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    Sak_i

    二次創作【腐】
    https://twitter.com/pulsate_s

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    Sak_i

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    でんお/ウラ良 過去文

    ##テキスト

    ライリー ―君の声が聴こえない。

    Act 01

     午後8時。最後に店の掃除をこなして良太郎のバイトは終わる。所定の場所へモップを仕舞い、1日使ったエプロンを洗濯籠に放り込んで、良太郎は店二階の自室へと帰ってきた。
     店内の破損や戸締りを点検し その日の精算をしてから、やや遅れて店を切り上げる、姉・愛理の経営するカフェは元々 自分たち姉弟の父親が独身時代から喫茶店を営んでいたもので、多少のリフォームは施されたが 生まれた時から暮らしてきた自分たち姉弟の家だった。 けれども不特定多数の客に踏み荒らされる(―という表現はあまり相応しくはないが、) プライベートの半減した この店は、純粋に家族だけを守る一般的な 『家』 とは何処か違うような気がしていた。それは今も変わらない。
     自分の帰宅を迎える姉の笑みがカウンターにあるのは最早当たり前の安堵で、なければ寂しい、けれども いつからか良太郎は、姉の待つこの店ではなく自分だけの空間を保てる自室に戻ってきた時のみ、真実 『ただいま』 と言えるようになった。
     誰にも気を遣わなくていい場所。気を緩められる場所。…唯一の。
     昼間の戦闘疲労がたたり、ベッドの上に身を投じると勝手に瞼が塞がってしまった。そのまま眠りにつきそうになると、良太郎の脳内に声が響いた。

    『―おフロにも入らないで眠っちゃうの? 男たるもの如何なる時でも清潔を保っていないと、女の子に嫌われちゃうよ?』

     ベッドに体重を預けた途端、腕も、脚も、鉛のようになってしまった。 四肢に枷を付けられて、どこも動かせない感じ。困憊して重々しい肉体に苦痛を覚える自分とは対称的に、軽く軟派な口調。
     睡魔の誘惑に身を委ねようとするのを その声に邪魔され、煩わしく思い、目を瞑ったまま良太郎は枕に顔を埋めた。
    『そうだ、ボクがリョータローの代わりにおフロに入ってきてあげようか? カラダの隅々までキレイにしてあげるよ』
     うん、と魘されるように眉を顰め、寝ながら顔を横に向ける。左の頬を枕に押しつけ数秒間 眠っていた良太郎は、ハタと意識を取り戻してようやくその声に応えた。
    「…明日の朝一番にシャワー浴びるから……―今日は僕のカラダ…」
     いつもなら脳内だけで会話するのだが、気が緩んでいた所為か、それはリアルな呟きとなって良太郎の唇から零れた。
    『…了解、勝手には使わないよ』
     先手でクギを刺された声の主は早々と降参したようだった。
     イマジンが現れた気配もない、デンライナーの中でではなくこんな時間に単独で呼びかけてくるのは やはり、この肉体に憑依して夜遊びに繰り出したいが為の、媚び諂いだったのだ。軽快で明るく、調子のいい声。あのまま何も応えられずに寝てしまっていたら、今夜も身体を乗っ取り、使われてしまっていたかもしれない。…危ないところだった。
     今夜は安眠できるだろう、ほっと胸を降ろして目を閉じる。
    『…お疲れ様、リョータロー』
     声は、良太郎の眠りを妨げない程度に優しく囁かれた。
    『…おやすみ』

     部屋は静かな闇に戻った。―いや、『部屋』 自体はずっと、こうして大人しかったはずだ。薄ぼんやりと灯った小電球が誰も妨げることのない、優しい無の世界へ意識をいざなう。
     …だが、良太郎はその声が途絶えて後、静かに目を開けると部屋の一点をどことなしに見詰め、小さく唇を噛んだ。

     *

     デンライナーの食堂車両は いつも賑やかだった。良太郎が乗り込むと大抵は赤と青、もしくは赤と金が取っ組み合うか喚き合っている。原因は小学生の喧嘩のような、至極下らない事だ。誰が誰のプリンを食べただの、誰かに足を踏まれただのと、とても次元の低い事。時々 傍若無人の紫が姿を現すと、より一層 混沌とした騒々しい空間になる。
     毎日毎日よくも飽きないものだと思うが、そんな彼らを見て何度でも楽しく思う自分がいるのも確かで、つまりはそれがすでに日常という事。飽きる・飽きないの問題ではなく、日常が続くのは、しあわせな事だ。
     けれどもその日、食堂車には1人を残して誰の姿もなかった。いつも赤鬼―モモタロスの着いているテーブルの上に、虎柄の海水パンツが乗っていて。 『何故に、』 と思いながら良太郎は、足を組んでのんびり海色のモカを啜っている、ウラタロスに呼びかけた。
    「…―みんな、何処行ったの?」
     顔を上げたウラタロスは 『やぁリョータロー』と軽い声、爽やかな笑み(?)で挨拶を寄越した。
    「おフロだよ。 ―と言っても今日は暑いから、お湯の代わりに水を溜めた小さなプールになってるみたいだけどね。バーチャル映像でサンディビーチを再現してるってんで、センパイ大喜び。 『今日は10秒間潜る』 んだってさ」
     いつもデンライナーの浴場で泳ぎの練習をしているという、カナヅチイマジンの、10秒間潜水にチャレンジする様を想像して良太郎は口角を上げた。N○K教育の、幼児が1人で歯磨きに挑戦する番組のように、想像の中でカナヅチイマジンの背景に 『ひとりでできるもん』 のテーマソングが流れる。
     キンタロスはそれを 『脱いだ靴下』 のように相手にせず、やはり頭の割れそうな大音量で歌を歌っているのだろうか。―リュウタロスは良太郎の中に居り、どうやら昼寝をしているようだが。
    「ウラタロスは行かなかったの?」
    「―ボク?」
     …人のよく集まる派手な場所が好きで、何だかんだで寂しがり、…と良太郎の勝手に認識しているウラタロスが彼らからはぐれて単独でいるというのが何だか妙な気がして、問いかければウラタロスは一瞬の間の後、釣り用の艶やかな声で良太郎の顔を見上げながら言った。
    「…良太郎が、来るような気がしたからさ」
     ―良太郎に対してもウラタロスはたまにこうして、女性を口説くような台詞を吐く。 それは単に場を和ます為の洒落だったり、良太郎を持ち上げて身体を気安く貸してもらおうという画策だったりするけれど。
     今更そんな言葉にぎょっと驚いてしまい、良太郎は瞳を丸めた。
     全身を引き攣らせ言葉に詰まる良太郎を見て、口元に浮かべていた笑みを落とすと、ウラタロスは改めて苦笑して 『嘘だよ』 と続けた。
    「―ナオミちゃんに留守番 頼まれたんだよ。ハナさんとデートしたいんだって。それにボク、海水パンツ持ってないし」
     良太郎の動揺に気付いただろう、敢えて平常を装ってくれるウラタロスに平常で応えようと、良太郎は精一杯、けれどもぎくしゃく微笑を作った。
    「…そこに、あるのは?」
    「―イヤだよ、あんな鬼のパンツみたいなの。趣味じゃない」
     その如何にも嫌そうな口振りが可笑しくクスと自然に笑いの込み上げた良太郎は、その後 訪れた沈黙にまた全身を緊張させた。
     ―良太郎が、来るような気がして。
     先刻の、ウラタロスの艶に濡れた声を思い出して、胸が締め付けられる気分になる。普段の調子で普段の会話をするのは平気だけれど、不意打ちでそんな声を出されると困る。 自分は、ウラタロスの軟派したがる女の子とは違うのだから。
     ただそれだけの理由で、二人きりでいるのが気まずく、…しかし自分が この場を離れてしまえば再びウラタロスを一人にさせると言うのもわかっていて何処かへ行ってしまうのも、気まずい。
     行き場なくウラタロスの前に佇む良太郎を、見上げてウラタロスは呼びかけてきた。
    「まぁ、…座れば?」
    「あ、…うん」
     着席を促され、頷く。―と言って、あんまり近くに座るのも妙な感じだし、あんまり離れた席に座るのも不自然だ。仕方なしに通路を挟んだ隣の座席に移動すると、ウラタロスは ほんの数歩分の歩行で良太郎の跛に気付いて、座ろうとする良太郎に訊ねてきた。
    「足、どうしたの?」
    「…あ、…今朝、ランニングの途中で挫いて…」
     静かな動作で腰を降ろしながら良太郎は妙な感慨と息苦しさを覚えた。
     挫いたと言ってもそこまで足に痛みはなく、引きずりも ほんの僅かなもので、今日は姉ですら怪我に気付かなかったのだ。―それに気付いたウラタロスは、…それは、彼の観察力が鋭いからで、当たり前のように普段のことで、何も自分のこの足に限ったことではない。…けれど。
     彼はよく見ている。…自分のことさえも、よく。―そう思うと苦しい。
     電車の小さな振動が胸の内まで揺さぶって、漠然と不快感を齎した。
     顔を顰めて無為にテーブルを眺めていると、何かの気配に気付き、顔を上げればすぐ近くにウラタロスが近付いていて、良太郎はビクと身を弾くと、おずおず『何?』と彼に呼びかけた。
     左手をテーブルに着き軽く身を屈めた状態で良太郎の顔を覗き込んでくるウラタロスは、何事かと怖気づく良太郎の頬に右手を伸ばすと親指で目の下を撫でた。
    「―かわいい顔にクマが出来てる。寝不足?」
    「あっ、…―そ、うかな」
    「昨日は8時に寝たのに? …もしかしてサクライユウトや何かの事気にして安眠できない?」
    「いやっ…だ、大丈夫だからっ…」
     良太郎は明らか動揺し、吃りながら、ウラタロスの手を振り払おうと顔を引いた。その反応にピタリと停止したウラタロスは妙な間の後、手を放して、わざとらしく溜め息を落とした。
    「理由はともあれ、ちょっとは美容にも気を遣ってくださいな。 ―こんなクマだらけの貌じゃ、貧乏神しか釣れないよ」
    「ごめん…」
     自分の容姿の事でウラタロスに要求される筋合いはないのだが、彼が自分に憑依した時の、パンダのようなクマをしたルックスを想像してつい謝ってしまう。―それよりそわそわと落ち着かない。
     ウラタロスの ひやりとした涼しい指になぞられた、目の下のクマが生き物になったようにざわめいて、居ても立ってもいられず良太郎は勢いよく立ち上がった。
    「えっと僕っ…―モモタロスたちの様子見てくる。ついでにプールで足冷やして来よう、かな」
    「―そう、」
     行ってらっしゃい。 …心なしか寂しげなウラタロスの声に送られ良太郎はそそくさと食堂車両を後にした。 出てきてから、その、浴場設備の車両が何処にあるのか知らない事に気付いたが、それを訊きには戻れない。
     通路は一本道だ、いずれ辿り着くだろう。もし浴場が見つからなくとも、必ずしも そこへ行きたいわけではなく、あの車両を出てきた本当の理由は別にある。 ただ離れたかった、それだけで。 …それだけだから。

