてくれたのも彼だった。
     ウラは此処から二駅先の保育園に勤めていて、週末の夜には繁華街の灯りに紛れて道楽的なホストのバイトや、金持ちを引っ掛けて小稼ぎする遊び人になる。保育園で仕事をこなす普段はカモフラージュに茶色のコンタクトレンズを着けているけれど、彼が彼として遊ぶ時だけレンズを外し、―視る人を吸い込んでしまいそうに鮮やかな海色の瞳が本当だ。
     ウラが最初に良太郎に声をかけたのはただのキャッチ目的で。彼のルートにあるアブナイ店にバイトとして良太郎を売り込み、店から紹介料を受け取る心組みだったらしいのだけれど、―何よりもまず先に『ダサい』格好をした良太郎のルックスを改善しようとしているうちに良太郎の事情に肩入れし、いつの間にか親切なお兄さんになってしまっていたのだ。―ウラは高校の卒業証書も持たない良太郎に、当初の店とは別のソフトな(…彼の守備の中では比較的ソフトな)バイトを紹介してくれて。…行く場所のない良太郎に、ちょうど空きの出たウラのアパートの隣部屋を勧めてくれた。
    「…訊かないんだね、リュウのこと」
    「うん?」
    「って、僕も答えられないから、訊かれても困るんだけど」
     一年前と同じように。ウラは無闇に良太郎やリュウの事情を詮索して来ない。ウラは自分を詐欺師だと言って憚らないけれども素っ気無い素振りで与えられる彼の優しさにはいつも偽りがなく、その事が良太郎を安堵させるし、すまない気にさせる。
    「ボクも他人を疑えるような生き方はしてない、ってね。―結局、一つの場所に集まる者は似た者同士でしかないんだよ。…土竜のように生きている人間はさ、時々、太陽の下で生きている光生物に憧れてその場所を羨んだり、妬んだりもするけれど、自身が光の下にさらされるとあまりの眩しさに殺されてしまう。寂しい人間は何処まで行っても寂しい場所でしか生きられない。その寂しさを紛らわす為に仲間は集う。暗く栄えた偽の光に群がって一時だけでも慰め合う。―あのコも、…その場に居る、って事だよね」
    「……」
     …その言い方だと、ウラもそうだと言っているように聞こえる。
     良太郎はウラの言葉を真っ直ぐ受け止めていたけれど、…ふと思い出して尻のポケットから薄い封筒を取り出し、それをウラの前に差し出した。
    「そうだ、忘れるとこだった。これ、今月分」
     ウラはそれを見て呆れたような困ったようなニュアンスを表情に滲ませ、思案気に唸った。
    「だからこんなのいいって、いつも言ってるのに」
    「うん、でも、やっぱり僕の気が澄まないから…」
    「相変わらず生真面目だなぁ。あんな端た金、―元々そんなにきれいなお金でもないんだし」
    「…20万は、端た金じゃないよ…」
    「ん、…―まぁとりあえず今回も一応預かっておくけど。本当に気にしないで。それに代価だったらとっくの昔に貰ってるんだからさ」
     ウラの青い瞳と目が合って、良太郎は小さく畏まった。
    「それでも、僕なんかと一晩…したくらいじゃ、…―ウラの割りに合わないでしょう?」
    「そんな事もないけど。…あの頃リョータローが他人を受け容れるのは、まだ相当、辛かったと思うし」
    「……」
     ウラの言葉にほんのり『あの頃』の感覚を思い出し、胸の奥がちくりと痛む。
     20万。…というのは今の部屋と契約する時、保護者の名義と一緒にウラが貸してくれたものだ。良太郎の部屋に揃えたささやかな家具や服や最初の頃の生活費を含めるともっと大金になる。
     ウラは自ら出した金は帰って来ないのを前提にしていて、彼の方からは返済を求めて来たりはしない。けれども良太郎はけじめをつけたかった。
     この部屋を借りる時、知り合ったばかりの赤の他人にそこまで奉仕してもらえる理由はないと遠慮する良太郎に、ウラは代価として(今思えば、ほんの冗談のつもりだったのかもしれないけれど、)良太郎との一夜の交わりを要求した。それで、一応、交渉は成立している。しかしホモセクシャルでもないウラが、特に取り得もない良太郎を抱いたところで何の得になるわけもないし、それ以上に一夜で20万だなんてあまりに不当なインフレーション。
     それ以外にも色々世話になってしまっているし、もう少しで全額返せるから。―貸し借りがなくなったら良太郎は、改めてウラと親しい『友達』になりたいと、思っている。
    「ところでリョータロー、最近いい仕事してるみたいだね。こりゃ無理してお金返さなくてもいい、なんて言うのも野暮かな。その時計、『ルパン』でしょ」
     ―ウラに指摘された腕時計をなんとなく右手で隠して、良太郎はじとりとウラを見上げた。「そのブランド、ボクも気になってたんだよね」と言うウラに本当は『あげようか』くらい言ってしまいたかったけれども。


