アルフ・ライラ・ワ・ライラ「私、死ぬときは君より先に死にたい」
ドクターは雪降る夜のような静寂に包まれ色のない声で呟いた。エアコンと加湿器が低く唸る部屋は快適で完璧な湿度と室温を保ち、ドクターのための安寧の地を構成する。たっぷりと太陽の光を浴びたブランケットから、陽だまりの匂いがした。ドクターの身を守るあらゆる装備が取り払われ、真っ白に現れたシーツがまぶしいベッドで上体を起こしPRTSと共に端末で殲滅作戦のシミュレーションを立てている。そんなドクターの手からリーが端末を取り上げてしまうと、防衛ラインを突破された警告音がけたたましく響いた。
「こんな時までこんな物を触るから気が滅入るんですよ。ほら、もう終いです。観念して横になってください」
リーが端末の電源を無理矢理落としてドクターの手の届かないところに置いてしまえば、宙に彷徨わせていたドクターの両手がぽとりとブランケットの上に落ちた。すっかり弛緩しきった掌はしかし緩く指を曲げ、失くしたものを探して彷徨う幼子のような頼りなさが滲んでいる。空の手の内を見つめ、ドクターはぽつぽつと雨のように言葉を降らせる。
「君の瞳、君の両手、君の心が。その瞬間だけは私のものになるんだ」
落とした言葉を抱えるように、両手をそっと胸に添える。
「そして私は、そのときだけは君だけの私になれるんだ」
うっとりと呟くドクターは夢見心地で、熱に浮かされたようなうわごとは実際にドクターが発熱していることが原因だろうか。リーは渋々ドクターの頭を支えながらその背をベッドに横たえてやり、引きずってきたスツールに腰かけてドクターの胸元までブランケットをかけ直してやる。
知恵熱というべきなのか、すっかり作戦終わりに理性を溶かしきってしまったドクターは時々こうしてだめになる。聡明さも知性も置いてけぼりにして虚ろに死を覗きこんでは、回帰して大勢と共に明日を目指して走り出す。ドクターだけにその自覚がないまま、リーはそのつど暗闇を覗くドクターの世話を甲斐甲斐しく焼いている。
早く眠ってしまえるように、幼子を親があやすように、リーがブランケット越しにドクターを優しく撫でた。規則正しい手の動きから伝わる振動にドクターが心地よさそうに息を吐く。リーはしばらく黙ってそうしていたが、一度手を止めて少しだけ考え込んだ。
「おれはあなたより少しだけ長生きしたいですね」
うとうととしていたドクターの眼が、リーのきんいろを覗き込む。リーを見ているのか、瞳に移り込むドクター自身を見ているのか、思考が絡みつかない行動の意味をリーは読み取れない。ただそれは、小さな子どもが絵本の続きを催促する瞳の色に似ている。ここでなあなあにしてしまえば、ドクターは癇癪を起したように暴れるだろうか。リーはただ、望まれるがままに頁を捲ってやる。
「少しだけ?」
どうして、と。微睡みの縁から口よりずっと素直な瞳が問う。
「少しだけでいいんです。まだあたたかなあなたを抱きしめて、口づけを落として、おやすみと伝えられれば」
ドクターの眼を刺しそうな前髪を、手袋を払った指先で避けてやりながらリーは微笑む。
「そうしたら、おれもあなたの隣へすぐに向かいますよ」
額から離れていくリーの指にドクターの指が触れる。やがて指を絡み合わせ、そっとリーの手が華奢なドクターの手に捕えられた。握られた手はドクターに合わせて小さく震えている。
「私、君には長生きしてほしいよ」
声まで震わすそれは寒さだろうか、苦しさだろうか。悲しさだろうか。それとも。
「それに君には家族がいるだろう」
くしゃりとドクターの顔が歪む。リーの家族や友人の話を天秤に乗せた話題になる時、その顔は必ず後悔に歪められる。リーを想って、ドクターはいくらでも表情を変える。仄暗い感情が沸き上がるも、リーはもうそれを取り繕ったり言い訳したりする必要はないのだ。酸いも甘いも嚙み分けてきたリーはいつからか、ドクターに己の欲望を隠す必要がないことを知った。この人は、おれのなにもかもを抱きしめて愛してくれる人なのだから。好い仲なのだから、薄情と言われることも承知の上でそう伝えた。
「おれは、あなたのいない世界なんて考えたくもありません」
「君の幸福の庭、あの優しい事務所に、平和な日々が約束されるとしても?」
揺れる瞳の奥に、怯えと悲しみと、孤独に、祈りがある。脆弱な体にか、それとも過酷なテラの環境にか。もしくはドクターが手折ってきた道のりに。いつかそれらはドクターを殺すのだろう。命はいつか終わる、遅かれ早かれ必然の結末だ。ドクターはただ、己の死によって全てが真に終わることを願っている。命に価値を見出さず、死に意味を求めている。
ドクターはいつだって、はつかねずみを待っている。めでたしめでたしに続くおしまいを求めている。
リーよりもずっと掴みどころがなくて、浮き草のようで、雲のように流れてしまいそうな、蜃気楼みたいな人。尾を描いて消えていく流れ星。棺より生まれ、揺り籠に還るように無垢に笑うドクター。その頼りない手を強くリーは握る。痛まないように。でも、痕を残す様に。死の暗闇から呼び戻す様に。明日へと繋がる今日に引き戻す様に。
「愛しい人。おひいさま。龍のつがい、比翼の鳥、おれの逆鱗。……いつかおれだけのものになる、あなた」
ドクターの頭の横に目一杯喉を寄せて、ぐるぐると鳴く。常識的にははしたないと咎められる行為であり、龍の間では親しい間柄にしか許されない親愛の象徴の音を鳴らす。低く震える空気と音に、ドクターは無防備で心地よさそうな表情をした。
微笑むドクターを眼下に、リーはただただ静かに囁く。
「運命を喪失した世界に、幸福を享受する心なんて残りませんよ」
ほとんど眠ってしまったドクターの額に口づけを落とす。ぴったりと閉じた目蓋を見守る。音を立てないように立ち上がり、扉のすぐ横にある照明のスイッチに指を這わせた。時計の後ろ、部屋の角に潜む、夜の闇へから這い出る黒い色をした夢の終わりを、リーは視た。
「今宵はここまで」
「続きはまた、次の夜に」
パチン。
夢の終わりの尾は、光を失いあっという間に暗闇に逃げていった。