     しばらく進んで人気のない車両に足を踏み入れた時、良太郎は、ふと足を止めた。―今日は暑い。
     時の砂漠にも季節のようなものはあるらしく、地球の太陽に似た光が異空間の天井で弾けんばかりに耀いて、デンライナーの通路を焦がす。車窓から射した光が良太郎の顔に当たると良太郎は眩しさに顔を顰め、逃れるように、やや跛に足を進めた。
     じわり、首筋に汗が浮かぶのを感じる。 …今日は、本当に暑い。

     *

    「逃げられた。」

     胸に閉まっておくはずの、言葉が音になって飛び出て、ウラタロスは ぎょっと瞳を剥いた。良太郎が去ってすぐの、ひとり取り残された車両。
     しかし今の声は自分の口から出てきたものではない。 ―他には誰もいなかった 『筈』、なのにいつの間にか、ウラタロスの座るテーブルの真正面にリュウタロスが肘を着いていて、しかも、ウラタロスの心を読み取ったように呟いたので、尚更 驚いた。
     リュウタロスはウラタロスの心を代弁すると『へへ~』と手柄のように笑う。
    「りょーたろーに逃げられてがっかり?」
    「…何言ってんの、リュウタ」
    「わざわざふたりっきりになったのにぃ。りょーたろーってかめちゃんのこときらいなの?」
     声はリュウタロスのものなのに、まるで自問自答しているようだ。
     何処か自分を滑稽に思いながらウラタロスは素っ気無く答えた。
    「―どうだか」
    「―ぼくねぇ、りょーたろーの 『くま』 のわけ知ってるよ」
    「どういう意味?」
    「りょーたろーがよく眠れないのはねぇ…」
     そこまで思わせぶりに言ったリュウタロスは ニィと悪戯小僧のように口角を上げ、ぴょんっと立ち上がると身軽にターンし、『おしえてあーげない』 と愉しそうに笑った。
     そして 『知りたい?』 と焦らすようにウラタロスを振り向く。
     人を喜ばせるよりも苛める方が好きなリュウタロスは、教えてほしいと言ったところで 『いやだ』 と小さな悪魔のようにそっぽ向くだろう。 ―それに、教えて貰わなくとも良太郎の事は判るつもりだ。自分には、判っている。
     彼の姉やその恋人の事を気に病んでいるのではない、―いや、それは常に胸に抱え込んで思い悩んでいるのだろうけれど、…眠れないのは。

     …眠れないのは、ボクの所為。

     リュウタロスはいつもより広い食堂車でいつも以上に羽を伸ばし、くるくると踊り、ぴょんぴょんと跳び回る。
     今頃 良太郎はもう、浴用車両に着いただろうか。そこで笑っているのだろうか。自分にはあまり向けることのない、気楽な笑顔で、あの赤鬼に。
     車窓から眺める果ての無い砂漠。闇の帳が降りても変わらない渇きは まるで自分の心のようで、どこか、物悲しくいとおしい。そんな事を想って砂漠の中に彼の顔を思い浮かべる静かな夜は、…

     ―ボクだって、眠れないでいる。



    -------------

     君の声は、聴こえない。

    Act 02

    『それでね、リョータロー、センパイったら…』
     これで何日目になるだろう。 明かりを消した暗い部屋。 窓の向こうに広がる街も息を潜めるように静寂した夜半。バイトの後で、散歩の途中に出現した、一体のイマジンを片付けた。自宅に戻って汚れた体を洗い流せばもう日も変わる頃だった。 風呂上がりの気だるさもあいまり 自室に帰ってくるとすぐ、疲れた身体をベッドに横たえた。 身体は疲れているのに、眠れない。静けさが煩すぎて、落ち着かない。そうしてしばらくベッドの上で眠りの使者を待っていると、穏やかに凪ぐ夜の漣のような優しさで、『眠れないの?』 と呼びかける声。
     …10日目だ。 良太郎はぎゅっと眼を瞑り、自分だけに聴こえるその声に『ううん』 とそれだけ返事をすると、 もう眠る、―自分自身に言い聞かせた。それでも消えない声は尚、少し軽薄な響きを持って 『子守唄を歌ってあげようか』 など冗談とも本気とも知れぬ提案をした。良太郎が断ると 『それじゃあ夜伽話でも、』 と、勝手に弁舌を揮い始める。
     電車で見かけたかわいい女の子の話とか、 いつだか釣ろうとした清純少女に本気で恋され困った話とか、1番ひどかったガールフレンドの話とか。―良太郎がうんともすんとも言えずにいると いつの間にか話題はデンライナーで起こる日常茶飯事の滑稽劇にすり変わり、良太郎を楽しませた。
     ―けれど、それらの話を良太郎は聞きたくなかった。
     彼の話を、声を、聴いていると、楽しい心と裏腹に得も言われぬ焦燥のような苛立ちが起こる。疲れていた所為、…と言えばそうとも言える。
    『それでね、リョータロー。 センパイったら、食堂車でお子様ランチ食べてた男の子のデザートに涎垂らして、つくづく大人げないったらありゃしないよねぇ。その上その子がセンパイを見て「ぼくんちのポチみたいだ」って笑ったら逆ギレしてデザート奪って食べちゃったんだよ。 ナオミちゃんが特製パフェを作って宥めてあげたものの、―センパイは1週間、プリン抜き、だってさ。それからキンちゃんだけど―…』
    『ウラタロス』
     滑らかな話術を遮るように、良太郎は彼の名を呼んだ。
     彼はピタリと言葉を止め良太郎に耳を貸す。
    『…ごめんね、今日も僕の身体は貸してあげられないよ』
     良太郎は、彼がこうして自分に語りかけてくるのは この後身体を借りる為のご機嫌取りの類だと決め付けて忠告した。 疲れているから、身体は貸せない。だから、そんな、毎夜毎夜饒舌を駆使して自分を唆そうとする必要はないのだと。
     良太郎が一言言えば、ウラタロスは刹那の沈黙の後、静かに応えた。
    『―了解。』
     心なしか沈んだ低い声は、けれども すぐに普段の明るさを取り戻した。
     はぁっ、と同情を誘う溜め息とともに訴える。
    『最近ご無沙汰すぎるよ。リョータロー、今度 余裕が出来たら絶対、センパイよりもキンちゃんよりも、僕に身体を使わせてよ?』
    『…うん』
    『約・束』
     良太郎はもう一度 、うん と頷いた。
     納得したウラタロスは次第に良太郎の頭の中から気配を消した。そして繋がっていた意識が完全に遮断される間際、いつもの声で囁いていく。
     それは、彼が普段 女性に向ける やや軟派なものではなくて、けれども柔らかく穏やかな響き方をする。
    『今日はよく、おやすみ、…リョータロー』
     その音に包まれリョータローは、ベッドの上、赤ん坊のように身を縮こめて目を瞑った。耳も、何も、聴こえない。―聴きたくない。

     数日前から、考え始めると眠れなくなる。どうして彼は毎晩、毎晩話しかけてくるのだろう。幾ら期待されても身体を貸せないことはもう判っているはずだ。―それでも一縷の望みに期待をかけてくるのだろうか。
     彼が自分に憑依して間もない頃は、肉体を勝手に使わないで欲しいという至極正当な要求も 殆ど無意味なものだった。了解、とは言っても良太郎の眠っている隙に夜な夜な憑依し、遊び回ったりしてくれて、それはもう困ったものだった。―しかし今では素直なもので、頼めばすぐに諦めてくれるようになった。 『了解』、その言葉は、もう嘘じゃない。
     なのに何故、彼は。

    『…おやすみ、リョータロー』

     ……本当は。 彼にそんな目的などないのは解っている。
     本当は身体を借りたいなんてそんなつもりは もうなくて。
     声は昨夜より僅か、…優しくなった。
     こうして彼が語りかけてくる、夜は10日目。

     *

    「浮くぜ浮くぜ浮くぜーー!!」

     ざぱん、 と高い飛沫を上げてプールと化した浴槽に赤鬼が飛び込んでいく。跳ねてきた水に思わず閉じてしまった目を開けると、水面にはブクブクと気泡が昇ってくるが、赤鬼の昇ってくる気配は一向にない。
     …あ。沈んだ。
     たゆたう水の中に赤い塊が揺れて見える。
    「き、キンタロス…」
     浴槽に寄りかかり 呑気に創作歌を口ずさむキンタロスに良太郎が視線を遣れば、ん? と振り向き、『しゃあないな』 と呟いて、キンタロスは水底から赤鬼を拾い上げに潜っていく。
     キンタロスに引き揚げられた赤鬼、モモタロスは目を剥き、死にそうな顔で肩を上下させる。水に落ちたきりまるで上がってこれないとは正にカナヅチだ。
    「何でだ…っ 何で俺より重いクマが泳げて、俺が浮き上がれねぇんだ…っ」
    「犬以下やな」
    「いや違う。これは何かの陰謀だ…! それとも良太郎のイメージ的に、俺と水がS極N極みてぇに離れられねぇように出来てんのかもしれねぇ」
    「訳分からん事言うてへんで大人しく、びぃとばん使たらどうや。それか、あれやな、三浦とか言うおかるとさんに催眠術でもかけて貰たらええんやないか?」
    「余計なお世話だ! …ったく相変わらず泳げねぇしよぉ…プリンも食えねぇしよぉ…」
     慰められているのか嗜められているのかキンタロスにポンポンと頭を叩かれ、しおしおと泣き出すモモタロスを眺めて良太郎は苦笑した。 彼のカナヅチを自分の想像力の所為にされても困るが、少し憐れに思えるのだ。『ウラタロスに教えて貰えばいいじゃない』、…―提案したところで一生、首を縦には振らないだろう。
     …ウラタロス、は、今日もこの場にいない。