     ―翌朝、
    「…ちょっと、リョータロー、何なのこのコ…!!」
     良太郎が予定外に遅れて仕事から帰ってくると、血相を変えてウラが玄関先に飛び出してきた。ウラの顔には猫の爪に引っ掛かれたような新しい傷痕が幾つもあり、部屋の奥からはドタンバタンと騒がしい音が聴こえてくる。
     中へ上がると清潔そのものだったオフホワイトの壁には隙間ないほど花や動物のらくがきがクレヨンでされており、床も画用紙やチラシがいっぱいにばら撒かれていて足の踏み場もない。
    「あっ、りょーたろーおかえりぃ!」
     ―元気になったのか、ご機嫌な様子で手を振り回すリュウ。ポップコーンを雪のように撒き、ピアノを弾いて気侭に笑う。
     妙にボロボロになったウラは珍しく癇癪気味な声で嘆き散らした。
    「このコってば夜中に突然起き出してからずっと部屋の中で歌ったり踊ったり、散らかすし、ボクの可愛いモモコとキンタとオウジを野良猫の餌にしようだなんて信じられない…! ―あぁ、来週のお誕生会で使う折り紙全部、休日返上で作り直さなきゃだよ、ったく…!!」
    「あははっ かめちゃんちって、おもしろーい♪」
     がっくり肩を下げて戦意喪失させる、ウラの気持ちはよく解る。
     良太郎は仕事疲れに困憊を重ね、引き攣った顔で「ごめんね」とウラの背中に苦笑した。




    -------------

     ―カーテンの数cmの隙間からリビングに飛び込んでくる、光の角度がだんだん鋭くなってくる。軒並み近所の活動が活発になる頃良太郎がベッドに入ると、すぐさまリュウも彼の細い体躯を良太郎の隣に並べてきた。
     キッとベッドのスプリングが軋み、良太郎は羽毛の掛け布団が平等に掛かるように調整すると、リュウと向かい合わせる形で横向きになった。コタツに隠れる猫のように身を丸めてぬくぬくと暖を取っているリュウは、目を瞑ってはいるけど、まだ全然眠そうじゃない。
     良太郎は重い瞬きをした後、そっとリュウに呼びかけた。
    「リュウ、僕を待たないで、先に寝ててもいいんだよ…?」
     この部屋に居候する形になってから、リュウはこうして良太郎と一緒に寝ている。リュウは裸である時もあるが、ただ寄り添って寝るだけだ。良太郎は早朝に眠りに就いて昼過ぎに起きる生活をしているので、だからリュウも良太郎の仕事をしている夜中に起きていて、冷たい夜を一人で過ごす。そして朝になって良太郎が帰宅すると同時に布団に潜り込む。そんなサイクルが身につき始めていた為、リュウはウラの部屋でも中途半端な夜更けに目が覚めた。
     もしかしたら居候である身を気にして自分の帰りを待ってくれているのかと思い、良太郎はリュウにそう言った。遠慮しないで寝ててもいいよ、と。―そうでなくてもこの部屋にある質素なシングルベッドでは男二人が寝るには狭く。幾らどちらも小柄で細身だとは言え。手足も伸ばせず窮屈だ。就寝時間をずらした方が互いに伸び伸びとした休息が取れる。それに、時間に拘束されないリュウがわざわざ昼夜逆転した不健康な生活を送る必要もない。
     しかしリュウは目を閉じたままふるりと首を振って断った。
    「んーん、ひとりで寝ると、さむいから」
     リュウが語尾を言い切る頃にすっかり瞼を落とした良太郎は、彼の言葉に妙に納得しながらぼんやりと唇を動かした。確かにリュウがいるだけで、布団の暖まりが早い。…ひとりはさむい。
    「―熱、…下がった?」
     眠りに落ちながら尋ねる良太郎にリュウが頷き、小さく身じろぐ。
    「うん。もう熱、さがったよ」