    「ぼくドザエモンー!」

     ―と、突然背後から国民的長期アニメ準主役ロボットの口調で現れたリュウタロスに、良太郎はビクリと身体を弾かせた。
    「ねぇ見て見て、りょうたろ。おえかきジョーズでしょっ?」
     リュウタロスは後ろから抱きつくように良太郎の首に両腕を回して、良太郎の顔の前に画用紙を広げて見せた。そこには、ツノの映えた真っ赤なドラえもんがプールサイドに泡を吹いて倒れている様が描かれており、台詞枠の中に 『できし』 と恐ろしい擬声語(?)が書かれてあった。
     あげる、と言われて、受け取るか暫し迷う。
     するとリュウタロスは良太郎に抱きついたまま どこからともなくカップ入りのプリンを取り出して、モモタロスを大声で呼んだ。
    「ももたろすー! これぼくのーー!!」
    「ぁぁああっ?! それプリンーーー!!」
    「へへ~食べちゃうぞっ」
     リュウタロスの左手に掲げ、どうでもいいように振る落書きを慌てて奪うと良太郎はそれを四つに折り後ろ手に隠した。
     …ちょっとあれだよね、これ、モモタロスに見せられないよね。
     リュウタロスがモモタロスをからかい、どうして手に入れたのだか(おそらくナオミにでも持たされたのだろう) プリンを口に入れようとすると、 浴槽の中心にいたモモタロスは泳げない事を忘れたように死に物狂いで良太郎たちの元まで泳いできた。そして水の中でぴょんぴょんと跳ね、リュウタロスの手からプリンを奪おうとする。
    「あーーーーーん」
    「ばかばかリュウタっ! 俺にくれっ! 一口! 一舐め!」
    「やだ~」
     …そもそも子供からプリンを奪って、ナオミにプリン制限されたのではなかったか。反省のないモモタロスを思いつつ、良太郎はモモタロスの気を逸らすように呼びかけた。
    「モモタロス、2mくらい泳げたじゃない」
    「…ん?」
     言われて顔を上げたモモタロスは後ろを振り向き、キンタロスの1人佇む先刻まで自分のいた場所と今立っている場所を見比べて、ぱぁっと顔を綻ばせた。『完全に犬掻きやったけどな、』 キンタロスが揶揄するのも聞こえず、やったー! と万歳三唱してその場に飛び跳ねる。
    「今年の夏は俺のもんだーーー!!」
     モモタロスがはしゃいで、飛んでくる細かい水の飛沫に良太郎が目を瞑ると、不意にリュウタロスが良太郎の耳元で囁いた。
    「今日も かめちゃん、りょーたろーのこと待ってるよ?」
     どき。 心臓が体内で鮮魚のように跳ね、それでも良太郎は動揺を隠しながら 『何のこと?』 とリュウタロスに返した。 リュウタロスは不満そうに唇を尖らせ、駄々を捏ねる。
    「だーかーらー、食堂でさびしんぼのかめちゃんのとこ行こうよー」
    「…でも、」
    「どーしてかめちゃんのこと避けてるのー?」
     リュウタロスの発言にモモタロスが『ん?』 と此方を振り向き、良太郎は慌ててその場に立ち上がった。
    「わ、わかった。食堂車に行こう?」
     リュウタロスを背後に垂れ下げたまま、モモタロスたちに挨拶をして、夏仕様にアレンジされた浴室を出る。
     はぁ、と溜め息をついて、少し濡れたTシャツの袖口を気にしながら食堂車に向かってゆっくりと足を進めていると、それにぴょこぴょこと連いてくるリュウタロスは改めて良太郎に訊ねてきた。
    「どうして かめちゃんのこと避けてるの? …どうして夜、『おやすみ』って聴こえないフリするの? ねぇ、」
    「…気の所為じゃない?」
    「かわいそうだよー。かめちゃん、りょーたろーのカラダ使いたいんじゃないのに。ただお話したいだけなのに、どうしてお話してあげないの? ねぇ、」
    「―…」
     無邪気なのか、…確信的なのか、執拗に絡んでくるコドモに煩わしさを覚えながら良太郎は歩速度を上げた。 ―どうして?

     …声が、…優しすぎるから。

     *

     何で? 何で?
     リュウタロスはそれでもしつこく質問してくる。
     諦観した良太郎は一度深く瞬きをして、呟きを落とすようにそれに応えた。
    「…声が…―だんだん優しくなっていくんだ。毎日、毎日、…日増しに優しくなっていって、なんかまるで、愛されてるみたい」
    「…かめちゃん、りょーたろーのこと、好きなんだよ?」
    「……」
    「だから毎晩お話して、『おやすみ』って言いたいんだよ」
    「……知ってる」
     でも、僕は。
     近付いてくる次の車両からの足音に、良太郎は言葉を迷った。けれども、『知ってる』と言った良太郎に驚いてそれを不思議がるリュウタロスに、良太郎は続けて話した。

    「―ウラタロスに、好きになって欲しくないんだ」

     その時、良太郎たちの姿を感知しシュンと音を立てて開いた自動ドアの向こうに、同じようにウラタロスが立っていて、良太郎は目を大きくした。 しかしウラタロスは明るく驚いた声で『やぁ』 と挨拶すると、普段と変わらぬ様子で良太郎たちの横を擦り抜ける。
    「折角だからボクも涼もうかなーと思ったんだけど、…良太郎たちもどう?」
    「…あ、僕は今、そっちから帰ってきたとこだから」
    「あぁ、そう。―そうだね、食堂にハナさんが戻ってきてるよ」
     じゃあまた後で。
     ウラタロスはひらり片手を上げて去っていく。
     聞かれていなかっただろうか、良太郎がそっと見遣れば 彼の背中は此方を振り向くことなく離れていって、次の車両に消えた。

     ドアを隔てて良太郎の視線が背中から消えると、軽く鼻歌を歌っていたウラタロスは沈黙し、その場に立ち止まった。
     『は?』 と数秒間、小首を傾げ、また歩を進める。
     ―最近、なんだか妙に避けられているなぁ、…とは感じていた。ふたりきりになると ひどく強張られるし、逃げられるし、 夜になって良太郎が落ち着いた隙を見て話しかけても 『疲れているから』 と拒否される。
     …疲れているのは真実だろう、だが、声のニュアンスでそれが 『話しかけないで』 と言いたいのだと分かる。分かっていて、それを言葉にされないのを良い事に毎晩しつこく、気付かないフリをして、呼びかけているのだ。
     鬱陶しがられるのもしょうがない、…だって、抑えきれない。
     最初は顔。次に、かわいい顔してざっくり切り込むような鋭い物言い。精神的なタフさと。 …なんだかもう、好きで、好きで、いとおしくて、
     ―恐ろしい勢いで膨張していく想いを 狭い胸の中に閉じ込めておく術など知らない。だから、きっと、表面的にも溢れ出てしまって気持ち悪いくらいだろう。それでもまだ、受け止めて欲しいなんて贅沢は言わない。仮に自分が今の自分に想われたら、きっとその重さに憂鬱になる。
     だけどせめて想うくらい。―言わないから、まだ。好きでいるくらいなら。…『おやすみ』 と、愛の代わりにそっと囁くくらいなら、……

    『―好きになって欲しくないんだ』

     …いいんじゃないか、って。

    『りょーたろーってかめちゃんのこときらいなの?』

     ……。

     ―浴場では、赤鬼が不服そうに熊に手を引かれ泳ぎの練習をしている。浴槽近くに四つ折りにされた紙が落ちていて、チラリと覗く中の赤いクレヨンが濡れてぐしゃぐしゃになっていた。
     『何で泳げねぇんだ?!』と叫ぶ赤鬼は室内の入口にぽつんと佇むウラタロスに気付くと ぎょっと驚き、その場で狼狽し始めた。
     …何やってんだ、センパイは。 呆れるウラタロスは不意にぽろりと自分の目から零れる涙に気付き、それを受け止め、小さく小さく、首を傾げた。


    -------------

     僕は塞ぐ。 僕の耳を、僕の心を。

    Act 03

     デンライナーの中は煩い。
     しかしそれは、いつでも子供のようにバカ騒ぎする短気なモモタロスや傍若無人に我儘三昧のリュウタロス どちらか片方でも居る時の話で、今のようにウラタロスが のんびり珈琲で一服し、キンタロスが昼寝に興じているだけの車両は、それは静かで、不謹慎ながらも退屈なものだった。
     勿論、日がな一日 騒ぎの中、というのも気力が持たないので、たまにならゆったりした時間は欲しいと思うが、一週間もこの状態が続けば流石にそろそろバカ騒ぎが懐かしくなってくる。
     自分も つくづく染まってきたものだと嘆き入りつつ、ウラタロスは窓から眺める“時の砂漠”から視線を外して、前方の座席で高いびきをかいているキンタロスを盗み見た。
     ―どうせ半分は狸寝入りだろう、退屈凌ぎに話しかけてみてもいいが、

     …―趣味、合わないんだよねぇ…。

     女性の好みも まるで違うし、人情だとか何だとか恥ずかしい事を照れもなく口に出せる、時代錯誤の、熱血オヤジタイプは基本的に苦手だ。暑苦しいことこの上ないし、バカすぎて、釣りにもならない。
     ウラタロスは、はぁっと溜め息をついて再びアンニュイに窓の外を眺めた。
     年が離れている所為(人間年齢で言うと、多分。) か、性格差か。キンタロスにしても此方の事など殆ど眼中にないようだし。 ここはナオミの手伝いでもした方がマシだろうか。 ―昨日はその彼女にも、『ウラちゃんは口ばっか動かしててお手伝いにも使えませんー!』 なんて、…調理場を追い出されたりしたけれど。
     ウラタロスが もう一つ無意識の溜め息を零すと、そこへ、 小一時間 列車の中から姿を消していたモモタロスが赤い光となって戻ってきた。赤い光は一瞬でいつもの鬼の姿に変わり、真っ直ぐ彼の愛席に足癖悪く陣取った。
     赤鬼モモタロスは片手を上げながらナオミを呼び、珈琲をオーダーして、何処ぞの粗野なオッサンのように愚痴を吐く。
    「あー、疲れた。ほんっっとに疲れた」
     それが自分に対する嫌味のようにも聞こえて、ウラタロスはこっそりモモタロスを睨んだ。
    「幾ら暴れたいったってよぉ、―こう毎日毎日 続けざまにイマジンが出たんじゃ堪んねぇぜ。奴ら、電灯に群れる蛾か蚊みてぇにうじゃうじゃ湧いてきやがる。流行りの温暖化の所為で異常発生とかしてんじゃねぇのか?」
    「―2007年現在の温暖化が未来に影響したとしても 夏だけ異常発生ってのはないよ。たまたまでしょ。 増えるワカメじゃあるまいし、温暖化でイマジンが増殖するってのもヘンな話。 大体、自然界の事象に対して『流行り』 とかいう言葉を使う事自体、おかしいって。無理して難しい言葉使うと、却って莫迦に聴こえるよ、センパイ」
     ついに堪えきれず茶々を入れると、モモタロスは怪訝に顔を歪めて 『あぁん?』 とウラタロスを振り向いた。そして今度こそ真実、嫌味を込めて言う。
    「…どっかのノロマ亀は、ノロノロ珈琲啜ってるだけでいいよなぁ? お前、もう1週間も何もしてねぇじゃねぇか。こっちは出ずっぱりで忙しいっつーのによ」
     モモタロスはここ1週間、連続して敵イマジンの駆除に借り出されていた。以前は週に1体も現れれば多い方だったのだが、ここ最近は モモタロスが『異常発生』というのもなるほど、夏の賑わいとともにイマジンの出現も盛んになってきており、にも関わらず、電王として闘うのは基礎戦闘力が平均的に優れたモモタロスが主で、時折、キンタロスが助けに入るくらいだった。
     幾ら戦闘好きの暴れ好きなアダルトチルドレン、モモタロスと言えど 『ストレス発散』 の域を完全に超えた仕事量に疲労を隠しきれずにいる。 一方、その間、珈琲を腹に下し留守居するだけが仕事であったウラタロスにモモタロスが文句を言いたくなる気持ちもわからなくはない、―けれども。
     ウラタロスはフンとそっぽ向き、モモタロスを無視して 珈琲カップを片手に窓の外を眺めた。

     ―だって、呼んでくれないんだもの。

     1週間。どんな敵が現れようとも どれだけモモタロスが疲労していようとも良太郎はウラタロスを闘いに指名してはくれなかった。 ―好きで退屈している、わけじゃない。
     面倒事は好まないが、良太郎に力を貸す味方として 参戦の機会も与えられないのはもっと嫌だ。今のウラタロスにすれば 『忙しい』 『疲れた』 などという愚痴は、寧ろ贅沢すぎる自慢だった。
     ―本当に、可愛い顔をして、厳しい子だ。