    [猫と宇宙船。]2009.01.08-2009.01.29

    Act 04


     それから一週間。
     リュウはひたすら部屋に籠もって、チラシの裏を使って落書きをしたり、ウラを倣って不器用に折り紙をしてみたりと内向的な遊びで時間を潰していた。晴れの天候にも拘わらず、一歩も外へ出ようとしない。理由は単純だ。合鍵を持っていないから。
     服は良太郎のお下がりの二着、しかも夏用の半袖Tシャツと古着のカーゴパンツを着回していて、エアコンをフル稼働させたリビングの弾力性のないカーペットの上に寝そべって、鼻歌を口ずさみながら遊んでいる。元々、籠もりがちな性格ではあるのかもしれない。外に出られない事について特別リュウが不満を訴えるような事はなかった。ただ、音楽を聴きたがって、良太郎の持っている数少ないCDの中に彼好みのものがない事を知ると、ひどくつまらなさそうにして文句を垂れた事は最初にあった。
     ジャンクフードが好きで、キャラメル・ポップコーンを主食にして『ごはんいらない』と言う日がよくあった。飽きたら食べかけのお菓子も平気でその場に投げ出し、部屋のあちこちを食べ零しで汚す。良太郎はクレヨンや絵の具の類は持っていなかったのでウラの部屋のような惨事にはならなかったものの、良太郎の居ない夜中、キッチンの戸棚に仕舞い込まれた新品同様の調理器具や食器などをリビングいっぱいに持ち出して、楽器代わりに音を鳴らして深夜のライブを催したりと、彼の狭い活動範囲の中リュウは奔放で、良太郎の頭を悩ませてくれた。―その月の終わりにポストに投下されていた電気の使用料金が急激に跳ね上がっていて、軽くテロを喰らった気分だった。本音を言えば、これらもリュウに夜寝て欲しい理由の一つだ。
    「リュウ、おいで」
     十二月初旬、買い出しのついでにようやく合鍵を作った良太郎は、バイトに出る前、リビングにうつ伏せに寝転びアヤトリをしているリュウを呼んだ。リュウは赤いアヤトリ糸を指に絡めたまま、リビングの入り口付近に佇む良太郎の元へ近付いてきた。
     リュウの手のひらにチカチカと光る合鍵を渡すと、リュウはそれを翳して小首を傾げた後、何億光年も先にある星の光を見つけたように顔を綻ばせた。リュウの瞳にもきらきらした星が宿っている。
    「りょーたろー、これ、何のカギ?」
    「合鍵。失くしちゃ駄目だよ? 部屋に入れなくなっちゃうから」
    「あいかぎ?」
    「今まで部屋に閉じ込めててごめんね。これで昼間とかも自由に外に遊びに行ったりしていいから。遠くでも近くでも、好きなところ行って、外でいっぱい遊んで、暗くなる前には帰っておいで?」
     そう言うとリュウがほんのり眉を顰めるので、良太郎は「ね?」と念を押した。―そんなリュウの手にすっぴんのまま持たれた鍵が頼りなくて、良太郎は部屋からペンダントを持ってくるとそれを鍵に通しリュウの首に掛けた。リュウは首から提げられた鍵を握り締めると難しそうに呟く。
    「そんなのおかしいよ。帰ってこなくちゃいけないおうちがあったら遠くに行けないよ。…どこにも行けないよ」
     …―何処にでも行って、帰っておいで。ただの定型句のようなつもりで言った良太郎はリュウに対して答え方が分からず、口元だけに微笑を浮かべると「もちろん君がここに帰って来たかったらだけど」と付け足した。強制はしない。束縛も、するつもりはない。
     それから殆ど誤魔化すような形でバイトの為に部屋を出た。リュウはそれ以上、その話題を引きずろうとはしなかった。
    「いってらっしゃい、りょーたろー」
     ドアに手をかけた良太郎は最後に、リュウの笑顔を振り向いた。
    「…行ってきます」