    『好きになって欲しくない』

     こうして良太郎がウラタロスを戦闘時でさえ避けるようになったのは、ウラタロスが彼のその言葉を聞いてしまってからなのだ。…幾らなんでも、判り易い。

     ―…あからさますぎるよ、…リョータロー。

     *

     …ふと、誰かに呼ばれた気がして。
     店のテーブルを拭いていた良太郎は手を止めた。…疲れているだろうか。
     怪我もなくミルクディッパーに戻って来れ、仕事を再開できたはいいが、つい数分前までの戦闘を思い返して気が遠くなる。 敵の出現率が増したのに伴い良太郎がイマジンたちに憑依の力を借りる機会も増し、ここ数日、元々あってないような体力が戦闘ごとに搾取されていた。キレイになったテーブルにぼんやり映った自分の顔は ひどく疲れて陰気に見えるが、しかしそれは連日の戦いの所為だけではないだろう。
     手を休めたままボーっとしていると不意に先日の事を思い出した。リュウタロスに対して、『ウラタロスに好きになって欲しくない』と、この自分の口が断言した事。その時 隣の車両からウラタロスがやって来て、おそらくその言葉を聞かれてしまっただろう事。…―いいや、聞き覚えのある足音が近付いてくるのに気付いてわざと、そう言ったのだから。 きっと彼には聞こえていた。

     ―ねぇ、僕は、こういう人間なんだ。

     いつか 『桜井侑斗』と名乗って現れた少年が姉・愛理の記憶をイタズラに突付こうとし そして愛理が少年の事を気にかけた時、良太郎は自分の必死で守ってきたものが壊れてしまうのが怖くて、愛理には関係のない人物だと誤魔化した。 声もつい荒くなってしまったし、 その時の焦った態度に何かを隠されていると感じただろう、愛理は微かに戸惑いの表情を見せた。
     姉の為、ではなかった。 自分の為だった。
     愛理の恋人であった桜井が突然 消息不明になり、そのショックで彼の記憶を愛理が失い。 ―触れれば壊れてしまう脆い硝子で仕切られたような、姉弟の生活が始まった。 桜井の居た証は不幸にも自分たち姉弟の生活に大きく影を落としていて、 例えば彼の使っていた歯ブラシだったり、彼が店の為に購入した望遠鏡だったりと。 当たり前のように自分たち姉弟を取り巻く そのいちいちを繊細に処理する必要があった。最近ようやくバランスの取り方を覚えてきたのに。少しずつ、明るい変化の兆しは見え始めたのに。桜井の戻って来ないまま姉が彼の記憶を 急激に呼び起こしてしまう事で、再び崩れ去ってしまうのが怖かった。…自分が、辛かった。
     今も良太郎はウラタロスを遠ざけようとしていた。 わざと傷つけて、彼から離れてくれるように。…いっそ嫌ってくれてもいいから、これ以上近付かないでくれるように。

     ―僕の嘘は、拒絶の為の嘘だから。

     …こんな自分だから。 嫌いになるのは容易いだろう。

     ―好きになって、欲しくないんだ。

    「良ちゃん、どうしたの? …顰め面。 駄目よ、もうすぐお客さんたちが 沢山いらっしゃる時間なのに」
     ―と。カウンターで珈琲豆の補充をしている愛理が良太郎に呼びかけてきた。顔を上げた良太郎は自身の眉間に刻まれた深い皺に気付き、いけないいけないと首を振った。
    「なんだか疲れてるみたいね。お花屋のおじさんが自宅に咲いたヒメヒマワリを分けてくれるって言うから受け取ってきて欲しいんだけれど、」
    「―大丈夫、行くよ」
     良太郎はもう一度軽くテーブルを拭くと 布巾をカウンターに置いて店の勝手口から遣いに出た。その間際、桜井の望遠鏡がふと目に留まった。
    「『あなただけを見つめています』」
     虚空をうっとりと眺めながら愛理が呟いた。
    「ヒマワリの花言葉ね」
     いつか彼女の瞳に映っていた、彼は、今は居ない。
     ―ねぇ、姉さん?
     自転車を漕ぎながら良太郎は姉に問いかけた。

     初めからこうして彼が消えるとわかっていたら、
     姉さんは桜井さんを、…―愛していた?

     *

    「―…をい、良太郎」
    『―…どうしたの、モモタロス』
     本日2体目の敵が出現したのはヒメヒマワリの束を抱えた帰り道だった。
    「どおしたの じゃねぇ…っ!! ~どう考えてもココは俺の参上できる幕じゃねぇだろ…! ステージっつーか、めちゃくちゃ海だけどよ…!」
     同じ花屋からの帰り道だったろう、黒い礼服に身を包み菊の花を抱えた女性を自転車で追い越した時、彼女の袖やら靴やらから砂が零れ落ちるのを良太郎は発見した。すぐにイマジンに憑かれていると判り彼女に話を聞こうとしたら、その契約イマジンらしき怪物が小さな男の子を何処からか攫ってきて、彼女にその子供を押し付け、過去へと飛んでしまった。
     喪に服したその女性―…三十を少しばかり過ぎた年頃の彼女の願いは、三年前に家族揃って出掛けた夏の海で溺死した、まだ五歳だった愛息子を『返して』 欲しいと言う事だった。―イマジンに攫われてきた男の子は、海に愛された彼女の宝と同じ年数生き、同じ名前の響きを持つ子供らしかった。
     途中から助っ人に現れたハナが泣き喚いている男児を世話して警察に向かった。いつか宝とともに未来の希望を奪われた母親は 『返して』『返して』 と虚ろに啜り泣いていた。
     ―いなくなってしまった人は、他の何でも埋められません。 僕の父さんも母さんも、誰も代わりになんてならなかったし。彼らのいない生活は誰に優しくされても、不満が無くても どうしても埋まらない部分がある。だから思い出を振り返ったりして、存在感を自分の中に確かめる。 いなくなった人は、帰ってきません。帰っては来ないけど、いなくなって哀しい理由。 その人が居て嬉しかった意味。それは消えない。 自分次第で、自分の中にいつでもその人を蘇らせることが出来る。
     …三年前の海は、悲しみだけで満ちてしまった?
     …楽しかったそれまでの思い出も、一緒に沈んでしまった?
     それを確かめる為に、電王として、良太郎も過去へ飛んだ。―カードに記された彼女の強い記憶の日は、三年前の今日、…場所は海。

     ところが海を前にして、モモタロスは ごね、戦いを拒んだ。ソードフォームの状態で ちょぴっと足の爪先を水につけ、全身ぶるると震わせると5m後ろに退却する。カナヅチはまるで治っていない。
     良太郎がモモタロスを呼んだのは それも承知の上だったので、意固地なワガママを言っているのは良太郎の方だった。
     強行手段、荒療治ってヤツでしょ。 自身に言い訳をして、かぐや姫も驚天動地な無理難題を言い遣わす。
    『モモタロス、こないだ2mくらい泳げたでしょ』
    「馬鹿か! あれ以降1mmたりとも泳げなくなっちまったんだよ! それに犬掻きしながらじゃ剣も振り回せねぇ!」
    『…そんな堂々と言うことじゃないよね』
    「…うるせぇっ。さっさと亀でも何でも呼びやがれってんだ!」
    『ちょっと、モモタロス…!』
     子供のように拗ねたモモタロスは良太郎の制止も聞かず憑依を解いて、更に意識まで完全にシャットアウトしてしまった。
     プラットフォームに戻った良太郎は困惑しながらも、イマジン―… 海蛇のイメージから具現された敵が、ある三人連れの家族が作った砂のトンネルを踏み潰そうとしているのを目の当たりにし、それを阻止すべく駆け出した。
     よろめきながら体当たりしたが、イマジンにダメージはない。それでも敵の意識が砂のトンネルから自分に移っただけでも良い。良太郎はベルトの黄色いボタンを押してキンタロスを呼んだ。
     イマジンが二つに裂けた長くおぞましい舌でプラットフォームを縛りつけようとした時、アックスフォームへと変化し、キンタロスが斧で その舌をぶった切った。イマジンは奇怪な呻き声とともに海の中へ逃げ込んでしまい、良太郎はキンタロスにそれを追うよう求めた。
    『―キンタロスは泳げたよね?』
    「そら、まるで泳げん事も無いけど―…」
    『追って!』
     焦る良太郎に対して悠長に構えたキンタロスは、溜め息を吐くと良太郎を嗜めるような声音で言った。
    「何で亀の字を呼ばんのや」
    『それは…』
    「あいつと何かあったんか?」
    『…それは…』
    「泳げる事は泳げても、水の中で斧振るんは容易な事やない。 パワーも落ちる。適材適所ってもんがあるやろ。―お前はこれまでよぉ的確に俺らを使てたと思うけどなぁ」
     言われた事は正論だった。理解もしていた。それだけに、大事な戦いにつまらない私情を持ち込んでいる自分の矮小さが情けなくて、黙ってしまった良太郎に。
    「…ウラタロスを呼び」
     キンタロスは優しく諭すと、モモタロスと同じように憑依を解いて 彼の意識を遮断した。
     自業自得とは言え二人に突き放された良太郎は、反省と躊躇と焦燥と…もっと醜い泥沼の中に裸で放り込まれたように恥ずかしく、恐ろしくなった。指はベルトの青いボタンを押そうとして、押せない。
     一週間も拒み続けていたら、再びウラタロスを自分の中に入れることが怖くなった。繋がることが、怖くなってしまった。
     『子供を返して』、と泣く母親の声が頭の中に過ぎる。
     もうすぐ亡くなる命が海に残した、砂のトンネル。
     不出来なそれを見て目尻を下げる、父親、母親。
     ボタンを押したい指は錆び付いたように動かない。
     ―イマジンが逃げてしまう。

    『あ~~も~~ しょーがないなぁっ』

     …すると、リュウタロスの声が頭の中に弾け、固まっていたはずの良太郎の指が勝手に紫のボタンを押した。
     呆ける良太郎の心を置き去りにしたままリュウタロスはガンフォームに変わった電王の肉体を操作し、イカヅチで龍のように空を昇りながらイマジンを追いかけた。
     海面の中に鋭く走る黒い影を見つけると、それに向けてワイルドショットを放つ。何発か命中し、イマジンが跳ね上がったところをまた追撃。 『蛇が龍に敵うと思う? ―答えは聞かない』 ―最後のショットとともに冷徹な言葉を放ち、リュウタロスは敵をあっと言う間に片付けてしまった。
     あまりの早さに茫然としたままついていけない良太郎は、それでも心の端で確かな安堵を感じていた。 …たすかった、と。
     まさかリュウタロスがこの場を救ってくれるとは思っていなかったから、驚いたけれど。
    「…りょーたろー?」
     飛沫を上げていた海が再び静まってゆく様を 空に螺旋を描いて踊るイカヅチの上から無感動に眺めるリュウタロスの声は、だけども何故だか少し、怒っているようだった。
     モモタロスとキンタロスの叱咤の声もいっしょに聴こえる気がした。

     ―ねぇ、あなたたち家族の手と手を繋げる砂のトンネル。とてもかわいらしかった。…その形を少しだけでも思い出して、慈しんでみませんか?
     早くあの母親に伝えたい想いを抱きながら、その裏に自分の心を隠して2007年に戻ろうと決意する良太郎に、リュウタロスは淡白に言った。

    「ぼく1個、貸しとくからね」



    -------------

     剥き出しのそれは僕を夜毎、責めうって、
            …内側をひどく疼かせるけれど。

    Act 04

     ―ボクのこと嫌いなの?

     今日も今日とて、冴えない車両。喉いっぱいまで流し込まれた珈琲は、電車の微かな振動にさえ体内で揺れる。気分が悪い。
     闘ってもいないと言うのに草臥れてしまった。寧ろ、身体を動かしていないから怠くなるのか。全身の筋力が錆びれる。拗ねる気力すらも起こらない。 ―海での戦闘にまで必要とされなかった昨日は堪えた。厳密に言えば能力を必要とされなかったわけではないが、 ウラタロスの存在自体が良太郎の心に拒まれたのだ。
     怒りもない。悲しみもない。非難もないが、呆れてしまう。良太郎にではなく、他の誰にでもなく、様の無い自分に。埋めようのない虚しさに。
     こんな状態の日々をいつまでも続ける気は毛頭ないが それを断ち切る方法をウラタロスは考えあぐねていた。 良太郎から折れる事は まずないだろう。自分から動くしか未来はないが、果たして、攻めるか退くか。
     無意識のまま指でトントンとテーブルを叩くと途中でコツン、別の音が混じり、ウラタロスは顔を上げた。先刻まで いつも通り寝ていたはずのキンタロスがいつの間にか迫っており、ウラタロスの頭上に影を落としていた。
    「―何、キンちゃん寝てたんじゃなかったの?」
    「プール行かんか?」
    「…男とバカンスって趣味じゃないんだけど」
    「えぇから行くで」
     有無を言わさず食堂車を出て行くキンタロスに連いて渋々ウラタロスは立ち上がった。―強引だなぁ、もう。ぼやきながらも律儀に付き合うのはどうせ暇だったからだ。一人で退屈な時間を持て余すのも、暑苦しいキンタロスと二人で水遊びするのも、どちらも同じうんざりならばせめて身体を動かした方が気が紛れる。 それに、キンタロスが用もないのに自らウラタロスに構ってくる事など殆どない。―つまり用があるのだろう。それなら此処でそう言えば良かったのに、こういうところばかり回りくどくて、イヤな男だ。誘い方もスマートじゃない。

     ―用件なんて、大体想像つくけどね。

     予想していた通り、一時的にプールとなって解放されている浴槽に浸かると間もなくキンタロスは、浴槽の縁に腰掛け 足だけ水に浸していたウラタロスに訊ねてきた。
    「良太郎と何があったんや」
    「藪から棒に何の事?」
    「しらを切っても無駄やで、ネタは上がっとる」
    「―いきなり刑事ごっこなんて、キンちゃん相当 沸きあがっちゃってるよ。そういうプレイはボクね、キレイなおねいさんとでないと ノれないの」
     ウラタロスが微笑するとキンタロスは眉を顰めて ザブザブと水を割り進みプールの中ほどで立ち止まった。
    「良太郎の態度がお前にだけおかしいんは気付いとるやろ。あからさまやからな。海の戦いで亀の字を呼ぼうともせんかった。良太郎が考え無しやったんとは違う、お前が何か良太郎を怒らすような事したんやないか?」
    「……、例えば?」
    「……、女遊び、とかな」
     考えた末のキンタロスの言葉に思わず、ハ、とせせら笑いが飛び出て、ウラタロスは誰にともない嘲りを覚えた。
    「ボクは何もしてないよ。リョータローとは何もない」
    「そんなわけないやろ」
    「本当に、何もないんだって。 …何もね」
     何があった、どころではない。何もない事にされているのだ。イマジンと契約者としての繋がりも、仲間としての必要も、 ―良太郎に対するウラタロスの想いさえも。
     それでもまだ納得していないらしいキンタロスは 水面に自らの握り拳を映して言った。
    「嘘やったら承知せぇへんで? ―良太郎の害になるもんはみんな、この拳が打ち砕くんや」

     害。

     思いもしなかったフレーズが瞬間、針のように心臓を突き抜けていって ウラタロスは息を詰めた。―自分は今、良太郎の害なのか。
     毎夜毎夜語りかけて、鬱陶しがられていた事は認める。でも。
     愛しさは止められなかったし、それでも最初のうちは、優しく気遣い労る声に、良太郎は嬉しそうに笑っていたのだ。 その反応が返ってくるのが楽しくて余計に想いは加速したのだし、少なくとも良太郎は自分に好意を抱いてくれていた。…はずだ。
     ―いつからこうなった?

     ウラタロスが黙り込んでしまうと拍子抜けしたキンタロスは、自分が責めた所為かと慌て、咳払いをして改めてウラタロスに話しかけてきた。
    「…良太郎だけでなくお前もおかしいで、亀の字。どないしたんや?」
    「―ねぇキンちゃん」
    「何や?」
    「例えば自分に好意を持ってるはずの女の子が急にそっぽ向いて、追いかければ追いかけるほど逃げられて、でも自分はその子を諦めきれない。―どうする?」
     キンタロスは突然の恋愛相談に目を丸めたが、すぐに胸の前で腕を組みふんぞり返ると、臆面もなくそれに答えた。
    「いやよいやよも好きのうちや。 つべこべ言わんと抱き締めたったら女は勝手に連いてくるやろ」
     …駄目だ、こりゃ。
     落ち込んで、縋れる藁でもあるなら掴みたい心境だったとは言え訊いた自分が莫迦だった。手振りをつけて嘆くウラタロスに 答えたキンタロスの方は満悦の様子でますます溜息が出た。
    「キンちゃんとボクじゃ恋愛の性格も違いすぎて、サッパリ参考にならないって事だけは分かったよ。 今後キンちゃんに一切無駄な相談を持ちかけない為の、いい勉強になった。ありがと」
     その嫌味にキンタロスは『ん?』と眉を顰める。
    「―何でもえぇけど、お前もプール入ったらどうや?」
    「ボクはいい…ってちょーっと、引っ張らないでよ、キンちゃーん」
     話が済んでウラタロスの元までまたザブザブと戻ってきたキンタロスは、浴槽の外に座ったままのウラタロスの腕を引っ張り、拒むウラタロスをプールの中に引きずり込んだ。

     ―ボクのこと、嫌いなの?

     …ううん、それだったらあの子はもっと、あの子自身をぶつけてくれる。
     どうでもいい相手ならただ無視してればいいのだし。良太郎が自分の想いを拒むのは、彼が何らかの形で自分の事を意識しているからだ。
     今、頭を冷やして冷静に考え直して見れば、良太郎? 好きになって欲しくないなんて感情は、―本気になりそうで怖い相手にしか、ボクは思った事がない。…―ボクが良太郎に『優しい嘘つき』と信用された、初めの頃の話。

     *

     外は灼熱の天日。数秒立っているだけで汗だくになるようなこの真夏日に誰より真面目に働いている未来からの使者は今日も早速2体目が現れた。
     ウラタロスたちが涼みを終えて食堂車に戻った時にはモモタロスも先の戦闘から帰ってきており、 顔に濡れたタオルを貼り付けて休息していた。涼しげなウラタロスたちの姿を見て、モモタロスは猛暑と疲労の中で苛々と進歩のない愚痴を零す。 そこへ呼び出し音が鳴り、再び良太郎に求められたモモタロスは『またかよ!』とテーブルを叩き、憤った。
     今、しか機会はないと思った。 そんな気がしたウラタロスは気合を入れ直して自身の頬を軽く叩くモモタロスの前に名乗り出た。
    「―お疲れだろうから、センパイ。今回はボクが行くよ」
    「あぁ? 何言ってんだ、亀。呼ばれたのは俺だぜ?」
     モモタロス、早く。と言う若干 追い込まれた良太郎の声がモモタロスの脳内に響き、そしてウラタロスにも聴こえた。即座にモモタロスはウラタロスの発言を却下する。
    「何か知らねぇけど最近、良太郎のヤツおかしい感じすんだろ。 混乱してるっつーか妙に追い詰められてるっつーか。それで俺を頼ってくるんなら、俺が行くしかねぇんだよ。 ―海・湖・河以外」
     最後の一言だけ格好悪いんだけど。思いながらウラタロスはモモタロスの腕を掴み、一生に一度この彼の前であるかないかの真面目な顔で言った。
    「―そのリョータローがおかしいのはボクの所為だって言ったら?」
    「…何?」
    「責任持って、行かせてもらうよ」
     後ろでキンタロスが顔を上げる。怪訝に顔を歪めるモモタロスが深淵を探ってくる前に ウラタロスは青い光へと身を変え文字通り電車の中から飛び出した。

     イマジンと対峙する最中、 呼んだはずのモモタロスの代わりにウラタロスが憑依すると良太郎は著しく動揺した。拒否反応が起こり肉体の操作は完全にはウラタロスのものにはならず、しかし良太郎自身のものにも なりきらない。『どうしてウラタロスが…』 と引き攣る良太郎の意識はイマジンから逸れ、ウラタロスはプラットフォームのまま無理矢理 蹴り上げ、襲い掛かってくる敵を退けた。
     ―気を緩めたら洩れてしまう。閉じ込めていた気持ちがすべて流れて、知られてしまう。そんな良太郎の緊張がウラタロスとの結束をぎこちなくする。戦いの場でその状態は致命的だ。
     しかしウラタロスは敢えて譲らなかった。ここらで打開しなければ自分たちは一生、通じ合えない。繋がれない。 ―或いは、良太郎本人がそれを望まなかったとしても。
    「―ボクを受け容れて、リョータロー。少しの間だけでいい」
    『……無理』
    「瞳を閉じて。海のように心を鎮めて。 ―大丈夫、3分もかからないよ」
    『出来ないよ…!』
    「何も考えなくていい。リョータローの心はボクには聴こえない。 ただ今だけはボクと手を重ねて、同じ敵を見据えてくれればそれでいいから」
     リョータロー。あやすように優しく囁かれたその声音に、感極まった良太郎は思わず泣き出しそうになったが、それを堪えて瞳を閉じた。目の前の敵以外の事を考えない。 だんだんと無心になって行き、それに伴ってウラタロスの精神が良太郎の肉体に馴染んでいく。
     やがて身体の操縦がウラタロスの意思に任されると、ウラタロスはロッドフォームへと変身しロッドを振り翳した。
     鶴のイメージから姿を得た その敵はロッドで釣り上げ飛行を阻止してしまえば、それほど梃子摺る相手ではなかった。モモタロスが出るまでもない、鳥足のキックはウラタロスの足技に比べれば劣る。嘴のように鋭く尖った腕が鼻先に伸びてくるのを難なく回避し、そのままロッドを突き刺して敵を捉えると、ウラタロスはトドメの蹴りを食らわせて良太郎に示した3分内で敵を片付けた。
     暴走する事はなく 地面に臥したまま砂の粒となって、すぐに跡形も無く消えてしまうだろう敵を確認し ウラタロスは憑依を解いた。変身の解けた良太郎の前に砂状の体で対峙する。
     言葉は何も用意していなかった。 その所為か、間抜けな挨拶が苦笑いとともに出て来てしまった。
    「…久し振り、…かな?」
     良太郎はそんなウラタロスを見詰めて、切なく眉を顰めた。
     ウラタロスの こうして戦闘に出ることはなかった1週間も、デンライナーの中で顔を見る機会は何度かあった。 けれども『久し振り』という言葉が まるで相応しく もう何日も、 何ヶ月も逢っていなかったような錯覚を良太郎も覚えていた。たった1週間でも永い間、遠く離れていたような気がする。 彼を拒み続けた罪悪感よりも、強引に入ってきたはずのウラタロスと変わりない調和が得られた事に安堵し、そして、ウラタロスの口から何の責め句もない事が、優しすぎて苦しかった。
    「…怒ってる? リョータロー」
     ウラタロスの優しさの中で時々、窒息しそうになる。
     彼の憑依した感触がまだ体内に残っている。 ウラタロスの精神は深海のように温かく清んでいて、それに自分の体のチャンネルが合うと体の芯から指先に至るまで神経が鋭くなり、同時にひどく大らかな落ち着きを得る。 誰よりも自分の感性と適合して、それは一言で言うなら気持ちが良くて。
     ―怒ってなどいない、けれどもだから、近くにいられない。