     ―無邪気なリュウに見送られて玄関を出てくると、珍しく定時に帰宅したウラと、お互いドアの前で出くわした。こっちは出て行くところで、ウラは帰ってきたところ。機械みたいに入れ違う。
     ウラはリュウの送り声を聴いていたらしく「よくやってるみたいだね」と挨拶代わりに呼びかけてきた。良太郎は苦笑いを浮かべながら頷いて、「ただ電気代が…」と、此方の光熱費事情を知らないウラに苦渋を漏らした。
     その後電車で移動しながらふと、良太郎は、リュウにせめて冬用の新しい服を用意してやるべきなのかとか、小遣いくらいは与えてやるべきなのかと考えた。最低限の協力は必要だとか、いいや甘やかしすぎるのもあの子の為にならないなどと保護者まがいに思い悩む。―どこまでしてやればいいんだろう。自分はウラにどんな風にしてもらったっけ。…ふと。 リュウの呟きを思い出す。
    『帰ってこなくちゃいけないおうちがあったら、遠くに行けないよ』
     車両内は、学校や仕事の帰りらしい人で込み合っている。
     どこにも行けない、と、リュウは言う。―違う、帰って来れる家があるから人は自由で、迎えてくれる誰かがいるから人は疲れながらも羽ばたけて。…そうじゃないなら、自分はもっと遠いところまで、行ってしまえる筈だから。