     言うべき言葉もわからないままウラタロスに対して口を開こうとした良太郎だったが、しかしその時、砂のウラタロスのハッとした視線が良太郎の背後に向けられ、
    「―良太郎!」
     良太郎はウラタロスの慌てた声と伸ばされた手を不思議に思ったまま、数秒間、意識の空白を得た。
     良太郎の背後で消えようとするイマジンが 最期の抵抗とばかり無数の羽に姿を変え、鋭利な刃のように良太郎の背を目掛けて飛んできたのだ。 瞬間的に良太郎を護るべく憑依し、ガードしたウラタロスだったが、羽の刃は腕、脚、横腹…とその身体に鋭い切り傷を幾つも刻み込んだ。
     致命的な傷はなく、身体を擦り抜けそのまま完全にイマジンは消滅した。しかし攻撃を受けた衝撃と痛みにウラタロスの意識は眩んだ。
     良太郎の身を護れた事だけに安堵しそのまま気を失ってしまいそうになったが、傷付いた腕や頬から流れてくる赤い血を見て失望する。
     ―盾になった、つもりだった。

    「…あぁ、ごめんね、リョータロー…」

     全身が痛みに疼く。
     ウラタロスは返事のない良太郎にひとり語りかけた。

    「…『これ』はリョータローの身体だった。
     ―ボクが入ったところで傷付くのは結局、…リョータローだね…」

     無数の裂傷に傷付いたこの身体の本来の持ち主はすでに失神している。それだけを僅かな救いにウラタロスは情けなく微笑し ついに眠りに落ちた。 頭の中に良太郎を心配して叫ぶ赤鬼の、声が聴こえる。 ―あぁ。

     ―キミを護れる肉体も、この時代には持たないボクが。

     ―…リョータロー?

     ―キミと愛し合える、わけがないね。


    -------------

     僕は嘘つき。 …孤独な嘘つき。

    Act 05

     良太郎に憑依したまま途絶えていたウラタロスの意識は、傷付いた良太郎の身体がハナに抱かれてデンライナーに保護される、その途中で浮上した。けれども自身で歩けるほどには体力がなく、情けないなと自嘲しながらウラタロスは、本来自分ら男が抱くべき女性の腕に身を委ねていた。
     とりあえずで食堂車に運ばれ座席に寝かされると、即行、駆け寄ってきた赤鬼が怒鳴ってきた。―怒鳴り声は、傷付いたこの身体に沁みる。
    「くぉら亀! 最後の最後まで油断してんじゃねぇよ…! 良太郎の身体、傷だらけの血だらけじゃねぇか…!! ―もしもこいつに、」
    「バカモモ、黙りなさい!」
     それを途中でハナが制し、悲痛な顔でウラタロスを庇った。
    「―痛みを受けたショックだけで人は命を落とす事もあるのよ。…ウラはよく良太郎を護ったわ」
     イマジンを嫌いな、…― 『嘘つき』 は更に嫌いなハナに庇われた奇跡に、ウラタロスは薄弱な微笑を零した。 自分と同じく良太郎を大事に想う、ハナに認められたのならばそれだけで全てが報われた気がした。
    「―初めてハナさんに褒められた…。…嬉しいな…」
    「―こんな時に何言ってんの、バカ!」
     元来 優しい性格の、涙目、涙声のハナは良太郎の身体を心配している。ウラタロスが憑依を解いて良太郎を返してやった方が彼女は安心するだろう。 しかしこの身体が手当てされ、もう少し癒えるまで、このまま。

     ―もう少し、…眠っていて、 リョータロー。

     ところがその瞬間、まだ失神しているはずの良太郎の身体からウラタロスは弾かれた。 一刹那、青い光となって車内を浮遊し、すぐに普段の姿で身を現すと、呆然と良太郎を見詰める。
     弾かれたのは、良太郎の意思だ。 ―眠っているはずなのに、潜在的な彼の意思がウラタロスを追い出した。信じられないけれど。信じたくないほどだけれどそれがウラタロスもよく知る良太郎の持つ強さだ。―精神の。
     良太郎と切り離されたこの姿に戻ってしまうと、もう痛みなど微塵も感じなかった。先刻までズキズキと疼いて仕方なかった手も、脚も、顔も。自分はもう、何ともない。 良太郎の身体は呼吸も細く横たえられたまま、 ナオミの持ってきた救急箱で応急処置を施される間も、苦痛を訴える事もなかった。
     ―どうして、リョータロー。
     痛みを代わってやることも出来ない。
     ―どうして、キミは。
     余計に苦しい。

     ―どうしてこんな時でさえ、ボクを拒むの。
       (こんな時だからこそボクを拒む、キミだから、ボクは。)

     *

     デンライナーにも静かな夜は訪れる。
     寝台車に移されて、カーテンに仕切られた簡易ベッドに眠る良太郎をウラタロスは音を殺して眺めていた。代わる代わる良太郎の様子を見に来るハナやモモタロスたちの隙間をついて、ようやく誰もいなくなった薄闇の室内。
     手当てを施されてから少しして一度、良太郎は目を覚ました。意識も至極正常で、周りの心配する声に『大丈夫』 と笑っていた。けれど、最近の寝不足と疲れの所為だろう、またすぐに眠りに入った良太郎は、それからもう数時間、ぐっすりと寝入ったままだ。
     頬と口元と、首筋と腕と。 目に付く肌には大体、大きな白い絆創膏が貼られていて。 それ以外にも細かな切り傷が幾つもある。ウラタロスは良太郎の額に僅か触れるだけの口付けを落とすと、ごめんね、と音無く呟いて、カーテンをそっと閉じ、良太郎を安息の薄闇に閉じ込めて寝台車を後にした。

     ウラタロスと入れ替わりに良太郎の見舞いに行ったか、 各々専用の個室車両に戻ったか。 誰もいない、一人きりの食堂車に座ってただ眠れない夜を更かしていると、ぴょこんとテーブルの向こうに小さなヒマワリが咲き、ウラタロスはそれを見て小首を傾げた。すると花に遅れてリュウタロスが顔を出し、ヒマワリをウラタロスに差し出す。
    「かめちゃん、これあげる」
     キレイに咲いた花。 ウラタロスがそれに手を伸ばすと、指先がその茎を掴まえる前に、『かめちゃんみたい』 とリュウタロスが言った。
     お日様だけを恋しく、見上げ続ける花。
     途中で腕を引いてしまい ウラタロスのついに受け取れなかったヒマワリをテーブルに肘を着いて、その上に頭を寝かせたリュウタロスは 片手でふわふわと揺らし、眺めて遊んでいた。
    「―ねぇかめちゃん」
     その間もウラタロスが想うのはただ、一人だけ。
     眠れない夜に想うのはいつも、…良太郎だけ。
     リュウタロスが、寂しそうに問いかける。
    「…本気になったって、…どうにもなんないんだよ?」
    「……。」
     その声があんまりに哀しくて。 …置き去りにされた迷子のように心細くて、ウラタロスは苦く微笑すると、リュウタロスの額をツンと突付いた。
    「子供は恋の苦味なんて、知らなくていーの」
     それでもぐすんと泣きそうに、『どうしようもないんだよ、』 とリュウタロスは呟いた。
     人間とイマジン。現代の人間と、未来の人間。
     ―どうしようもないね。…どうにも、ならないね。
     だけど。
    「…それじゃあリュウタはどうして、愛理さんを好きなの?」
    「……っ」
     言えばリュウタロスはだんまりを決め込んで、それから突然癇癪を起こすとウラタロスに八つ当たりした。
    「ぼくだってわかってるよ…!」
     そして紫色の光になって、車両から消えてしまった。―リュウタロスは、分かっている。どうしようもないこと。どうにもならないこと。 痛いくらいに、ウラタロスの心を解っている。―それでも生まれる気持ちがあること。…あぁ、そうか。
     リュウタはボクに、期待してるのか。

     リュウタロスの居た場所に、ヒマワリの花が一輪。
     ―あなただけを、見つめています。

     *

     額に何か、触れた感触に良太郎は意識を揺り起こされた。全身、沁みるように痛む身体を薄暗い部屋の中に起こして、その額を押さえる。寝ている間はひそひそと、頻りに誰かの息や声、足音が聴こえていた気がする。 そんな中で唯一人、この額に触れた人。
     誰かなんて、誰に尋ねなくとも判る。だって額に残った感触は、毎夜 穏やかに響いたあの『おやすみ』と、何ら変わりのない温もりを持っていたから。

     ―どうして、君は。

     …この身体に傷を受けた瞬間の、鋭い痛みを想像して良太郎は自身の震える二の腕を抱いた。今ひりひりと、じくじくと、疼く比ではなかったはずだ。
     寒気がする。
     この怪我が治るまで、一週間くらい、デンライナーに宿泊してはどうかとハナに提案された。 最初は 姉を一人にするのが心配である事と、店を空けるのが躊躇われるのを理由に断ろうと思ったが、 日常生活では有り得ない怪我の仕方では余計に姉を心配させるし、 それに良太郎の代わりにバイトを頑張るからと張り切るハナの心遣いを無碍に出来ず、良太郎はせめて顔と腕の傷が薄くなるまではこの電車に残る事にした。―絆創膏だらけの両腕を見て、どの道ミイラ手前のこの状態では接客が出来ないだろうと、今更ながらに思った。
     僕なんかの為に盾になって。
     痛みを代わってくれようとする。
     僕は君を傷つけようとしていたのに、
     ―どうして、ウラタロス。

     その時 他に誰もいなかったはずの室内にふと気配を感じ、顔を上げれば良太郎の眼前に紫色の光体が現れた。
    『りょーたろー』
     カーテンに仕切られた小狭い空間を光体はくるくると動き回ると、やがてイマジン体としてリュウタロスが姿を現して、良太郎を呼ぶ。
    「―ねぇ、行こうよ、りょーたろー」
    「…何処へ?」
    「かめちゃんのとこ、行こう」
     瞳を大きくした良太郎はすぐに心を落ち着け、首を振ろうとした。 それを遮るように尚、リュウタロスは良太郎に呼びかける。
    「―行きなよ」
     声が一段、冷たくなった。子供は怒っている。
    「…ありがとうって、言いに行きなよ」
     また一段、冷たくなって、
    「庇ってもらったんでしょ、お礼くらい言いなよ。 ありがとうって、かめちゃんに言いなよ。そんでりょーたろーのホントの気持ち、言ってきなよ」
     良太郎は瞳を揺らし、小さく首を振った。リュウタロスの怒りを感じる。 ―心の奥深いところまで、氷のように突き刺さる。
    「…りょーたろーはぼくに借りがあるんだよ? ぼくはお願いなんかしてない」
     そしてもう一度、『行きなよ』 と。