     *


     合鍵を持ったリュウの生活はだんだん変化を見せてきた。夜行性で良太郎と一緒に寝起きする生活は変わらないけれども、午後から夜の独りの時間に、外に散歩に出たりウラの部屋へ遊びに行ったりする事が増えてきたのだ。ウラの性格を含め、良太郎の部屋よりも遊具や娯楽物の多いウラの部屋をリュウは気に入っているらしく、そこで観たものや聴いたもの、話した事をリュウは朝方ベッドで、興奮冷めやらぬ様子で良太郎に話す。最近リビングでリュウが歌うようになった鼻歌は、いつか良太郎がウラの部屋で聴いたことのあるジャズやレトロポップスだった。
     リュウがいつかのような迷惑をかけてはいないかと心配すると、ウラは『まぁ、適当にやらせてるよ』と適度にあしらいつつ構っているような返事をした。保育士を職業にしているウラがどんな風にリュウを馴らしているのかはおよそ想像がつく。普段はふざけて茶化したところも多いウラだが、基本的には良識人だ。ウラがリュウにおかしな話を吹き込む事はないだろうし、不良の未成年が溜まるような場所で遊び歩かれるよりは全然マシだと良太郎もホッとしていた。けれどもある日リュウは唐突に、彼の所持していたらしい全財産を良太郎に差し出してきた。何かと尋ねれば、『家賃』だと言う。
    「りょーたろー、これ。お家賃。これで足りる?」
     良太郎からリュウに家賃や生活費を請求した事はない。
    「どうして? 君からお金を取るつもりはないって言わなかった?」
    「んーと、かめちゃんが、あんまりりょーたろー困らせたり、迷惑かけちゃダメだよって言うから。ぼくがいて、生活費とか、かかるんでしょう? それにりょーたろーと寝たらお金がいるって、前に言ってた。だから、はい」
     リュウが良太郎の腹部にずいっと金を押し付ける。
     ―良太郎が独りで暮らしていた一月前に比べて生活費が嵩んでいるのは事実だった。しかし、エアコンの使用さえ控えてくれれば後はそんなに痛手でもない。良太郎は個人的な趣味に金を費やす機会も少なかったし、家賃と言えば。良太郎がこの部屋を借りる時、まずウラは元々ここに住んでいた彼の隣人を口車に乗せやんわりと追い出して。その彼の引越しの理由を『ポルターガイスト現象の起こる不吉な部屋の所為だ』と近辺住民に吹聴し、それ以外にも欠陥だらけの部屋である事を大家に強調して訴えた。実際は至って快適な普通の部屋で、ウラが訴えた部屋の欠陥と言うのも『風水的に良くない』だとかの迷信から始まり、住人が付けたささやかな傷を壁紙の質の所為だと大袈裟に非難したり、近所の野良猫の啼く声を水子の幽霊のものだと主張した、極めて詐欺的なものだったのだが。そのまま誰も寄り付かない幽霊部屋を放置したんじゃアパート自体の評価も下がり、やがて住民みんないなくなって破綻するだろうと言った、ウラの怒涛の嘘に騙られた大家はすっかり脅迫観念に取り付かれ、その部屋の家賃をウラのアドバイスするままに引き下げたのだ。―そんな手回しのお蔭で良太郎は通常の半分以下の家賃で部屋を借りられている。だから生活は、リュウ一人を養う事になってもいきなり窮した状態になるわけではなかった。
    「おいでって言ったのは僕なんだし、君がそんな事を気にする必要はないから。僕と寝るのにお金が云々とか言うのもウラの冗談なんだから真に受けちゃ駄目。…部屋を散らかしたり、皿回しをしようとして食器を割ったり、一晩中エアコンを点けっ放しにするような事は出来ればやめて欲しいんだけど、」
     良太郎はリュウの手を押し返した。
     リュウのボロいキャップに素のまま折り曲げて隠して持ち歩かれていた、皺々だったり泥に汚れていたりする、―その紙幣は、リュウが援助交際的に不特定の人たちから得たものだ。
    「でもぼくこれ、いらないし。ちょーだいって言ってないのに、みんな痛いことしたあとで勝手においてくんだ。『またね』って。ぼく、『また』されるのやだから、ほんとはお金なんかいらないし。だからりょーたろーにあげる」
     合わせて十万程度の万札と千円札。体温の低いリュウの手を上からぎゅっと包んで、良太郎はリュウにしっかり彼の財産を握らせた。
    「…お金は大事だよ? みんなね、きっとリュウがかわいいから痛いこともするし、お金もくれるんだね。だからって君がどんな仕打ちをされてもいいってわけじゃないけど。お金って、普通はタダじゃ貰えない。一生懸命働いてる人も、親からお小遣いを与えられる子供も、みんな誰かの期待に応えたり、頑張ってる代償に貰えるんだよ。
    …君にとってそのお金は忌まわしいものかもしれない。君の与えられた苦痛に対価として相応しい金額かどうかもわからない。だけど、君が『嫌だ』と感じる行為に耐えて、その代償に得たお金ならもっと大事にして。自分の為に、…使ったらいいよ」
     リュウの瞳が、戸惑いがちに揺れた。
    「何か欲しいものはないの?」
     尋ねた良太郎にリュウは視線を落とし、その視線の先にある裸の足の指先をむずむずと動かしながら、ぽつりと呟いた。
    「ぼくは欲しいのないけど、…お金あったから、ねこさんとか公園のハトたちに、ごはんあげられたよ」
     あした、また買ってあげようかなぁ。
     そんなリュウに、良太郎はそっと相槌を打った。リュウは音楽のほかに動物が好きらしい。昨夜バイト先のオーナーから自慢気に配られた彼の飼い猫のピンナップを見せたら喜ぶかもしれない。後で見せてあげよう。―気が付けば、点けっ放しだったテレビでは旅行記の番組がエンディングを迎え、どこかの国のフォルクローレが流れていた。





    ⇒[ Act 05 ]
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