     …そんなリュウタロスが、怖かったわけじゃない。
     だけども良太郎はウラタロスの居る食堂車に身体を押して向かっていた。ありがとう、ただその一言を言わなければと思って、その意思だけが痛みに引っ張られる足を少しずつでも前へ動かしていた。
     ありがとう、ありがとう、…ありがとう。
     僕は君を傷つけて、遠ざけようとして。だけど、―勝手だけど、傷付いて欲しくない。僕の痛みまで、…肉体の痛みまで、君に押し付けたくはない。
     ウラタロス、

     食堂車には彼が居て。―彼だけが居て、座っていて、ただそれだけで。その背を見ただけで、…苦しい。 ウラタロスは食堂車の入口に現れた良太郎を驚いた顔で振り向くと、すぐに駆け寄って来た。体力が戻らず前のめりに倒れそうになった良太郎の身体を彼の腕が支える。
    「―どうしたの、リョータロー。寝てなくて…」
    「―ウラタロス」
    「…大丈夫?」
    「ウラタロ、ス…」
     その腕に強くしがみついて身体を起こすと良太郎は口を開いた。―ありがとう、…ただそれを言う為に。
     だけども言葉は喉に詰まって、いつまで経っても出ては来なくて、 窒息した魚のように口を開けたまま泣きたくなって。 やがて嗚咽交じりに出てきたのは 『ごめん』 、そんな、
    「…ごめん、ウラ、…ごめ…」
    「…リョータロー? 身体痛いの? ―ボクが代わってあげようか…?」
    「―ごめん…っ!」
     ウラタロスを困惑させる言葉だった。
     もう、駄目だ。もう駄目。良太郎はウラタロスの腕を振り払い身を返して駆け出した。殆ど走れる事は出来なかったがウラタロスは立ち尽くしたまま良太郎の願いに背く事はなく、…食堂車の入口に座っていたリュウタロスだけが、良太郎を追求してくる。
    「―どうして?!」
    「―…来ないでよ、リュウタロス…!」
    「ホントのコト言わないの…?!」
     ぴょんぴょんと纏わりついてくる子供が煩わしくて、心持ち、良太郎はそれを振り切るように足を速めた。触れて欲しくない部分がある。子供はそれを知らない。―いいや、知ってて触れてくる。惨酷。…いいや、
    「―どうして? …りょーたろー、嬉しかったでしょ? 毎晩毎晩かめちゃんがおやすみしてくれるの待ってたでしょ? あったかかったでしょ? ずっとずっと聴いてたいって思ってたでしょ? かめちゃんの声に抱かれてたいって、」
    「…でも!!」

     ―純粋。

    「ウラタロスは……―僕とは違う…っ」

     しつこく連いてくるリュウタロスを切り捨てるように良太郎が怒鳴ると、リュウタロスは刹那、押し黙った。けれどもすぐに癇癪めいた怒りを起こして良太郎を鋭く睨めつけた。

    「…りょーたろーなんか、大嫌い」

     それがスイッチのようにリュウタロスは良太郎の肉体に憑依してきて、身体の操作を奪ってしまった。驚いた良太郎は脳内でのみ働く意識で狼狽しリュウタロスを追い出そうと試みたが、体力回復が不十分の上 動揺していた為か、それは叶わなかった。
     リュウタロスが何か危険な事をしようとしている、自分の所為で。
     それを感じて焦燥し、リュウタロスを止めようと何度も何度も念じたし、リュウタロスに懇願もした。しかし暴走した子供は聞く耳を持たず、良太郎の杞憂も蔑ろにして走行中の電車から、夜の空間に飛び出した。


    -------------

     ねぇ、 誰を騙して僕は、しあわせになろうか。

    Final Act

    『―待ってよリュウタロス、待って…!』

     夜の中を鉄砲玉のような勢いで駆け抜く自分の身体に、止まれ、止まれと良太郎は念じた。 けれども激しく焦燥する心とは裏腹、 身体は糸から自由になった操り人形のように、奔放を謳歌する。 その身体を乗っ取って、勝手に動く子供は止まらない。
     リュウタロスは低空を走行していたデンライナーから飛び出し数瞬の落下感覚に胸を膨らませると 猫の如き身軽さで着地し、そのまま夜の街に繰り出した。どこへ弾むか分からない鞠のように。フライパンの上で弾け飛ぶポップコーンのように。ポンポンと闇とネオンの隙間で踊る。 リュウタロスが何処へ向かい、何をしでかそうとするのか、その意図を見出せずに、だけどもとても不吉な予感がして良太郎は ひたすら焦っていた。
     リュウタロスは良太郎の内で膨張する不安も、 切羽詰った抑止の言葉も徹底的に無視して独走し続ける。
    『ねぇ何する気なの?! …止まって、リュウタロス…!』
     路上に酔って気を大きくした数人の学生集団が騒いでいるのを見つけるとリュウタロスはようやく低く呟いた。
    「…りょーたろーとおんなじことだよ」
     そしてリュウタロスは、お気に入りの歌の触りだけを軽く口ずさむと自身の身体のリズムを作り、ダンスしながら学生集団に近付いていった。 ハッと良太郎が気付いた時には その予想通り、リュウタロスは乗っ取った良太郎の身体で学生たちに襲い掛かり、彼らの口から血液や叫びが豊満に出てくるまで殴り倒した。
     動かしているのは自分の意思じゃない、 けれども確かに自身の腕が人を殴り、蹴り飛ばし、そして確かに自身の瞳に罪無き血が映っている。良太郎は衝撃に心臓を貫かれ、悲鳴を上げるようにリュウタロスに呼びかけた。
    『―リュウタロス! 駄目だよ、やめて!!』
     呻きながら地面に這い蹲る人間たちをリュウタロスは良太郎の瞳で、哀しみも喜びもなくただ冷淡に見下ろし、良太郎の悲鳴を踏み潰すと 次のステージへ。次のターゲットを探して駆け出した。
     最初の頃と同じ。暴走のリュウタロスは良太郎の抑制の意思を凌駕して、簡単に人を傷つける。 何の罪もない人間を痛めつける事に罪を感じない。―ただ最初の頃と違うのは、 今回のこれは、純然としたリュウタロスの怒りであり、良太郎への制裁だった。
     机の上に並べた人形を腕の一振りで薙ぎ倒すように、ひとたまりもない路上の人間をリュウタロスは無差別に傷つけていく。 工事現場から拾い上げた鉄パイプで見知らぬ少年の腹を打撲する。見知らぬ男性の頭を、スイカでも割ろうとするように叩き打つ。 リュウタロスは 瞳から零れる良太郎の涙に気付くと口角を上げて、見知らぬ警察官から銃を奪うとその肩に穴を開けそれから、良太郎を叱責するようにパン、パンと五発、空を打ち抜いた。
    『やめてリュウタロス…返して…』
    「次は誰か殺してみようか、りょーたろー」
    『やめてよ! …返して!!』
    「どうして? りょーたろーだって人傷つけるのが好きなくせに」
    『そんな事ない! …返してよ、僕の身体を返して!!』
    「―何言ってんの? りょーたろー」
     良太郎の切実な訴えに、リュウタロスはきょとんと言う。
    「この身体はぼくのだよぉ」
     それはリュウタロスが 『乗っ取った』 のではなく、 最初から野上良太郎、その人間の肉体がリュウタロスのものであったかのように。良太郎の方がまったく素っ頓狂な発言をしているかのように、
     リュウタロスは良太郎を哂った。
    「この身体は産まれた時から、ぼくのものだったんだよ? ぼくが本当の、りょうたろうなんだよ? りょーたろーが途中から ぼくの身体に入ってきて、まるで自分のものみたいに思ってたくせに、忘れたの?」
    『…何、言ってんの…?』
    「でも返してもらうよ。 この身体、ぼくのだから」
    『―違うよ! 何言ってんの…!?』
     リュウタロスの言う事が理解出来ずに良太郎は混乱した。そして自分の中にある記憶を慌てて確認した。両親がいなくて寂寥を感じていた幼い日々、姉と喧嘩し、泣かせてしまった日や、―桜井が居て、明るい未来を信じていたいつかの事。この身体は自分のものだ。最初から、自分のものだ。
     けれどリュウタロスは違うと言う。
    「ぼくのだよ。その証拠にほら、今はぼくの言うことしかきかないでしょ?」
     良太郎はリュウタロスを弾く事が出来ずにいた。 その一方でリュウタロスは良太郎の身体を彼の意のまま、器用に操ってみせる。 その場で短いブレイクダンスを披露し、リズムを取って、良太郎以上に自由に、自在に、この肉体を動かした。
    「りょーたろーのものだって言うんなら、証明してみせてよ」
    『証明なんか…ないよ。僕は僕だよ…!』
    「りょーたろーはぼくの身体を乗っ取ってたイマジンなんだよぉ」
    『違うったら! 僕は、ずっと僕だったよ…! 最初からずっと 「野上良太郎」だったよ。証明なんかなくたって、僕の心が全部だよ…!! ―返して… 僕の身体、返して!!』
     強く思って、強く叫んだ良太郎はその瞬間、ようやくリュウタロスから肉体を取り戻し、その疲労から荒く肩で呼吸した。 気付けば見知らぬ何処かの駐車場にポツリと一人で立っていた。
     悔しい事に、良太郎一人の力で肉体を奪還できたのではなくて、 リュウタロスが彼の意思で憑依を緩めてくれたようだった。肉体を取り戻せた安堵、リュウタロスの暴走が止まった安堵、でも沢山の人を傷つけてしまった罪悪感。身体を震わせ止まらない涙を頬に滑らす良太郎に、リュウタロスは寂しそうに話しかけてきた。
    『…おんなじでしょ?』
     良太郎はズッと鼻を啜り上げた。
    『…ぼくたちだって、心が全部だよ。 りょーたろーとおんなじだよぉ』
     リュウタロスは、泣きそうだ。
    『身体なんてなくたって心を傷つけられたら痛いんだよ。 ぼくも、かめちゃんも、好きなひとに心を遠ざけられたら哀しいんだよぉ。…全部なんだよ?』
     良太郎がウラタロスを拒絶し傷つけている事が、この子供は哀しかったのだ。 その子供に気付かされ、良太郎は胸を切り裂かれるような痛みを覚えた。
    「…僕、は…」
     リュウタロスが他人を傷つける行為に良太郎が傷付いた。 それと同じくらい、良太郎の拒絶を受けたウラタロスも、傷付いていた?
     ウラタロスの事を、想っていなかったわけじゃない。
     嫌いで拒絶したかったわけじゃない。
     胸の中はいつも、いっぱいで、ぎゅうぎゅうで、切なくなるほど、
    「僕は…ウラタロスを…」
    『…りょーたろ』
    「僕は、…好きで、」
    『……りょーたろ』
    「好きで、好きで、…―すごく好きで…っ」
    『知ってる』
    「―でも怖いんだ…っ!!」
     言葉にすれば堰を切って溢れ出てくる、想いは海すらも簡単に満たしてしまうほど、いっぱいで。 苦しくて。『おやすみ』と、聴くと泣きたくなる。ずっとその声に抱かれて眠りたいのに、 同時に心の裏側から激しい不安の波が押し寄せた。 いつも、―いつも。
    「僕、姉さんみたいになっちゃうのが怖いんだっ。ウラタロスはいつか必ず僕の前から消えちゃって、―桜井さんみたいにいなくなっちゃって、ウラタロスの事、すごく、好きで、 好きでしょうがない僕は、姉さんみたいに置き去りにされてしまうのも、ウラタロスの事、 忘れちゃうのも怖いんだ…!! 怖いよリュウタロス…っ」
     冷たく閉ざして凍らせていた心が融けて、流れ出したら止まらない。 良太郎は幼い子供のように涙を落として弾け出す感情をリュウタロスに投げた。
     リュウタロスは良太郎の嗚咽が落ち着くのを、大人しく待っていた。
    『…ぼくもおねえちゃんと、離れるのやだ。 やだけど、…いたいよ』
    「―っ…」
    『ぼくはいつか いなくなっちゃうから、だから、…りょーたろの中に いられる間は、おねえちゃんの傍にいっぱい いたいよ』
     最後に呟きを落として、良太郎の中から気配を消した。

     ―今しかいっしょに、…いられないから。

     *

     食堂車のデジタル時計が音無く時を刻む。
     右端の数字がパッと『8』に変わり、時刻は真夜中、1時58分。 この車両にはもうずっとウラタロス以外、ナオミですらいなかった。
     『ごめん』と言ってウラタロスの前から去った良太郎。その言葉の意味を、考えていた。ウラタロスが良太郎を庇って攻撃を受けたことを、『ごめん』? ウラタロスの想いに、―応えられなくて、『ごめん』?
     何にせよ、そんな泣きそうな顔で良太郎に言わせてしまったのなら、 謝るのは此方の方だ。ごめんね。 …好きになって、ごめんね。とうとう自分に嘘をつけなかった、ボクでごめん。
     己惚れて構わないなら、 良太郎は自分の事を想っている。 ふたりは想い合っている。 それでも良太郎の気持ちが素直に返ってこないのは、自分たちの関係が不自然だからだ。 それぞれ普通に生きていたなら、決して出逢う事のなかった、違う時間の自分たち。
     想い合う気持ちは何時の時代も、…何も変わらないのにね。
     例えばいつか、未来に帰る日が来ても。自分はこの想いをいっしょに連れて帰ると思う。それくらいで時間が歪む事はないだろう。

    『ごめん』

     ―あんな切なく愛しい顔を、忘れろなんて方が無理。

     …と。 後ろで不意に音がした。シュンと滑らかな音を立てて食堂車のドアが開く。大きな絆創膏の貼られた手でドア口にしがみつき、それを頼りに倒れそうな身体をなんとか保って、現れたのは良太郎だった。
     驚いて、一瞬、幻かと思って、立つのが遅れたウラタロスに良太郎は身体を引きずるように歩いてきた。
    「…ウラタロス…」
     ウラタロス。名を呼びながら近付いてくる良太郎の顔には、泣いた跡がある。昼間に受けた切り傷だけじゃない、泥にも少し汚れていて、体力を消耗しきってボロボロに千切れてしまいそうだった。
    「…リョータロー?」
    「ウラタロス、…っ」
     何かを言おうとしている。ようやく立ち上がる事を思い出し、良太郎の身体を支えに行って、様子を窺うウラタロスに。また泣き出してしまいそうな良太郎はそれを堪えて口を開いた。
    「―君のことが、…好きなんだ」
     ウラタロスの腕を震える手で掴み、良太郎は繰り返す。
    「好きなんだ」
     どくん、と揺すぶられた心臓に、ウラタロスは顔を顰めた。
    「…リョータロー?」
    「好きだよ」
     掴む事の出来ない夢・幻を、手にしたように感情が溢れる。信じられない。
     あぁ。 …ボクはキミを一人悩ませたまま、罪深く宝を手に入れようと、している。だけどこの腕を伸ばせば抱きしめられる温もりを、逃がしたくはない。
    「…いいの? リョータロー」
     逃がす気なんて最早なかった。
    「…ボクは悲しみに向かう恋の列車に、 無理矢理リョータローを乗せるつもりはないよ?」
     嘘。 今更 拒まれても離せない。
     良太郎の背を抱き、その温もりを確かめる。抱きしめられてほんの僅か瞳を大きくした良太郎は、ウラタロスの胸に頬を預けて穏やかに答えた。
    「…いいんだ。 悲しいだけになんてしない」

     ―その答えを弾き出すまで、
     …ボクの為に苦しんで、泣いてくれたの?

    「…好きなんだ、…ウラタロス…っ」
    「―うん」
    「…ごめんね、ウラ」
    「―うん」
    「ごめん…っ」
    「―ボクも、リョータローが好きだ」

     もう身体の水分を全部搾り出してしまいそうなくらい。涙を流した良太郎はウラタロスの腕の中でやがて、安心したのか、眠ってしまった。力が抜けて重くなった身体をそれでもウラタロスは抱きしめて離すことができなかった。 ―良太郎以上に涙に濡れた自分の顔なんてとても、
    …恥ずかしかったから。

     …ふ、とウラタロスの後ろ、紫色の気配がして。
    「かめちゃん、よかったねぇ」
     やさしい子供の声がする。小悪魔のような天使のよう。
    「一応はお礼言っとこうかな、いたずらキューピーちゃん。 …ありがとうね」
    「うん、ぼく りょーたろーとかめちゃんの事、大好きだから」
     へへ、と無邪気に笑うリュウタロスを覗くように振り向いて、『ホントに?』 と疑いをかけるウラタロスに、イマジン体となったリュウタロスは軽やかに身をこなして近付き、ウラタロスの腕の中に眠る良太郎を覗き込んで言った。
    「ほんとはぼく、かめちゃんに『おやすみ』ってされて、かめちゃんのこと好きなりょーたろーの中、すっごくあったかくて、気持ちいいから」
    「…この、ウソツキ」
     微笑を零してウラタロスが小突くと、
     リュウタロスはそれでも嬉しそうに はにかんだ。
    「へへ~」
     そして再び紫色の光となって辺りをはしゃぐように、―祝福のように飛び回り、リュウタロスはいつの間にか両人を車両に残して消えた。
     ウラタロスは『やれやれ』と小さく溜め息を吐くと、 けれどもすぐに締まりなくなるその口で、腕の中の最愛を起こさないよう囁きを落とした。 …そっと。
    「…おやすみ、リョータロー」

     ―おやすみ。

     *
     *

    「あーあーあー。……暇だな」
     部屋の中を右往左往、落ち着き無くウロついて、身体中に絆創膏を貼り付けた良太郎の休んでいるベッドにどっかり腰をかけると、イライラと足を貧乏揺すりさせながら赤鬼が愚痴垂れた。最後に彼が敵イマジンと対峙して 三日目になる長閑な今日。
    「ったく幾ら疲れるったってよぉ、―こう、今まで毎日のように湧いてたイマジンが急に出て来なくなったんじゃ気になって落ち着かねぇぜ。あーー暴れたくてたまんねぇ…!!」
     キンタロスとともに良太郎の見舞いに訪れながら時間を持て余しているモモタロス。しかし途中でハッと頭を弾くと、何も言っていない良太郎に必死に言い訳するように、モモタロスはぶんぶんと頭を振り、手で否定した。
    「いや、だからって、良太郎が こんな怪我してるうちは平和で良かったって思ってんだぜ?!」
     その必死さに逆に呆れて引き攣った良太郎は、『うん』 とそれに頷いた。それからふと顔を上げ、壁に寄りかかって物静かに腕を組んでいるウラタロスを見遣ると、彼はようやく身を起こしてモモタロスに呼びかける。
    「センパイ、そういうの、ないものねだりって言うんだよ。そんなに退屈ならプールで泳ぎの練習でもしてきたら? リョータローの事はボクが看てるから」
    「あぁ? …いいんだよ」
     ウラタロスの提案にモモタロスが突然、哀愁漂わせて顔を背け、そして意味のわからないニヒルな溜め息を吐くと言った。
    「考えたんだよ、俺は。―泳げるとか、泳げねぇとか、男はそんな小さいモンに拘ってちゃ永遠に大きくなれねぇ。そういう卑屈な心こそプライドの海に沈むカナヅチなんじゃねぇか…ってよ」
    「…―逃避だよねぇ? それって」
    「うるせぃっ」
     ウラタロスのツッコミにモモタロスがプイッとそっぽ向く。
     極めて冷静の通常を振舞っているけど、ウラタロスは少し怒っている。 …そわそわして、いる?
     なんとなくそう感じながら良太郎は それは自分の方だと、視線を落として自分に起こった照れを隠した。
    「―ねぇキンちゃん、センパイったらどうしても泳げるようにならなきゃ、泣いちゃうってさ」
    「…今の言葉、そういう意味やったんか?」
    「そういう意味らしいよ」
    「おい亀! ヒトの言葉を勝手におかしな解釈してんじゃねぇ!」
     すると部屋の隅に構えていたキンタロスが ずずいと身を乗り出し、モモタロスの腕を掴んで力ずくで立たせると、モモタロスを引っ張って部屋を出口に向かった。
    「よっしゃ、そういう事ならしゃあない。泳ぎの練習行くで、桃の字」
    「お前も勝手に決めんな熊!!」
    「このキンちゃんが手ぇ引っ張ったるから、安心せぇ」
    「~頼んでねぇよ!!」
    「良太郎、大事にな」
     力では敵わない。モモタロスは最上級の不満を持ったままキンタロスにプールへと連行されていった。しかしそんな事よりも、…いつまで経っても泳げない事よりも、もっと不満な事がある。

    「ところで良太郎が怪我 治るまでデンライナーに居るのはいいが、―何で、何で、亀の部屋で寝泊りしてんだ~~~っ!!?」

     声が遠のいてから苦笑した良太郎は、日常の騒がしさに小さな愛しさを感じつつ、体よく首尾よく人払いしたウラタロスを物言いたげに見詰めた。その内容を理解したらしいウラタロスは しれっと視線を外し、再び良太郎に瞳を戻すと、穏やかに微笑した。
     …ふたりっきりに、なりたいもんねぇ?
     ウラタロスの瞳の呼びかけに気恥ずかしさを感じつつ、 つられて微笑してしまう。 手際も鮮やかな、うそつき、詐欺師。 お互い様。

     ―ねぇ、僕たち、いっしょにいられる時間を大事にしようね?
     ―君といる時間を、悲しいだけの思い出になんて、しないから。

     ウラタロスはシニカルに口角を上げて言う。 ―リョータロー?

     ―もしもボクら結ばれない運命だったとしたら、
     ―運命さえも騙してふたり、いっしょに笑おう。

     君(キミ)のことが、大好きなのは、 嘘じゃない。



    [ The End. ]
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